

今回は中東戦争について、第1次〜第4次まで流れをつかめるようにわかりやすく解説していくよ!なぜ4度も戦争が起きたのか、オイルショックや現代のガザ問題との繋がりも、ぜんぶまとめて説明するね!
📚 この記事のレベル:中学社会(歴史)/ 高校世界史 / 歴史総合
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「イスラエルが強くてアラブが負けた戦争の繰り返し」——中東戦争について、そんなイメージを持っていませんか?
実は、4次にわたる中東戦争はどれもまったく違う性格を持つ「個性ある戦争」でした。国連決議・アメリカとソ連の冷戦対立・石油資源という武器まで絡み合い、まさに「世界を動かした戦争」だったのです。
そして、現代のガザ問題・オイルショック・パレスチナ難民のルーツは、すべてこの中東戦争にあります。
中東戦争とは?3行でわかる背景
- 中東戦争とは、1948〜1973年にイスラエルとアラブ諸国の間で起きた4度の戦争のこと
- パレスチナの土地をめぐる対立が根本にあり、イギリスの「三枚舌外交」がきっかけを作った
- 第四次中東戦争は石油危機(オイルショック)を引き起こし、日本を含む世界経済に大打撃を与えた
中東戦争とは、パレスチナ(現在のイスラエルおよびその周辺)をめぐって、イスラエルとエジプト・シリア・ヨルダンなどのアラブ諸国の間で計4度にわたって起きた戦争のことです。
「中東」とは、西アジアから北アフリカにかけての一帯を指す地域名です。トルコの南・地中海の東側から、アラビア半島・エジプトあたりまでが「中東」に含まれます。
この戦争の特徴は、単なる2国間の争いではなく、冷戦を背景にしたアメリカ対ソ連の代理戦争的な側面や、石油資源をめぐる国際政治が複雑に絡み合っていることにあります。

イスラエルって昔からあった国なの?なぜアラブとぶつかったの?

イスラエルは1948年に建国されたばかりの国なんだ。「生まれてすぐ戦争が始まった国」って表現がぴったりくるほど、建国と同時にアラブ諸国と衝突した。なぜぶつかったのか——その原因は、100年以上前のイギリスの「ずるい約束」にさかのぼるんだよ。
次の章では、そもそも「なぜイスラエルとアラブが対立するようになったのか」をじっくり解説します。
中東戦争が起きた背景——オスマン帝国おすまんていこく崩壊と三枚舌外交
中東戦争を理解するには、第一次世界大戦(1914〜1918年)前後の歴史から話を始める必要があります。
当時のパレスチナは、600年以上にわたって栄えた大帝国・オスマン帝国の支配下にありました。ところが第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北側についたため、帝国は崩壊し、パレスチナはイギリスの委任統治領(=実質的なイギリスの植民地)となりました。
この時期に問題を複雑にしたのが、イギリスが複数の勢力に対して互いに矛盾した約束をしてしまったことです。
📝 三枚舌外交の3つの約束(すべてイギリスが行った)
①フサイン=マクマホン協定(1915年):アラブ人の独立国家建設を支持
②バルフォア宣言(1917年):パレスチナにユダヤ人の「民族的郷土」を建設を支持
③サイクス=ピコ協定(1916年):フランスとパレスチナを含む中東を秘密裏に分割

「三枚舌外交」っていうのは、イギリスが同じパレスチナの土地を「アラブ人にあげます」「ユダヤ人にもあげます」「フランスとも分けます」と3方向に約束してしまったこと。今でいう二重どころか三重の約束で、はじめから解決不可能な対立の種を蒔いてしまったんだよ!
こうした矛盾した約束を背景に、パレスチナへのシオニズム(ユダヤ人がパレスチナに祖国を再建しようとする運動)に基づく移民が増加していきました。
第二次世界大戦でナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)が起きると、生き残ったユダヤ人が大量にパレスチナへ流入します。アラブ系住民との衝突が激化し、収拾がつかなくなったイギリスは問題を国連に丸投げしました。
1947年、国連はパレスチナ分割案を決議します。パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分け、エルサレム(ユダヤ教・イスラム教の聖地)を国際管理にするという案でした。ユダヤ人側はこれを受け入れましたが、アラブ側は「古来からの自分たちの土地を外国人に渡せるか」と猛反発して拒否しました。

