今回は1884年に起こった秩父事件という事件についてわかりやすく解説していきます。
最初に、手元の教科書から秩父事件の概要を抜粋しておきます。
この記事では秩父事件について以下の点を中心にわかりやすく解説していきます。
【悲報】日本で生活するのは無理ゲー
秩父事件が起こった1880年代というのは、庶民たちにとってはまさに地獄の時代でした。多くの人々が貧困に苦しみ、工場などの劣悪な環境の中、過酷な労働で悲惨な生活を送ることになります。
その原因はいろいろありますが、主に以下の3点が大きな原因でした。
それぞれ簡単に解説しておきます。
増税
明治時代というのは、富国強兵・殖産興業を目指してとにかくお金を使いまくった時代でもあります。そのため、国の財政は常に資金不足。
そこで、明治政府はあの手この手を使って民衆に対して税率を上げて、重税を課すことにしました。民衆は一揆運動や自由民権運動で対抗しますが、明治政府に勝つことはできません・・・。
物価の大暴落(デフレーション)
1877年、明治時代最大の内乱となった西南戦争が起こります。戦争には軍資金が必要ですが、明治政府にそんなお金はありません。
そこで、明治政府は紙幣を大量発行します。そして、これが大きな問題となります。
西南戦争が終わるとその大量の紙幣が、人々の生活の中へジャブジャブと流れ込んできます。お金を持つ人が増えると値段をあげても商品が売れるので、物価が上がります。物価上昇のことを経済用語でインフレーション(略称:インフレ)と言います。
そして、インフレになると明治政府の税収が減ることになります。
1881年に大蔵省のトップに就任した松方正義は、この事態に対応するため物価下落(デフレーション)政策を打ち出し、紙幣の流通量を減らしました(これを「松方デフレ」とか「松方財政」とか言います)。
つまり、人々の持つお金が少なくなるわけです。
すると、上のインフレーションおにぎりと真逆のことが起こり、同じ税額100円だったとしても実質的な増税となった・・・というわけです。
借金地獄で人生詰み
増税と松方デフレのダブルパンチによって多くの庶民たちは貧困化。しかも、秩父地方にはもう1つ、三本目の大パンチが飛んできます。
秩父地方は生糸がメイン商品でしたが、この生糸の価格が1882年を境に大暴落してしまったのです。(生糸の輸出先だったヨーロッパが不況に陥り、需要が減ったため)
こうして増税・松方デフレ(実質的増税)、に加えてシンプルに「収入が激減」してしまいました。
しかし、庶民たちがいかに貧困に苦しもうとも税金の取り立ては容赦なく行われます。そこで、庶民たちは税金を払ったり日常生活をするために高利貸しから借金をしました。
もちろん、こんな状況ですから返済の見込みはありません。そこで、金貸したちは返済代わりに借金者が保有する土地などの財産を奪いました。
こうして、借金地獄に陥った人々たちはお金も土地も全てを失って無一文となり、人生詰み・・・というわけです。
そして、人生に詰んだ彼らによって秩父事件は起こります。
困民党、立ち上がる
1883年、秩父地方で3人の農民が立ち上がりました。
3人は最初、役所に対して借金の返済期間の延長などを求めますがこれを断られました。
1884年2月、自由民権運動に邁進する自由党の大井憲太郎という人物が秩父地方へ演説にやってくると、これに共感した高岸・落合・坂本は自由党に入党。
自由民権運動の支援を受けた高岸たちは、3月に役所に対して請願書を提出しますが、再び却下。次は、村の人々の著名を大量に集めて、役所に迫りますが、これも却下されてしまいます。
1884年7月、役所への請願が無駄だとわかると次は高利貸し本人のもとへ押しかけ、返済延期などについて直接交渉を始めます。
この頃になると、高岸たちに賛同する村や人々も増え、行動も次第に組織化されていき、借金苦で苦しむ人々の集まりである「困民党」が形成されていくことになります。
・・・ところが高利貸しとの直接交渉も上手くいきません。この非合法な行動に警察が介入して邪魔をしたからです。代表格だった高岸善吉は警察に捕らえられ、暴行を受けることになります。
1884年9月、「役所への請願」「高利貸しとの直接交渉」と解決の道を塞がれ、追い込まれた困民党は、ついに最終手段である一斉蜂起の計画を始めます。これが秩父事件となります。
秩父事件の計画
1884年9月、困民党は一斉蜂起に向けて組織体制を強化し、さらに4つの目標を掲げます。
要するに「借金の返済の先延ばし」と「減税」を勝ち取ろう!」というのが目標というわけです。
そして、困民党の総大将には田代栄助、副大将には加藤織平という人物が抜擢されます。二人とも自由党の党員であり、農民たちからの人望も非常に厚い人物です。
困民党の幹部の多くは自由党の党員であり、自由民権運動と密接に関わっていました。
1884年10月、凶作に見舞われた秩父地方では人々の疲弊が限界を迎え、「もう限界だから早く蜂起しよーぜ!」という声が大きくなります。
全国組織である自由党の幹部はこれに反対し、困民党のトップである田代栄助もこれを制止します。
みんな!なんとか30日耐えてくれないか。
もう少し待てば、群馬県や長野県も立ち上がるはず。それまで待ち、一挙にして蜂起をするのだ!!
