今回は、平安時代末期〜鎌倉時代初期に活躍した北条時政(ほうじょうときまさ)という人物について紹介したいと思います。
北条と言えば尼将軍こと北条政子や元寇によるモンゴル軍を撃退した北条時宗が有名ですが、そんな北条氏繁栄の土台を築いたのが北条時政でした。
北条時政が活躍した時代は、おおざっぱに言うと源平合戦(1180年)から源実朝将軍就任(1203年)までの約20数年間。
伊豆に本拠地を構えていたごく一般的な地方一族だった北条氏。そんな北条氏ですが、北条時政の時代にわずか20数年で鎌倉幕府の実質NO1の存在にまでなってしまいます。
北条時政は一体何をしたのでしょうか?では本題へ。
北条時政と源頼朝
北条時政は、伊豆に暮らすごく一般的な一族でした。ところが、1159年に起こった平治の乱によって時政の運命は大きく変わることになります。
なぜかと言うと、平治の乱で破れた源義朝の息子である源頼朝が流刑で伊豆にやってきたから!!
伊豆に住んでた北条時政は、流刑人となった源頼朝の監視役を勤めます。こうして、源頼朝と顔をあわせる機会も増えた北条時政。なんと、そこで北条時政の娘の北条政子が源頼朝と恋仲に。
2人の関係は恋仲だけに止まらず、1177年頃、遂にデキ婚までしてしまいます。父の時政は娘の結婚に猛反対します。だって平家側の人間にバレたら最悪殺されますからね(;・∀・)
しかし、最終的に北条時政は娘と源頼朝の結婚を認めることとなり、これが北条時政大出世の大きな大きな布石となります。なぜ危険な娘の結婚を認めたのか・・・、当時の北条時政の胸の内はわかりませんが、
- 強気で攻めてくる娘の政子に屈した
- これから源頼朝の時代が来る!と言う先見の明があった
理由は多分上の2つのどちらか。北条時政って人間関係に敏感で狡猾なイメージがあるので、2番の理由で語られることが多いイメージ。
北条時政と源平合戦
1180年、以仁王が平家に対して挙兵し源平合戦が始まります。
その後源頼朝も少し時間を置いてから、流刑地を脱走し挙兵。ところが、流刑地から脱走したてホヤホヤで兵力の少ない頼朝軍は平家軍の追手に大敗北。これが1180年に起きた石橋山の戦い。
この時、頼朝と北条時政は離れ離れとなりしばらくは別行動をとります。同じ1180年に起こった富士川の戦いので再び頼朝と北条時政は合流。その後しばらくは、北条時政の目立った動きはありません。
石橋山でボロクソに負けたことからもお察しのとおり北条氏って武士団としてはそんな強くありません。源平合戦で登場する武将で言えば、和田氏とか三浦氏とか千葉氏とかが強くて、北条時政って実は地味めな存在だったんです。
北条時政が久しぶりに大舞台に登場するのは壇ノ浦の戦いで平家が滅びた後の1185年。
源頼朝は、後白河法皇に「守護・地頭」の設置を認めさせる交渉のため北条時政を京に派遣。交渉と言いつつも時政は兵を率いて平安京に入ったので実質脅しですがね!!
北条時政は決して武勇に秀でた一族ではありませんでしたが、平安京との重要な交渉を任されていることからも、源頼朝朝から信頼度がわかります。
北条時政と源頼家
とは言え、源平合戦では北条時政以上に武勇で活躍した武将は数多く存在し、北条時政は決して目立つ存在ではありません。それが1199年に源頼朝が亡くなったあたりからジワリジワリと力を付けていきます。
1199年に源頼朝が亡くなると、次期将軍に頼朝の長男である源頼家(みなもとのよりいえ)が選ばれます。ところが、頼朝の人望と政治力が無くなると御家人たちと源頼家の間でトラブルが多発。両者の関係が悪化します。
北条時政は将軍となった源頼家のことを良く思っていませんでした。なぜかというと、源頼家は自分を育ててくれた乳母を輩出した比企氏という一族を重用し始めたから。特に比企能員(ひきよしかず)という男は、娘を頼家の側室にして一幡(いちまん)という男子まで出生しています。そんな血縁関係や家族関係によって比企氏の影響力は強くなっていきます。
【参考系図。頼家の乳母は比企氏だけど、実朝の乳母は北条氏!】
この状況は、北条時政としては当然不愉快です。でもこれって裏を返せば「源実朝が将軍になれば、次は実朝の乳母を輩出した北条氏が重用されて、権力を持てるようになる」ということ。
さて、頼家の時代になると、頼朝に近しい人物が次々と謀略に巻き込まれ消えていきます。以下、ザッとハイライトで紹介します!
1199年、源頼家の側近だった梶原景時(かじわらかげとき)が御家人たちから弾圧を受けて鎌倉から追放。平安京に向かっている途中に何者かに殺されてしまいます。
この時、梶原景時追放のきっかけを作ったのは北条時政の娘の阿波局(あわのつぼね)。そして梶原景時が殺されたのは北条時政の所領だった駿河国。
1203年、源頼家が病に倒れると死んでもいないのに何者かの仕業で勝手に所領相続が行われます。しかも、普通なら頼家の息子で次期将軍候補だった一幡が全ての所領を受け継ぐのが普通なのになぜか弟の源実朝の所領の方が多い!
