院政とは?わかりやすく解説〜院近臣・院宣・院庁下文の違いまで〜

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もぐたろう
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今回は院政について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!院近臣・院宣・院庁下文の違いまで全部まるっと説明するから、テスト前にも教養として読みたい人にも役に立つよ!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
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この記事を読んでわかること
  • 院政とは何か・いつ・誰が始めたか
  • 院近臣(いんのきんしん)の読み方と意味
  • 院宣と院庁下文の違い
  • 白河・鳥羽・後白河法皇の時代の流れ
  • 摂関政治との違いと院政が終わった理由

「院政」と聞くと、天皇を退位した老人がこっそり政治をしていたというイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。

しかし、実は院政は日本史上もっとも強力な権力形態の一つでした。天皇でも摂関政治を牛耳った藤原氏でも逆らえない——“法皇の一言”が国を動かした時代が、約250〜300年にわたって続いていたのです。

院政とは?3行でわかるまとめ
  • 院政とは、天皇を退位した上皇・法皇が政治の実権を握る政治形態のこと
  • 1086年白河天皇しらかわてんのうが退位後も実権を持ち続けたことで始まった
  • 平安末期〜南北朝時代にかけて実質的な権力形態として続き、摂関政治に代わる権力の中心となった

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院政とは?わかりやすく説明

院政(いんせい)とは、天皇の位を退いた上皇(じょうこう)や法皇(ほうおう)が、新しい天皇に代わって政治の実権を握る仕組みのことです。

※上皇=退位した天皇のこと。法皇=出家した上皇のこと。どちらも天皇ではないが、大きな権力を持ち続けました。

もぐたろう
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ざっくり言うと、「引退した天皇が、裏で政治を動かし続けた」っていうことだよ。今でいえば、退任した社長が”会長”として会社を牛耳っているイメージに近いね!

院政が始まったのは1086年白河天皇しらかわてんのうが息子の堀河天皇ほりかわてんのうに位を譲りながらも、自ら政治の実権を手放さなかったことがきっかけです。

以後、白河法皇は43年間にもわたって政治を動かし続けました。天皇でも、当時もっとも力のあった藤原氏でも、白河法皇には逆らえなかったと言われています。

白河法皇
白河法皇

天下で朕の思い通りにならぬものは3つだけじゃ——賀茂川の水と、双六の賽(さい)と、山法師。それ以外は、全て朕の意のままよ。

「天下三不如意」——賀茂川の水(洪水)・双六の賽(サイコロの目)・山法師(延暦寺の僧兵)。白河法皇が「この3つだけは自分にもどうにもできない」と語ったとされる有名な逸話です。裏を返せば、それ以外の全てを思い通りにできるほどの絶大な権力を持っていたということです。

白河天皇の肖像画
白河天皇(のちの白河法皇)の肖像画(出典:国立国会図書館蔵 / パブリックドメイン)

なぜ院政が始まったのか?─摂関政治からの脱却─

院政が始まった背景には、それまで日本の政治を支配していた摂関政治の行き詰まりがありました。

摂関政治とは、藤原氏が天皇の外戚がいせき(母方の親族)となり、摂政せっしょう関白かんぱくの地位を独占することで政治を牛耳る仕組みでした。

もぐたろう
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摂関政治は、簡単に言うと「天皇のお嫁さんのお父さんが、政治のトップに立つ」っていう仕組みだよ。藤原道長の全盛期がまさにそれだね!

しかし、藤原氏の全盛期を築いた道長・頼通よりみちの時代が過ぎると、藤原氏は天皇の外戚になれなくなっていきます。つまり、嫁がせる娘がいなくなったのです。

そこに登場したのが、藤原氏の血を引かない天皇でした。

■後三条天皇の登場と荘園整理令

1068年に即位した後三条天皇ごさんじょうてんのうは、170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇でした。

男性疑問キャラ
生徒

外戚じゃない天皇が出てきたってこと?それってかなり大事件じゃない?

もぐたろう
もぐたろう

そう!後三条天皇は藤原氏の外孫じゃなかったから、藤原氏に遠慮せずに改革ができたんだ。これが摂関政治の終わりの始まりだよ!

