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大戦景気を簡単にわかりやすく解説するよ【理由・時代背景と成金や在華紡について理解できます】

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もぐたろう
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今回は、第一次世界大戦の戦争特需によって起こった大戦景気(1915年〜1920年)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。

この記事を読んでわかること
  • 大戦景気ってそもそも何?
  • なぜ大戦景気は起こったの?
  • 大戦景気の日本様子を知りたい!
  • 「在華紡」とか「成金」とかの言葉の意味を知りたい!
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大戦景気とは

話は少しさかのぼりますが、日本は1904年に起こった日露戦争以降、不景気に陥っていました。

なぜ不景気になったかと言うと、日本は日露戦争に辛勝したものの、ロシアから賠償金を得ることができず、借金まみれになってしまったからです。

日本はロシアに勝つために、外国(特にイギリス!)から巨額の借金をして武器を買ったり軍艦を製造したりしていました。

日本はこの巨額の借金を、ロシアに勝った際の賠償金で賄おうと考えていました。しかし、ロシアとの外交交渉の結果(ポーツマス条約)、賠償金をもらうことができず、巨額の借金(対外債務)だけが残ってしまったのです・・・。

「きっと日本はロシアに勝って、賠償金で俺たちを支えてくれるはず!」と見込んで、多額の借入をしていた会社などが次々と倒産。

戦争そのものによる特需も終了してしまい、日本政府も戦費の返済で手一杯。民間企業を救う余裕がありませんでした。

こうして日本の景気が悪化するなか、日本の経済を救ったのが第一次世界大戦です。第一次世界大戦の勃発によって、日本経済は戦争特需の波に乗ることができました。

同じ戦争でも日露戦争の時と決定的に違ったのは、「日本が直接関わる戦争ではなかったので、巨額の借金までする必要がない」という点です。

つまり日本はリスクを負うことなく、戦争で物不足に悩んでいる国に輸出をしまくることでガッポガッポ大儲けができたわけです。こうして、不景気から一転して日本にもたらされた好景気のことを大戦景気と呼んでいます。

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大戦景気で日本が大儲けした3つの理由

日本が大戦景気で大儲けした理由は大きく3つあります。

  • 1:ヨーロッパ向けの軍事品の輸出が増えた
  • 2:アジアへの綿織物の輸出が増えた
  • 3:アメリカへの生糸の輸出が増えた
もぐたろう
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これだけだとよくわからないと思うので、それぞれ1つずつ解説していくよ

ポイント1:ヨーロッパ向けの軍事品の輸出が増えた

ヨーロッパで戦争が起こると、日本は戦争特需の恩恵を受けることになりました。

なぜ、ヨーロッパの戦争なのに日本が特需の恩恵を受けたかというと、日本がイギリス・ロシアと協力関係にあったからです。

日本は、イギリスとは日英同盟。ロシアとは、日露戦争後に敵対関係を解消して、第一次日露協約と呼ばれる協力関係を結んでいました。

イギリス
イギリス

戦争に必要な物資の一部を日本にお願いして輸出してもらおう!

ロシア
ロシア

そうだな。

困った時はお互い様だしね!!

ポイント2:アジアへの綿織物の輸出が増えた

ヨーロッパで戦争が起こると、ヨーロッパ→アジアへの輸出がストップ。アジアの国々は、商品不足で頭を抱えることになりました。

そこで、ヨーロッパ諸国の代わりに日本がアジアへの輸出を拡大。隙をついて、ヨーロッパ勢が占めていた市場を奪ってしまいました。

日本はアジア向けに輸出した商品の中で、特に大きなシェアを占めていたのが綿織物めんおりもの(布製品)でした。

ポイント3:アメリカへの生糸の輸出が増えた

アメリカも日本と同じく、戦争特需による恩恵を受けていました。

アメリカも、ヨーロッパへの輸出向けに軍事品の大量生産を行うわけですが、その原材料として生糸を日本から大量に強いれることにしたのです。

こうして、日本→アメリカへの生糸きいとの輸出が爆増しました。

※もともと日本の生糸は世界的にも高い評価を受けており、輸出が増える前から日本は世界屈指の生糸の輸出量を誇っていました!

生糸と綿織物の違い

生糸:かいこから取れる糸のこと。きぬの原料で、絹を織って作られた製品を絹織物と言います。

綿織物:綿わたって作られた製品のこと。綿は綿花めんかと言う植物が原料になっているので、絹織物とは別物です。(名前が紛らわしいので注意!)