1884年5月には群馬(群馬事件)、9月には茨城(加波山事件)で似たような暴動が起こっていました。
秩父地方以外でも民衆の不満は限界に達していたので、「今ここで秩父が立ち上がれば、他の地方も立ち上がってくれるはず!」と田代栄助は考えたのです。
・・・が、生活苦の限界に達している多くの村民たちに、そんな余裕は残されていません。
10月31日、蜂起の延期は不可能と悟った田代栄助は遂に蜂起を決断します。
同じ時期、自由党は、まさに秩父の困民党のような過激派の人たちを抑えきれず(加波山事件)、秩父事件の蜂起が決まった2日前の10月29日に解散してしまいました。
蜂起を決めた困民党は、バックの自由党が解散してしまったことを知らずに蜂起していた可能性があります。
秩父事件、起こる
田代栄助らが決起したのは、今の秩父市下吉田村にある椋神社。決起時点は約3000人ほどの農民らが集まったと言われています。
決行日は11月1日。困民党は椋神社を中心に秩父地方一帯の高利貸しを襲い、役所にある借金に関する書類を焼き払います。
1日から2日にかけて困民党は強い抵抗を受けることもなく、各地の役所や高利貸しを蹂躙します。ちょうど11月1日、埼玉県に政府の偉い人が来るため、その警備に人が当てられおり地方の警官の配置が手薄になっていたためです。(これを狙って事件を起こした・・・?)
困民党の敗北・・・
蜂起が始まるとその参加者は膨れ上がり、最終的には5000人規模の大規模蜂起にまで発展したとも言われています。
政府は当初、警察隊を送り込み鎮圧しようとしますが苦戦を強いられ、最終的に軍隊まで導入するハメになります。それほど秩父事件の暴動は大規模なものだったし、人々の不満が限界に達していた・・・ということです。
初戦は怒涛の進撃を見せた困民党ですが、政府が本腰をあげると状況は逆転。11月4日になると困民党は各地で敗北し、幹部たちは次々と捕らえれてしまいます。
特に激戦となったのは以下の三箇所。
地理感がない人は地名を聞いてもサッパリだと思うので、地図でもまとめておきました。
秩父市を中心に各地で起こった蜂起なので「秩父事件」と呼ぶわけですね。
秩父事件のその後・・・
秩父事件の後、困民党の人々は処罰を受け、幹部には死刑宣告が言い渡されます。
田代栄助・高岸善吉・坂本宗作は処刑されました。落合寅一は死刑を免れますが、翌年の1885年に起こった大阪事件に関与し逮捕されます。
幹部には死刑宣告を受けたものの、逃亡し北海道で余生を過ごした井上伝蔵という人物もいました。井上伝蔵は、自らが政府に追われる身であることを子供に隠し続け、死ぬ間際に秩父事件の真実を息子に伝えた・・・とも言われています。
教科書なんかでは、困民党=秩父事件の蜂起集団というイメージですが、実は困民党のような組織は各地にあって、政府に対する反対運動を続けていました。
秩父事件は各地で起こった蜂起の中でも特に大規模なものであり、当時多発していた蜂起の代表として秩父事件が取り上げられている・・・というわけです。
秩父事件の後、大規模な蜂起は起こらなくなり貧困に苦しむ人々の多くは財閥(三菱や三井)などが経営する工場などで過酷な労働を強いられることになります。
困民党の敗北は、日本の貧富の差の拡大を意味していました。そして貧富の差は、そのまま資本家階級(ブルジョワジー)と労働階級(プロレタリアート)の階級を生みます。
資本家階級と労働階級に人々が二分化する社会は、まさに資本主義社会そのものであり、各地の困民党の敗北をきっかけに、日本は資本主義への道を本格的に歩み始めることになります。(そして資本主義は、現在もなお続いています。)
そして、労働階級の登場はその後の労働組合結成や、共産主義の台頭と深く結びつくことになります。
秩父事件の年表まとめ
- 1883年秩父地方で高岸・落合・坂本ら農民が立ち上がる
- 1884年3月高岸善吉ら、役所に借金返済の延長などを求める請願書を提出
- 1884年5月群馬地方で貧困に苦しむ人々が暴動を起こす(群馬事件)
- 1884年7月高岸善吉ら、高利貸しの家に押しかけて、警察と揉める
この頃になると、高岸善吉らの勢力は拡大し「困民党」と呼ばれる組織ができていた。
- 1884年9月加波山事件(茨城県)
茨城で起こった自由民権運動急進派の暴動。
- 1884年10月加波山事件をきっかけに自由党解散
自由民権運動の主体である自由党は、急進派を抑えきれず政府にマークされてしまい解散に追い込まれる。
- 1884年11月秩父事件←この記事はココ
コメント