後三条天皇は即位するやいなや、1069年延久の荘園整理令えんきゅうのしょうえんせいりれいを発布。さらに記録荘園券契所きろくしょうえんけんけいじょ(記録所)を設置して、藤原氏を含むすべての貴族の荘園しょうえんを厳しく審査しました。

これは藤原氏の経済基盤を直撃する政策であり、天皇が藤原氏に頼らずに自ら政治を動かせることを証明した画期的な出来事でした。

後三条天皇の肖像画
後三条天皇の肖像画(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン)

■白河天皇の決断─1086年、院政開始─

後三条天皇の意志を引き継いだのが、息子の白河天皇です。

1086年、白河天皇はわずか8歳の息子・堀河天皇ほりかわてんのうに位を譲ります。しかし、退位した白河天皇(以降「白河上皇」→のちに出家して「白河法皇」)は、政治の実権を手放しませんでした

なぜ天皇のまま政治を続けなかったのか?

天皇のままでは、摂政・関白や太政官(律令制度)のルールに縛られてしまいます。しかし上皇は天皇と違って律令の枠外の存在でした。つまり、退位したほうが自由に政治ができたのです。

もぐたろう
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「天皇を辞めたほうが強くなる」って、すごく不思議だよね。でも、ルールに縛られない立場になることで、摂関家も太政官も関係なく命令を出せるようになったんだ。これが院政の最大の強みだよ!

摂関政治 vs 院政─何が変わったのか?

摂関政治と院政は、どちらも「天皇に代わって別の人物が政治を行う」という点では共通しています。しかし、その仕組みには根本的な違いがありました。

比較項目摂関政治院政
権力者摂政・関白(藤原氏)上皇・法皇(天皇の父や祖父)
権力の根拠天皇の外戚(母方の親族)天皇の父・祖父としての家長権
制度上の位置律令制度の枠内(摂政・関白は官職)律令制度の枠外(上皇は官職でない)
財政基盤藤原氏の荘園院分国・知行国制・成功
軍事力なし(検非違使に依存)北面の武士(院独自の軍事力)
全盛期11世紀前半(藤原道長・頼通)11世紀末〜12世紀(白河・鳥羽・後白河法皇
もぐたろう
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摂関政治は「嫁の父が政治を仕切る」パターン。院政は「引退した天皇が政治を仕切る」パターンだよ。大きな違いは、院政は律令の枠外にいること。だからルールに縛られずに強力な権力を振るえたんだ!

特に重要なのが、軍事力を自前で持った点です。摂関政治では藤原氏に独自の軍事力はありませんでしたが、白河法皇は北面の武士ほくめんのぶしという独自の武力を設置しました。これにより、院政は「お願い」ではなく「命令」で政治を動かせるようになったのです。

院庁とは?─院政を支えた組織─

院庁の組織図(縦型ツリー):上皇・法皇→院庁(院別当・院司)→院近臣・北面の武士の3層構造
院政の組織図:上皇を頂点に院庁・院近臣・北面の武士が権力を支えた(まなれきドットコム作成)

院庁いんのちょうとは、上皇・法皇の政務を処理するための組織のことです。

院庁ってなに?

院庁は、もともと上皇の家政機関(私的な事務組織)でした。しかし院政が始まると、国家の政治を動かす事実上の政府としての役割を担うようになりました。今でいえば、退職した大統領が設けた「影のホワイトハウス」のようなイメージです。

院庁には院司いんしと呼ばれるスタッフが配置されました。その中でもトップの院別当いんのべっとうは、院庁の実務を統括する重要な役職でした。

男性疑問キャラ
生徒

院庁って、朝廷の太政官だいじょうかんとは別の組織ってこと?

