

今回は、1871年に行われた廃藩置県について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
廃藩置県は明治維新の中でも最も重大な改革の1つ。実は300もの藩がほぼ無抵抗で消滅したっていう、なかなかすごい話なんだ。じっくり見ていこう!
廃藩置県とは?わかりやすく解説
廃藩置県とは、1871年(明治4年)7月14日に明治新政府が全国の藩を廃止して、かわりに府・県を設置した政策のことです。
これにより、それまで各藩がバラバラに支配していた日本全国が、新政府による一元的な統治のもとに置かれることになりました。

今でいうと、各都道府県がそれぞれ独立した国みたいな状態だったのを、いきなり中央政府の管轄に統一したようなイメージだよ。ものすごく大胆な改革だったんだ。

でも、その前に版籍奉還ってのもやったわよね?あれとは何が違うの?

いい質問!版籍奉還は、藩主が土地と人民の支配権を朝廷に「返した」っていう話なんだけど、実は旧藩主がそのまま知藩事として藩を治め続けたから、実態はほとんど変わらなかったんだ。
一方、廃藩置県では藩そのものを消滅させて、知藩事も全員クビにした。名前だけ変えた版籍奉還と、藩ごと消した廃藩置県。この違いがめちゃくちゃ大事だよ!
版籍奉還(1869年):藩主が土地・人民の支配権を返上。しかし旧藩主が知藩事としてそのまま統治を継続 → 実態はほぼ変わらなかった
廃藩置県(1871年):藩そのものを廃止し、知藩事は全員罷免・東京移住。中央政府が派遣する府知事・県令が統治 → 実質的な改革
廃藩置県が行われるまでの流れ(なぜ必要だった?)
廃藩置県が実施されるまでの時代の流れをチェックしておきましょう。
- 1867年
新政府が天皇親政を宣言。諸藩の集まりだった日本の国家統一を進めていく
- 1868年戊辰戦争が起こる
新政府VS旧幕府の戦い。旧幕府の没収地は「県」「府」という呼び名で新政府の直轄領となった
- 1869年版籍奉還
藩の所領を新政府に返上させたが、旧藩主が知藩事として支配を続けたため不完全に終わる
- 1871年廃藩置県 ←この記事はココ!
藩を廃止して、新政府直轄領の「県」を設置。名実ともに全国が新政府の直轄領となる
- 1873年
藩が消滅したことで、新政府は全国から直接税金を徴収できるように。これに対応して地租改正が実施された
版籍奉還では、形の上では土地を返させたものの、結局は旧藩主がそのまま知藩事として支配を続けました。
つまり、名前が変わっただけで実態はほとんど変わらなかったのです。

じゃあ、新政府はなぜ最初から廃藩置県をやらなかったの?

それは新政府にまだ軍隊がなかったからなんだ。藩を無理やり消そうとしたら、各藩の大名が反乱を起こすかもしれない。でも、それを鎮圧する軍隊がない・・・。だからまずは版籍奉還で様子を見て、軍事力が整ってから廃藩置県を実行したってわけなんだ。
王政復古を宣言した新政府は、天皇親政に向けた様々な政策を進めていました。しかし、土地・人民の支配を完全に掌握するには、藩そのものを廃止するという最後の大仕事が残されていたのです。
廃藩置県の断行
廃藩置県とは「藩を廃止して県を置くこと」です。知藩事にとっては、藩が廃止されれば自分の地位を失うことになります。

知藩事っていうのは、今でいう県知事のような存在。それを全員クビにするわけだから、反発は当然予想されたんだ。新政府は用意周到に準備を進めていくよ。
■御親兵の編成
準備の中で最大の問題となったのが、「諸藩が反乱を起こした際に、それを鎮圧する新政府直属の軍隊がない」という点でした。
当時、軍隊を持っているのはあくまで諸藩です。新政府は自前の軍隊を持っていませんでした。

軍隊もないのに、どうやって廃藩置県を実行したの?

そこで新政府は、薩摩・長州・土佐の3藩から軍事力を借りることにしたんだ。この3藩の兵で作られた軍隊を御親兵と言って、新政府にとって初の直属軍隊になったんだよ。今でいう自衛隊の原形みたいなイメージだね。
薩摩・長州・土佐は新政府の主要メンバーが多い藩です。この3藩が兵を提供してくれたことで、新政府はようやく軍事的な後ろ盾を手に入れました。
■木戸孝允の密議

諸藩の反乱(内乱)を覚悟しての廃藩置県には、新政府内でも反対があることが予想されました。そのため、廃藩置県の計画は秘密裏に進められます。
明治4年7月9日(新暦:1871年8月24日)、木戸孝允の邸宅にて、廃藩置県の強硬実行(クーデター)の計画が練られました。この密議には大久保利通・西郷隆盛のほか、西郷従道・大山巌・井上馨・山縣有朋ら計7名が参加しています。


