

今回はムハンマド——イスラム教を作った預言者——について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!孤児として生まれ、商人になり、40歳で神の啓示を受けた……そんなドラマチックな生涯を一緒に見ていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト)に対応
「ムハンマド」と聞くと、どんなイメージを持つでしょうか。厳格な宗教の創始者?強大な軍事指導者?——実は、ムハンマドは40歳になるまで、ごく普通の商人でした。貧しい孤児として生まれ、苦労しながら商人として身を立て、神の啓示を受けたときは怖くて妻に抱きついたという——そんな「人間らしい」側面を持つ人物だったのです。
そのムハンマドが始めたイスラム教は、現在では全世界に約20億人の信者を持つ、キリスト教に次ぐ世界第2位の宗教となっています。一人の孤児がなぜここまで世界を変えることができたのか——その秘密を、今回はひもといていきましょう。
ムハンマドとは?
- ムハンマド(570年頃〜632年)はアラビア半島のメッカ生まれ。イスラム教の創始者であり、神(アッラー)の言葉を伝える預言者
- 40歳のとき天使ジブリール(ガブリエル)を通じて神の啓示を受け、イスラム教を開いた
- 632年に没するまでにアラビア半島をほぼ統一し、現在まで続く約20億人の信仰の礎を築いた
ムハンマド(アラビア語:محمد)は、アラビア半島のメッカ(現在のサウジアラビア)に570年頃に生まれた人物です。イスラム教(イスラーム)の創始者であり、アッラー(唯一神)の言葉を預かって人々に伝える「預言者」と呼ばれています。
ムハンマドが生きた時代は、日本では飛鳥時代の直前にあたります。聖徳太子(574〜622年)とほぼ同時代の人物です。「このとき日本はどんな時代だったか」を意識すると、世界史の流れが整理しやすくなりますよ。

「マホメット」って名前も聞いたことがあるけど、ムハンマドと同じ人なの?

同じ人だよ!「マホメット」は昔の日本語での表記で、今は「ムハンマド」が正しい表記として使われているんだ。ちょうど「ペキン」→「北京(ベイジン)」みたいな感じで、原語に近い読み方に変わったんだよ。
なお、ムハンマドはイスラム教においては「神の使者」であり、神そのものではありません。イスラム教では「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはその使者である」という信仰告白が信仰の核心とされています。
ムハンマドの生い立ち——孤児から商人へ
ムハンマドは570年頃、アラビア半島の都市メッカに生まれました。メッカはアラビア半島西部に位置するクライシュ族の都市で、当時から隊商(商人の集団)が集まる貿易の要衝でした。
ところが、ムハンマドの生い立ちは決して恵まれたものではありませんでした。父親は彼が生まれる前に亡くなり、6歳のときには母親も病で死去。幼いムハンマドは孤児となり、祖父、そのあとは叔父のアブー・ターリブに育てられました。
📌 日本との時代対比:ムハンマドが生まれた570年頃は、日本では飛鳥時代の直前(大和政権の時代)にあたります。聖徳太子による十七条憲法(604年)の少し前の時代です。
12歳頃になると、ムハンマドは叔父の隊商に加わってシリア方面へ向かいます。そこで商売の基礎を学びながら、誠実で正直な人柄を周囲に認められていきました。後に「アル・アミン(誠実な者)」と呼ばれるようになったのも、この頃から積み重ねた信頼の賜物でした。
■ 妻ハディージャとの出会い
ムハンマドが25歳頃のとき、転機が訪れます。メッカの裕福な未亡人ハディージャ(伝承では当時40歳頃)が彼に目をつけ、自身の商隊の代理人として雇ったのです。ムハンマドはその仕事を誠実にこなし、大きな利益をあげました。その誠実さに惚れ込んだハディージャは自らムハンマドに結婚を申し込み、2人は夫婦となります。
ハディージャはムハンマドにとって単なる妻にとどまらず、精神的な支柱ともなりました。2人の間には6人の子どもが生まれましたが、男の子は幼くして亡くなりました。ハディージャが存命の間、ムハンマドは他の女性と結婚しなかったと伝えられています。