これに不満を持ったのが比企氏の1人である比企能員。北条氏をぶっ潰すそうとしますが、比企氏の不穏な動きを知った北条時政に返り討ち。北条時政は比企氏を騙して屋敷に連れ込み殺害。こうして源頼家と親密な関係にあった比企一族は滅びることになります。
同じ1203年、次は北条政子の圧力により源頼家は出家し、お寺で幽閉状態に。その後、源実朝が将軍となり、頼家は1204年に幽閉先で謎の死を遂げます。
実際のところどうなのかはわかりませんが、一連の事件全てに北条氏が関与していることから、実は裏で事件を操っていたのは北条時政だった・・・と言われています。この辺のイメージが、北条時政は狡猾で腹黒い男って感じで言われる所以になっています。それに実際に裏で暗躍してたとしたら、北条時政は相当卓越した政治家ですよね。
初代執権、北条時政
邪魔だった源頼家が消え、10代前半の幼い源実朝が将軍になると、幼い将軍に代わり北条時政が政治の実権を握るようになります。
北条時政は将軍に代わって独断で政治を行うようになり、圧倒的な権力を手中に収めますが、この時の時政の「将軍を補佐するポジション(実質的最高権力者)」が鎌倉時代中期に行われた執権政治の始まりだと言われています。
「北条氏=権力者」というイメージが出来がったのもこの頃から。
北条時政の失脚
実朝が1203年に将軍になったおかげで圧倒的権力を手に入れることができた北条時政。
ところがそのたった2年後、1205年に北条時政は失脚し伊豆に強制隠居することになります。
なぜこんな急展開で話が進んでいくのかというと、悪女にたぶらかされたから。1205年と言えば北条時政は60代後半のおじいちゃん。「いい歳して何やってんだよ!!」って感じです。
ここで言う悪女と言うのは、時政の後妻の牧の方(まきのかた)と言う女性。生年月日は不明ですが、時政とは年の差婚で若かったらしい。
牧の方は、娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍にしたいと望み、夫の時政をそそのかし、実朝を将軍の座から引きずりおろそうと計画します。なんかもう明らかに女に騙されてる感がプンプンしますねw
その前段にあったイザコザが、1205年に起きた畠山重忠の乱という事件。
「THE武士の鏡」的存在だった畠山重忠が、平賀朝雅との口論をきっかけに冤罪によって北条時政に消された事件です。ただ、当時は北条時政と畠山重忠は武蔵国を巡って対立関係にあったのでそれも原因だったかもしれません。
畠山重忠の乱の後すぐ、北条時政と牧の方が源実朝を排除して平賀朝雅を将軍にしようとしているとの噂が広まり、これに怒ったのが時政の前妻の子である北条政子と義時。平賀朝雅が将軍になってしまえば政子や義時は政治の実権を失ってしまうのでこの怒りは当然。
政子と義時はクーデターを起こし、父の時政と牧の方を鎌倉から追放。北条時政は伊豆に幽閉され、伊豆でその生涯を終えます。まとめると「再婚したら父が再婚相手の子や婿さんばかり可愛がって、前妻の子どもはブチギレ。」って言う現代でもありそうな話が日本の政治を巻き込んだ壮大なスケールで行われたってことです。
あまりにも北条時政のことをボロクソに言いまくったので、少しだけフォローしておくと、北条時政が牧の方を大事にした理由の1つには「牧の方は名門ではなかったけど、貴族出身であり、血筋を考えた結果、牧の方と2人の間に生まれた娘、それに娘婿の平賀朝雅をだいじにした」という可能性はありそうです。
それでも、源氏を貶める行為や時政に次いで政治の実権を握っていた北条政子を露骨に挑発したのはやはり愚かとしか言いようがないように思いますが・・・。
北条時政まとめ
源頼朝に近づくことで一族の地位を高めたと思えば、次は源頼家を追放することで権力を掌握。
そして幼い源実朝を将軍にさせて、「将軍を補佐する」という名目のもと、絶対的権力を手に入れたと思ったらわずか2年ほどで北条政子・義時ら子供達によって鎌倉を追放。
目まぐるしく鎌倉の政治情勢が変わるため、北条時政の生涯っていまいちわかりにくい印象を受けます。しかし、混迷する時政の生涯は鎌倉時代初期というのがいかに混沌とした血なまぐさい時代だったのかというのを象徴しているような気が私はしています。
北条時政は、北条家の地位を神がかり的に高めたまさに北条氏の英雄とも言える人物ですが、いかんせん最期に子供たちとトラブったのが心証悪すぎで、後世の人々からはあまり良い評価は得られていません。
「終わり良ければすべて良し」なら「終わりダメなら全てダメ」ってことなんでしょうねきっと!!(適当)
北条時政の評価がどうあれ、時政の作り上げた北条氏の地位は盤石になりつつあり、その礎は北条政子・義時に受け継がれ、鎌倉時代中期の北条氏による執権政治へと繋がっていくのです。
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