今回は、大正時代に起きた民衆が自由や平等を求めた運動「大正デモクラシー」について、わかりやすく丁寧に解説するよ!
大正デモクラシーとは
大正デモクラシーとは、1910年代から1920年代にかけて起こった民衆たちが自由や平等を求めた一連の運動のことを言います。
※デモクラシー:民主的な考え方や政治のこと
運動の時期のほとんどが大正時代(1912年〜1926年)なので、大正デモクラシーと呼ばれています。
民衆たちが大正デモクラシーで求めたことは大きく3つ。それは・・・
政治の民主化
労働者の立場改善
身分差別の解消
です。
大正デモクラシーが起こった時代背景
大正デモクラシーが起こった背景には、さまざまな事情がありましたが、大別すると大きく2つの理由がありました。
理由1:運動を起こさなければならないほど民衆たちの生活が困窮していたこと
理由2:民衆たちが声を上げやすい社会情勢があったこと
それぞれ解説していくね!
資本主義が貧富の差を拡大した【理由1】
日本は、明治時代以降、列強国に負けないよう日本の近代化をずーっと進めてきました。
その結果、財閥を中心とする金持ちの資本家が大きな工場を保有し、労働者を雇って商品を大量生産するようになりました。
・・・つまり、ヨーロッパで広まった資本主義が日本にも浸透し始めたわけです。
そして日本の資本主義は、日清戦争で得た巨額の賠償金、日露戦争の勝利による列強国への仲間入り、そして両戦争を通じた軍事産業の発展と通じて、いよいよ本格化していきました。
しかし、資本主義社会というのは、資本家(ブルジョワシー)と労働階級(プロレタリアート)との大きな貧富の差を前提とした社会です。
貧困に陥った労働階級の人々は、自分たちが生き残るため、資本主義に対して大きな声をあげる必要に迫られました。
世界で広がる労働運動【理由2】
いち早く資本主義を導入したヨーロッパでは、日本よりも早く労働者の貧困問題に直面し、1900年前後から労働運動が活発に起こるようになっていました。
加えて、1911年にはアジアでも清国で辛亥革命が起こり、民衆の力によって清王朝が滅亡したという事件も起きています。
世界各地で労働者が声を上げていたため、日本でも「俺たちもちゃんと声をあげて、自分の力で道を切り開こうぜ!」という風潮が高まり、こうした雰囲気が大正デモクラシーへと繋がっていきました。
というわけで、さっそく大正デモクラシーの具体的な動きを見ていきましょう。
・政治の民主化
・労働運動
・身分差別の解消
の3つに分けて、動きを追っていくことにします。
大正デモクラシー【政治の民主化編】
教科書などで大正デモクラシーのメインとして載っているのが、この政治の民主化を求める運動です。
きっかけは、1913年に起きた第一次護憲運動と大正政変でした。
第一次護憲運動とは、民意を無視する政治を続けた桂内閣にNO!を突きつけるために起こした民衆たちの運動のこと。
大正政変は、第一次護憲運動の結果、桂内閣が解散に追い込まれた事件のことを言います。
大正政変によって、自らの行動で政治を動かす成功体験を得た国民は、政治の民主化を求め、さらなる声をあげるようになりました。
当初、政府は民主的な政治に反対でした。あまり国民に権力を与えすぎると、天皇の立場が弱くなってしまうからです。
ところが1914年、吉野作造という人物が、画期的なアイデアを公表します。
どんなアイデアかというと、天皇の権力と民主主義が共存可能な民本主義と呼ばれる考え方でした。
さらに、1912年には美濃部達吉という人物が、「天皇の権力は国民のためにあるんだから、天皇は政府や国民と協力して権力を使うべきだよね!」という天皇機関説を唱えました。
この理屈なら、安易に民意を無視する政治はNGとなります。
民本主義と天皇機関説という理論を得たことで、民衆たちは「天皇の権力が弱くなるから・・・」という国の主張を完全論破できるようになりました。こうした後押しもあって、政治の民主化を求める動きはますます活発になっていきます
そして1918年、政治の民主化に向けた動きが一歩前進します。
日本初の本格的な政党内閣である原内閣が登場したのです。
当時、民衆たちは、政治の民主化のため、厳しい選挙制限の撤廃を強く望んでいました。
そこで原内閣は、選挙制限を緩和します。納税条件が、10円から3円まで引き下げられることになったのです。
・・・が、人々が望んでいたのは、制限の緩和ではなく撤廃でした。どんな境遇の人でも皆が平等に票を投じることが、政治の民主化には必要だったのです。
納税額の条件あるってことは、言い換えると当時の選挙制度は「金持ちしか投票できない」仕組みだったわけです。
しかし、政治に対して声をあげている民衆のほとんどが貧しい人々です。そのため、金持ち優遇制度である納税条件そのものの撤廃が望まれたのです。
1920年代に入ると、大正デモクラシーの焦点は(男性)普通選挙の実現に移っていきます。
さらに1924年、この民衆の動きを利用して政権を手に入れようと、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3政党が大きく動きます。
3政党はトリオを組み、議会を軽視した政治を行う清浦内閣を倒そうと、民衆たちに普通選挙の実現を訴えたのです。
清浦内閣は国民の代表である議員の声を無視している!
