今回は、六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)について紹介します。
まず、六波羅蜜寺の場所について。
六波羅蜜寺は、清水寺と建仁寺の間にあります。有名なお寺に挟まれているせいなのか、若干マイナーなお寺になってしまっています。さらに、六波羅蜜時は非常に小さいお寺で住宅街の中にあります。
小さなお寺ですが、とても魅力的なお寺なのでその歴史と見所について紹介してみることにしました。
六波羅蜜寺の創立者は空也上人
六波羅蜜寺を創立したのは空也上人(くうやしょうにん。以下、単に「空也」と書きます!)という僧です。平安時代である951年に建てられました。
六波羅蜜寺には、空也の像が安置されています。
上の写真が空也上人像です。六波羅蜜寺はマイナーですが、この像は結構有名です。見たことある人も多いのではないでしょうか。もちろん、六波羅蜜寺に行けば実物を見ることができます。この像が一番の見所なんじゃないかと個人的にも思っています。
この空也という人物。像になるだけあって、日本の仏教に大きな影響を与えた凄い人物なんです。
今回は、空也という人物に力点を置いて、解説をしてみます。
空也は民に仏教を普及させた功労者
空也のポジションは、奈良時代の行基(ぎょうき)という僧のポジションに非常に似ています。
詳しく説明していきます。
僧は本来は公務員だった
当時の日本における仏教僧というのは、今でいう公務員でした。国(朝廷)に認められて初めて僧として認定を受けることができたのです。
奈良~平安時代の仏教というのは、現代のように多くの人々に普及しているものではありませんでした。あくまで、「仏教の力で国を護るぞ!」というスローガンの下、朝廷主導で仏教の信仰をしていました。
そのため、仏教を信仰する人々というのは朝廷で政治に従事するいわゆる貴族たちが中心でした。
しかし、そんな国に統制された仏教に疑問を覚え、国の意向を無視して自ら民に仏教の教えを広めようとする人々がいました。それらの人々は、当時の仏教界では異端ともいえる存在です。
そんな先駆的な試みをした最初の人物が、奈良時代の行基という人物。
※行基の話は、面白いのですがここでは話が逸れてしまうので省略します。詳しくは、学校では教えてくれない行基の話-東大寺大仏造立へ-【聖武天皇】4/4という記事で紹介していますので、気になる方はこちらをどうぞ。
そして、平安時代に行基と同じように朝廷の意に反して、自ら民に仏教を布教し、社会貢献や公共事業(橋を造ったりとか)を通じて民を助け続けたのが空也でした。
皮肉にも国の意向を無視した僧たちのおかげで、民に仏教が行き渡ることになったわけですね。
念仏の始まり
空也は、念仏の祖と考えられています。念仏にもいろいろあって、厳密には言葉で声に出して唱える口称念仏の祖です。(細かい話は省略します。)
念仏で有名なのは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」。聞いたことがある人も多いと思います。空也は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら、多くの人を助けました。
南無阿弥陀仏の意味
南無阿弥陀仏という念仏にはちゃんとした意味があります。
「南無」は「助けてください・救ってください」
「阿弥陀仏」は阿弥陀仏という仏様の名前です。
つまり「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀様、どうか私を救ってください(極楽浄土へ連れて行ってください)」という意味です。
この念仏というのが、日本の仏教へ大きな影響を与えていきます。
信じて念仏するだけで救われる
難しい話は省略しますが、奈良~平安時代の仏教は、厳しい修行を行い、難解な経典を理解しなければブッダ(お釈迦様)のように悟りを開き救われることはないという考え方が主流でした。
しかし、空也の念仏は違います。「南無阿弥陀仏」と唱え、阿弥陀仏のことを信じれば、阿弥陀仏が救いに来てくれるというものでした。
空也の念仏は、阿弥陀仏を信じて念仏を唱えるだけで良いので、広く民衆に広がっていくことになります。
末法思想
空也が活躍したのは、おおざっぱに950年~970年ぐらい。
世の中では1050年頃になると「どれだけ修行とかを頑張っても悟りを開けなくなってしまう」という末法時代に突入すると言われていました。
末法とは、ブッダ(お釈迦様)が亡くなってから2000年経つとお釈迦様の教えが人々に行き渡らなくなってしまうため、人々は悟りを開くことができず救いのない時代になってしまうという仏教における思想の1つです。
1050年頃は、ちょうどブッダが亡くなってから2000年と考えられていました。
末法の世に救いの手を差し伸べた念仏
こうして、困苦のないお釈迦様の世界へ行く望みを絶たれ、多くの人が絶望する中、念仏は脚光を浴びることになります。
なんせ念仏は、「阿弥陀仏を信じて念仏を唱える」だけで、阿弥陀仏が救いに来てくれるのです。阿弥陀仏が救ってくれるかどうかという点については、末法とは関係のないことだったのです。
このように、空也が行っていた「南無阿弥陀仏」の念仏は、空也が亡くなって少し経った1050年頃から爆発的に人気が出てきます。まさに空也は時代を先取りしていたことになります。
また、当時は末法思想を抜きにして疫病の流行や重い納税で失望する人たちも多かったため、念仏人気にさらに拍車がかかりました。
この末法思想に強く影響を受けて建てられたお寺が、10円玉で有名な平等院鳳凰堂です。平等院鳳凰堂は阿弥陀仏の住んでいる救いのある世界「極楽浄土」を表現していると言われています。平等院鳳凰堂について気になる方は
をご覧ください。
浄土信仰の始まり
そして、日本の仏教全体も末法を迎え転換期を迎えます。
末法では、お釈迦様の教えが行き渡らないので、悟りを開き困苦の世界から救われることはあり得ません。
このような事情があるので、そもそも日本の仏教全体が、阿弥陀仏信仰にシフトしていく傾向がありました(すべてではありませんが)。阿弥陀仏の救いこそが、末法における一抹の希望だったのです。
阿弥陀仏信仰というのは、阿弥陀仏に救いの手を差し伸べてもらって阿弥陀仏の住んでいる極楽浄土を目指すこと言います。(厳密には、阿弥陀仏の住む世界だけが極楽浄土ではありませんが、詳しい話は省略!)
こうして、鎌倉時代になると極楽浄土を目指して様々な宗派が生まれてきます。
浄土宗・浄土真宗
浄土宗は、法然という人物が創設した宗派です。「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土へ行けるというシンプルな信仰が多くの民を惹きつけました。
時宗
一遍という人物が創設した宗派。念仏を唱えるだけではなく、踊りながら念仏を唱える「踊念仏(おどりねんぶつ)」が重要だと説きました。
時宗の踊念仏は特に空也の念仏の影響を強く受けたと言われています。上の空也像の写真を見てみるとお腹に小太鼓を持っているのがわかります。空也が踊念仏をしていたかは謎ですが、それに近い行為をしていたことは間違いなさそうです。
空也はこのような阿弥陀仏信仰の先駆け的な存在というわけです。
まとめ
六波羅蜜寺の話があまりできませんでした(汗
末法思想という日本仏教の大転換期に広く仏教を普及し、念仏を通して阿弥陀仏信仰を先駆けして行ったのが空也で、その空也が建てたお寺が六波羅蜜寺です。
今回は、創立者である空也の話を中心にしました。次の記事で、六波羅蜜寺時代について紹介したいと思います。
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