

今回は承和の変(じょうわのへん)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!842年に起きた平安時代の政変で、のちの摂関政治の原点となった超重要事件だよ。テストにもよく出るから、しっかり整理していこう!
📚 この記事のレベル:高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験対応
承和の変は、反乱もなく、血も流れず、わずか42日間でアッサリ終わった「地味な事件」です。でも実は、この事件こそが1000年続く「天皇家と藤原氏の共存体制」の原点となった、日本史上もっとも重要な政変のひとつなのです。
謀反の証拠もなければ、戦いも起きない。それなのに、なぜ一人の親王が突然廃位され、別の親王が皇太子に据えられたのか。その謎を解くカギは、時の実力者・藤原良房という男の「野望」にあります。
承和の変とは?
- いつ:842年(承和9年)、平安時代前期
- だれが・なにをした:藤原良房が恒貞親王を廃太子させ、道康親王(文徳天皇)を皇太子に据えた
- 意義:摂関政治・藤原氏による外戚支配の出発点となった
承和の変とは、842年(承和9年)に起きた平安時代の政変です。藤原良房が中心となって、皇太子・恒貞親王を廃位させ、かわりに妹・順子の産んだ道康親王(良房の甥にあたる人物)を皇太子に立てた事件です。
「変」という言葉は、歴史用語で「反乱・クーデター的な政変」を指します。しかし承和の変は、武力による戦いがほとんどありませんでした。謀反の密告から始まり、わずか42日間で恒貞親王が廃位されるという、極めてスピーディーな政変でした。
この事件が日本史上で重要なのは、摂関政治の「第一歩」となったからです。良房はこのあと、866年の応天門の変で正式に初の摂政に就任します。承和の変→応天門の変→安和の変という「他氏排斥3大事件」の起点が、この842年の出来事だったのです。
「承和」は834年から848年まで使われた年号で、読み方は「じょうわ」が正式です(「しょうわ」とも読まれることがありますが、昭和と区別するため「じょうわ」が一般的)。「承」は「受け継ぐ・従う」、「和」は「平和・調和」の意味。仁明天皇の治世を象徴する穏やかな名前ですが、皮肉なことにこの年号のもとで歴史に残る政変が起きました。

承和の変って、テストにはどう出るの?

「842年・藤原良房・恒貞親王廃太子・道康親王立太子・摂関政治の出発点」の5点セットが超重要!「承和の変の意義は?」という論述問題も多いから、「外戚支配の確立」という言葉をセットで覚えておこう!
承和の変の背景
なぜ承和の変は起きたのでしょうか。その背景には、平安時代初期の複雑な皇位継承問題がありました。
平安時代初期、皇位は「嵯峨天皇(さがてんのう)→淳和天皇→仁明天皇」という形で引き継がれました。このうち嵯峨と淳和は兄弟で、嵯峨の子が淳和の後を継いで即位したのが仁明天皇です。
問題は、皇太子の扱いでした。嵯峨上皇と淳和上皇の協議によって、淳和の子・恒貞親王が皇太子に立てられました。つまり、仁明天皇の子ではなく、淳和系の恒貞親王が次の天皇になる予定だったわけです。

「嵯峨→淳和」の兄弟継承では、嵯峨系と淳和系がそれぞれ「次は自分の系統の番」という思惑を持ちます。仁明天皇(嵯峨系)が即位した段階では、恒貞親王(淳和系)が皇太子でした。しかし仁明の子・道康親王は明らかに「有力候補」であり、この2系統の緊張関係が承和の変の根本的な背景でした。
さらにここに藤原氏の思惑が絡んできます。藤原良房の妹・順子は仁明天皇の妃(母后)であり、道康親王の母でした。つまり、道康親王が皇太子になれば、良房は「天皇の母方の伯父」という外戚の地位を手に入れることになるのです。

