伊勢物語の主役、在原業平ってどんな人?人物像は?イケメンで女たらしすぎ故に歴史に名を残した男の物語

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女にモテすぎてしまったせいで歴史に名を残すことになった日本史上屈指のチャラ男が平安時代にいました。

 

 

それが今回の記事の主役!在原業平(ありわらのなりひら)です。時代は平安時代初期(850年ごろ)。

 

 

 

歴史上有名な人たちの中にはモテた人は確かに多くいます。しかしそれは、モテたから有名なのではなく、戦いや政治で有名になるほどの人物だったからモテたんです。

 

 

しかし、在原業平は違います。在原業平は真に色恋沙汰のみで、その名を歴史に刻みました。その色恋沙汰は後世に語り継がれ、伊勢物語(いせものがたり)という物語が作られるほど。絶世の美女で名を残す女性はいても、モテすぎて名を残す男っていうのはあまり聞いたことがありません。

 

 

 

というわけで、歴史に名を刻むほどのチャラ男、在原業平とはどんなヤツだったのかを見ていきたいと思います。

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在原業平の不遇な生まれ

在原業平は825年に生まれます。

上の系図の通り、在原業平は平城天皇の孫であり、皇族の血を引く高貴な生まれでした。

 

 

・・・と思えますが、平城天皇はちょっとワケありな天皇でした。

 

 

というのも810年、平城上皇(当時は天皇位を嵯峨天皇に譲って上皇になっていた)が「平城京に戻って俺が政治をしたい!」と嵯峨天皇に対して反乱を起こしていたからです。詳細な事件の内容は、以下の記事で紹介しています。

平城太上天皇の変(薬子の変)を簡単にわかりやすく解説するよ【嵯峨天皇が蔵人頭を設置する】
もぐたろう 今回は、810年に起こった平城太上天皇へいぜいだいじょうてんのうの変(別名:薬子くすこの変)について、わかりやすく丁寧に解説して...

 

この事件の後、平城上皇の関係者は処罰され、平城上皇自身は隠居生活をすることになります。この事件によって、平城天皇の子孫たち次期天皇候補から除外され、皇族としても微妙な立ち位置に立たされることになります。

 

 

在原業平はこの事件の15年後に生まれるわけですが、もう1つ在原業平の身に微妙な出来事が起こります。それは826年の臣籍降下(しんせきこうか)により名を「在原」という姓に改めたことです。

 

 

臣籍降下とは簡単に言うと皇族のリストラです。皇族の人たちってほっといても自動的にお給料が貰えるんですが、在原業平が生まれた頃になると皇族が多すぎて皇族たちへの給料が国の財政を圧迫し始めていたんです。

 

 

で、在原業平も臣籍降下という名の皇族リストラの対象となったわけです。臣籍降下の対象者は主に「皇位継承の見込みが0に等しい者」でした。在原業平は祖父の平城天皇がやらかしちゃってるので、その対象者に選ばれたのでした。

 

 

というわけで、皇族でありながら在原業平は実にシビアな立場に立たされていたのです。

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在原業平と藤原高子の恋話

 

在原業平がどれほどの熱意で取り組んだのかはわかりませんが、在原業平は祖父の代で没落し、臣籍降下してしまった家柄を復興させようと頑張っていました。

 

 

そこでキーとなるのが、上の系図に載っている惟喬(これたか)親王。惟喬親王は紀静子の息子で文徳天皇の第一皇子。そして、在原業平は紀一族ととても親密な関係だった。

 

 

つまり!惟喬親王が天皇になれば、在原業平も紀氏との繋がりで中央政界に復帰できる希望があったのです!!

 

 

が、これは実現せず850年、惟仁(これひと)親王(後の清和天皇)が皇太子に選ばれてしまいます。(上の系図の清和天皇の部分をご覧ください!)

 

 

文徳天皇は第一皇子の惟喬親王を寵愛していました。年齢的にも惟喬親王が即位しても不思議ではなかったのですが、惟仁親王(後の清和天皇)の祖父に当たる藤原良房がこれを妨害します。

 

 

そもそも、惟仁親王はまだ乳飲み子です。乳飲み子が立太子するというのは当時としては前代未聞であり、身内を天皇にしようとする強引な藤原良房のやり口には、批判も多くありました。

 

 

こうして、藤原良房の強引な手腕により在原業平の希望は打ち砕かれることになりました。そして、ここからは推測なんですけど、在原業平が色恋沙汰に溺れるようになったのはこの頃だったのではないかと思います。850年といえば、在原業平はまだ20歳。ちょうど恋に燃えるお年頃でもあります。

 

 

上の系図を見てください。清和天皇の妃に藤原高子という人物がいます。在原業平はこの藤原の高子と禁断の恋に落ちました。おそらく860年ごろのお話だと思います。

 

 

在原業平との恋は藤原高子が妃となる前の話ですが、普通ならこんな高貴な女性と在原業平がお近づきになれるはずがありません。在原業平と藤原高子は誰にも知られてはいけない禁断の恋に足を踏み込んでいたのです・・・。