(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
こうして双方の対立は、ついに武力衝突へと発展することになります。次の章では第一次中東戦争を詳しく見ていきます。
第一次中東戦争(1948年)——イスラエル建国とアラブの反撃
1948年5月14日、パレスチナへのイギリス委任統治が終了した翌日、ユダヤ人指導者たちはイスラエル建国を宣言しました。
その翌日——5月15日——エジプト・シリア・トランスヨルダン・イラク・レバノンのアラブ5カ国が一斉にイスラエルへ侵攻します。「建国してわずか1日で5カ国に攻め込まれた」という、歴史上きわめて稀な事態です。
数で勝るアラブ側が優位かと思われましたが、イスラエルは予想外の粘り強さを見せました。アメリカからの武器支援と資金援助、そして「生き残るか滅びるか」という切迫感に突き動かされたイスラエル兵の士気の高さが、戦局を変えていきます。
1949年に停戦が成立した時点で、イスラエルは国連分割案で割り当てられた領土よりも広い土地を実効支配していました。「建国してすぐ戦争に勝ち、むしろ領土が増えた」という結果になったのです。

パレスチナ難民って何?今もいるの?

戦争によって故郷を追われたアラブ系パレスチナ人のことだよ。第一次中東戦争だけで約70万人が周辺国に逃げ出したと言われているんだ。その子孫も含めると、現在も数百万人が難民認定を受けたまま暮らしている。これが現代のガザ問題にも直接つながっているんだよ。
一方でアラブ側にとって、この敗北は「ナクバ(大惨事)」と呼ばれる民族の悲劇として、現在も忘れられることのない歴史的傷となっています。
こうして生まれたパレスチナ問題という火種はくすぶり続け、やがて第二次中東戦争へと続いていきます。
第二次中東戦争(1956年)——スエズ戦争とナセルの挑戦
第二次中東戦争のカギを握る人物は、エジプト大統領のガマール=アブドゥル=ナーセルです。通称「ナセル」と呼ばれ、アラブ民族主義の象徴として熱狂的な支持を集めた指導者です。
1956年7月、ナセルは電撃的な宣言を行います。それが、スエズ運河国有化でした。
📝 スエズ運河とは?
地中海と紅海を結ぶ全長約193kmの運河で、ヨーロッパとアジアを結ぶ最短航路。1869年に開通し、長くイギリス・フランスが株式の大半を保有する「スエズ運河会社」が管理していた。ナセルはこれを「エジプトの主権を損ねる帝国主義の遺産」とみなしていた。


スエズ運河はエジプトの主権の象徴だ。外国企業に独占させておく理由はない。今日よりスエズ運河はエジプト国民のものとする!
ナセルの宣言はアラブ世界全体に熱狂をもって受け入れられました。しかし、スエズ運河の収益を失うことになったイギリス・フランス、そしてイスラエルは激しく反発し、同年10月に3カ国でエジプトへの軍事侵攻を開始しました。
ところが——ここで意外な展開が起きます。
冷戦の真っ只中にあったアメリカは「ヨーロッパの帝国主義が中東で復活すれば、アラブ諸国がソ連側に傾く」と判断し、英仏に即時撤退を強く要求しました。ソ連も英仏を非難しました。アメリカとソ連という二大超大国に同時に圧力をかけられた英仏は、撤退せざるを得ませんでした。
軍事的には敗れながらも、ナセルは「スエズ運河を守り抜き、大国を撤退させた」という外交的大勝利を収めたのです。これによりアラブ民族主義の機運は一気に高まっていきました。
一方で第二次中東戦争は、イギリスとフランスが中東での影響力を失うという「旧植民地主義の終わり」を象徴する出来事でもありました。次の章では、イスラエルが衝撃的な勝利を収めた第三次中東戦争を見ていきます。
第三次中東戦争(1967年)——「六日戦争」でイスラエルが大勝利
1967年にかけて、中東の緊張は極限まで高まっていました。ナセルのエジプトはシナイ半島に大軍を集結させ、国際連合緊急軍(UNEF)の撤退を求め、さらにチラン海峡を封鎖してイスラエルへの船の通行を禁じました。
これをイスラエルは「存在を脅かす戦争行為」と判断します。
1967年6月5日午前7時45分——イスラエルは先手を打ちました。エジプト・シリア・ヨルダンの航空基地に対して大規模な空爆を同時発動し、わずか数時間でアラブ側の空軍力をほぼ壊滅させたのです。
地上戦でもイスラエルは圧倒的な速度で進軍しました。開戦からわずか6日後には戦争が終結。この短さから「六日戦争」と呼ばれています。
イスラエルが占領した土地は、エジプトのシナイ半島とガザ地区、シリアのゴラン高原、ヨルダンのヨルダン川西岸地区(パレスチナ人が多く住む地域)、そしてエルサレム東部です。合計するとイスラエル本土の約3倍もの面積にのぼりました。