もぐたろう
もぐたろう

その通り!太政官は天皇の正式な政府機関だけど、院庁は上皇の私的な組織。でも院政の時代には、院庁のほうが太政官より上の権力を持っていたんだ。だから「影の政府」って呼ばれるんだよ。

■院庁が出す文書の種類

院庁から発給される文書には主に2種類がありました。院宣院庁下文です。どちらも上皇の意思を伝える文書ですが、その形式と権威には違いがあります。

この2つの違いは次のH2で詳しく比較しますが、ざっくり言えば「院宣=上皇の直々の命令」「院庁下文=院庁を通じた公式文書」という違いです。

院近臣とは?読み方・意味をわかりやすく

院近臣いんのきんしんとは、上皇・法皇のそばに仕えて信頼を受けた側近のことです。読み方は「いんのきんしん」です。

※「近臣(きんしん)」とは、権力者のそばに仕える信頼の厚い家臣のこと。「院の近臣」で、上皇に仕える側近を指します。

院近臣は、朝廷の正式な官僚組織とは別に上皇に直接仕えた人たちで、出身家柄にかかわらず能力と上皇との個人的な関係で抜擢されるのが特徴でした。

■院近臣の役割と構成

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生徒

院近臣ってどんな人たちだったの?貴族?武士?

もぐたろう
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両方いたんだ!中・下級貴族が多かったけど、武士も含まれていたよ。朝廷の正式な出世ルートとは別に、上皇に気に入られれば大出世できる「裏ルート」ができたんだね。

院近臣の中には、院司いんし(院庁の事務スタッフ)として院庁の運営を担う者や、地方の受領ずりょう(国の長官)に任命されて上皇の財政を支える者がいました。

彼らにとって院近臣になることは、名門貴族でなくても権力と富を手にできる絶好のチャンスでした。そのため、上皇のもとには有能な人材が集まりやすくなり、院政の権力基盤をさらに強固にするという好循環が生まれたのです。

■北面の武士─院の軍事力─

北面の武士ほくめんのぶしとは、白河法皇が院御所の北面(北側)に設置した武士団のことです。上皇の身辺警護を目的としましたが、実質的には院の独自の軍事力としての役割を果たしました。

もぐたろう
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北面の武士は、上皇専属の警備チームみたいなものだよ。のちの平清盛の父・平忠盛たいらのただもりも北面の武士だったんだ。ここから武士が政治の表舞台に出てくる流れが始まるんだよ!

摂関政治の時代には、藤原氏に独自の武力はありませんでした。しかし院政では、北面の武士という直属の武力を持つことで、上皇は物理的にも逆らえない存在となったのです。

■院司・院宮王臣家との違い

院近臣と似た用語に院宮王臣家いんぐうおうしんけがありますが、意味が異なるので注意が必要です。

院宮王臣家は、上皇・皇后・皇族・有力貴族といった特権的な「家」そのものを指す言葉です。これらの家は荘園を多く持ち、税の免除(不輸ふゆ)や国の役人の立入拒否(不入ふにゅう)の特権を持っていました。

一方、院近臣は上皇に個人的に仕える「人」を指します。院宮王臣家は「特権を持つ家の集合」、院近臣は「上皇の側近チーム」——この違いを押さえておきましょう。

院宣と院庁下文の違い─どちらが上位?

院庁から出される文書には、院宣いんぜん院庁下文いんのちょうくだしぶみの2種類があります。どちらも上皇の意思を伝える文書ですが、形式・権威・用途が大きく異なります

院宣(いんぜん)とは?
上皇の意思を、院近臣が奉書(代筆文書)の形で伝えるもの。上皇の言葉を「直々に伝える」という格式の高い文書です。

院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)とは?
院庁が正式な手続きを経て発給する公文書。院司が連署して出すため、「組織としての決定」という意味合いが強い文書です。

比較項目院宣院庁下文
発給者院近臣が上皇の言葉を代筆院庁(院司が連署)
形式奉書形式(「上皇仰せによりて…」)下文形式(院庁名義の公文書)
権威・格式高い(上皇の直接的な意思)院宣より低い(組織的な決定)
主な用途重要な政治的命令・人事決定荘園関係の裁定・日常的な行政事務

男性疑問キャラ
生徒

院宣と院庁下文って、結局どっちが格上なの?