恒貞を皇太子と定めたのは、嵯峨・淳和の兄弟継承体制を守り、両系統の均衡を保つためだ。わしが生きているうちは誰も手出しできぬ。しかし死んだ後は、どうなるかわからぬな…。
嵯峨上皇が生きている間は、恒貞親王の地位は安泰でした。しかし上皇の崩御という「後ろ盾の喪失」が、政変の引き金になります。次のセクションで、そのきっかけを見ていきましょう。
承和の変のきっかけ
842年7月15日、嵯峨上皇が崩御しました。これが承和の変の直接のきっかけです。
きっかけのポイント:嵯峨上皇の崩御(842年7月15日)→ 後ろ盾を失った恒貞親王派 → 伴健岑が密告される → 42日間で決着した政変
嵯峨上皇が亡くなってから、わずか2日後の7月17日頃。仁明天皇のもとに衝撃的な密告が届きました。「伴健岑が恒貞親王を東国へ連れ出し、挙兵しようとしている」という内容です。
伴健岑は、恒貞親王の東宮(皇太子の御所)に仕える東宮坊の官人でした。伴氏(ともうじ)は古来からの武門の名族で、のちに応天門の変でも名を連ねる伴善男の父とも言われる人物です。
密告の内容は「東国で挙兵」という重大なものでしたが、実際に軍が集まったわけでも、武器が用意されたわけでもありませんでした。恒貞親王は政変を知ると、みずから皇太子の位を辞するとの意思を示します。事件のスピードの速さが、「謀略による仕込み」ではないかという疑念を後世に残すことになりました。

伴健岑の密告って、本当に信憑性があったの?良房が裏から仕組んだということはある?

史料には「良房が謀略を仕組んだ」とは直接書かれていないんだ。でも「嵯峨上皇が崩御した2日後にすぐ密告が出てきて、42日間で恒貞が廃位された」という展開が速すぎること、結果的に最も得をしたのが良房だったことから、歴史家は「良房黒幕説」を有力視しているよ。証拠はなくても、状況証拠がかなり揃っているんだ。
密告が本物の謀反計画だったのか、それとも良房たちが仕掛けた罠だったのか。真相は今も謎のままです。ただ、嵯峨上皇が崩御した瞬間に「政変の引き金が引かれた」という事実だけは、歴史の記録に明確に残っています。次は、実際に何が起きたのかを追っていきましょう。
承和の変の経緯(経過)
承和の変は、842年7月15日から8月末にかけての約42日間で決着しました。その経過を時系列で追っていきましょう。
42日間の流れ:
①7月15日:嵯峨上皇崩御
②7月17日頃:伴健岑・橘逸勢を逮捕
③7月23日頃:藤原良相が禁中を包囲・恒貞親王の廃太子
④8月:道康親王を皇太子に立太子
■嵯峨上皇崩御と恒貞親王派の動揺
842年7月15日、嵯峨上皇が崩御しました。享年57歳。三筆の一人としても知られる文化人天皇の死は、平安宮全体に衝撃を与えました。
しかし、悲しみに暮れる余裕はありませんでした。嵯峨上皇は、恒貞親王の最大の政治的後ろ盾でした。「上皇が崩御した瞬間に、恒貞親王の立場は一気に弱くなった」というのが、当時の政治状況だったのです。
打撃を受けたのは、恒貞親王だけではありませんでした。嵯峨天皇と縁の深かった人物たちにとっても、この崩御は「後ろ盾の喪失」を意味しました。三筆の一人として名高い橘逸勢は嵯峨天皇の書の弟子筋にあたり、上皇の崩御で政治的な庇護を失いました。
また、恒貞親王の側近・伴健岑の一族は、薬子の変で平城上皇側についていたとも伝わる旧族の出身でした。嵯峨天皇が確立した体制のなかで恒貞親王に仕えてきた彼らにとって、上皇の崩御は「身を守る盾が消えた」ことを意味したのです。
恒貞親王の側近たちも、この危機感を感じ取っていたとされます。伴健岑が「東国への脱出計画」を思い描いたとすれば(密告の信憑性はともかく)、それは「都では生き残れない」という絶望的な判断だったかもしれません。
■藤原良房・良相の行動
嵯峨上皇崩御からほぼ同時に動き出したのが、藤原良房とその弟・藤原良相でした。
良相は兵を率いて禁中(天皇の御所)を包囲します。これは「謀反人の残党が侵入してくるのを防ぐため」という名目でしたが、実際には皇太子・恒貞親王の逃亡を防ぎ、廃位手続きを強行するための行動でした。
嵯峨上皇が崩御してから、わずか2日——宮中ではまだ上皇を悼む声が絶えず、喪の空気が充満していました。それでも良相の率いる兵たちは粛々と禁中の門を固め、恒貞親王の逃亡ルートを次々に封じていきました。悲しみの涙が乾かぬうちに、権力の交代劇は静かに始まっていたのです。
仁明天皇への上奏(報告と建言)も素早く行われ、伴健岑・橘逸勢が「謀反人」として逮捕されました。恒貞親王はみずから皇太子辞退を申し出る形をとりましたが、その「自発的辞退」が本当に自発的だったかどうかは明らかではありません。