学ぶことは義務だ——生まれた日から死ぬ日まで。
■ 黒石の仲裁——預言者になる前の「知恵」
ムハンマドが35歳頃、メッカのカーバ神殿の改修工事で大きな問題が起きました。神殿内に祀られている聖石「ハジャル・アスワド(黒石)」を所定の位置に戻す役目をどの部族が担うか——4つの部族が「我こそが」と一歩も引かず、一触即発の状態でした。
そこでムハンマドが出した解決策は、驚くほどシンプルでした。大きな外套を広げて黒石を置き、各部族の長老に外套の端を1本ずつ持たせて運ばせ、最後に自分の手で黒石を正しい位置に据えたのです。

全部族が「自分も運んだ」という事実を作ることで、誰も負けた気にさせない——これがムハンマドの知恵だよ。勝ち負けを決めるのではなく、全員が「参加した」と思える場を作る。このエピソードは彼がまだ預言者になる前の話なんだ。
商人として安定した生活を手に入れたムハンマドでしたが、心の中には常に疑問がありました。当時のメッカは360もの偶像(神像)をカーバ神殿に祀り、多くの神々を信仰する多神教社会でした。貧富の差が激しく、孤児や貧者が虐げられる社会のあり方に、ムハンマドは深く悩んでいたといいます。
40歳の転機——神の啓示とイスラム教の誕生
610年のある夜、ムハンマドはメッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していました。彼はこの頃、社会の矛盾や精神的な問いを抱え、たびたびこの洞窟で祈りと思索の時間を過ごしていました。
そのとき、突然天使ジブリール(キリスト教でいう大天使ガブリエル)が現れ、ムハンマドを強く抱きしめてこう命じました。
「読め!(汝の主の御名において読め)」
伝承によれば、ムハンマドは恐怖で震えながら「私は字が読めない」と答えましたが、ジブリールは3度繰り返し、ムハンマドに神の言葉を語らせました。これがイスラム教の聖典コーラン(クルアーン)の最初の啓示とされる出来事です。
啓示を受けたムハンマドはパニック状態で山を下り、急いで家に帰って妻ハディージャに抱きついてザムミルーニー(「私を包んでくれ!」)と震え声で訴えたといいます。神の啓示を受けた偉大な預言者も、最初は恐怖に震えた——そんな人間らしい姿が伝えられています。

あなたが神を裏切ることはありません。あなたは正直で、親切で、弱い者を助ける人だから——きっと神があなたを選んだのです。

ここが超重要ポイント!ムハンマドが最初に信じてもらったのは妻のハディージャだけだったんだ。「神様に選ばれた!」と言っても最初は誰も信じてくれない——孤独で怖い「スタート地点」だったんだよ。
ハディージャに続いて信者となったのは、いとこのアリー(のちの第4代カリフ)、友人のアブー・バクル(のちの初代カリフ)でした。最初の信者はわずか数人——それがイスラム教の始まりでした。
ムハンマドはやがてメッカの人々に向けて説教を始めます。「アッラーの他に神はない」「偶像崇拝をやめよ」「孤児や貧者を助けよ」という教えは、360の偶像を管理して利益を得ていたメッカの支配層にとって、自分たちの権力基盤を揺るがす危険な思想でした。こうして迫害が始まります。
迫害とヒジュラ(聖遷)——622年の大移住
説教を始めたムハンマドへの迫害は、年を追うごとに激しくなりました。弱い立場の信者(奴隷・貧者など)は拷問や虐待を受け、メッカでの生活が命の危険にさらされるほどでした。
そして619年、ムハンマドに二重の悲しみが降りかかります。精神的支柱だった妻ハディージャが亡くなり、同年には彼を長年庇護してきた叔父アブー・ターリブも死去したのです。後ろ盾を失ったムハンマドへの迫害はさらに激化しました。この年は「悲しみの年」と呼ばれています。

「ヒジュラ」ってテストでよく出るって聞いたんだけど、どういう意味なの?

