

今回は1637年に起きた島原の乱(島原天草一揆)について、場所・原因・きっかけ・天草四郎の死因まで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
youtube解説もしています。読むのが面倒な人は動画がオススメ◎
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
実は、島原の乱の最大の原因はキリスト教弾圧ではなく、領主による異常な重税でした。幕府も当初は「宗教反乱」ではなく「百姓一揆」として捉えていたほどです。「キリシタンの反乱」という印象だけで終わらせるのはもったいない——島原の乱には、江戸時代初期の幕藩体制が抱えた矛盾が凝縮されています。
島原の乱とは?【3行でわかるポイント】
- 📅 いつ:1637〜1638年(江戸時代初期・3代将軍・家光の治世)
- 📍 どこ:肥前国島原半島(現・長崎県)+天草諸島(現・熊本県)
- ❓ なぜ:領主の苛酷な重税とキリスト教弾圧に農民・浪人が蜂起した一揆
島原天草一揆は、江戸時代に起きた最大規模の農民一揆です。農民や浪人、旧キリシタンの家臣などが合わせて3万7,000人ともいわれる人数で蜂起し、幕府はこれを鎮圧するために12万ともいわれる大軍を投入しました。江戸幕府が成立して約30年しか経っていないこの時期に起きた反乱は、幕府に大きな衝撃を与えました。

「島原の乱」と「島原天草一揆」、どちらも同じ出来事を指しているんだ。「島原の乱」はキリシタンの反乱という側面を強調した呼び方で、「島原天草一揆」は農民一揆という側面を前面に出した呼び方だよ。現在の山川出版社の教科書では「島原天草一揆」が正式な表記として使われているんだ。

テストには「島原の乱」と「島原天草一揆」どっちで書けばいいの?

山川教科書を使っている人は「島原天草一揆」で書くのが無難だよ!教科書によって表記が違うこともあるから、自分が使っている教科書の表記に合わせるのが一番安心だね。
島原の乱はどこで起きた?場所と舞台【地図あり】
島原の乱の舞台は、現在の長崎県(肥前国島原半島)と熊本県(天草諸島)の2か所です。最終決戦の地は、島原半島の南端に位置する原城(現・長崎県南島原市)でした。
島原半島は肥前国(現・長崎県)の南部に突き出た半島で、松倉氏が支配する島原藩の領地でした。一方、有明海を挟んで向かいに浮かぶ天草諸島は寺沢氏が治める領地で、両地域はそれぞれ別々に蜂起した後、合流して原城に籠城することになります。


島原(長崎県)と天草(熊本県)って県が違うから遠そうに見えるかもしれないけど、有明海を挟んで目と鼻の先なんだよ!船に乗れば数時間で行き来できる距離。だから両地域の農民が連携して蜂起できたんだね。

原城はかつて有馬晴信(旧キリシタン大名)が築いた城で、廃城になっていましたが、一揆勢はこの難攻不落の地を最終拠点に選びました。三方を海に囲まれた半島の突端に位置するため、正面からの攻撃しかできない地形で、12万の幕府軍でも容易には落とせなかったのです。現在は世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として保護されています。

原城跡が世界遺産に登録されているって知らなかった!なぜこの地域にキリシタンが多かったの?

実はここ、もともと有馬晴信というキリシタン大名が支配していた土地なんだ。晴信が積極的に改宗を奨励したせいで、島原・天草一帯にはキリスト教が深く根付いていたんだよ。その後、関ヶ原の戦い後に松倉氏・寺沢氏に代わっても、住民の信仰はそのまま残っていたんだ。
島原の乱の原因・時代背景——重税とキリスト教弾圧
島原の乱が起きた根本的な原因は大きく2つあります。一つは領主による苛酷な重税、もう一つはキリスト教弾圧です。この2つが重なって農民たちの忍耐は限界に達し、ついに爆発したのです。
問題①:松倉氏・寺沢氏の異常な重税——実態より高い石高で検地を行い、払えない農民を「蓑踊り」などの拷問・処刑に処した
問題②:キリスト教弾圧(禁教令)——幕府の禁教令(1612年〜)を受け、踏み絵・拷問でキリシタンを摘発。信仰を捨てない者は処刑された
島原藩主・松倉重政(のちに子の勝家が引き継ぐ)は、前藩主・有馬晴信から引き継いだ石高よりもはるかに高い年貢を農民に課していたとされています。それだけでなく、年貢を払えない農民に対して「蓑踊り」と呼ばれる残酷な拷問を行ったという記録も残っています。蓑踊りとは、農民に藁の蓑を着せて火を放つ拷問のことで、その苦しむ様子を「踊っているようだ」と称したとされています。