もぐたろう
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院宣のほうが格上だよ!院宣は「上皇が直々にこう言っている」という意味だから、院庁下文よりもはるかに重い命令なんだ。院政が強力になると、院宣は天皇の勅命(ちょくめい)よりも力を持つことさえあったんだよ。

院政の全盛期には、院宣の効力は天皇の宣旨せんじ太政官符だいじょうかんぷをも凌ぐことがありました。これは、律令制度の外にいる上皇が、制度の内にいる天皇よりも強い権力を持っていたことを端的に示しています。

院政の財政基盤─知行国制と成功(じょうごう)─

院政がこれほど強力な権力を持てた背景には、独自の財政基盤がありました。その2本柱が知行国制ちぎょうこくせい成功じょうごうです。

■知行国制・院分国(いんのぶんこく)

知行国ちぎょうこくとは、特定の有力者が国の支配権(収益を得る権利)を持つ制度のことです。上皇が知行国主となった国を、特に院分国いんのぶんこくと呼びました。

もぐたろう
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院分国っていうのは、上皇が「この国の税収は自分のものにする」って決められる制度だよ。今でいうと、地方の利権を直接握るようなイメージだね!

院分国の知行国主(上皇)は、その国の国司こくしを自分の関係者から指名できました。これにより、国の税収を事実上自分の財布に入れることができたのです。

白河法皇の時代には院分国の数は8国ほどでしたが、鳥羽法皇の時代には30国以上にまで拡大したと言われています。全国66国のうち半数近くが院分国になったことになります。

■成功(じょうごう)と重任

成功じょうごうとは、官職や国司に任命してもらう見返りとして、宮殿・官衙の修繕費用や寺社の造営費など、本来朝廷が負担すべき公共事業費を私費で肩代わりする制度です。

※「成功」は現代の「せいこう」とは違い、「じょうごう」と読みます。テストで読み方が出ることがあるので注意しましょう。

また、国司の任期が終わったあとに再任されることを重任ちょうにんと呼びます。重任を望む者は、やはり費用を負担する見返りとして再任を認められました。

もぐたろう
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成功と重任を簡単に言うと、「お金を出せば役職がもらえる仕組み」だよ。上皇にとっては、人事権を使ってお金を集められるわけだから、とても強力な財源になったんだ。

このように、院政は知行国制(地方の税収)+成功・重任(人事権からの収入)という二つの柱で膨大な財政力を確保しました。この経済力があったからこそ、白河法皇は43年にもわたって権力を握り続けることができたのです。


院政三代─白河・鳥羽・後白河法皇

院政は、白河・鳥羽・後白河という3人の法皇によって約100年にわたって続けられました。

それぞれの時代で院政のスタイルは少しずつ異なり、やがて武士の台頭によって大きな転換点を迎えることになります。

もぐたろう
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ここからは3人の法皇を1人ずつ見ていくよ。それぞれ個性的で、院政の変遷がよくわかるんだ!

■白河法皇(1086〜1129年)─院政の創始者─

白河天皇しらかわてんのうは1086年に8歳の堀河天皇ほりかわてんのうに譲位し、自らは上皇として政治の実権を握り続けました。

これが院政の始まりです。

白河上皇はその後出家して法皇となりましたが、政治権力はまったく衰えませんでした。堀河天皇ほりかわてんのう鳥羽天皇とばてんのう崇徳天皇すとくてんのうの3代にわたって院政を続け、その期間はなんと43年間にもおよびます。

白河法皇は北面ほくめんの武士を設置して軍事力を確保し、院近臣いんのきんしんを通じて朝廷全体を支配する体制を築きました。

また、仏教への帰依も深く、法勝寺ほっしょうじをはじめとする六勝寺ろくしょうじを次々と建立したことでも知られています。

白河法皇は「天下三不如意」(賀茂川の水・双六の賽・山法師)という言葉で有名ですが、これは裏を返せば「それ以外は全て思い通りにできた」ということ。それほど強大な権力を握っていたのです。

■鳥羽法皇(1129〜1156年)─院政の最盛期─

1129年に白河法皇が崩御すると、今度は鳥羽上皇とばじょうこうが院政を引き継ぎました。

鳥羽法皇の時代は、院政の経済的基盤が最盛期を迎えた時代です。知行国ちぎょうこく制や成功じょうごうによって莫大な財力を蓄え、多くの荘園を集積しました。

しかし、鳥羽法皇の治世には暗い影もありました。息子である崇徳天皇との確執が深まり、崇徳天皇を退位させて近衛天皇このえてんのうを即位させるなど、皇位継承をめぐる対立が表面化していきます。

この対立が、やがて保元の乱(1156年)という武力衝突へとつながっていくのです。

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生徒

鳥羽法皇と崇徳天皇って親子なのに対立してたの?

