今回は、延喜・天暦の治について、わかりやすく丁寧に解説していくよ
延喜・天暦の治とは
延喜・天暦の治とは、醍醐天皇と村上天皇が政治を治めていた時代のことを言います。
この2人が天皇だった時代は、それぞれ次のとおりとなります。
醍醐天皇:897年〜930年
村上天皇:946年〜967年
細かい年数まで覚える必要はないけど、ざっくりと平安時代初期〜中期ってことは覚えておこうね!
日本の政治は、清和天皇の時代(858年〜876年)に藤原良房が摂政になって以降、摂政&関白になった藤原氏の手によって行われてきました。
- 858~876清和天皇
摂政:藤原良房
- 876~884陽成天皇
摂政:藤原基経
- 884~887光孝天皇
関白:藤原基経
- 887~897宇多天皇
関白:藤原基経
891年に藤原基経が亡くなると関白を設置せず、藤原氏に対抗するため菅原道真を重用する。
- 897~930醍醐天皇←今回の記事はここ!
摂政・関白は置かれず。
- 930~946朱雀天皇
摂政&関白:藤原忠平
- 946~967村上天皇←今回の記事はここ
摂政・関白はほとんど置かれず。
- 967〜冷泉天皇
冷泉天皇以降、摂政&関白は常に設置されるようになる。
こんなにたくさん天皇がいるのに、なぜ醍醐天皇と村上天皇の時代だけ延喜・天暦の治なんて特別な言い方をするの?
という疑問を持った人も多いはず。その答えのヒントは上の年表です。
なぜかというと、醍醐・村上天皇の時代は、藤原氏が摂政・関白として政治の実権を握り続けていたこの時代には珍しく、天皇自ら政治を行った時代だったからです。
上の年表の青線の部分に注目してみてね!
※摂政・関白ってなに?って方は、まずは以下2つの記事から読んでみてくださいね。
天皇というのは、日本の頂点に君臨する王です。
醍醐・村上天皇の時代は、その王自らが政治を行い、比較的平和な時代でもありました。そこで、後世の人々から、『醍醐天皇と村上天皇の時代は、天皇自らが政治を行った理想的な時代!』という評価を受けるようになり、次第に神聖化されるようになったのです。
そして、神聖化されるようになると、人々は、両天皇の時代のことを特別に『延喜・天暦の治』というカッコいい呼び名で呼ぶようになったわけです。
天皇というのは、今も昔もずーっと日本国の王のような存在ですが、実は天皇自らが実権を持った期間は多くありません。
平安時代中期は摂政・関白が政治の実権を握り(摂関政治)、平安時代後期には上皇が政治の実権を握りました。(院政)
鎌倉時代〜江戸時代は幕府が実権を持ち、明治時代に天皇の実権が回復しましたが、第二次世界大戦の敗北によって、天皇は再び政治の実権を失い、現代まで至ります。
しかし、世の中には、摂関政治・院政・幕府などに反対して、こんな風に考える人も多くいました。
日本の王は天皇なんだから、普通に考えて天皇自ら政治を行うべきだろ!
延喜・天暦の治は、こう考える人にとって目指すべき理想の時代に映りました。だからこそ、延喜・天暦の治は神聖化されるようになったのです。
後世の人々から、天皇親政の理想と考えられていた延喜・天暦の治。
その時代がどんな時代だったのか、延喜の時代と天暦の時代、2つに分けてそれぞれ見ていくことにするよ!
延喜の治
延喜の治の話に入る前に、少しだけ摂関政治について解説しておきます。
摂関政治は、藤原氏が摂政・関白になって天皇に代わって政治の実権を握った政治のことを言います。
摂関政治を行うには、藤原氏は以下の3つの条件をクリアする必要がありました。
なぜ、突然こんな話をしたのかというと、これは、逆に言えば「藤原氏が3つ条件を満たしていない時は、天皇親政のチャンス!」ってことだからです。
実際に醍醐天皇の時代、藤原氏はこの条件が満たしていませんでした。
当時、藤原氏の長で一番の実力者だったのは藤原時平という人物。
藤原時平がなぜ条件を満たせなかったかというと、天皇家との血縁関係を結ぶことができず、外戚になることができなかったからです。(つまり、条件①〜③全てがダメだったということ)
※おまけに、醍醐天皇が即位した当時、藤原時平はまだ27歳。いくら実力はあっても、摂政・関白になるにはさすがに若すぎると思われていたのです。(実力の面でも条件③を満たしていなかったということ)
こんな事情から、醍醐天皇は摂政・関白を置かず、天皇自ら政治を行いました。これが延喜の治です。
それでは次に、延喜の治がどんな政治だったのかを紹介していきます。
当初、醍醐天皇は政治を2人の有能な部下に任せました。
その有能な部下とは、藤原時平と菅原道真です。
この2人はお互いにライバルであり、先代の宇多天皇の頃から天皇を支えていたエリート官僚でもありました。
しかし901年、事件が起こります。菅原道真が藤原時平の陰謀によって失脚してしまったのです・・・!(昌泰の変)
ふふ・・・、道真が消えてしまえば、政治の実権は我が手中にあるも同然・・・!
当時は、藤原時平が左大臣で、菅原道真が右大臣でした。
時平は、道真を朝廷から追放して空いた右大臣のポストに自分の協力者を置くことで、政治を実権を握ることに成功しました。
ん?
延喜の治っていうのは、理想的な天皇親政のことを言うんだよね?
藤原時平が実権を握った政治が本当に理想的なの?
