今回は、戦後の経済政策の1つであるドッジ=ラインについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
ドッジ=ラインとは?
戦後の不安定だった日本経済を安定させるために考えられた経済政策のことをドッジ=ラインと言います。1949年2月に始まりました。
「ドッジ」は、経済政策を考えたジョゼフ・ドッジの名前。「ライン(line)」は、英語で道筋・計画を意味します。
つまり、ドッジ=ラインとは、「ジョゼフ・ドッジが考えた日本経済を安定化させるための道筋(ライン)」ということですね。別名でドッジ=プランと言うこともあります。
戦争で負けた日本は当時、GHQの管理下に置かれていました。ジョゼフ・ドッジもGHQの一員であり、ドッジ=ラインはGHQ主導で行われることになります。
ドッジ=ラインが敷かれた理由と時代背景
ドッジ=ラインの目的は、「戦後の日本経済の安定化」。つまり、言い換えると「当時の日本経済は非常に不安定だった」ということです。
では、なぜ日本経済が不安定だったかというと、凄まじいインフレーションが日本を襲って、物の物価がメチャクチャになってしまったからです。
戦争が終わると、ボロボロの日本は復興に向けて動き出しますが、大きな問題に直面します。復興しようにも、戦争で多くを失った日本には復興に必要な物資が、全くなかったのです。
しかし、だからと言ってボロボロに日本を放置することは当然できません。こうして、物資不足のまま戦後復興が進んでいきます。
すると、圧倒的な「需要>供給」の状況が生まれ、商品価格がみるみるうちに上昇(インフレーション)していきます。経済用語でいう「価格の自動調整機能」の原理ですね。
おまけに、戦時中は政府の管理下に置かれていた銀行預金が自由に引き出せるようになりました。これによって、預金引き下ろしが急増。
引き下ろされたお金は世の中に流れ、日本の通貨供給量は急激に増えました。これがインフレーションにさらなる拍車をかけます。
1945年12月、日本政府はインフレを抑えるため預金封鎖(金融緊急措置令)を実施して通過供給量を減らそうとしますが、目立った効果はありませんでした。
傾斜生産方式と復金インフレ
さらに日本政府(第一次吉田茂内閣)は1946年12月、「物資不足の中での復興作業であるから、闇雲に物資・お金を使うのではなく、優先順位をつけるべき」と考えて、鉄鋼業や石炭採掘に物資・お金を集中投下することにしました。
何を復興するにも鉄とエネルギー(石炭)は必須であり、最優先で確保すべき物だったのです。
特定の生産物(鉄・石炭)に特化したこの仕組みのことを傾斜生産方式と言います。
傾斜生産方式によって、日本政府は鉄・石炭の生産に資金を投入しようとします。・・・が、戦後のため民間銀行の融資が機能していなかったこともあり、肝心の資金がありません。
そこで1947年1月、日本政府は復興金融金庫という組織を立ち上げて、復興金融金庫を通じて日本銀行からお金を借りることにしました。
復興が進んでいろんな物資の生産が始まれば「需要>供給」の関係が解消されて、インフレが収まるように思われましたが、実際は復興によってインフレはさらに加速します。
生産増によるインフレ抑制よりも、復興金融金庫が日本銀行から多額のお金を借りて世の中に流してしまったインフレ効果の方が大きかったためです。
こうして起こった激しいインフレのことを復金インフレと言います。「復金」という名は、復興金融金庫が借りた借金(債券)が「復金債」と由来するようです。
当時のインフレは凄まじく、1945年〜1949年の間で物価は約100倍になったと言われています。昔は100円で買えたものが10,000円じゃないと買えないわけです。
物価100倍というのは言い換えると、お金の価値が1/100になっているのと同じです。復金インフレにより持っているお金の価値が失われたため、戦前に大金持ちだった人たちの多くが没落してしまいました。
また、急な物価上昇によって物が買えなくなり苦しむ人々も増えてしまいます。超インフレは、国民生活にも大きな影響を与え、その是正が大きな問題となっていきました。
ドッジ「(アメリカのために)日本の経済を立て直す!」
この復金インフレによる、病的なインフレを解消しようと考えたのがジョゼフ=ドッジでした。
当時のアメリカは、ロシアと冷戦の真っ最中。アメリカとソ連(今のロシア)に挟まれた日本は、次第にアメリカの重要拠点となっていきます。
その日本が超インフレで経済崩壊してしまっては、アメリカとしても困ります。そこでアメリカは、GHQを通じて、日本経済の安定化を目指すことにしました。
当初、アメリカは日本を弱体化させようと考えていましたが、冷戦の戦況が不利になると、日本の経済力をUPして、日本をソ連に対抗するための重要拠点にしようと日本の占領政策を方針転換しました。
そして、日本経済安定化のミッションをGHQから与えられていたのがジョゼフ=ドッジだったのです。
ドッジ=ラインの内容