島原半島はもともと、有馬晴信というキリシタン大名が支配していた土地です。晴信は宣教師ルイス・デ・アルメイダを招くなど、積極的にキリスト教を奨励しました。そのため島原・天草一帯には多くのキリスト教徒が生まれ、関ヶ原後に別の大名に領主が代わっても住民の信仰はそのまま残っていたのです。松倉氏による禁教令の強制とキリシタンへの弾圧が、重税問題と重なって一揆の温床をつくりました。
一方、天草でも寺沢氏による厳しい支配が続いていました。天草は小西行長というキリシタン大名の旧領で、こちらにも信仰を持つ農民や旧家臣が多く残っていました。重税とキリシタン弾圧という共通の苦しみが、島原と天草の農民を結びつけることになったのです。

幕府がキリスト教を怖れた理由は2つあるよ。①「神(ゴッド)は将軍より上位」という考え方が主従秩序を崩す危険があること、②スペイン・ポルトガルが宣教師を使って植民地支配をしていた前例があること。今でいう「特定の組織が国家権力より上に立とうとしている」みたいなイメージかな。幕府にとってはほんとうに脅威だったんだよ。
島原の乱のきっかけ——直接の発端はこの事件だった
重税と弾圧という「火薬」が積み重なっていたところに、1637年10月、ある事件が「火花」となって一揆が爆発しました。

ここで「原因」と「きっかけ」の違いを整理しておこう。
・原因(背景):長年の重税・弾圧の蓄積 = ガソリン
・きっかけ(直接の発端):庄屋の妻への拷問致死事件 = 火花
ガソリンがなければ火花が飛んでも爆発しない。この区別、論述テストでも重要なポイントだよ!
直接のきっかけとなったのは、1637年10月、島原の代官が年貢を払えない農民の妻を厳寒の中に水責めで拷問し、死亡させたとされる事件です。この非道な仕打ちに農民たちの怒りが爆発。島原の農民はまず代官の小川官兵衛を殺害し、その勢いで領主館を攻撃しました。

もう限界だ…!米を全部取られて家族を食わせることもできない。無実の女性まで拷問で殺されて…。神様、もう黙って見ていられません!
同じ頃、天草でも同様の蜂起が起こりました。島原と天草の農民・浪人は連絡を取り合い、廃城となっていた原城に集結することを決めます。1637年11月には両勢力が合流し、3万7,000人ともいわれる一揆勢が原城に籠城しました。こうして幕府は大規模な討伐を余儀なくされることになったのです。

3万7,000人ってすごい人数だね…。それだけ農民が追い詰められてたってこと?

そうなんだ。しかも一揆勢の中には農民だけじゃなく、旧キリシタン大名(小西行長・有馬晴信)の家臣だった浪人も多く含まれていたとされているよ。戦う術を知っている武士崩れが加わっていたから、幕府軍もなかなか簡単には勝てなかったんだね。
天草四郎とはどんな人物?【死因・年齢まで解説】
まず検索で多い疑問に端的に答えます。
⚔️ 天草四郎の死因・享年:1638年4月の原城総攻撃で幕府軍に討ち取られました。享年は16歳ほどとされていますが(諸説あり)、首実検が行われたという記録が残っています。
天草四郎の本名は益田時貞といいます。旧キリシタン大名・小西行長の元家臣・益田甚兵衛の息子とされており、幼い頃からその聡明さと美貌で人々に神秘的な印象を与えていたといわれています。一揆が起きた当時の年齢は16歳ほどとされていますが、諸説あり正確なことはわかっていません。

我らには神がついている!この命、神のために捧げよう——たとえ世界中を敵に回しても!