廃藩置県を推し進めた中心人物は、木戸孝允・大久保利通・西郷隆盛の3人。いわゆる「維新の三傑」と呼ばれる人物たちだね。彼らが秘密裏に計画を練って、一気に断行したんだ。
その後、新政府の関係者への根回しが行われ、7月14日には廃藩置県を実行することが決まりました。
■廃藩置県の実行
1871年7月14日、木戸孝允らは議論を経ないまま、強硬的に廃藩置県を断行します。
東京にいた知藩事たちを皇居に集め、天皇の御前にて廃藩置県を発表したのです。もちろん、反対運動に備えて御親兵も準備万端でした。


事前に議論すると反対意見が出て潰されてしまうから、「有無を言わせない」やり方で一気に実行したんだ。まさにクーデターだね。
なぜ300の藩は反対しなかったのか
用意周到に行われた廃藩置県でしたが、予想に反してめちゃくちゃスムーズに事が運びました。新政府にとっては嬉しい誤算です。
藩主の反乱どころか、反対そのものがほとんどありません。むしろ、これを喜んで受け入れる藩主もいたほどです。

えっ、300もの藩があったのに反対しなかったの!?
これには以下のような理由がありました。
当時、多くの藩は借金苦に陥っていました。江戸時代中期から諸藩の財政は悪化するようになり、幕末の内乱がそれに拍車をかけます。
軍事費用の捻出により藩の借金はさらに膨れ上がり、破綻寸前にまで追い込まれた藩も少なくありません。

つまり、借金地獄から解放してくれる廃藩置県は、藩主にとってはまさに救世主だったんだ。おまけに華族の身分も保証されて、お給料も出るんだから、至れり尽くせりだよね。
言い方を変えれば、「新政府が諸藩の膨大な借金を肩代わりしたおかげで、暴動が起きなかった」とも言えるでしょう。
■実は一番困ったのは大阪の商人だった
ちなみに、新政府が肩代わりした借金の多くは大阪の商人が貸していたものでしたが、新政府はそのほとんどを踏み倒しました。
廃藩置県で一番困ったのは、実は藩を失う知藩事ではなく、大阪の商人たちだったのです。

多額のお金を貸していた大阪商人は大混乱に陥り、破産してしまった者も・・・。「商人の混乱=大阪経済の混乱」であり、廃藩置県後の大阪経済はしばらく停滞することになったんだ。新政府のやり口、なかなかエグいよね・・・。
廃藩置県は47都道府県の始まり
現在、日本には47の都道府県があります。廃藩置県はこの47都道府県の原点となりました。
廃藩置県の当初は、1使・3府・302県が置かれていました。

302県!? 今の47都道府県とは全然違うのね!

「使」は開拓使の「使」で今の北海道のこと。「府」は東京府・大阪府・京都府の3つだよ。302県もあったから、そこからどんどん統合されていくんだ。
302県はその後、同年11月には1使・3府・72県に統合され、1889年ごろには3府43県1庁(北海道庁を含めると計47)の形が整いました。

3府43県はその後、1943年に「東京府」が「東京都」となり、今の1都1道2府43県=47都道府県の形が完成します。
廃藩置県により、各府県に中央政府が派遣した役人が置かれました。府には「府知事」、県には「県令」が配置されています。今でいう県知事のような存在ですが、現在と違い選挙ではなく中央政府からの任命でした。
県令が今のように「県知事」と呼ばれるようになるのは1886年以降のことです。
皆さんが住んでいる都府県の歴史を知ろうと思ったら、必ず廃藩置県の話が登場します。廃藩置県は、まさに現代日本の地方行政の出発点なのです。
ただし、沖縄県と北海道はもう少し複雑な歴史を持っています。沖縄は1879年の琉球処分で沖縄県が設置され、北海道は1886年に北海道庁が置かれました。
廃藩置県のメリット・デメリット
廃藩置県は日本を大きく変えた改革ですが、良い面だけではありませんでした。ここでは廃藩置県のメリットとデメリットを整理しておきましょう。
■廃藩置県のメリット(可能になった5つの政策)
廃藩置県により新政府は日本全土とそこに暮らす人々を直接統治できるようになりました。これにより、以下のような画期的な政策が実施可能になっています。