もし私たち護憲三派が政権を握れば、必ずや普通選挙を実現してみせます。だから、みんなも清浦内閣を倒すため声を上げてほしい!!
※護憲三派:トリオを組んだ立憲政友会・憲政会・革新倶の総称のこと。
こうして起きた「政治はもっと議会や国民の声を重視しようぜ!」という運動のことを第二次護憲運動と言います。
第二次護憲運動の結果、護憲三派は清浦内閣を倒すことに成功。
1924年6年に憲政会の加藤高明が首相となり、新内閣(護憲三派内閣)が成立すると、1925年、普通選挙法が制定され、ついに(男性)普通選挙が実現することになりました。
そして、「第一次護憲運動」〜「民衆の悲願だった普通選挙法制定」までの一連の動きのことを大正デモクラシーと言います。
大正デモクラシー【労働運動編】
労働者たちもまた、自分たちの労働環境や生活を良くしようと、自ら声をあげるようになります。
1912年、労働者の地位向上を目指す組織「友愛会」が結成されました。
友愛会の当初の目的は、今でいう労働者の学びの場の提供や法律相談、定期預金のような労働者の共済事業が中心でした。
※共済:力を合わせて助け合うこと
そんな中、1914年に第一次世界大戦が始まって工場の稼働率がUPすると、次第に労働者と資本家の争いが増えていきます。
すると、友愛会は、労働者と資本家の間を取り持つ仲介役としても活躍するようになりました。
しかし、友愛会が労働者と資本家の仲介に入るのには大きな困難が伴いました。
・・・なぜなら、治安警察法という法律に、「労働者は労働組合を作ったりストライキして資本家に刃向かったら罰則な!」という規定が設けられていたからです。
これでは、あまりにも労働者の立場が不利であり、資本家の圧力に抵抗することが難しかったのです。
そこで、友愛会は1918年頃から治安警察法の改正を求める労働運動を起こすようになります。
法律を改正するには政治を動かす必要があるため、労働運動は上で紹介した政治の大正デモクラシーと密接に関わっていくようになります。
こうして友愛会の活動がだんだん大規模になると、1919年、友愛会は大日本労働総同盟友愛会という凄そうな組織名に改名。
その後は、方針を『資本家との仲介』から『資本家との対立』へと転換。
1921年になると、方針転換に合わせて「組織名もっとコンパクトにしたほうがよくね?」っていう話になり日本労働総同盟と名を改め、資本家との階級闘争が本格化していくことになります。
農民(小作人)たちの間でも、似たような動きが活発になりました。
1920年頃から、小作料の引き下げを求める小作争議が各地で多発するようになり、1922年には全国の小作人たちを団結させようと日本農民組合が結成されました。
※小作人とは:地主から土地を借りて農業をする人のこと。土地を借りている見返りとして地主にはらう代金のことを小作料と言います。小作料が高くなると小作人の負担が重くなり、小作争議が増える結果となったのです。
大正デモクラシー【身分差別の解消編】
大正デモクラシーによって多くの民衆が声を上げて自らの要求を主張する中、女性差別や部落差別に対しても大きな声が上がりました。
青鞜社と新婦人協会【女性差別撤廃を目指して】
1911年、女性による女性のための女流文学社「青鞜社」が結成されます。
結成の中心になったのは平塚らいてうという女性。
「らいてう」はペンネームで、本名は平塚明と言ったよ!