天草四郎が総大将に選ばれた背景には、「神の子」という伝説があったとされています。水の上を歩いたとか、病人を癒したといった奇跡的なエピソードが伝えられており(史料的な確証はなく伝承の域とされています)、農民や旧キリシタンの浪人たちはこの少年に希望を見出したのです。
そして天草四郎は自ら望んで総大将になったわけではなく、農民・浪人たちに担ぎ上げられたという側面が強かったとも言われています。それでも彼は一揆勢の精神的支柱として原城での約4か月にわたる籠城戦を率い、最後まで戦い続けたのです。

天草四郎って結局どうやって死んだの?何歳くらいで死んだの?

1638年4月の原城総攻撃のとき、天草四郎は幕府軍に討ち取られたんだ。享年は諸説あって、16歳くらいだったとされているよ。首実検(誰の首かを確認する儀式)が行われたという記録が残っているんだ。今でいう高校1年生くらいの年齢で、あれだけの大軍と戦い続けたんだよ…。
天草四郎の死因は1638年4月の原城総攻撃での討ち取りとされています。享年は16歳ほどとされていますが(諸説あり)、その短い生涯で江戸幕府を揺るがす大反乱を率いたことから、後世に伝説的な人物として語り継がれることになりました。
⚔️ 意外な参戦者?宮本武蔵と島原の乱:宮本武蔵が島原の乱に参戦したという記録が一部に残っています。「投石で負傷した」というエピソードも伝わっていますが、学術的には確証がなく諸説ある段階です。武蔵の生涯を記した一次資料に直接の記述が乏しく、史料の信憑性についても研究者の間で議論が続いています。
島原の乱の経緯【原城籠城から終結まで】
1637年10月に蜂起した農民・浪人勢は、島原側と天草側が合流して原城に籠城しました。その数は約3万7,000人ともされています(諸説あり)。原城は肥前国島原半島の南端にあり、三方を海に囲まれた天然の要害です。廃城になっていたとはいえ、防御に優れた立地が籠城戦を長引かせることになりました。
経緯①:1637年12月——幕府は上使・板倉重昌を総大将に、約12万の大軍を派遣した
経緯②:1638年1月——板倉重昌が焦って総攻撃を断行し戦死。後任に松平信綱が就いた
経緯③:1638年2月——松平信綱がオランダ商館に協力を要請。オランダ船「デ・ライプ号」が原城を砲撃した

板倉重昌の戦死は幕府にとって大きな衝撃でした。幕府の上使(将軍の使者)が戦場で命を落とすのは異例中の異例で、幕府の威信に関わる事態です。後任の松平信綱は慎重に包囲を続け、籠城勢の食糧・弾薬が尽きるのを待つ作戦に切り替えました。

ここで面白いのが「オランダが幕府側に協力した」という事実だよ。当時の西洋勢力はスペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスがあったんだけど、スペインとポルトガルはカトリックで宗教布教に積極的だった。でもオランダはプロテスタントで、「貿易だけしたい。宗教は持ち込まない」というスタンスだったんだ。だからこそ幕府に信用され、砲撃支援を頼まれたわけ!
当時のオランダ東インド会社(VOC)は日本との貿易を非常に重視していました。キリスト教布教をしないプロテスタントであることが幕府に評価されており、幕府の要請に応えることで「信頼できる貿易相手」という立場を確保しようとしたと考えられています。この協力が後の鎖国体制でオランダだけが長崎・出島での貿易を許された背景のひとつとされています。
籠城から約4か月が経過した1638年4月、食糧も弾薬も尽き果てた原城に対して松平信綱が総攻撃を命じました。幕府軍12万対籠城勢約3万7,000人という数の差もあり、原城は落城。天草四郎は討ち取られ、籠城勢はほぼ全滅したとされています。

食糧も弾薬も尽きた……。だが、我らは最後まで神を信じて戦い続けた。この命に悔いはない。
なお、オランダによる砲撃支援については、後に籠城側への影響は限定的だったとも言われています。しかしこの「外国勢力を利用して国内の反乱を鎮圧した」という事実が、幕府にとってスペイン・ポルトガルとの関係見直しを決定的にさせたとも考えられています。
⚓ 「神風が吹く」という伝承について:籠城中に「神風が吹いて幕府軍の船が沈む」という天草四郎の予言があったと伝えられています。実際に暴風雨が起き幕府軍に損害が出たという伝承もありますが、この予言の信憑性は史料的に確認できておらず、後世に形成された伝説とみなされています。

板倉重昌と松平信綱って、テストではどっちを覚えればいいの?