なかなかするどい質問だね。
醍醐天皇の時代が神聖化されたのは、単に摂政・関白が置かれていないという表面的な理由が大きくて、実際の政治が藤原氏主導で行われていたところまでは見ていないんだ。
ただ、醍醐天皇と藤原時平はとても良い関係を築いていて、おまけに時平は超有能だったから、醍醐天皇は様々な改革を行うことができました。
摂政・関白が置かれていないことに加え、その政治実績も評価されて「延喜の治」と呼ばれたのです。
皮肉ですが、秀才の藤原時平が政治の実権を握らなければ、醍醐天皇は政治改革は後世から評価されず、「延喜の治」と呼ばれることもなかったかもしれません。
では、藤原時平が主導した延喜の治は、いったい政治を行なったのか。箇条書きで整理しておきます↓↓
時代の流れを理解する上で大事なのは、①②の2つ。藤原時平は、崩壊しつつあった律令制度を立て直そうと、土地制度と律令にメスを入れました。
※①②の政策は、延喜の治が評価された理由の1つでもありました。なぜなら、律令に基づく政治というのは天皇親政の政治なので、「律令制度を立て直す」=「天皇親政を回復する」と考えることができるからです。
③に登場する六国史とは、歴代天皇の治世について書いた歴史書のこと。奈良時代に日本書紀が編纂されてから、定期的に歴史書が編纂されていましたが、その6個目が延喜の治の時代に完成したのです。
④は、言い方がアレですが醍醐天皇の趣味です。古今和歌集の編纂は、和歌を好んだ醍醐天皇が行なった一大プロジェクトとなりました。
朱雀天皇の時代【おまけ】
延喜・天暦の治の間に挟まれた朱雀天皇の時代についても少しだけ紹介しておきます。
きっと、多くの人が気になっているのではないでしょうか。
なぜ醍醐→朱雀→村上と続いているのに、朱雀天皇だけ理想とされる政治から外されてしまったの?
答えは簡単!
朱雀天皇の時代には、摂政&関白が置かれたからだよ!
930年、醍醐天皇が崩御して、新たに朱雀天皇が即位します。
即位した朱雀天皇は当時まだ8歳と幼かったため、摂政が置かれました。摂政になったのは藤原忠平でした。
※藤原忠平は、先ほど登場した時平の弟です。909年に時平が亡くなったので、弟の忠平が権力を引き継いでいました。
忠平は、朱雀天皇とは外戚の関係で、天皇から見て叔父に当たります。さらには天皇を補佐する実力も兼ね持っていたので、先ほど紹介した摂関政治の3条件を満たしています。
さらに941年、朱雀天皇が大人になる(元服する)と、藤原忠平は関白として引き続き政治の実権を握りました。
当初、忠平は関白になる気がなかったようですが、朱雀天皇がこれを引き留めたため、関白になった・・・と言われています。
天暦の治
946年、朱雀天皇が譲位して、村上天皇が即位します。
藤原忠平が朱雀天皇の頃に引き続き関白となりましたが、949年に忠平が亡くなると、村上天皇は後任者を指名せず、関白を置きませんでした。
なぜ村上天皇が関白を置かなかったのかというと、天皇を補佐できる圧倒的実力を持つ藤原氏が朝廷にいなかったからです。
もし関白になるとすれば、忠平の長男である藤原実頼が有力候補でした。・・・しかし、実頼は弟の藤原師輔と政治争いをしている真っ最中であり、関白になるには実力の面で不安定な要素があったのです。(先ほど紹介した条件でいう3番目がダメだったということ)
※関白になりうる圧倒的実力者の登場には、少なくとも実頼VS師輔の戦いに決着をつける必要がありました。
おまけに、実頼・師輔が互いに牽制しあっているおかげで、藤原氏からの「関白を置け!!」という政治的圧力も少なかったので、村上天皇は関白を置かずに天皇親政を行うこととしたのです。
こうして延喜の治に続いて、摂政&関白を置かない天皇親政の時代が再来したわけです。
では、天暦の治は一体どんな政治だったのでしょうか。
基本的には、延喜の治と同じです。何が同じかというと、「摂政&関白は置いてないけど、実際の政治は藤原氏が行なっていた」というところ。
天暦の治で政治の実権を握っていたのは、藤原忠平の長男で左大臣の実頼と、次男で右大臣の師輔でした。
さらに、「律令制を立て直すための政治を行なった」という点も延喜の治と同じです。・・・が、延喜の治の時ほど、大きな政治改革は行われませんでした。
天暦の治に行われた政策で覚えておくべき、有名な政策は1つだけ。それは、皇朝十二銭のラスト(12番目)の通貨「乾元大宝」を発行したことです。
延喜・天暦の治の後
醍醐・村上と天皇親政の時代が続きましたが、延喜・天暦の治以降は、天皇親政は行われなくなり、摂関政治の全盛期がやってきます。
繰り返しになりますが、醍醐天皇と村上天皇の時代は、藤原氏が政治を支配する時代の流れに抗った時代として、天皇親政を象徴する時代と後世の人々から評価されることになったのです。
※ただし、これも繰り返しですが、延喜・天暦の治は単に摂政・関白が置かれなかっただけで、その政治を支えていたのは紛れもなく藤原氏でした。
日本の歴史の中には、天皇親政を復活させようとする大きな動きが2つあります。
その1つは、鎌倉幕府を滅亡に追い込んで天皇親政を復活させた後醍醐天皇の活躍。
もう1つは、江戸幕府を終わらせて天皇親政の復活を目指した明治維新の動き(王政復古)。
こうした動きが強くなるたびに、延喜・天暦の治は天皇親政の象徴として取り上げられ、歴史を大きく動かす原動力となりました。
※後醍醐天皇という名も、延喜の治を行った醍醐天皇を強く意識したもの。
そんな意味で考えると、延喜・天暦の治というのは、日本の歴史にとてつもなく大きい影響を与えた時代・・・ともいうことができますね。
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