「ヒジュラ(聖遷)」はアラビア語で「移住」のこと!622年に、ムハンマドと信者たちがメッカからメディナへ移ったこの出来事が、イスラーム暦(ヒジュラ暦)の1年目になったんだ。今でもイスラーム世界では「AH(ヒジュラ後)」という年号が使われているよ!
622年9月、ムハンマドはメッカからヤスリブ(のちのメディナ)へ移住します。ムハンマドとアブー・バクルの2人は暗殺者の目をかいくぐり、洞窟に隠れながら命がけの旅をしたと伝えられています。この出来事が「ヒジュラ(聖遷)」です。
📌 テスト対策ポイント:ヒジュラ=622年=イスラーム暦の元年。この年号はセットで必ず覚えよう!日本では推古天皇の治世(冠位十二階は603年)の少し後の時代にあたります。
メディナに到着したムハンマドは、対立していた部族間の争いを調停する「メディナ憲章」を作成します。これはムスリム(イスラム教徒)だけでなく、ユダヤ教徒や多神教徒も含む多民族共同体の規約でした。宗教や民族を超えた「共同体のルール」——これが世界初の成文憲法の一つとも言われています。
イスラーム国家の建設——メディナからメッカへ
メディナに拠点を確立したムハンマドは、メッカのクライシュ族との対立を続けながら、イスラーム共同体(ウンマ)を着実に拡大していきました。
624年のバドルの戦いでは、数において劣るムスリム軍がメッカ軍を破り、イスラーム勢力の存在感を大きく示しました。その後も幾度もの戦闘と交渉を経ながら、ムハンマドは着実に支持者を増やしていきます。
■ ウンマとは?——イスラーム共同体の誕生
「ウンマ」とは、イスラーム共同体のことを指します。それまでのアラビア半島では、血縁や部族によるつながりが社会の基本単位でした。「自分の部族の仲間は守るが、よそ者には冷たい」という世界です。
ムハンマドが提唱したウンマは、これを根本から覆すものでした。「同じ神(アッラー)を信じる」という信仰だけを基準に、アラブ人も非アラブ人も、自由人も奴隷も、男性も女性も同じ共同体の一員として結びつけたのです。

「ウンマ」って、今でいう「国籍・民族を超えた信者コミュニティ」みたいなものだよ!血縁・部族の縛りより「同じ神を信じる」ことで結ばれる——これって当時のアラブ社会にとっては超革命的な考え方だったんだ。
ウンマの誕生は、単なる宗教的な出来事ではありませんでした。それまで氏族・部族ごとに対立し続けていたアラビア半島の人々が、「同じ信仰を持つ者」として初めて統一される——政治的にも歴史的にも大きな転換点でした。

メディナ時代って、ムハンマドは宗教指導者だったの?それとも政治的なリーダーだったの?

両方だよ!イスラム教では宗教と政治は分離していないんだ。ムハンマドはメディナで「神の啓示を伝える預言者」であると同時に、共同体のルールを作り争いを解決する「政治的指導者」でもあった。これが「イスラーム国家」の始まりなんだよ。
イスラム教の教えとは——コーランと五行を理解する
イスラム教の信仰の核心は、「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはその使者である」という一文に凝縮されます。次の章では、その具体的な教え——聖典コーランと「五行」について見ていきましょう。
■ コーランとは?
コーラン(アラビア語:クルアーン)は、ムハンマドが610年から632年の死に至るまで受け続けた神(アッラー)の啓示をまとめた、イスラム教の聖典です。
コーランはムハンマドの生前には主に口頭で伝えられ、弟子たちが暗記していました。ムハンマドの死後、信者たちは啓示を文字に記録し始め、第3代カリフのウスマーンの時代(644〜656年)に公式テキストとして統一・編纂されました。
コーランはアラビア語で書かれており、全114章から構成されています。イスラム教徒にとってコーランは「神の言葉そのもの」であり、翻訳版は「意味の解説」とされ、礼拝ではアラビア語の原文が読まれます。
📌 コーランと聖書・旧約聖書の関係:コーランには、旧約聖書のアダムとイブ、ノアの方舟、モーゼ(ムーサー)、イエス(イーサー)なども登場します。イスラム教ではユダヤ教・キリスト教の預言者たちも「神の使者」として認めており、ムハンマドは「最後にして最大の預言者」と位置づけられています。
■ 五行——イスラム教徒の5つの義務
イスラム教徒(ムスリム)には「五行」と呼ばれる5つの宗教的義務があります。これは「イスラームの柱」とも呼ばれ、信仰を実践するための基本的な行いです。世界史のテストでは頻出ですので、しっかり覚えておきましょう。
①信仰告白(シャハーダ):「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはその使者である」と証言する
②礼拝(サラート):1日5回、メッカのカアバ神殿の方向に向かって礼拝する
③喜捨(ザカート):財産の一部(通常2.5%程度)を貧しい人々に分け与える
④断食(サウム):ラマダーン月(断食月)の日中は飲食を断つ
⑤巡礼(ハッジ):一生に一度、体力と財力が許す限りメッカへ巡礼する
📌 暗記のコツ:五行は「シ(信仰告白)・レ(礼拝)・キ(喜捨)・ダ(断食)・ジュン(巡礼)」の頭文字でまとめると覚えやすい!試験では5つの名前と内容をセットで書けるようにしておこう。