ドッジ=ラインが策定されたのは1949年2月ですが、実はその少し前の1948年12月に日本政府(第二次吉田茂内閣)は、GHQの意向を踏まえて経済安定9原則というものを発表しています
そして、経済安定9原則を具体化する手段の1つとして、ドッジ=ラインが定められます。
ドッジ=ラインの内容は、主に以下のような内容となっていました。
復興金融金庫の廃止や赤字財政の禁止は、世の中に回るお金を減らす効果があり、ドッジ=ラインの実施により日本のインフレは収束に向かいました。
逆に、支出を渋りすぎるあまり次はデフレーション(物価が下がり続けること)が日本を襲います。急激なインフレは確かに止まりましたが、それはデフレを招くほどのショック療法だったのでした・・・。
1ドル=360円の固定レートは、日本の為替制度をブレトン=ウッズ協定で決められた国際ルールに合わせて、貿易をスムーズに行うために設定されたものです。
当初は、1ドル=320円か340円が妥当だと考えられていましたが、日本の輸出に有利なよう1ドル=360円に設定されました。
日本に資本主義国家として発展してもらい、社会主義国家のソビエトの対抗馬にしようと考えたアメリカによる配慮です。(後にこの円安レートはアメリカとの間で貿易摩擦を引き起こすことになります・・・)
ドッジ=ラインが日本に与えた影響
ドッジ=ラインの実施により、日本の超インフレは解消。財政赤字も減って国家財政も健全化しました。
その代わり、世に流通するお金が減ってデフレーションに陥ります。国家支出を減らしたことで公共事業などの仕事も減り、失業者が増え、不況の時代がやってきました。
また、復興金融金庫の廃止によって銀行が「復興金融金庫の無限に湧くお金がなくなったら、ヤバい会社がたくさんあるんじゃねーか?」と貸し渋りをはじめ、多くの中小企業が倒産していきます。
ドッジ=ラインの影響を受けた有名な事件に、下山事件・三鷹事件・松川事件があります。簡単にですが、この3つの事件についても紹介しておきます。
下山・三鷹・松川事件
ドッジ=ラインの影響は、公務員にも及びます。
財政健全化のための緊縮財政(国家支出の削減)は、公務員の人件費カット、つまりリストラにまで波及します。
そして、リストラのメインターゲットにされたのが、日本国有鉄道(国鉄)でした。
国鉄は企業なので、そこで働く人は厳密には公務員ではありません。
しかし、国鉄の経営は、法律や政府の意向に強く縛られていたので、国鉄職員は、実質的に公務員と同じような待遇を受けていました。
1949年6月、公務員の人数削減の方針が決まり、7月1日には国鉄職員10万人の解雇が決定。さらに7月4日には、解雇第一弾として約3万人のリストラが行われました。
もちろん、国鉄で働く職員はこれに反対。労働組合を通じて猛抗議します。
そんな矢先、事件が起こります。7月5日、国鉄の代表者だった下山定則が電車で轢かれた遺体の状態で見つかったのです。(下山事件)
さらに7月15日、東京の三鷹駅で無人列車が暴走し、6人が死亡する事故が発生。(三鷹事件)
8月17日には、今の福島市松川町で脱線事故が起こります。原因は、何者が線路のつなぎ目を緩めたことでした。(松川事件)
リストラ直後の不可解な事件。怪しい臭いがプンプンします。さらに怪しいのが下山・松川事件は犯人がわかっておらず、三鷹事件も冤罪説があることです。
1つ事実として言えるのは、リストラに反対していた国鉄労働組合に嫌疑がかけられたということ。実際に、三鷹事件では国鉄労働組合の組合員が逮捕されました。
三鷹事件は、冤罪という説もあって真相は今もなお謎に包まれていますが、逮捕者が出たことで国鉄労働組合は政府に強く抗議できなくなり、結局、リストラを押し切られてしまいました。
3つの事件は全て真相が謎な上に、結果的に政府に有利な展開となっているので、「政府が労働組合に罪を着せようとしたのでは?」とか「政府の裏にはGHQがいるから、アメリカも関与しているのでは?」などの陰謀論も存在しています。
ドッジ=ラインによる不況は、このような労働闘争を招き、民衆の生活はなかなか改善しませんでした。
ドッジ=ライン後の日本の経済
ドッジ=ラインは、超インフレ解消を解消してくれましたが、その代償として日本は不況に突入しました。
しかし1950年、そんな日本経済に転機が訪れます。朝鮮戦争の勃発です。
朝鮮半島に近い日本は、アメリカ軍の補給基地として絶好の場所に位置していたため、日本国内ではアメリカのための物資生産が急ピッチで行われるようになります。
調達された物資は軍服やテントなどに使う繊維製品、コンクリート材料、食料品などがあります。こうして新しい仕事が大量に舞い込んでくると、多額の利益を得る企業も現れ、日本の経済に回復の兆しが見えてきます。
朝鮮戦争によって仕事が大量に増えたことを、朝鮮特需と言います。
朝鮮特需をきっかけに、日本の経済は回復し、1955年〜1957年の間に続いた神武景気へと繋がっていきます。
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