今回は、1898年に成立した隈板内閣と、内閣成立のきっかけになった憲政党の2つを合わせて解説していきます。
この記事では以下の点についてわかりやすく丁寧に話を進めていきます。
憲政党が結成された理由と時代背景
憲政党が結成された理由を知るには、帝国議会の歴史を知るのが一番手っ取り早いです。
と言うわけで、帝国議会の歴史を時系列でまとめてみました。
- 1890年帝国議会始まる
民衆寄りの政党(民党)だった立憲自由党と立憲改進党が議席の過半数を確保。
政府(内閣)は主に軍費拡大の予算案を提出するが民党はこれを否決。しばらくの間、政府と議会の対立が続く・・・。
- 1891年「立憲自由党」→「自由党」へ
政府の離反工作で離党者が増えたため、体制を立て直し党名を「自由党」に変更!
民党と政府の対立は変わらず続き、議会が政府の案をことごとく否定して、国政が停滞してしまうことも・・・。
- 1894年
戦争が起こると、軍費拡大に反対していた民党も政府と協力する姿勢を示す。
- 1895年政府と自由党、連携する
日清戦争を通じて「議会と協力すれば、国政がスムーズになるぞ!」と知った政府は、自由党との連携体制を強化。
- 1896年3月「立憲改進党」→「進歩党」へ
議席の少ない小民党と立憲改進党が合体。党名を「進歩党」へ改める。勢力が拡大する。
- 1896年4〜8月政府、進歩党とも連携を図ろうとするも失敗
内閣総理大臣だった伊藤博文は、進歩党とも連携をしようとするが、進歩党と不仲だった自由党がこれに反対して失敗。
この失敗によって、伊藤博文は内閣を解散してしまう。
- 1896年9月〜政府、進歩党と連携する
伊藤博文の後を継いで内閣総理大臣になった松方正義も、進歩党との連携を図る。
- 1898年1月政府と進歩党の連携、崩れる
進歩党の代表だった大隈重信は、連携の代償として与えられた外務大臣のポジションに不満を持ち、内閣と対立。
連携が崩れた政府は、予算案や法律案を議会に通せなくなり、再び内閣解散へ・・・
- 1898年1〜6月政府、八方塞がり。議会解散へ・・・。
伊藤博文がまた内閣総理大臣に。
伊藤は、再び自由党・進歩党の両党と連携交渉をするも失敗。
すると、また政府の予算・法案が決まらなくなり、再び議会は解散へ・・・。事態は泥沼化し、国政の停滞は深刻な問題へ。
- 1898年6月憲政党、結成!←この記事はココ
自由党と憲政党は、巨大民党の憲政党を結成して「憲政党がある限り何回議会を解散しても、内閣の意見は議会に通らないよ?国政を停滞させたくなければ、内閣の運営を政党にさせろよな?」と政党内閣を要求。
- 1898年6月隈板内閣成立←この記事はココ
政府は、憲政党の圧力に屈する。
日本で初めての政党内閣が登場!
ここまでが隈板内閣が成立するまでの流れです。
「内閣と議会が対立」とか「内閣と議会が連携」って表現が、わかりにくいので少しだけ補足説明しておきます。
内閣(政府)が予算や法律を成立させるためには、議会の過半数の賛成を得る必要があります。(大日本帝国憲法でそう決められています。)
そして、議会の過半数の賛成を得るために重要なのが、議席の多数を占める大政党の存在です。なので・・・
内閣と大政党の意見が対立することを「内閣と議会が対立」
内閣と大政党の意見が一致することを「内閣と議会が連携」
と言います。
内閣と議会の対立が続くとどちらかが譲歩する必要がありますが、2大民党が合体した憲政党の登場により、議会の立場が圧倒的に強くなります。こうして、内閣は憲政党に屈して政党内閣を認めることになりました。
政党内閣って何?
国政がスムーズに行われるには、「内閣と議会が連携」する必要があります。過半数の議員が反対すれば、内閣の意見は議会で否決されてしまうからです。
では、内閣と議会が連携する方法は何か?
その1つの答えは、内閣と大政党がしっかり交渉を行うことです。しかし、交渉は決裂することがあります。
ではどうするか・・・、もう一つ、内閣と議会が連携しやすい方法があるんです。それが「大政党の議員が内閣のメンバーになってしまう」って方法です。
こうすれば、議会と内閣の意見は自然と一致するようになりますよね。このように政党議員によって構成される内閣のことを政党内閣って言います。
議会と内閣が対立して頻繁に国政が停滞するようになると、進歩党と自由党は憲政党を結成して「内閣は意見を通して欲しければ議会に従えよな?」と圧力をかけながら、政党内閣の結成を強く迫ったわけです。
そして、伊藤博文ら政府の重鎮たちは「国政が停滞するよりはマシ・・・」とこの圧力に屈して、登場したのが隈板内閣と呼ばれる内閣でした。
隈板内閣の「隈板」って何?
