行基ってどんな人?そのエピソードや生涯をわかりやすく紹介【奈良の大仏と橋作って温泉も開いた伝説級ハイパー僧侶】

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今回は、奈良時代に大活躍した行基(ぎょうき)について詳しく紹介してみたいと思います。

 

 

行基は、奈良時代について知ろうとすると必ず登場する人物であり、次の2つの功績により民衆やその後の日本の歴史に大きな影響を与えてきました。

 

・飢えに苦しむ人々を助ける慈善事業や民の生活を支える公共事業を実施した日本史上でも屈指の社会事業家
・奈良の大仏で有名な東大寺の建立に多大な貢献をした

 

奈良市では、駅前に噴水と共に像が建てられるほど親しまれており、その存在がいかに大きいものか感じることができます。

 

 

行基についてはweb上の情報や文献が少なく、以下の本を参考にしながら記事をまとめてみました。

このシリーズはマニアックですが、人物を深く知るにはかなりの良書。

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行基の幼少期

行基は668年に生まれます。時代は飛鳥時代末期で、ちょうど天智天皇が即位したのと同じ年です。

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生まれた場所は、大阪府堺市にある今の家原寺。家柄は決して高くはありませんが、祖先は代々、朝廷に仕え記録や財政などの諸々の文書作成を担っていたのではないか・・・と言われています。

 

 

文書担当ですから父はそれなりに教養があったはずであり、行基が僧侶になる下地は十分に整えられていました。

 

 

それに加え、行基の血筋は朝鮮からの渡来人系であり、渡来人系の人々は、仏教信仰に熱心な人が多かったと言う事情もあります。この辺の事情は、600年ごろに蘇我氏と物部氏が対立した経過を知るとよくわかります。

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師匠、道昭(どうしょう)の存在

682年、青年になった行基は出家します。どんな動機があったかはわかりませんが、とにかく、行基は僧として生きることを目指したのです。

 

 

その時に行基の師匠となったのが道昭(どうしょう)という人物。

 

 

道昭は、唐に渡って仏教を学んだ僧侶で、その師匠はなんと玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)!!玄奘三蔵は、仏教界の2大翻訳家の一人。最遊記の題材ともなったとても有名な人物です。

 

 

道昭は700年頃に72歳で没しますが、晩年は各地で土木事業を行い、貧しい民たちの生活環境を整えます。

 

 

行基は偉大な社会事業家として後世に名を残しましたが、実はその師匠も晩年は社会事業に貢献していました。行基の社会事業は、おそらく師匠の事業を受け継いだものだと思われます。

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社会事業の内容

道昭が亡くなった翌年の701年、大宝律令が施行されます。

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大宝律令によって税制が整えられると、人々は重税に苦しむようになります。

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そして、これと呼応するかのように行基の社会事業が始まります。

 

 

具体的に行基が何をしたのかというと、その種類は実に多岐に渡り、

 

橋・道・池・溝・樋(とい)・船息(港のこと)などなど様々なものを各地に残しました。人々が田畑を耕し、収穫物を京へ運ぶ。そのお手伝いを行基はしていたわけです。

 

 

行基の事業は、全体的に見ると治水工事が多いです。これは道昭の事業を受け継いだためなんじゃないかと言われています。

 

 

というのも、師匠の道昭はそもそも船氏という一族であり、治水工事を得意とした一族だったのでは?と言われているからです。

 

 

708年になると、藤原不比等により平城京遷都の声明が発表されます。平城京への遷都は民衆たちの強制労働により行われ、人々はさらに苦しむようになります。

 

 

平城京での労働で人々が特に苦しんだのは、意外にも労働期間が終わってその帰路に着いた時でした。当時の平城京建設の流れはこんな感じでした。

 

朝廷「地方の役人(国司)たちよ、各地から●●名の労働者を集めろよな」

 

国司「ははーっ!」

 

〜地方にて〜

国司「郡司たち〜。君たちの集落から生きのいい労働者を▲▲人集めてこい。できなかったらどうなるかわかってんな?」

 

郡司「お、おう・・・」

 

選ばれた人たち「人生オワタ \(^o^)/」

 

国司「あっ、ちなみに平城京での労働は義務だから、お給料はでないからね。提供するのは生きるのに必要な食料ぐらいかなー。あと、行きも帰りの朝廷はなんの支援もしないから頑張って平城京まで来てね。途中で逃げ出したりしたら重い罰が課せられるから、辛くても逃げないで頑張ってね^^^^^^^」

 

選ばれた人たち「人生オワタ \(^o^)/」

 

 

平城京での強制労働は、行きも帰りも朝廷の支援はありません。行きは地元でしっかりと準備ができるからまだマシです。しかし、帰路の道だけは支援なしではどうしようもありませんでした。

 

 

強制労働でお給料もまともに貰えないわけですから、帰路は無一文で帰るわけです。ようやく強制労働を終えた人々は、その帰路で飢え死にするケースが後を絶ちませんでした。

 

 

朝廷もこれを問題視しますが、抜本的な解決策は見つけられません。そして、ここで活躍したのが行基でした。

 

 

行基は布施屋(ふせや)という建物を各地に建設します。布施屋は旅行者に食事を与えたり、休ませたりする施設です。ここで言う旅行者は、娯楽や趣味で旅行する者ではなく、もちろん平城京で働かされている人たちのことを言います。

 

 