中学レベルでは両方は出にくいけど、高校・共通テストでは「板倉重昌が戦死して松平信綱に交代した」という流れが問われることがあるよ。特に「幕府の上使(総大将)が戦死した」→「これは異例の事態で、後任に老中の松平信綱が派遣された」という点はセットで覚えておくといいね!
島原の乱の影響・その後【なぜ皆殺しに?生き残りは?】
1638年4月の原城落城後、籠城勢はほぼ全滅したとされています。その数は約3万7,000人ともいわれていますが(諸説あり)、これほどの規模での「皆殺し」はなぜ行われたのでしょうか。

農民たちが12万の幕府軍に4か月も抵抗し続けたのは驚きだけど……なぜ降伏させずに皆殺しにしたの?

理由は大きく3つとされているよ。①キリシタンは神への誓いを最優先にするため、生かしておくとまた反乱を起こすという恐れがあった。②先に送り込んだ板倉重昌が戦死して幕府の威信がズタボロになっており、「見せしめ」の必要があった。③松平信綱は「早期・完全鎮圧」を将軍から命じられており、政治的に中途半端な決着が許されなかった。当時の幕府にとって、これは宗教の問題というよりも「秩序を維持するための示し」だったんだ。
■ 生き残り「山田右衛門作」の話
籠城勢がほぼ全滅したなか、数少ない生き残りとして記録されているのが山田右衛門作です。彼はポルトガル人から西洋画法を学んだ南蛮絵師として技術を持ち、島原藩のお抱え絵師を務めていたため、幕府に助命されたとされています。乱の詳細を証言し、その後はキリシタン摘発に協力したとも伝わっており(諸説あり)、彼の証言が一揆の様子を後世に伝える貴重な記録となりました。
🎨 山田右衛門作について:原城での唯一の(ないしは数少ない)生存者として江戸時代の記録に登場します。ポルトガル人に西洋画法を学んだ南蛮絵師で、島原藩の有馬・松倉家に仕えたとされています。絵師としての技術ゆえに幕府に生かされたという逸話は複数の史料に見られますが、その詳細な生涯については史料的に確認できる部分が限られており、一部は後世の伝承と混在している可能性もあります。
■ 松倉勝家の斬首——大名が刑死した異例のケース
乱の原因を作った島原藩主・松倉勝家は、乱の終結後に江戸に召還され、改易(領地・家格の剥奪)のうえ斬首に処されました。江戸時代を通じて大名が公式に斬首されたのは極めて稀なケースで、幕府がいかに島原の乱を深刻に捉えていたかを示しています。