ニュースで「ジハード」ってよく聞くけど、テロのことなの?

「ジハード」の本来の意味は「(神のための)努力・奮闘」なんだ。信仰を深める内面的な努力、悪に対して正義を守る努力——これがジハードの本来の意味。防衛のための戦いも含むけど、「テロ=ジハード」というイメージは一部の過激派が広めた誤解で、ムハンマド自身の教えとは別物なんだ。
コーランと五行はイスラム教の根幹をなすものです。次の章では、ムハンマドがメッカを征服し、アラビア半島を統一するまでの晩年の物語を見ていきましょう。
メッカ征服と晩年——ムハンマドが変えた世界
ヒジュラから8年。メディナを拠点にしたムハンマドの勢力は着実に広がり、630年ついに1万を超える軍を率いてメッカへ向かいました。
結果は、ほぼ無血開城でした。
かつて自分を追い出した街に、ムハンマドは大軍を率いて凱旋します。しかし彼がまず行ったのは、報復でも処刑でもありませんでした。カーバ神殿の偶像を破壊し、「今日から、あなたたちは自由だ」と告げたと伝えられています。

おまえたちはみな平等だ。アラブ人が非アラブ人より優れているわけでも、白人が黒人より優れているわけでもない。アッラーへの敬虔さだけが、人の優劣を決める。
■ ムハンマドが変えた社会
ムハンマドがイスラームを通じて変えたものは、宗教だけではありませんでした。それまでのアラビア半島には根強い氏族制度があり、「どの部族に生まれたか」がすべてを決める社会でした。
📌 ムハンマドが変えた3つのこと:①氏族制度の打破(「信仰による平等」の共同体)②女性の地位向上(相続権・離婚権の保障)③孤児・奴隷への保護規定(自分が孤児だったから)
女性には財産の相続権・離婚の申請権が認められ、孤児や貧しい人々への保護が義務化されました。これは当時の世界では極めて革新的な制度です。自らが孤児として苦労した経験が、こうした教えに反映されているのでしょう。

7世紀のアラビアで女性の権利や孤児への保護を制度化したって、すごく先進的な考え方じゃない?