布施屋は使役で苦しむ民だけでなく、税を京へ運ぶ運送屋の人たちにも嬉しい施設であり、行基は社会に大いに貢献することになります。

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行基、なぜか弾圧される

ところが行基は、次第に朝廷から弾圧されるようになり、717年頃になると本格的な弾圧が始まりました。

 

 

数々の実績を持つ行基は、なぜ弾圧されたのでしょうか・・・。

 

 

その理由は、僧侶としての行基の振る舞いにあります。701年に定められ大宝律令の中に、僧侶について規定を定めた僧尼令(そうにりょう)と言う法律があります。

 

その法律の中に以下の条文があり、行基はこの規定に違反したのです。

 

僧侶は民たちに布教活動をするのなら、僧侶の地位を捨てて行うこと。

 

一見、意味不明な内容ですが、これは今と昔で仏教のあり方が大きく違うからです。当時の仏教は国を守るために信仰されるものであり、人々の心の支えとして信仰されるものではありませんでした。(仏教には国を守る力があると信じられていた。)

 

 

国のために働く選ばれた僧侶たちは、その代わりとして重い税を免除されました。つまり、民に仏教が広がり僧侶になる者が増えてしまうと国の税収が減ってしまうので、民への布教活動などあってはならないわけです。

 

 

当時の僧侶は国の許可制だったので、行基が布教活動をしただけですぐに僧侶が激増するわけではありませんが、僧侶になろうとする者が増えるだけでも国にとっては不都合だったわけです。

 

 

720年には、公験(くげん)と呼ばれる僧侶の身分証明書まで発行され、僧侶身分の確認が厳格化されるようになりました。これは人々の間で僧侶の身分を偽って名乗る者が増えたことを意味しており、その諸悪の根源が行基だと考えられていたのです。

 

 

しかし、当事者である行基は弾圧を無視し、民への布教活動と社会事業を継続しました。(社会事業は減った時期もあった)行基には、後の浄土宗につながるような大乗仏教的な思想があったらしく、決して自分の信念を曲げることはありませんでした。

 

 

「大乗仏教的な思想」と言うのは、「誰でも仏教を信じれば救われる!」って考え方。行基は、後に登場する空也や法然たちの大先輩に当たります。

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行基、東大寺の勧進(かんじん)を始める

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当時は官僚の反乱(藤原広嗣の乱)や地震、飢饉などで国が大きく乱れており、聖武天皇は仏教の力で国を守ろうと考えたのでした。

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そして、聖武天皇はこんなことを考えます。

 

聖武天皇「ただ官僚に大仏造立を命じるだけでは、民たちに強制労働を強いることになる。それでは駄目だ。それでは民たちに仏の素晴らしさが伝わらない。一人一人は一握りの土を掴むほどの力であっても、みんなの積極的な協力によって大仏を造りたいのだ。」

 

 

僧尼令で民への布教を禁止しておきながら、何言ってんだこいつ・・・って感じですが、聖武天皇は特に仏教への思いが強い天皇なのでそこはあえてスルーしておきましょう。(実際に僧になる条件が緩和されたりもしてたらしい)

 

 

しかし、聖武天皇の願いも虚しく、大仏造立には大きな問題が立ちはだかります。その問題とは圧倒的な人手不足!!

 

 

聖武天皇が何を言おうが、民からすれば結局は強制労働と変わらないわけで、綺麗事だけで人が集まるわけがありません。誰がどう見ても古代版やりがい搾取です。「ありがとう」を集めれれば、お給料なんかなくても働けるとか言う某ワタ◯社長の言ってることと同じ。

 

 

ここで、大活躍したのがまたまた行基でした。

 

 

740年代にもなると、行基の公共事業の業績が認められ、次第に弾圧が弱まっていました。・・・というか、大仏造立の話になると途端に朝廷側から行基により寄ってきます。

 

 

「行基さんお願い!その人望を使って人手を集めてくれませんか!!!」

 

 

行基はこれを了承。行基が呼びかけるとあっという間に人が集まったと言われています。行基は、大仏造立に多大なる貢献をしたことから大僧正(だいそうじょう)と言う僧侶の中で一番高い位までもらいました。

 

弾圧されていた頃と比べると待遇が一変しています。

 

そして749年、行基は大仏の完成を見ることなく他界してしまいます。81歳という長寿を全うしました。

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まとめ

以上、行基の生涯をまとめてみました。

 

行基は畿内を中心に活動をしており、今でも各地に行基にまつわる伝説がたくさん残されています。1つ1つは説明できませんが、寺院に関しては600寺院以上が行基由来の寺院だと言われ、そのほか、港・温泉・池など多岐に渡って行基由来と伝えられるものが残されています。

 

 

伝説なので全てが本当かはわかりませんが、1000年以上も前の人物に関してこれほど大量の伝説が残っているというのは、当時、行基がいかに民衆から慕われていた人物だったか・・・ということをはっきりと物語っています。民衆人気で言ったら、聖徳太子に匹敵するほどだと思います。

 

 

民衆人気で言えば、「行基がとある町を訪れると、人が行基のところに殺到し、町から人がいなくなってしまった」なんて逸話も残されています。

 

 

ここまで行基のことを知れば、近鉄奈良駅前に銅像が立っているのも納得です。そして、弾圧に負けずに信念を貫き、民衆の生活を支え続けた行基の姿勢には学ぶべきところが多くあります。私個人的に、行基の生き方や姿勢はとても好きです。奈良に観光に行く機会があれば、ぜひ行基像が置いてある東大寺の行基堂にも行ってみてください!(最後になぜか宣伝w)

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この記事を書いた人
もぐたろう

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