嵯峨上皇が崩御された今こそ、千載一遇の好機。妹・順子の産んだ道康親王を皇太子に立てれば、わが藤原氏が天皇家と血でつながることになる。すべては計画通りに進んでいる…。
良房が事件を「仕組んだ」かどうかはわかりません。しかし、上皇崩御から2日後にすぐ密告が入り、それから数週間で廃太子・立太子まで一気に進んだという展開は、あまりにも「出来すぎた筋書き」でした。
承和の変は表向き「謀反人の摘発」として処理されましたが、その本質は「恒貞親王(淳和系)から道康親王(藤原系外戚)への皇太子交代」でした。次の章では、廃位された恒貞親王の人物像とその後を見ていきましょう。
恒貞親王の失脚
承和の変でもっとも気の毒な立場に置かれたのが、恒貞親王です。彼は謀反を起こしたわけでも、反乱を組織したわけでもありませんでした。それでも、突然「皇太子の位」を失い、出家の道を歩むことになりました。
生没年:825年〜884年
父:淳和天皇 母:正子内親王(嵯峨天皇の娘)
皇太子就任:833年(仁明天皇即位と同時)
廃太子:842年7月(承和の変)
その後:出家して仏道に入る。884年、光孝天皇即位のとき即位要請を受けるが辞退した。
恒貞親王は、淳和天皇と正子内親王(嵯峨天皇の娘)の間に生まれました。つまり、父方は淳和系、母方は嵯峨系という「両系統の血を引く」人物でした。833年、仁明天皇が即位すると同時に皇太子に立てられ、次の天皇として準備を進めていました。
ところが842年の政変で、突然すべてが変わります。密告された「謀反計画」への関与を疑われ、恒貞親王はみずから皇太子辞退を申し出る形をとりました。しかし実態は、藤原良房・良相兄弟による強制的な廃位だったとみる歴史家が多いのです。
■その後の恒貞親王(出家・884年の即位辞退)
廃太子後の恒貞親王は出家し、俗世から離れた生活を送りました。しかし歴史は、彼に最後の試練を用意していました。
884年(仁和元年)、陽成天皇が退位を余儀なくされ、次の天皇候補として恒貞親王への即位要請がありました。恒貞親王はすでに60歳近い出家の身でしたが、それでも「正統な皇族」として候補に上がったのです。
しかし恒貞親王はこの要請を辞退しました。かわりに光孝天皇が即位します。恒貞親王が辞退した理由は、「仏門に入った者が世俗の位に就くのは本意ではない」というものでしたが、42年前の政変のトラウマもあったかもしれません。
承和の変で廃位された恒貞親王は、結局その後も「天皇になり得た人物」として歴史に残ることになりました。良房に蹴落とされた悲劇の親王、それが恒貞親王の歴史的評価です。では、恒貞親王にかわって皇太子となった道康親王とはどんな人物だったのでしょうか。
道康親王みちやすしんのうとは?(文徳天皇)
承和の変で皇太子に立てられた道康親王は、のちに文徳天皇として即位した人物です。
生没年:827年〜858年(在位:850年〜858年)
父:仁明天皇 母:藤原順子(藤原良房の妹)
立太子:842年8月(承和の変直後)
即位:850年(文徳天皇として)
子:清和天皇(母は藤原明子・良房の娘)
在位年数:8年(850年〜858年)。32歳で崩御。

道康親王は、仁明天皇の第一皇子です。母・藤原順子は藤原良房の妹でした。つまり道康親王にとって、良房は「母方の伯父(外伯父)」にあたります。
842年8月、承和の変の直後に皇太子(立太子)となり、850年に仁明天皇が崩御すると、道康親王は文徳天皇として即位しました。しかし文徳天皇は治世わずか8年で858年に崩御。享年32歳という若さでした。
文徳天皇の後を継いだのは、清和天皇です。清和天皇の母は藤原明子(良房の娘)。つまり良房は、文徳天皇の「外伯父」であり、清和天皇の「外祖父(母方の祖父)」でもあったのです。この外戚関係こそが、良房が858年から事実上の摂政として天皇を後見し、のちに866年の応天門の変の際に正式な摂政の詔を受けた根拠でした。

道康親王って文徳天皇と同じ人なの?混乱する…!