特需景気の結果、1914年末には約11億円の債務国だった日本は、1920年には約27億円の債権国となりました。(日露戦争以降の借金を全て返済して、むしろ貸す側になったということ)

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在華紡の登場

アジア向けを中心に綿織物の輸出が増えると、綿そのものを製造する紡績業ぼうせきぎょうの需要も増します。

日本企業の中には、中国に工場を設置して紡績業をする企業が増えていきました。なぜわざわざ中国に工場を置くかというと、中国人の人件費が安かったからです。要するに中国で紡績業をしたほうが、安上がりで綿が作れたのです。

このように、中国に進出した会社のことを在華紡ざいかぼうと呼んでいます。

日本は第一次世界大戦中、二十一箇条の要求などの政治的圧力で中国に迫りましたが、在華紡は経済面から中国への進出を強めていく契機となりました。

在華紡に似ていることは、現代でも行われています。

例えば、ユニクロ・GUの服を持っているならタグを見てみてください。その服の生産地はどこですか?

私が今日着ていたユニクロのシャツはベトナム産でした。なぜベトナムで生産するかというと、日本で生産するより人件費が安くてコスパが良いからです。(在華紡と同じ理由!)

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日本政府「輸入がストップしたのなら、自国で製造するぞ」

上のポイント2のところで、「戦争によってヨーロッパ→アジアへの輸出がストップしてアジアの国々が困った」という話をしましたが、日本も例外ではありません。

当時の日本は、化学製品(薬品・染料・肥料など)をヨーロッパからの輸入に強く依存していたため、困った日本政府はこんなことを考えます。

日本
日本

簡単なことだ。海外から物が手に入らないなら、自分たちで造れば良い。

日露戦争以降の借金も無くなったし、今なら政府としても強力な支援ができるしな。

こうして政府が化学製品の製造支援を始めると、国内生産が本格化。

例えば染料だと、1914年の国内生産量がほぼ0%だったものが、1915年には362t、1918年には5000tにまで急拡大。

鉄鋼業でも、これと同じことが起こります。輸入が途絶えた上に、特需によって必要な鉄の量が増えたため、急ピッチで生産量の拡大が行われます。

日本の主力製鉄所「八幡やはた製鉄所」の生産能力をパワーアップさせたり、満州に鞍山あんざん製鉄所が設立されることになりました。

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成金の登場

大戦景気によって、短期間で大金持ちになる成金なりきんも増えました。

成金が登場した分野は様々ですが、最も有名なのは海運業造船業です。

海運業

上のポイント1〜3で話したように、日本の輸出量は第一次世界大戦によって急増しました。

しかし、どんなに製品をたくさん造っても、海外へ送る術がなければ絵に描いた餅になってしまいます。何が言いたいかというと、輸出品を船で送る仕事「海運業」の需要がメチャクチャ増えたと言うことです。

需要が爆増したおかげで、運送料金が高騰。大戦前の1トン船の運送料は3円程度が相場でしたが、それが1917年には40〜45円と10倍以上に高騰。単純計算で海運業の会社の利益が10倍以上になったわけです。そりゃ儲かりますよね。

こうして、海運業を営む者の中には大金持ちになった成金が生まれました。

造船業

第一次世界大戦によって、世界全体で深刻な船舶不足が起こりました。

造船の需要が世界的に高まる中、日本はどんどん船を造って、バンバン高値で売りまくりました。

大戦前の建造トン数が5万トンだったのに、1918年には62万トンと10倍以上の爆増となっています。うん、そりゃ儲かります。

ひたすら船を造りまくった結果、日本は世界第三位の造船量を誇る国へと成長しました。

「どうだ明るくなったろう」の人

この写真、教科書とかに載っているのを見たことはありませんか。実はこいつ・・・、成金なんです。

モデルになっているのは山本唯三郎やまもとゆいさぶろう。上で紹介した海運業で一発当てて、大金持ちになりました。いろんな武勇伝を作りましたが、調子に乗りすぎて大戦景気が終わると財産をスっ飛ばしました。波瀾万丈な生涯のインパクトが強烈であり、今では成金の代名詞的な存在になっています。