青鞜社の目的は、女性を束縛する古い風習を取り除き、女性が才能を生かし自立できる社会を目指すこと。「青鞜」という雑誌を発行し、世に女性差別の問題を投げかけました。
しかし、雑誌「青鞜」の過激な内容や、平塚らいてうの引退などもあって、1915年に青鞜社は活動を停止。
1920年になると次は、新婦人協会なる組織が誕生します。
新婦人協会は、女性参政権の要求や女性差別に関する法律改正などを求める運動を行うことを目的としていました。
問題提起をメインにしていた青鞜社に対し、新婦人協会は自ら声を上げることで自分たちの権利や主張を認めてもらおうとしたのです。
自ら声を上げることで権利・主張を認めてもらおうという動きは、大正デモクラシーの時代の大きな特徴の1つだよ。
全国水平社【部落差別の解消を目指して】
少し時代がさかのぼりますが、江戸時代、人々には大きく士農工商の4つの身分がありました。
一方で、その裏には士農工商のどれにも属さず、下位の身分とみなされていた人々がいました。
こうした低い身分の人たちは、周囲から「非人」や「穢多」などの蔑称で呼ばれ、差別的な扱いを受けていました。
明治時代になって、士農工商の身分格差を廃止した四民平等が打ち出されると、明治政府はえた・非人の差別も撤廃して平民とする法律を制定しました。
・・・が、差別が撤廃されたのは法律上だけの話。法律ができても人々の差別意識は無くならず、大正時代になっても、えた・非人だった人々への差別が続きました。
1918年、米騒動が起こると、困窮した部落の人々が自ら立ち上がり、暴動を起こすようになります。
さらに世界では、1917年にロシアの労働者たちがロシア革命で政権を勝ち取り、1919年には朝鮮で日本の植民地支配から脱しようとした三・一独立運動が起こります。
こうした動きの中、差別解消を目指す動きにも変化が見られました。
差別をなくすには他人(国)を頼っていてはダメなんだ。自分の運命は自分で道を切り開かなきゃいけない!
俺たちも差別解消に向けて自ら声をあげていくぞ!
こうして1922年、全国の差別を受けている人々が一致団結して差別に立ち向かうことを目的として、全国水平社という組織が結成されました。
大正デモクラシーのまとめ
以上、大正デモクラシーについてザッとまとめてみました。
参考書の多くは、大正デモクラシーを第一次護憲運動〜普通選挙法制定までの政治の動きとして整理しているけど、この記事では、あえて社会運動とセットでまとめておきました。
その理由は、大正デモクラシーと当時の社会運動は、密接に関わっているし、「弱い立場の人も団結して声を上げていこう!」という考え方は共通しているので、セットで覚えたほうが理解が深まるからです。
最後も、大正デモクラシーの動きを年表でまとめておきます。
- 1911年青鞜社が設立する【身分格差】
- 1912年①友愛会が設立する【労働運動】
- 1912年②美濃部達吉が天皇機関説を公表【政治の民主化】
- 1913年第一次護憲運動→大正政変【政治の民主化】
- 1914年吉野作造が民本主義を公表『政治の民主化】
- 1918年政党内閣の原内閣が誕生。選挙権が緩和される【政治の民主化】
- 1919年大日本労働総同盟友愛会が結成される【労働運動】
- 1920年新婦人協会の結成【身分格差】
- 1921年日本労働総同盟の結成【労働運動】
- 1922年①日本農民組合の結成【労働運動】
- 1922年②全国水平社の結成【身分格差】
- 1924年第二次護憲運動【政治の民主化】
- 1925年普通選挙法の制定【政治の民主化】
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