廃藩置県は、その後の政治改革の土台の中の土台。民政・軍事・税制・治安維持・教育と、あらゆる改革が廃藩置県なしには実現できなかったんだ。
明治維新の数ある政策の中でも、廃藩置県は最も重大な政策でした。廃藩置県により藩の集まりだった日本が新政府の下に統一されたことで、現代日本の原形が造られたとも言えます。
■廃藩置県のデメリット(急すぎた改革と反乱)
しかし、廃藩置県とそれに続く数々の政治改革は急すぎました。上に挙げた例だけでも、1872年〜74年のわずか数年で目まぐるしく日本が変わっていることがわかると思います。
一連の政治改革はその急進性ゆえに、人々からの強い反発も招きました。
- 1873年血税一揆が起こる
人々に負担を強いる徴兵令や学制に反対する大規模な一揆が発生
- 1876年地租改正一揆が起こる
重税に苦しむ人々が各地で一揆を起こした
- 1877年
急な政治改革は士族の反乱も招き、西郷隆盛を中心とした西南戦争が勃発

廃藩置県そのものには反対が少なかったけど、その後の改革ラッシュで多くの人が苦しむことになった。メリットは計り知れないけど、デメリットも無視できない大改革だったんだ。
テストに出る!廃藩置県の重要ポイント&覚え方

ここからはテスト対策!廃藩置県で押さえておくべきポイントを整理しておくよ。
■廃藩置県の覚え方(語呂合わせ)
「いや(18)ない(71)!もう藩はいらない!」
→ 1871年、藩を廃止する=廃藩置県
※「藩なんていやだ、もういらない!」というイメージで、1871年を覚えましょう。

あわせて、版籍奉還は「人は(18)むく(69)われる版籍奉還」→1869年とセットで覚えておくと、テストで混同しにくくなるよ!
よくある質問(FAQ)
1871年(明治4年)7月14日に断行されました。版籍奉還(1869年)の2年後のことです。
各藩がバラバラに支配していた日本を、明治新政府の一元的な統治下に置くことが目的です。版籍奉還では旧藩主が知藩事として支配を続けたため、藩そのものを廃止する必要がありました。
版籍奉還は藩主が土地・人民の支配権を形式上返しただけで、旧藩主が知藩事としてそのまま統治を続けました。一方、廃藩置県は藩そのものを廃止し、知藩事を全員罷免して中央政府が派遣した府知事・県令に置き換えました。名ばかりか実質かの違いです。
当初は1使・3府・302県でした。その後、同年11月に72県に統合、1889年ごろには3府43県1庁(北海道庁を含め計47)の形が整い、1943年の東京都制施行を経て現在の47都道府県になりました。
廃藩置県後、府(東京・大阪・京都)には「府知事」、県には「県令」が置かれました。いずれも中央政府が任命した役人です。1886年以降に県令は「県知事」と呼ばれるようになりました。
中心となったのは木戸孝允・大久保利通・西郷隆盛の3人(維新の三傑)です。木戸孝允の邸宅で秘密裏に計画を練り、一気に断行しました。
廃藩置県のまとめ
廃藩置県(1871年)は、300もの藩をまるごと廃止して全国を県に置き換えた、明治維新でも最大クラスの改革でした。
木戸・大久保・西郷の三傑が秘密裏に計画して、御親兵の軍事力を後ろ盾に一気に断行。借金を肩代わりしつつ華族の身分も保証したから、各藩はほぼ無抵抗のまま消えてしまいました。
地租改正も徴兵令も、この廃藩置県なしじゃ絶対に実現できなかった話で、明治維新の中でもトップクラスに重要な改革です!
- 1867年王政復古の大号令
天皇親政が宣言される
- 1869年版籍奉還
藩の所領を返上させるが、旧藩主が知藩事として支配を続け不完全に終わる
- 1871年御親兵の編成
薩摩・長州・土佐の3藩の兵で新政府初の直属軍隊を編成
- 明治4年7月9日木戸孝允邸で密議
木戸孝允・大久保利通・西郷隆盛ら7名が廃藩置県の計画を練る
- 1871年7月14日廃藩置県の断行
知藩事を皇居に集め、天皇の御前で廃藩置県を宣言。1使・3府・302県が設置される
- 1871年末第1次府県統合
同年11月に1使・3府・72県に統合される
- 1889年ごろ47都道府県の原形が完成
3府43県1庁(北海道庁を含め計47)の形が整う(1943年に東京都制施行で47都道府県に)
- 1943年東京都制施行
東京府が東京都となり、現在の1都1道2府43県=47都道府県が完成

以上、廃藩置県のまとめでした!
廃藩置県の前後の流れを知りたい人は、下の関連記事もあわせて読んでみてください!
山川出版社『詳説日本史』
Wikipedia日本語版「廃藩置県」「御親兵」「木戸孝允」「大久保利通」「版籍奉還」「知藩事」
コトバンク「廃藩置県」「版籍奉還」「徴兵令」「地租改正」「県令」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
国立公文書館デジタルアーカイブ「廃藩置県」関連資料
📚 明治時代の記事をもっと読む → 明治時代の記事一覧を見る