「六日戦争」って名前は当時の衝撃の大きさを表しているんだよ。6日間でエジプト・シリア・ヨルダンの3カ国を相手に圧勝して、領土を3倍以上に広げたんだから。世界中が「こんな戦争が現実に起きるのか」と驚いたんだ。

この戦争の後、国連安保理は決議242号を採択し、イスラエルに占領地からの撤退を求めました。しかしイスラエルは「安全保障上の理由」を盾に撤退を拒否し続けます。この占領地問題は現在に至るまで解決されていません。
アラブ側は「次こそリベンジを」と雌伏の時を過ごします。そして6年後、アラブ諸国は石油という新たな武器を手に、イスラエルへの奇襲攻撃を仕掛けます。
第四次中東戦争(1973年)——オイルショックと石油戦略
1973年10月6日——ユダヤ教の最も神聖な祝日「ヨム=キプール(贖罪の日)」——エジプトとシリアは断食と礼拝に集中するイスラエル軍の隙を突いて、奇襲攻撃を開始しました。
この戦争は「ラマダン戦争」(イスラム暦でラマダン月に当たるため)または「ヨム=キプール戦争」とも呼ばれます。
奇襲は見事に成功し、エジプト軍はスエズ運河を渡ってシナイ半島へ、シリア軍はゴラン高原へと進撃しました。六日戦争で占領した土地を奪い返すというアラブ側の目標は、開戦直後の段階では達成されつつあるように見えました。

しかし、危機に瀕したイスラエルをアメリカが緊急支援しました。ニクソン大統領は大量の戦車・ミサイルをイスラエルへ空輸し、戦局は再びイスラエル優位へと傾きます。最終的にはアメリカとソ連の仲介で停戦が成立しました。
軍事面では決着がつかなかった第四次中東戦争でしたが、アラブ諸国は全く別の武器——石油——を使って世界に衝撃を与えることになります。
石油戦略①:OAPEC(アラブ石油輸出国機構)による石油禁輸(1973年10月)
イスラエル支持国(アメリカ・オランダ等)への石油輸出を禁止
石油戦略②:OPEC(石油輸出国機構)による原油価格引き上げ(1973年10月)
原油価格を3カ月足らずで約4倍(1バレル3ドル→12ドル)に引き上げ

日本ではトイレットペーパーが売り切れになったって話、聞いたことある!中東の戦争が原因だったの?

そうなんだよ!アラブ産油国が石油を武器にしたことで原油価格が約4倍に跳ね上がった。「石油がなくなるかも」という不安が広がって、日本では石油を原料に使うトイレットペーパーや洗剤まで買い占めパニックが起きたんだ。これが第1次オイルショック(石油危機)で、「狂乱物価」とも呼ばれたよ。
このように、第四次中東戦争は「戦場での戦争」にとどまらず、石油という経済的武器によって先進工業国全体を揺るがした戦争でした。次の章では、このオイルショックが日本にどんな影響を与えたかを詳しく見ていきます。
中東戦争が日本に与えた影響
中東戦争の影響は、遠く離れた日本にも直撃しました。なかでも第四次中東戦争をきっかけに引き起こされたオイルショック(石油危機)は、日本の経済・社会・エネルギー政策を根本から変えてしまうほどのインパクトがありました。
1973年当時、日本は高度経済成長の末期にあたる時期でした。石油はエネルギー消費の7割以上を占めており、そのほぼすべてを中東からの輸入に依存していました。つまり、中東で戦争が起きて石油の輸入が止まれば、日本の産業全体がたちまち立ち行かなくなる、という極めて脆弱な構造を抱えていたのです。
オイルショックが日本に与えた影響①:狂乱物価
原油価格の急騰が石油製品・食料品・日用品すべての物価を押し上げ、1974年には消費者物価上昇率が約23%に達した
オイルショックが日本に与えた影響②:買い占めパニック
「石油製品がなくなる」という不安が広まり、トイレットペーパー・洗剤・砂糖などが店頭から消える事態が全国で発生した
この危機に対応したのが、当時首相を務めていた田中角栄内閣でした。田中首相は緊急物資の安定供給対策を打ち出す一方、日本は中東外交を積極化させて「アラブ寄り」の立場を表明することで、石油禁輸リストから外されるよう働きかけました。
日本がアラブ側の要求を受け入れてパレスチナ問題に言及したこの外交転換は、当時の西側諸国からは「日本が同盟関係より石油を優先した」と批判も受けましたが、日本の外交的現実主義の一面を示すものでした。