もぐたろう
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そうなんだ。鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子(しはらこ)」と呼んで冷遇していたという話が伝わっているよ(出典は100年以上後に書かれた『古事談』で、真偽は不明とされているんだけど)。この確執が保元の乱という武力衝突に発展してしまったんだ。

■後白河法皇(1158〜1192年)─武士の時代への転換点─

1156年の保元の乱の後、後白河天皇ごしらかわてんのうが即位し、1158年に譲位して院政を開始しました。

後白河法皇の時代は、白河・鳥羽の時代とは大きく異なります。保元の乱・平治の乱(1159年)を経て、武士の存在が政治の表舞台に登場したのです。

後白河法皇は平清盛たいらのきよもりと協力関係を結びましたが、やがて対立。その後は源頼朝みなもとのよりともとも駆け引きを繰り広げるなど、武士勢力の間を巧みに渡り歩きました。

しかし、源頼朝守護・地頭を設置(1185年)し、鎌倉幕府の基盤を固めると、院政の実質的な権力は大きく衰退していきます。

1192年に後白河法皇が崩御すると、院政は事実上の終わりを迎えました。

院政はなぜ終わったのか?─武士の台頭と鎌倉幕府─

長期にわたって続いた院政は、なぜ終焉を迎えたのでしょうか。

その最大の原因は、武士の台頭です。

白河法皇が北面の武士を設置したように、院政はもともと武士の力を利用することで成り立っていました。しかし、その武士が次第に独自の力をつけ、やがて政治の主導権を握るようになったのです。

院政が終わった流れ

保元の乱(1156年)では、天皇方・上皇方の両陣営が武士の力を借りて戦いました。これにより、政治的対立を武力で解決するという前例ができてしまいます。

続く平治の乱(1159年)を経て、平清盛たいらのきよもりが権力を掌握。清盛は太政大臣だいじょうだいじんにまでのぼりつめ、一族で朝廷の要職を独占しました。

その後、治承・寿永の乱(源平合戦)で平氏が滅亡すると、源頼朝が1185年に守護・地頭を設置。武家政権(鎌倉幕府)が日本の政治の中心となりました。

もぐたろう
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院政→武家政治への流れは「権力のバトンタッチ」って感じだね。でもこのバトンタッチは平和的じゃなかった…。戦乱の中で生まれた新しい政治体制が鎌倉幕府なんだよ。

こうして、日本の政治の中心は朝廷(院政)から武士(幕府)へと移り変わっていったのです。

なお、院政そのものは鎌倉時代以降も形式的には続いていますが、実質的な政治権力を持つものではなくなりました。承久じょうきゅうの乱(1221年)で後鳥羽上皇ごとばじょうこうが幕府に敗北したことが、院政の最終的な権威失墜を決定づけました。

テストに出るポイント

テストに出やすいポイント
  • 院政の開始:1086年・白河天皇が始めた
  • 院近臣(いんのきんしん):上皇の側近。身分が低くても登用された
  • 北面の武士:白河法皇が設置した上皇の警護部隊
  • 院宣と院庁下文の違い:院宣=上皇が直接出す命令、院庁下文=院庁が出す文書
  • 知行国制・成功(じょうごう):院政の財政基盤を支えた制度
  • 後三条天皇:延久の荘園整理令を出し、院政の前提を作った
  • 保元の乱(1156年)で武士が政治に登場→院政衰退のきっかけ

テストでは「院政を始めた人物は?」「北面の武士を設置したのは誰?」「院宣と院庁下文の違いは?」がよく出題されます。白河天皇(法皇)がキーパーソンなので、しっかり押さえておきましょう。

よくある質問

院政は1086年に白河天皇が退位して上皇となり、幼い堀河天皇に代わって政治を行ったことで始まりました。実質的な終わりは1192年の後白河法皇の崩御とされますが、形式的には鎌倉時代以降も続いています。1221年の承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れたことで、院政の権威は完全に失われました。