そう、同じ人物!「道康親王」は皇太子だった時代の呼び名で、850年に天皇になった後の呼び名が「文徳天皇」だよ。天皇になる前は「○○親王」と呼ばれるのが慣習なんだ。
道康親王(文徳天皇)は、承和の変によって「皇太子の地位を手に入れた」人物です。しかし、良房の謀略の「道具」にされたという見方もできます。文徳天皇自身は摂関政治に抵抗しようとした痕跡もありましたが、良房の権力を崩すには至りませんでした。
良房が本当にターゲットにしたのは、実は道康親王の次の世代——つまり清和天皇でした。幼い天皇を立て、その外祖父として摂政の座に就く。その「完成形」を描いたのが、承和の変から始まった良房の長期的な計画だったのです。次のセクションでは、承和の変がもたらした最大の悲劇——橘逸勢と伴健岑の末路を見ていきましょう。
橘逸勢たちばなのはやなり・伴健岑とものこわみねの排斥
承和の変で政争の舞台に引きずり出され、流刑に処されたのが橘逸勢と伴健岑の2人です。
この2人はともに「謀反人」として断罪されましたが、実際に武器を取ったわけでも、軍勢を動かしたわけでもありませんでした。恒貞親王派の一員であったこと——それだけが罪状のすべてでした。
■橘逸勢とは(三筆・空海との関係)
橘逸勢(たちばなのはやなり)は、平安時代前期を代表する書道家。生没年は782年ごろ〜842年。三筆(さんぴつ)——嵯峨天皇・空海・橘逸勢——の一人として名を残した。804年(延暦23年)、空海と同じ遣唐使船で唐に渡り、書道を学んだ。しかし唐語の習得が不十分だったとされ、長安に留まることなく帰国した。帰国後は朝廷に仕えたが、政争には深く関わらなかった。
橘逸勢は、文字通り「書を愛した人」でした。唐に留学した際も、政治より書道の研鑽に没頭したと伝わっています。恒貞親王の側近というわけでもなく、むしろ伴健岑との個人的なつながりが仇になったともいわれます。
特に印象的なのは、空海との数奇な縁です。804年、橘逸勢は空海と同じ遣唐使船に乗り込み、唐へと渡りました。しかし唐語の習得に苦しんだ橘逸勢は長安に長く留まることができず、早々に帰国することになりました。いっぽうの空海は約2年間を唐で過ごし、密教の奥義を伝授されて帰国——835年に高野山で入定し、後世に「弘法大師」として神格化されます。同じ船に乗り、同じ嵯峨天皇に親しんだ2人。しかし35年後、一方は聖人として後世に名を刻み、もう一方は冤罪の流刑人として旅の途中で没するという、対照的な最期を迎えることになりました。
■橘逸勢の流刑と死・御霊信仰との関係
橘逸勢は842年(承和9年)7月に逮捕され、伊豆国への配流が決まりました。しかし配流の途中、遠江国(現在の静岡県西部)で病を得て没しました。享年61歳前後とされています。
無実の罪で流刑となり旅の途中で死んだ橘逸勢は、「怨霊(御霊)」として恐れられるようになります。平安時代の人々は、無念の死を遂げた人の怨念が災いをもたらすと信じており、これを御霊信仰と呼びます。承和の変で命を落とした橘逸勢も、この御霊の一人として記録されています。
御霊信仰って、菅原道真のイメージが強いんだけど……橘逸勢も御霊として祀られてたの?
そう!863年(貞観5年)に行われた「御霊会(ごりょうえ)」では、橘逸勢を含む6人の御霊が慰められたと記録にあるよ。菅原道真が御霊として有名になるのはもう少し後(903年没)の話で、橘逸勢はその先輩格なんだ。
📌 伴健岑のその後:伴健岑(とものこわみね)は隠岐国(現在の島根県隠岐島)に配流された。承和の変後の記録はほとんど残っておらず、流刑地で没したとみられる。伴氏は後の応天門の変(866年)でも失脚し(伴善男が犯人とされた)、平安貴族社会から完全に排除されていく。
藤原良房の狙い
承和の変の最大の勝者は、疑いなく藤原良房(804〜872年)でした。良房は藤原北家の実質的な創始者であり、この事件を通じて日本の政治史を塗り替えた人物です。