日本史で「オイルショック」「狂乱物価」「省エネ法」を勉強したなら、そのきっかけはぜんぶ中東戦争なんだよ。1973年(昭和48年)は日本にとっても大きな転換点で、「石油を節約しなければ」という意識が社会全体に根付いた年なんだ!
オイルショックの教訓を受けて、日本政府はエネルギー政策を大幅に転換しました。「省エネルギー法」(1979年制定)によって工場・建築物の省エネ基準が義務づけられ、省エネルギー型の産業・製品開発が国策として推進されました。また、中東依存を減らすため原子力発電の拡大や石炭・天然ガスへの多角化が進みました。
日本が「世界有数の省エネ先進国」となったのは、まさにこのオイルショックの苦い経験があったからこそと言えます。

日本史のテストでオイルショックが出たとき、中東戦争のことも書いた方がいい?

絶対に書いた方がいい!「第四次中東戦争(1973年)でアラブ産油国が石油禁輸→石油価格4倍→日本も直撃」という因果関係を1文で書けるようにしておこう。「狂乱物価・省エネ法」を書く前に、必ず原因として中東戦争に触れるとバッチリだよ!
中東戦争が現代に残したもの——ガザ問題の原点
4次にわたる中東戦争は1973年を最後に国家間の大規模な戦争という形では終わりましたが、戦争が生み出した問題は解決されないまま現代まで続いています。
📝 中東戦争が未解決のまま残した3つの問題
①パレスチナ難民の帰還権問題:第一次(1948年)以来の難民とその子孫が数百万人
②占領地問題:第三次(1967年)でイスラエルが占領したガザ地区・ヨルダン川西岸の扱い
③エルサレムの帰属問題:ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地をめぐる対立
第一次中東戦争(1948年)で家を追われたアラブ系パレスチナ人の難民問題は、その後75年以上にわたって解決の糸口が見えないままでいます。
第三次中東戦争(1967年)でイスラエルに占領されたガザ地区は、1994年のオスロ合意(パレスチナ解放機構=PLOとイスラエルが結んだ暫定自治協定)を経て、2007年以降はハマス(イスラム組織)が実効支配する地域となっています。イスラエルはガザ地区を陸・海・空から封鎖し、人や物の出入りを厳しく制限してきました。

ニュースで見るガザの問題って、この中東戦争からずっとつながってるの?

まさにそう!第一次中東戦争(1948年)で生まれたパレスチナ難民問題、第三次(1967年)で占領されたガザ地区——この2点が現代のガザ問題の直接の根っこなんだ。「中東戦争を知らないとニュースが半分しかわからない」と言われる理由がここにあるんだよ。

2023年10月にハマスがイスラエルへの大規模攻撃を行い、イスラエルが大規模軍事作戦で応じたことで、ガザは壊滅的な状況に陥りました。この衝突は「第五次中東戦争」とも呼ぶ声がある一方、国家間の戦争ではなく「占領地における非国家武装勢力との戦闘」として区別する見方もあります。
いずれにせよ、その歴史的根源は1948年のイスラエル建国——そして第一次中東戦争——にまでさかのぼります。「なぜガザの人々は戦い続けるのか」「なぜ解決策が見えないのか」——その答えを探るには、中東戦争の歴史を理解することが不可欠なのです。
次の章では、試験によく出るポイントを整理します。
テストに出るポイント(共通テスト・定期テスト対策)
高校世界史・歴史総合の試験では、中東戦争の「どの戦争でどんなことが起きたか」の区別が繰り返し問われます。4つの戦争を混同しないよう、ここで整理しておきましょう。
📝 共通テスト頻出の年号セット:第一次(1948)・第二次(1956)・第三次(1967)・第四次(1973)。
「1973年=第四次中東戦争=第1次オイルショック」は日本史でも世界史でも必須の組み合わせ。
アラブ側から石油禁輸をした機関名はOAPEC(アラブ石油輸出国機構)、価格引き上げをしたのがOPEC(石油輸出国機構)で、別組織なので注意!
| 戦争 | 年・別名 | 主な原因 | 結果・ポイント |
|---|---|---|---|
| 第一次 | 1948年 | イスラエル建国 | 難民約70万人・イスラエル領土拡大 |
| 第二次 | 1956年(スエズ戦争) | スエズ運河国有化 | ナセル外交的勝利・英仏の中東影響力喪失 |
| 第三次 | 1967年(六日戦争) | イスラエル先制攻撃 | シナイ半島・ゴラン高原占領・決議242号 |
| 第四次 | 1973年(ラマダン戦争) | アラブ奇襲 | 石油禁輸→オイルショック→日本も直撃 |

4つの戦争、全部ごっちゃになりそう…。何かスッと覚えられる方法ある?