そうなんだよ!ムハンマド自身が孤児として育ったことが、弱者保護の教えに直結してるんだよね。「自分が辛かったから、同じ思いをさせたくない」——そんな人間ドラマが宗教の教えに込められてるんだ。
🐱 ムハンマドと猫の逸話:ムハンマドが衣の袖の上で眠る猫を起こしたくないと、礼拝の時間になっても袖を切り離してその場を去ったという伝承があります。イスラム圏で猫が大切にされ、モスクでも猫が自由に過ごすことが多い理由のひとつとされています。
- 「怒りを制せよ」——怒りをどう抑えるかを問われ、3度繰り返して答えたとされる言葉(ブハーリー)
- 「笑顔は喜捨(サダカ)の一形態である」——金銭でなく微笑みかけることが徳になると説いた(ティルミズィー)
- 「強い者とは組み打ちで勝つ者ではなく、怒りのときに自分を制できる者だ」(ブハーリー・ムスリム)
- 「自分が望まれることを他者にも行え。望まれないことは行うな」——イスラームの黄金律とも呼ばれる
■ 晩年と最後の巡礼
メッカ征服の2年後、632年の春。ムハンマドはメッカへの最後の巡礼(「告別の巡礼」と呼ばれます)を行います。10万人を超える信者を前に、彼はこう述べました。
「人々よ、あなたたちの命・財産・名誉は、互いに神聖なものだ。おまえたちはみなアダムの子孫であり、アダムは土から作られた。アラブ人が非アラブ人より優れているわけでは決してない——」
その年の6月、ムハンマドはメディナで病に倒れ、息を引き取りました。享年62歳頃。孤児として生まれ、商人となり、40歳で神の啓示を受けてから22年——彼が残したものは、1400年以上経った今も世界20億人以上が信仰する宗教として生き続けています。
ムハンマドの死後——カリフ制とイスラームの拡大
ムハンマドが亡くなると、信者たちは深刻な問題に直面しました。「次の指導者は誰がなるのか」——ムハンマドは後継者を指名しておらず、共同体(ウンマ)は混乱に陥ります。
このとき生み出された制度が、カリフ制です。「カリフ」とはアラビア語で「代理人・後継者」の意味。ムハンマドの親友だったアブー・バクルが初代カリフに選ばれ、政治・軍事・宗教を一体化した指導者として共同体を率いました。
📌 正統カリフ(632〜661年):第1代アブー・バクル → 第2代ウマル → 第3代ウスマーン → 第4代アリー。この4人が「正統カリフ」と呼ばれ、選挙で選ばれた点が特徴。
■ スンナ派とシーア派の分裂
ところが、この後継者問題は深刻な亀裂を生みます。第4代カリフのアリー(ムハンマドのいとこ・娘婿)の後継者をめぐる争いが、イスラームを二大宗派に分裂させるのです。

ニュースでよく「スンナ派」「シーア派」って出てくるけど、何が違うの?

簡単に言うと「カリフはムハンマドの血筋に限らず選挙で選んでよい派(スンナ派)」vs「カリフはムハンマドの血筋でないとダメ派(シーア派)」の違いだよ。スンナ派が多数派(世界のイスラム教徒の約85〜90%)で、シーア派はイランなどに多い。今の中東の複雑な紛争の根っこにもこの対立があるんだ。
■ イスラーム帝国の急速な拡大
後継者問題を抱えながらも、イスラームは驚異的なスピードで広がりました。ムハンマドの死から100年も経たないうちに、イスラーム勢力はアラビア半島を出て、ビザンツ帝国・ササン朝ペルシアを圧倒。北アフリカ・中央アジア・イベリア半島(現在のスペイン)まで版図を広げていきます。

なんでそんなに早く広がったの?軍事力だけじゃないよね?

いい質問!理由は3つあって、①ビザンツ帝国とペルシアが長年の戦争で疲弊していた、②「万人平等」というイスラームの教えが差別に苦しむ人々に受け入れられた、③商業ルートに沿って自然に広まった——このあたりが大きな要因だよ。「征服=暴力だけ」ではないんだ。
📌 ウマイヤ朝(661〜750年)——世界初のイスラム王朝:第4代カリフ・アリーが暗殺された後、シリア総督のムアーウィヤが661年にカリフに就任して建国。首都はダマスカス(現シリア)。正統カリフ時代の「選挙制」を廃止し、カリフ職を世襲制(親から子へ)にした——これが世界初のイスラム王朝とされる理由。最盛期の版図は東はインド・中央アジア、西はイベリア半島(現スペイン)に達した。
8世紀にはウマイヤ朝(661〜750年)からアッバース朝(750〜1258年)へと政権が移り、イスラーム文化の黄金時代を迎えます。数学・天文学・医学の発展は、後のヨーロッパのルネサンスにも大きな影響を与えました。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも活用してください。
📌 暗記のコツ:「ムハンマドの年号3点セット」は必須——誕生570年・ヒジュラ622年・死去632年。五行は「シ・レ・キ・ダ・ジュン(信礼喜断巡)」の頭文字で。カリフ=「代理人」から後継者制度と結びつける。ウマイヤ朝→アッバース朝の順番も頻出。

共通テストで一番出やすいのはどのポイントかな?

