東大寺の穴場スポット行基堂を観光しよう!【東大寺生みの親、行基のことを知ろう!】

今回は、東大寺の行基堂(ぎょうきどう)について紹介します。

 

 

東大寺と言えば奈良の大仏が有名ですが、実は奈良の大仏のさらに奥に進むと大仏以外にもたくさんの観光スポットがあります。しかも、ほとんどの人は奈良の大仏までしか足を運ばないので、かなりの穴場スポットになっています。

 

 

今回紹介する行基堂はそんな東大寺の穴場スポットの1つです。

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日本屈指の社会事業家、行基(ぎょうき)

行基堂は、行基という僧侶を祀る建物。・・・というわけで、まずは行基について簡単に紹介しておきます。

 

 

行基は、奈良時代に活躍した僧侶で、イメージとしては「日本版マザーテレサ」を想像してもらえるとわかりやすいです。

 

 

行基は、各地に布施屋(ふせや。困窮者や旅路で飢えているものを助ける施設)を建設し、それに加え、各地で橋の建設や治水工事など人々のための慈善活動を続けた僧侶です。

 

 

活躍した時代は、ザックリと700年代前半。当時がどんな時代だったかというと、膨大な量の公共工事により民は重税に苦しみ、強制労働に疲弊していた時代でした、

 

当時の大きな公共事業を年表にまとめるとこんな感じ。

710年:平城京遷都
741年:各地に国分寺、国分尼寺の建立開始
743年:東大寺建立開始!
741年〜744年:三回の遷都。恭仁京、紫香楽宮、難波宮

 

 

この中で別格な規模だったのが、平城京遷都。「なんと(710年)綺麗な平城京」で有名な平城京ですが、実は710年には天皇の住処が完成した程度で、710年以降も開発が続いていたと言われています。

 

 

朝廷がどうやって平城京を建設したかというと、地方の人々を集めて、平城京で強制的に働かせる形で建設を進めました。

 

 

地方から京に送り込まれた者の中には逃げ出すものがいたり、京と地方の往復中に餓死する者も多くいました。

 

 

特に餓死者が多かったのは強制労働後の帰路だったそうです。

 

行きは出発のための準備ができるのでまだマシでしたが、帰路は朝廷からの支援もほとんどなく、強制労働でボロボロになったまま、無一文の状態で京を出なければなりませんでした。

 

 

行基は、そんな事情をちゃんと理解していたからこそ、帰路で苦しんでいる人々のために布施屋を作ったと言われています。

 

 

こうした活動を続けているうちに、次第に行基を慕う人が増え、行基はの周りには大きな集団が形成され、行基の影響力は朝廷ですら無視できない存在になっていきます。

 

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東大寺の生みの親、行基

慈善活動を続けていた行基は、一時期、朝廷から弾圧を受けていました。

 

当時の仏教は、国(朝廷)のために信仰されるものであり、むやみやたらに民に仏教を教えるのは法律で禁止されていました。そして行基は、慈善活動を通じて民に布教を行ったとして、弾圧されてしまったわけです。

 

背景には、当時の僧侶は税金免除となっていたので、民に布教をされて僧が増えると困ってしまう・・・という財政事情もあったりします。

 

 

しかし、東大寺の建立の話になると朝廷は圧倒的な人手不足問題に直面し、頭を悩ませることになり、そこで注目されたのが巨大集団を率いている行基の存在。

 

 

行基は多くの人材を持ち、おまけに建築技術のノウハウまで持っています。おまけに民への布教が違法だったとしても、行基のやっていること(布施屋建設や治水工事)は現代で言う公共事業であり、本来なら国が担うべき仕事でもありました。

 

 

朝廷としても、行基の布教活動には否定的でしたが、その他の治水工事などの活動についてはむしろ歓迎する立場にあります。

 

 

そんな事情もあって、朝廷はこれまでの弾圧の態度を一変し、行基を東大寺建立の総監督に任じました。

 

 

東大寺に行基を祀る建物があるのはこの辺の事情によるものです。

 

 

行基率いる集団が東大寺建立に加わると、工事スピードが桁違いに上がったと言われており、行基は東大寺の建設のため無くてはならない存在となっていきます。当時、行基は高齢であり、現場で直接携わることはなかったと思いますが、その人望の厚さから人々の精神的支柱になっていたのだと思います。

 

 

745年には大僧正(だいそうじょう)という僧侶の中で一番高い身分まで与えられて、名実ともに行基は最高の僧侶となりました。

 

 

 

そして751年、奈良の大仏が遂に完成し、大仏開眼の儀が盛大に行われます。その圧倒的な貢献度から行基が、主役に抜擢されても不思議ではありませんが、その場に行基が姿を見せることはありませんでした。

 

 

行基は749年に大仏の完成を見る前に亡くなっていたからです。81歳という長寿を全うしたと言われています。大仏の完成を見れなかったことは、行基にとって大きなの心残りになったことでしょう。あと2年、長生きできていれば・・・。

 

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行基堂で行基像を見てみよう

以上、行基についてはサッと紹介してみました。

 

まとめると、

 

日本史上屈指の慈善事業家!社会福祉のプロ。
弾圧の中、民衆に布教活動を仏教にも多大な貢献をした。民間信仰の先駆者で、後に法然が開く浄土宗へとつながっていく。
東大寺建立の立役者!行基無くして東大寺なしと言っても過言でない。しかし、本人は大仏の完成前に亡くなってしまう。

 

で、そんな僧としても事業家としても優秀だった行基はのご尊顔がこちら。

厳しさと優しさの両方を兼ね揃えたそんな感じの表情をしています。

 

 

 

ちなみに、この行基堂は元々は重源(ちょうげん)と言う僧侶の坐像が安置されていたお堂みたいです。

重源は、源平合戦で焼尽した東大寺を再興した僧侶。以下の記事で紹介しています。

東大寺を再興した重源を簡単にわかりやすく紹介するよ!【逸話や建築様式など】
(出典:wikipedia「重源」、Author:b_mode68) 今回は、源平合戦で灰燼に帰した東大寺を見事に復興させた重源(ちょうげん)という僧侶について紹介します。 東大寺に観光に行くのなら東大寺...

 

 

行基は奈良では超有名人でそのご尊顔は、近鉄奈良駅でも見ることができます。

【近鉄奈良駅前の行基像】

 

 

今もなお多くの人々に愛され続ける行基。行基の福祉の精神からは、現代の我々にとっても学ぶべきことが多くあるように思います。



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