院近臣は「いんのきんしん」と読みます。上皇(院)のもとで働く側近のことで、身分や家柄に関係なく上皇の信任によって登用されたのが特徴です。摂関家のような名門貴族ではなく、中下級の貴族が多く含まれていました。

院宣(いんぜん)は上皇が直接出す命令文書で、格式が高く効力も強いのが特徴です。一方、院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)は院庁という事務機関が出す文書で、院宣に比べると手続きが正式で官僚的です。テストでは「院宣のほうが格が上」という点がよく問われます。

院政が始まった最大の理由は、摂関政治への対抗です。それまで藤原氏が天皇の外戚として権力を握っていましたが、後三条天皇が藤原氏を外戚に持たない天皇として即位し、摂関家の影響力を弱めました。その路線を引き継いだ白河天皇が、退位後も上皇として政治を行うことで、藤原氏の権力をさらに排除したのです。

「天下三不如意」とは、白河法皇が「自分の思い通りにならないものが3つある」と語ったとされる逸話です。その3つとは「賀茂川の水(洪水)」「双六の賽(サイコロの目)」「山法師(延暦寺の僧兵)」です。裏を返せば、それ以外はすべて意のままにできるほどの絶大な権力を持っていたことを示すエピソードです。

院政が終わった最大の理由は武士の台頭です。保元の乱・平治の乱をきっかけに武士が政治の主導権を握り始め、源頼朝が鎌倉幕府を開いたことで政治の中心は武家へと移りました。1192年の後白河法皇崩御が実質的な終わりとされ、1221年の承久の乱で院政の権威は完全に失われました。

摂関政治は藤原氏が天皇の外戚(母方の親族)として摂政・関白に就き、天皇に代わって政治を行う仕組みです。一方、院政は天皇の父や祖父である上皇・法皇が直接政治を行う仕組みです。摂関政治では外戚関係が不可欠ですが、院政では血縁の「直系」であることが権力の源泉になりました。

院政をもっと深く知るための本

院政についてもっと深く学びたい人のために、おすすめの本を紹介します。

もぐたろう
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院政の全体像をサクッと把握したいなら、この1冊がオススメだよ!中公新書だから読みやすくて、受験にも教養にも使えるよ。

まとめ─院政とは何だったのか

院政のポイントまとめ
  • 院政とは、上皇・法皇が行う政治形態。1086年に白河天皇が始めた
  • 院近臣(いんのきんしん)は院政を支えた側近集団。北面の武士も院の軍事力の一つ
  • 院宣は上皇の直接命令・院庁下文は院庁経由の文書で、院宣のほうが格が上
  • 財政基盤は知行国制と成功(じょうごう)。莫大な経済力が院政を支えた
  • 白河・鳥羽・後白河の三代が院政の中心。約100年にわたって続いた
  • 武士の台頭(保元の乱→鎌倉幕府成立)によって院政は終焉を迎えた
もぐたろう
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以上、院政について解説したよ。院政は「天皇の隠居政治」どころか、日本史上もっとも強力な権力形態の一つだったんだ。下の記事で摂関政治や後白河法皇のこともあわせて読んでみてね!

院政の年表
  • 1069年
    後三条天皇が延久の荘園整理令を発布
  • 1086年
    白河天皇が譲位し、院政を開始
  • 1095年頃
    白河法皇が北面の武士を設置(設置時期には諸説あり)
  • 1129年
    白河法皇崩御。鳥羽法皇の院政が本格化
  • 1156年
    保元の乱。武士が政争に本格的に登場
  • 1158年
    後白河法皇の院政が始まる
  • 1185年
    源頼朝が守護・地頭を設置。武家政治の始まり
  • 1192年
    後白河法皇崩御。院政の実質的な終焉

📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「院政」「白河天皇」「後三条天皇」「鳥羽天皇」「後白河天皇」「北面の武士」「崇徳天皇」「平忠盛」(2026年4月確認)
コトバンク「院政」「院近臣」「院庁下文」「院宣」「知行国」「成功(じょうごう)」「北面の武士」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・旺文社日本史事典)(2026年4月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

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