 

 

ではなぜ在原業平は、危険を犯してまで藤原高子との恋に及んだのか?実は、「藤原高子が清和天皇に嫁ぐのを防ぐためだったんじゃないか?」なんていう説があります。(諸説あります)

 

 

そして、政治目的で近づいたはずだった藤原高子と本気の恋に落ちてしまった・・・というまるで小説のようなエピソード。

 

 

ちなみに在原業平と藤原高子の密会がバレて、藤原高子に会えなくなった時に在原業平が歌った有名な和歌がこちら↓

 

月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして

 

(現代語訳)

月は、去年の月と同じではないのか。春は、去年の春とおなじではないのか。変わらぬのは私の身体1つなのだなぁ・・・

 

 

藤原高子と会えなくなり、境遇が一変してしまったのに高子への想いは変わらぬままであること嘆いて歌った和歌です。とある日の夜、在原業平はこの和歌を歌った後、泣きながら帰路に着きました。

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有原業平の性格・人柄

在原業平の人物像については「日本三代実録」という史料に残されていて、こう書かれています。

 

容姿端麗で自由奔放、漢学には疎いが和歌には優れていた。

 

 

要するにイケメンでチャらくて勉強はできないけど女を口説く和歌は天才的だったってことです。

 

 

さて、ここで少し当時の恋愛事情について簡単にお話ししておきましょう。

 

 

当時の恋愛は当時の結婚スタイルである妻問婚と同じで、彼氏が彼女の家に忍び込み、男女の関係を築くのが一般的でした。彼氏が彼女の家に行くのは決まって夜で、こっそりと家に訪れるのがお決まりのパターン。

 

 

男女の交際の方法はこんな感じですが、「じゃあ、男女の関係になるまでの流れはどどんな感じだったの?」って話も気になりますよね。これも今とはだいぶ違います。

 

 

これは比較的高貴な家柄に限るのですが、男と女は初夜に顔合わせをするまでお互いに直接顔を合わせることはほとんどありませんでした。当時の高貴な女性たちは、夜に意中の相手に見せることを除いて男性に顔を見られることを極端に恥じました。顔を見られるというのは、現代風の感覚で言えば恥部を見られるのと同じぐらい恥ずかしいことだったのです。

 

 

じゃあ容姿がわからないのにどうやって、お互いに惹かれ合うかというとそのきっかけこそが和歌だったんです。

 

 

まず男性たちが、周囲の評判や噂を聞いて意中の女性に和歌を送ります。女性はその和歌に返歌を返し、そのやり取りで会う会わないが決まるのです。

 

 

つまり!!和歌が上手い=女性にモテるってことです。

 

 

だから在原業平はとにかくモテた。女心をくすぐる才能溢れる和歌で次々と女性を落としていきます。しかも、会うまでに色々と妄想して、実際に会ってみたら超イケメンときたらそりゃ落ちますよね。それに高貴な血筋を持っているわけですから、まさにパーフェクトです。

 

 

在原業平が主人公とされる伊勢物語では、作り話もあるかと思いますが在原業平が貴賎にかかわらず、多くの女性と恋に落ち、実に多くの和歌を詠んでいます。

 

 

在原業平の数多き恋の行方を知りたい方はぜひ、伊勢物語を読んでみてください!今ではわかりやすい現代語訳も多いので、結構簡単に読めますよ!

 

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在原業平まとめ

在原業平は880年にこの世を去ってしまいます。その人生は、恋に捧げた一生でもありました。

 

 

その自由奔放な恋は在原業平の出世が閉ざされた故でしたが、実は晩年になると蔵人頭という天皇秘書の代表のようなポジションに任命されています。冷遇されていたとは言え、極端に虐げられていたわけでもなかったんですね。

 

 

在原業平の辞世の句も実に在原業平らしいもので

 

ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりけり

 

(現代語訳)

死出のみちは最後に行く道だと聞いてはいたけど、まさか昨日今日にもその日が来るとは思ってもいなかったなぁ

 

 

なんていうか、出世が閉ざされた身の人間にしては実に穏やかです。「俺もそろそろ終わりか」と哀愁みたいなものは感じますが、あまり負の感情が感じられないのです。ゆったりと自らの運命を受け入れて行く・・・そんな在原業平の人生観みたいなものが感じ取れます。

 

 

実は在原業平は、自分の運命を嘆いたり悲しんだりする歌はあまり詠んでいません。

 

 

在原業平って色恋沙汰の話が多くて、感情的な人間なのかな?って思ってましたけど、辞世の句を見るあたり、意外とリアリストな人間だったのかもしれません。そして、自分の状況を冷静に見極め分析しているからこそ、女性を落とす心得も身に付けていたと。

 

 

時に恋に溺れ、時に現実を受け入れ、まるで流水のように生きる。つかみどころのない飄々とした人生観こそが在原業平が人々を魅了した理由なのかなと思います。

 

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