今回は、1933年に起きた滝川事件について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
滝川事件とは
滝川事件とは、京都大学の法学者である滝川幸辰の刑法に関する思想が、危険思想とみなされ、政府から弾圧を受けた事件のことを言います。
政府による思想弾圧自体は、滝川事件の前からすでに行われていました。
政府は1925年に治安維持法を制定して、共産主義思想への弾圧を始めていたのです。
すでに思想弾圧が行われているのなら、なぜ滝川事件って教科書に載るほど有名なの?
それまでの滝川事件の思想弾圧はそれ以前の弾圧と違ったってこと・・・??
滝川事件が、それ以前の思想弾圧と決定的に違ったのは、『弾圧された滝川幸辰が、共産主義者ではない』ってところです。
滝川事件は、思想弾圧が共産主義以外の思想にも広がるきっかけとなったという点で、歴史上とても重要な事件となりました。
※実際に滝川事件の2年後(1935年)、治安維持法が共産主義者以外にも適用されるようになり、日本の思想弾圧は厳しさを増していきました・・・。
弾圧を受けた滝川幸辰の自由主義的刑法学説
まずは、弾圧を受けた滝川幸辰の思想がどんな思想だったのか、確認しておくよ!
弾圧された瀧川幸辰の思想は、教科書では『自由主義的刑法学説』というメチャクチャ難しそうな言葉で紹介されていますが、安心してください。この記事ではもっとわかりやすく紹介していきます。
自由主義的刑法学説をザックリまとめると「刑法は個人の自由を重んじた内容じゃないとダメだよね」っていう考え方です。
滝川は、個人の自由を重んじる考え方の1つとして、罪刑法定主義を重視していました。
他にも滝川の自由主義的な刑法解釈の例として、よく取り上げられるのが姦通罪と内乱罪に関する考え方です。
姦通罪
姦通罪は、不倫をしたときに課せられた罰のこと。
当時は、妻が不倫したら夫が不倫相手を訴えることはできましたが、逆に夫が不倫しても妻が不倫相手を訴えることができませんでした。
滝川は、夫のみが訴えることができる状況を批判し、男女に公平な刑罰を求めていました。
内乱罪
内乱罪は、国家の秩序を破壊しようとした者に課せられた罪のこと。
滝川は、内乱罪そのものの必要性は認めつつも、内乱罪を起こした人たちは日本のこと憂いて行動したわけであって、その動機までは否定してはいけない・・・という見解を述べています。
個人の自由や平等を尊重しながら、刑罰の仕組みを作ろう!っていうのが、滝川幸辰の自由主義的刑法学説なんだけど、この思想が国家を軽んじた思想として弾圧のターゲットにされたんだ。
滝川事件が起こったきっかけ
事件の発端は1932年10月、滝川幸辰がとある大学で行ったトルストイをテーマにした講演でした。
この講演を聞いていた検事総長(検察庁のトップ)だった林頼三郎という人物が、講演内容が無政府主義を連想させるものだとこれを問題視。
講演直後は大きな問題になりませんでしたが、1933年3月に起きたとある事件で事態は一変します。
1933年3月、裁判官やその書記たちが共産主義活動に関与した嫌疑で次々と逮捕される事件が起こったのです。
※この事件を司法官赤化事件と言います。高校日本史で覚える必要はありません。
滝川幸辰は直接この事件に関わっていたわけではありません。
ただ、文部大臣の鳩山一郎などは、この事件の背景には大学の共産主義化があると考えました。
裁判所の職員に多くの共産主義者が紛れ込んでいたのは、職員を送り込んだ大学に共産主義思想の教授がいるからだ!
大学の共産主義者どもを、一斉追放してしまうべきだ!!
この時に大学追放の候補者として名前が挙がったのが、滝川幸辰だったのです。無政府主義を連想させるトルストイをテーマに講演を開いたことで、滝川に嫌疑がかけられました。
滝川は京都大学の教授であると同時に、司法試験の実施メンバーの一員だったため、政府からのマークも厳しかったのです。
滝川事件の経過
1933年4月、滝川の書いた2つの著書『刑法読本』と『刑法講義』が発売禁止に。
その後、文部大臣の鳩山一郎は、京都大学に対して滝川幸辰の辞任を要求します。
しかし、京都大学はこの要求を拒絶。というのも、滝川を辞任させる理由があまりにもお粗末だったからです。
男女平等に不倫を訴えることが可能な刑法が望ましいと滝川は言ったが、妻にも訴える権利を与えるということは、女性が今よりも不倫しやすくなるわけだから、滝川は不倫を増長していることになる。
不倫を推奨し風紀を乱す輩は、大学から追放すべきだ。
滝川は、内乱罪を犯した人々の気持ちを否定してはならないと言っているが、これは内乱を扇動する危険な思想だ!
この屁理屈のような理由に、京都大学は納得することができなかったのです。
1933年5月末、文部省は京都大学の意向を無視して、強引に滝川を休職処分に追い込みました。
この強引なやり方に、京都大学もブチギレます。
当時は、教授の進退は大学で決めるという大学自治の慣例がありました。
京都大学は、ズカズカと学問の分野に入り込んでくる国家権力に我慢ならなかったのです。
5月26日、滝川の処分を不服とし、京都大学法学部の教授全員が辞表を提出。学生たちも授業をボイコットし、学生運動を通じて抗議の声を上げました。
しかし7月初旬、京都大学の総長(トップ)が交代すると、反対の声は次第に静まっていきます。
新総長となった松井という人物は、事態を収めるため、政府との妥協点を模索。
その後、文部省との交渉が進み、最終的に次のような結論で事件は収束しました。
滝川の処分は例外中の例外であって、政府が大学の自治を侵害したことにはならないから安心して!!
教授の進退は、これからも総長が決めていいよ!!
滝川事件に対しては、学生運動や新聞社による政府批判も盛んに行われていましたが、政府が滝川をクビにしたのを機に、下火になっていきました。
政府に批判の声を上げれば、自分達も滝川の二の舞になると考え、政府を強く批判することができなくなったんだ・・・。
滝川事件が与えた影響
滝川事件は、『学問が国家権力に左右されないよう、大学の運営は大学自ら行う』という大学自治の原則をぶち壊しました。
滝川事件は京都大学という有名大学で起こった事件であり、滝川幸辰本人もも刑法の分野では権威ある教授だったため、事件のインパクトがめちゃくちゃ大きかったのです。
それに、『滝川事件は今回だけの例外だから!』と言う政府の言い訳も、むちゃくちゃすぎて誰も信用しなかったんだ。
滝川事件以降、大学では次第に研究内容などが制限され、政府や軍部の意向に沿った活動を強いられるようになります。
また、大学だけではなく、議会にも大きな変化がありました。
滝川事件での思想弾圧成功をきっかけに、思想弾圧を推進する議員たちの発言力が増すことになりました。
滝川事件の2年後の1935年、鳩山と同じく滝川幸辰を批判していた菊池武夫という議員が、次のターゲットを天皇機関説という思想に定め、弾圧を開始。(天皇機関説問題)
滝川事件以降、思想弾圧は激しさを増し、人々の言論・学問の自由は蹂躙されていくことになります。
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