憲政党の議員で構成された日本初の政党内閣は隈板内閣と呼ばれています。
憲政党の母体となった進歩党トップの大隈重信、自由党トップの板垣退助の「隈」と「板」を合わせて隈板内閣と言います。
大隈重信は内閣総理大臣、板垣退助は内務大臣に就任します。
隈板内閣の政治
政党内閣は政党の意見が国政に反映されやすい仕組みなので、政党にとっては非常に理想的な内閣です。
・・・しかし、隈板内閣はその利点を活かすことができません。
もともと「政党政治を目指す」という点で自由党・進歩党は一致していただけなので、いざ政党内閣が実現されると、進歩党出身者と自由党出身者は人事や政策を巡って内部分裂してしまいます。
隈板内閣の内部争いは進歩党の有利に進み、自由党出身者はこれに強い不満を持つようになります。
任命された大臣も進歩党出身者が多く、隈板内閣は内部に爆弾を抱え込むことになります。
尾崎行雄の共和演説事件
1898年6月、その爆弾に火を付ける事件が起こります。
進歩党出身者で文部大臣だった尾崎行雄が、議会で不適切発言をしてしまったんです。
尾崎行雄は政治を裏から金で操っている三井・三菱を批判するため、こんな発言をしてしまいます。
これは仮定の話だ。実際には起こるはずはないのだが、もしだ、もし日本が共和制の国になったとしたら、その大統領候補には三井や三菱が選ばれるのだろうことよ。(それほど日本の政治は金に汚染されている・・・!)
共和制っていうのは、国のトップ(大統領)みんなで決めましょう!っていうスタイルのこと。
たとえ仮定の話だったとしても、この話は、世襲により日本のトップに立つ天皇を否定していることになります。この天皇制否定発言が炎上してしまったんです。
政党内閣に反対する政府内の重鎮勢力がこの発言を攻撃すると、これに便乗して、憲政党の自由党出身者まで尾崎行雄を攻撃し始めます。
憲政党と憲政本党
こうして隈板内閣の内部分裂が表面化すると、1898年10月、自由党出身者は進歩党出身者のいない場で勝手に憲政党の解散を決定。その後すぐに「自由党出身者だけ」の新しい憲政党を結成します。
後手に回り憲政党という名を奪われた進歩党出身者は、「進歩党出身者だけ」の憲政本党を結成することになります。
こうして、わずか数ヶ月で憲政党は分裂。
こうなると、せっかく作り上げた政党内閣は何の役にも立ちません。憲政本党が中心の内閣の意見は、議会の場で憲政党に反対されるかもしれないからです。伊藤博文や松方正義が議会に意見を通せず、国政が停滞していた頃に逆戻り・・・といわけです。
憲政本党の代表となった大隈重信も、これ以上の政党内閣の運営は不可能と判断し、内閣総理大臣を辞任。
日本初めての政党内閣はわずか4ヶ月で倒れてしまいました。
山県有朋「政党内閣マジで危険だわ・・・」
政党内閣が崩れると、次の総理大臣には山県有朋が就任しました。2回目の就任なので、この時の内閣を第二次山県内閣と呼びます。
山県有朋は、政党が内閣を運営している様子を見て強い危機感を覚えます。
もし、政党の議員が陸軍大臣や海軍大臣に選ばれて、軍を動員して国家転覆でも目論んだら、日本は本気で終わるわけだし、政党内閣って危険すぎだろ・・・。
山県有朋は、隈板内閣が成立した頃から陸軍・海軍大臣を議員から任命することに反対の立場でした。山県有朋は「陸軍・海軍大臣は天皇が直接選ぶから!」ってことにして、この2大臣だけは憲政党からは独立して任命してしまいます。
そして、政党の影響が軍部に及ぶのを防ぐため、軍部大臣現役武官制という仕組みを作ります。どんな仕組みかというと、「陸海大臣は、現役の軍人しかなれない」って仕組みです。
軍部の独立を守る制度ですが、軍部が好き勝手やって暴走する可能性を秘めた諸刃の制度でした。(この話は、後の太平洋戦争につながります)
憲政党から立憲政友会へ
第二次山県内閣は旧自由党員で構成されている新しい憲政党と連携をしていましたが、山県の政党締め付け政策を受けて、次第に両者は対立します。
山県有朋は、軍部大臣現役武官制によって陸海大臣に政党議員を就任できなくしただけではなく、文官任用令を改正して「政党議員が内閣の職員(官僚)を兼任すると、内閣が政党の思いのままになるかもしれないから、官僚になれる条件厳しくするわ!」と政党に対して強硬な態度で臨んでいました。
山県内閣と決別した憲政党は、伊藤博文と組んで新しく立憲政友会を結成。・・・といった感じで、議会が開設されて以降、日本の政治は目まぐるしい変化を続けることになります。
最後に、隈板内閣が結成されてからの経過を時系列で簡単にまとめてきます。
- 1898年6月日本初の政党内閣、隈板内閣が誕生!
しかし憲政党内部では、進歩党派閥と自由党派閥が争いを始める。
- 1898年8月共和演説事件
進歩党出身の尾崎行雄の失言が炎上。外部だけだなく、憲政党内部の自由党派閥もこれを攻撃。憲政党の内部はボロボロへ・・・
- 1898年10月憲政党、解散
自由党派閥が勝手に憲政党を解散。
自由党派閥だけの新しい憲政党を結成、後手に回った進歩党派閥はやむをえず憲政本党を結成。
内部分裂により政党内閣の維持は不可能と判断した内閣総理大臣だった大隈重信は辞任
- 1898年10月〜第二次山県内閣へ
憲政党と連携して国政を運営する。しかし、政党の力を削ごうとする山県と憲政党は次第に対立するようになる。
- 1900年立憲政友会、結成
憲政党と政府の重鎮中の重鎮だった伊藤博文が接近して、新政党を結成。政府重鎮が政党議員になることで、また新しい日本の政治が始まる・・・!
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