最頻出は「ヒジュラ(622年)=イスラーム暦の元年」と「五行の内容」の2点だよ!特に「ヒジュラ=聖遷=622年=AH紀年法の元年」という連鎖で覚えておくと、選択式の問題でも迷わないはず!
ムハンマドをもっと深く知るためのおすすめ書籍

ムハンマドについてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
よくある質問
同じ人物です。「マホメット」は昔の日本語の表記(欧語Mahomet の音写)で、現代では原語に近い「ムハンマド」が正しい表記として定着しています。英語ではMuhammadと表記します。
622年にムハンマドと信者たちがメッカからメディナへ移住した出来事です。アラビア語で「移住」を意味します。この年がイスラーム暦(ヒジュラ暦)の元年(AH1年)とされており、世界史のテストで頻出の年号です。
イスラム教徒の5つの宗教的義務のことです。①信仰告白(シャハーダ)②礼拝(サラート)③喜捨(ザカート)④断食(サウム)⑤巡礼(ハッジ)の5つ。世界史のテストで最頻出の項目の一つです。
同じ意味ではありません。ジハードの本来の意味は「神のための努力・奮闘」で、主に自分自身の内面的な修行(欲望や誘惑との闘い)を指します。防衛のための戦いも含みますが、テロと同義ではなく、現代の一部過激派が独自に拡大解釈したものです。
①「民族・身分・生まれを超えた万人平等」という教え、②孤児・貧者・女性への具体的な保護規定、③氏族・部族の縛りを超えた「信仰による共同体(ウンマ)」という革命的な概念、④商業ルートに沿った自然な普及——これらが複合的に作用したと考えられています。また、ムハンマド自身の誠実で公平な人柄が初期の信者を引きつけた点も大きな要因です。
アラビア語で「代理人・後継者」の意味です。ムハンマドの死後、イスラーム共同体(ウンマ)の指導者として選ばれた人物の称号です。最初の4人(アブー・バクル・ウマル・ウスマーン・アリー)を「正統カリフ」と呼び、その後ウマイヤ朝・アッバース朝でもカリフ制が継続しました。
後継者(カリフ)をめぐる考え方の違いです。スンナ派はムハンマドの言行(スンナ)を重視し、選挙で指導者を選ぶことを認める多数派(世界のムスリムの約85〜90%)です。シーア派はムハンマドの血統(特にいとこのアリーの系統)でなければならないと主張し、イランやイラク南部に多く分布しています。
まとめ——ムハンマドが変えた世界

以上、ムハンマドの生涯まとめでした!孤児→商人→預言者という、40年かけた大逆転劇——すごいよね。下の記事でイランやイスラーム帝国の歴史、中東情勢の背景もあわせて読んでみてください!
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570年頃メッカのクライシュ族に誕生。幼くして父と死別、6歳で母とも死別し孤児となる。祖父→叔父アブー・ターリブに育てられる
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595年頃富裕な未亡人ハディージャ(伝承では40歳頃)と結婚。誠実な商人として信頼を得る。複数の子供をもうけるが息子は幼くして死去
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610年40歳のとき、ヒラー山の洞窟で天使ジブリールを通じてアッラーの啓示を受ける。イスラム教の誕生。最初の信者は妻ハディージャ
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619年妻ハディージャと叔父アブー・ターリブが相次いで死去。後ろ盾を失い、メッカの多神教支配層による迫害が激化
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622年ヒジュラ(聖遷)——メッカからメディナへ移住。イスラーム暦(AH)の元年となる。メディナ憲章を制定しウンマ(共同体)を建設
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624年バドルの戦い——メッカ軍との初の大規模戦闘に勝利し、イスラーム勢力の存在を示す
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630年メッカ征服——1万の軍でほぼ無血開城。カーバ神殿の偶像を破壊し、アラビア半島のイスラーム化が完成
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632年告別の巡礼ののちメディナで死去(享年62歳頃)。後継者問題が起こり、カリフ制が誕生。正統カリフ時代(〜661年)へ
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7〜8世紀ウマイヤ朝(661〜750年)→アッバース朝(750〜1258年)のもとイスラーム帝国が急拡大。中東・北アフリカ・中央アジア・イベリア半島まで版図を広げる
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ」(2026年5月確認)
コトバンク「ムハンマド」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
山川出版社『詳説世界史』(2022年版)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。