「①建国→②スエズ→③六日→④石油」って各戦争のキーワードで整理するといいよ!特にテストで頻出なのは②スエズ戦争(ナセル・英仏撤退)と④石油戦略(OAPEC・オイルショック)の2つ。この2つを重点的に押さえておけば安心だよ!
よくある質問(FAQ)
中東戦争は1948〜1973年にイスラエルとアラブ諸国の間で起きた4度の国家間の軍事衝突を指します。パレスチナ問題はその結果として生じた難民・占領地・自治権をめぐる継続的な政治問題の総称です。中東戦争が直接の原因でパレスチナ問題が深刻化し、現在も解決されていません。
①第一次(1948年):イスラエル建国宣言→アラブ5カ国が侵攻→イスラエルが勝利・領土拡大、②第二次(1956年・スエズ戦争):エジプトのスエズ運河国有化→英仏イスラエルが侵攻→米ソの圧力で撤退、③第三次(1967年・六日戦争):イスラエルの先制攻撃→6日でシナイ半島・ゴラン高原を占領、④第四次(1973年):エジプト・シリアの奇襲→石油禁輸→第1次オイルショック。各戦争でパワーバランスが変化しています。
主な要因は3つあります。①アメリカによる強力な軍事・外交支援(武器供与・国連での拒否権)、②軍の高い機動力と先制攻撃を重視した戦略(特に第三次で圧倒的な効果を発揮)、③アラブ諸国の連携不足(エジプト・シリア・ヨルダン等が統一した指揮体系を持てなかった)。なお第四次では奇襲を受けたイスラエルが苦境に立たされ、軍事的には引き分け状態で終わっています。
第四次中東戦争(1973年)でイスラエルを支持したアメリカ・オランダなどへの対抗措置として、アラブ産油国でつくるOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が石油輸出を禁止し、OPEC(石油輸出国機構)が原油価格を約4倍に引き上げました。これが第1次オイルショックの直接原因です。石油の99%以上を輸入に頼っていた日本も直撃を受け、物価が急騰する「狂乱物価」が起きました。
中東戦争が生み出したパレスチナ問題には、「難民の帰還権」「占領地の扱い」「エルサレムの帰属」という3つの核心的な対立があります。どれも双方が譲れない一線を持っており、1993年のオスロ合意でいったん解決の枠組みができましたが交渉は行き詰まりました。宗教的・民族的アイデンティティが絡む問題であり、外部からの仲介も容易ではないため、根本的な解決に至っていません。
歴史総合では「第四次中東戦争→石油危機(オイルショック)→先進国経済への打撃」という因果関係が最重要です。世界史探究(旧・世界史B)では第二次(スエズ戦争・ナセル・非植民地化の文脈)と第四次(石油戦略・冷戦との関係)を中心に、4次すべての概要を把握しておくと安心です。共通テストでは「スエズ戦争の背景」「オイルショックの影響」が頻出なので要確認です。
まとめ——中東戦争を「4本のストーリー」で振り返る

以上、中東戦争まとめでした!4回の戦争それぞれのポイントを押さえると、現代の中東情勢もぐっとわかりやすくなるよ。オイルショックや現代のガザ問題のニュースも「あ、あの中東戦争からつながってるんだ」って思えるようになるはずだよ!下の関連記事もあわせて読んでみてね!
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1973年第四次中東戦争(ラマダン戦争)→OAPEC石油禁輸→第1次オイルショック・日本でも狂乱物価
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📅 最終確認:2026年5月
📖 本記事は山川出版社『詳説世界史』に基づいています。高校世界史・歴史総合どちらにも対応しています。
Wikipedia日本語版「中東戦争」「第一次中東戦争」「スエズ危機」「六日戦争」「第四次中東戦争」「パレスチナ難民」(2026年5月確認)
コトバンク「中東戦争」「スエズ戦争」「パレスチナ問題」「オイルショック」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説世界史』
山川出版社『詳説日本史』(オイルショック・日本への影響)
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