山本唯三郎を筆頭に、特に海運業・造船業から多くの成金が生まれたので、海運業・造船業から生まれた成金のことを他の成金と区別して「船成金」と呼ぶこともあります。

もぐたろう
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一応フォローしておきますが、山本唯三郎のように没落した成金ばかりではありません。成金の中には、政界に進出してさらに影響力を強める者もいました。

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大戦景気によって大きく変わった人々の生活

大戦景気は好景気だけでなく、人々の生活様式にも大きな影響を与えました。

  • 工業>農業になった
  • 電力の供給量がUPして、生活に電気が使われることが増えた
  • 景気が良くなっても民衆の生活は苦しいままだった

それぞれ、簡単に解説していきます。

工業>農業になった

戦争特需の結果、日本の工業製品の生産額は重化学工業が30%を占めるようになり、日本の工業は大きく発展しました。

重化学工業とは

比較的重たいものを扱う工業(重工業)と化学工業の総称。

この記事で登場した分野で言うと、造船業・鉄鋼業・化学製品製造業が該当します。

農業と工業の生産額を比較しても、工業が上回るようになり、日本は本格的に工業国家の仲間入りを果たしました。

工業が盛んになると、工場で働く労働者も増えました。具体的には、大戦景気前と比べて、工場労働者は約1.5倍にまで増えています。(これは後述する労働運動にも関係してきます)

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電力の供給量がUPした

もともと発展しつつあった日本の電力業でしたが、大戦景気がそれに拍車をかけました。

徐々に増えつつあった電力需要が、大戦景気による工場生産の活発化でさらに加速。1915年には首都圏の電力が逼迫し始めました。

これを解決するため、大規模な水力発電事業が進められましたが、実は発電だけでは不十分。必要な場所(首都圏)まで効率的に電気を送る送電技術がなければ、発電した電気が人々のところまで届きません。

しかし、とある会社が福島の猪苗代いなわしろにある巨大水力発電所と東京を結ぶ長距離送電に成功。発電・送電の技術力UPに成功すると、電気が広く普及し、電灯や工場のみならず、一般家庭にも少しずつですが電気の利用が浸透していきました。

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景気が良くなっても民衆の生活は苦しいまま

大戦景気によってフィーバーできたのは、一握りの資本家だけです。

なぜかというと、大戦景気によって物価が急騰したのに、労働者の賃金は現状維持か低下してしまっていたからです。

要するに「物の値段が上がってるのにお給料は上がらない・・・というかむしろ下がってる」という状態だったのです。

しかも、上で述べたように日本では工場労働者が1.5倍に増えていました。これら労働者の多くが貧困に苦しむことになります。

なんで成金野郎ばっかり金持ちになって、俺たちが苦しまなきゃならねーんだよ!

人々の不満は溜まりに溜まり、1918年に起こった米騒動で人々の不満が爆発。大戦景気による労働者の貧困化は、米騒動の遠因の1つになりました。

労働者の貧困化は大きな社会問題となり、労働運動も盛んに行われるようになります。1919年には大日本労働総同盟友愛会と呼ばれる集まりが結成。資本家たちに対する労働争議も活発になりました。

さらに、河上肇かわかみはじめという経済学者が「貧乏物語」と称して、貧困問題について執筆すると瞬く間にベストセラーになりました。

ちなみに、貧乏物語は青空文庫で無料で読むことができますよ。

成金が100円札を焼いてドヤ顔をしている間、労働者たちは貧困に苦しみ、大きな声を上げていたのです。

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大戦景気から戦後恐慌へ

第一次世界大戦は1918年11月に終戦します。本来なら、これで大戦景気も終わるはずでした。

しかし、大戦景気は戦争が終わっても続きます。というのも、日本国内ではこんな楽観論が生まれていたからです。

戦争は終わったけど、ボロボロになったヨーロッパが復活するのはまだ先の話!

まだまだ製品を大量生産すれば、ガッポリ儲けられるはず!!

・・・が、思いのほかヨーロッパ経済の戦後復興は早く、1920年には特需が完全消失。ヨーロッパの輸出貿易などが正常化すると、大量生産した製品は全く売れなくなってしまい、経営難に陥る企業も現れました。

1920年以降、大戦景気の反動で製品が全く売れなくなると、日本の景気は急速に冷え込み、戦後恐慌と呼ばれる不景気の時代に突入していきます。

この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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