■外戚支配とはなにか
外戚とは、天皇の母方の一族のことです。娘(または妹)を天皇のきさきにして男子を産ませ、その子が次の天皇になれば、自分はその天皇の「母方のおじいさん(または叔父)」として政治の実権を握れます。今でいえば、大企業の経営権を婚姻によって手に入れるイメージに近いよ!この仕組みが「外戚支配」であり、平安時代の摂関政治の核心となります。
良房の戦略は、実に長期的かつ緻密なものでした。事件が起きる以前から、彼は妹である藤原順子を仁明天皇の女御として入内させ、2人の間に道康親王を産ませていたのです。
良房が承和の変で道康親王を皇太子にしたことは、「外戚支配の完成」を意味しました。道康親王の母は自分の妹・順子。つまり道康親王が天皇になれば、良房は天皇の「母方の叔父」という絶対的な地位を手にできるのです。

順子を陛下のもとに入れたのも、道康が生まれるのを待っていたのも、すべてこの日のためだ。嵯峨上皇が崩じ、恒貞親王の後ろ盾が消えた——千載一遇の機会を逃す手はない。
実際、良房が承和の変で得たものは計り知れないものでした。道康親王が850年(嘉祥3年)に文徳天皇として即位すると、良房は事実上の最高権力者となります。そして858年(天安2年)、わずか9歳の清和天皇が即位すると、良房は太政大臣として天皇を後見しました。さらに866年(貞観8年)の応天門の変の際、清和天皇から正式に「摂行天下之政」の詔を受け、歴史上初めて天皇家の血を引かない人物が臣下として摂政に就任するという前例を作りました。
良房が黒幕だったっていう証拠はあるの?「良房がやった」と書かれた史料でもあるのかしら?
「良房が仕組んだ」と直接書いた史料は残っていないんだ。でも、事件で最も利益を得たのが良房だったこと、事件前に外戚関係を整えていたこと、弟・良相が禁中包囲を主導したことなどから、現代の歴史家のほとんどが「良房黒幕説」を有力視しているよ。状況証拠の積み重ねというやつだね。
承和の変の結果・影響
承和の変は842年(承和9年)7月15日に嵯峨上皇が崩じてから、同年8月に道康親王が立太子するまで、わずか数十日で決着した事件です。しかしその波及効果は、平安時代の政治構造を根本から変えるものでした。
結果①:恒貞親王廃太子・道康親王立太子(藤原良房の外戚支配確立)
結果②:橘逸勢・伴健岑の流刑(政敵の排除・他氏排斥の始まり)
結果③:藤原愛発・藤原吉野の失脚(藤原北家内部の競合除去)
■藤原愛発・藤原吉野の失脚
承和の変では、橘逸勢・伴健岑という「他氏」の排斥だけでなく、藤原氏の内部でも粛清が行われました。
藤原愛発は大納言として朝廷の要職にあった人物で、恒貞親王派に近い立場とみなされていました。藤原吉野も同様に、良房・良相の路線とは距離を置く藤原氏の一翼でした。
2人は承和の変の混乱の中でともに失脚させられ、朝廷の中枢から排除されました。これは「他氏排斥」にとどまらず、藤原北家の中でも良房一派が主導権を完全に握った瞬間を示しています。承和の変は、他氏排斥として取り上げられることが多いですが、藤原氏内部の闘争も、承和の変の全体像を理解する上で見落とされがちな重要事実です。
■摂関政治への道
承和の変がもたらした最大の歴史的意義は、摂関政治への道を開いたことです。
道康親王(後の文徳天皇)が850年に即位すると、良房は天皇の外戚として実権を掌握します。そして858年、文徳天皇が崩じて9歳の清和天皇が即位すると、良房は太政大臣として天皇を後見し始めます。さらに866年の応天門の変の際、清和天皇から正式に摂政の詔を受けます。これは、天皇家以外の人物が正式な摂政に就任した史上初めての出来事でした。

その後、866年の応天門の変で良房がさらに権力を固め、安和の変(969年)によって他氏排斥が完成します。こうして「承和の変→応天門の変→安和の変」という3段階を経て、藤原氏による摂関政治が確立されました。承和の変は、その第一歩に位置する事件なのです。
📌 摂関政治の「出発点」としての評価:現代の歴史研究では、承和の変は「藤原氏による外戚支配の最初の確立」として評価されています。実際に謀反が計画されたかどうかは今も学術的に議論があり、「良房が嵯峨上皇崩御直後のわずか2日後に密告が入り、42日間で廃太子が完了したという展開はあまりにも速すぎる」として、良房黒幕説が有力視されています。
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テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
よくある質問(FAQ)
842年(承和9年)に起きました。平安時代前期の出来事です。嵯峨上皇が崩御した同年7月15日を発端に、8月の道康親王立太子まで数十日で決着しました。
どちらも使われています。年号「承和」には「じょうわ」と「しょうわ」の両方の読みがあり、学術的には「じょうわのへん」が一般的ですが、「しょうわのへん」と表記する教科書・参考書もあります。検索する際はどちらの読みでも同じ事件を指します。
同一人物です。「道康親王」は皇太子だった時代の呼び名(親王号)で、850年(嘉祥3年)に即位して「文徳天皇」となりました。仁明天皇の第一皇子であり、母は藤原良房の妹・藤原順子です。
伊豆国(現在の静岡県)への流罪となりましたが、配流の途中・遠江国(現在の静岡県西部)で病のため没しました。三筆の一人として名高い書道家でしたが、冤罪の可能性が高いとされています。死後は怨霊(御霊)として恐れられ、863年の御霊会で慰霊対象となりました。
承和の変は摂関政治の第一歩です。藤原良房が道康親王(文徳天皇)の外戚となることで政治実権の基盤を築き、858年から事実上の摂政として天皇を後見し、866年の応天門の変の際に正式な臣下摂政の詔を受けました。その後、安和の変(969年)を経て、藤原氏の摂関政治が完成します。承和の変はその起点となった事件です。
「他氏排斥事件」として数えた場合、承和の変は1番目の事件です。その後、応天門の変(866年)、安和の変(969年)と続き、この3事件によって藤原北家の政治支配が完成しました。なお、810年の薬子の変は承和の変の前史にあたる事件ですが、これは天皇家内部の争いという性格が強く、性質が異なります。
まとめ
承和の変(842年)は、「血が流れず、反乱もなく、42日間でアッサリ終わった」地味な事件です。しかしこの事件の意味を一言で表すなら、「日本の政治が天皇中心から藤原氏外戚支配へと舵を切った歴史的転換点」といえるでしょう。
藤原良房は、妹・順子を仁明天皇のきさきにするという長期的な布石を打ち、嵯峨上皇崩御という千載一遇のタイミングを逃しませんでした。恒貞親王を廃し、道康親王を皇太子に据えたこの決断は、のちの文徳天皇即位・清和天皇の幼少即位を経て、良房が史上初の臣下摂政に就任するという結果をもたらします。
この「娘・妹を天皇のきさきにして外戚の地位を手に入れる」というパターンは、良房が確立した後も脈々と受け継がれました。最終的にこの外戚支配は、藤原道長の時代に「一家三立后(いっかさんりっこう)」という形で頂点を極めることになります。承和の変は、その約130年続くロングランの幕開けだったのです。
また、橘逸勢という「三筆」の一人が冤罪の疑いで流刑となり、旅の途中で没したという事実は、この事件の影の側面を物語っています。御霊信仰として長く記憶された橘逸勢の無念は、平安時代の政争の苛烈さを今に伝えるものです。
- 810年薬子の変(承和の変の前史)平城天皇と嵯峨天皇の二所朝廷問題が決着。伴健岑らの前史となる政争
- 823年嵯峨天皇退位・淳和天皇即位兄弟継承体制が始まる。恒貞親王(淳和の子)が次世代の皇位継承候補に
- 833年仁明天皇即位・恒貞親王を皇太子に藤原良房の妹・順子も仁明天皇のきさきとして宮中に入る。道康親王がこの頃生まれる
- 842年7月15日嵯峨上皇崩御→承和の変勃発恒貞親王の最大の後ろ盾が失われる。直後から良房・良相が動き出す
- 842年7月伴健岑・橘逸勢逮捕・恒貞親王廃太子藤原良相が禁中を包囲。仁明天皇に上奏し、恒貞親王は廃太子に。橘逸勢は伊豆へ流罪
- 842年8月道康親王を皇太子に立太子藤原良房の甥(妹・順子の子)が皇太子に。外戚支配の基盤が確立
- 850年道康親王即位→文徳天皇仁明天皇崩御を受けて即位。藤原良房が事実上の最高権力者となる
- 858年清和天皇即位・良房が実質的に天皇を後見9歳の清和天皇が即位。外祖父・良房が太政大臣として天皇を後見。866年の応天門の変で正式に摂政就任
以上、承和の変のまとめでした!「地味な事件が歴史を変えた」という典型例だよ。摂関政治のその後が気になる人は、下の記事もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「承和の変」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「橘逸勢」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「道康親王」(2026年5月確認)
コトバンク「承和の変」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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