普通、大名は改易(クビ)になることはあっても、処刑まではされないんだよ。でも松倉勝家は「苛政で民を追い詰め、江戸時代最大の反乱を引き起こした」という理由で斬首された。「大名を殺してでも示しをつけた」——これが幕府の強さを改めて示した出来事でもあったんだ。
■ 鎖国の完成と禁教令の強化
島原の乱の最大の影響は、鎖国体制の完成です。幕府は乱をキリシタン問題と深く関連づけて捉え、1639年にポルトガル船の来航を全面禁止。1641年にはオランダ商館を長崎の出島に移転させ、外国との接触を出島・長崎・対馬・薩摩・松前の5か所に限定しました。全国でも絵踏・宗門改め制度が強化・全国化され、キリシタンの摘発体制が整えられていきました。
🔗 島原の乱→鎖国完成→江戸の平和という連鎖:島原の乱(1637〜38年)がひとつのきっかけとなってポルトガル船来航禁止(1639年)・オランダ出島移転(1641年)が実現し、鎖国体制が完成しました。これ以降、江戸時代約200年間にわたって大規模な内乱は起きず、「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」とも呼ばれる安定期に入っていきます。その起点に島原の乱があったとも言えます。
もし島原の乱が起きなかったとしたら、幕府の鎖国政策はどうなっていたでしょうか。実は、ポルトガルの排除自体は乱以前から検討されており、貿易上の対立(生糸の取引をめぐる摩擦)も重なっていました。一方で、鎖国が「キリシタン対策」として一気に推進された側面は確かにあり、島原の乱がそのタイミングを早めたという見方も研究者の間でされています。歴史に「もしも」はありませんが、島原の乱が江戸時代の対外政策を決定づけるひとつの引き金になったことは間違いないでしょう。
また、島原の乱の約18年後の1657年には明暦の大火が江戸を焼き尽くしますが、この頃にはすでに大規模な武力反乱は島原の乱を最後に起きておらず、幕府の統制が全国に浸透していました。
よくある質問
根本的な原因は、島原藩主・松倉氏と天草の寺沢氏による苛酷な重税と、幕府の禁教令に伴うキリスト教弾圧です。直接のきっかけは1637年10月、代官が年貢を払えない農民の妻を拷問死させた事件とされています。重税(原因)という大量のガソリンがあったところに、この事件(きっかけ)という火花が落ちた形です。
天草四郎(本名・益田時貞)は、旧キリシタン大名・小西行長の元家臣の息子でした。「水の上を歩く」「病人を癒す」といった奇跡のエピソードが伝えられており(史料的な確証は薄く伝承とされています)、農民や旧臣たちから「神の子」として崇められていました。16歳ほどという若さながら(諸説あり)、そのカリスマ性ゆえに一揆の精神的支柱として担ぎ上げられたとされています。
1637年10月〜1638年4月にかけて、肥前国島原半島(現・長崎県南島原市)と天草諸島(現・熊本県天草市)を舞台に起きた大規模な農民一揆です。最終決戦の地は島原半島南端の原城(はらじょう)で、現在は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録されています。
キリスト教的な要素(天草四郎の「神の子」としての役割・一揆側の旗印など)は確かにありましたが、最大の原因は領主による重税でした。幕府も当初は宗教的反乱ではなく「百姓一揆」として捉えていたほどです。現在の山川教科書では「島原天草一揆」と呼ぶのはそのためで、農民一揆という側面を重視した名称です。
スペイン・ポルトガルはカトリックで宗教布教に積極的でしたが、オランダはプロテスタントで「貿易のみ」というスタンスだったため、幕府にとって信頼できる相手でした。オランダ側も日本との貿易関係を維持したいという意図から協力に応じたとされています。この砲撃支援がのちの鎖国体制でオランダだけが長崎・出島での貿易を認められた背景のひとつとされています。
大きく3点が変わりました。①鎖国の完成(1639年ポルトガル船来航禁止・1641年オランダ商館を出島へ移転)。②絵踏・宗門改め制度の全国強化(キリシタン摘発を制度化)。③松倉勝家の改易・斬首(大名に対して幕府が強い統制力を示した)。島原の乱は江戸時代最後の大規模武力反乱となり、この後約200年間、大きな内乱は起きませんでした。
島原の乱についてもっと詳しく知りたい人へ

島原の乱をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!テスト対策・歴史読み物・天草四郎の謎と、目的別に3冊選んだので参考にしてみてね。
まとめ——島原の乱が江戸時代に残したもの
- 1637年10月島原・天草で農民・浪人が蜂起。代官・小川官兵衛らを殺害
- 1637年11月天草四郎(益田時貞)を総大将に、約3万7,000人が原城に籠城
- 1637年12月幕府、上使・板倉重昌を総大将に約12万の討伐軍を派遣
- 1638年1月板倉重昌が総攻撃を強行し戦死。松平信綱が新総大将に就任
- 1638年2月オランダ商館船「デ・ライプ号」が幕府の要請で原城を砲撃
- 1638年4月原城総攻撃。天草四郎討ち取り。籠城勢はほぼ全滅とされる
- 1638年松倉勝家、江戸に召還・改易・斬首。大名の斬首は江戸時代でも異例
- 1639年ポルトガル船の来航を全面禁止(鎖国強化)
- 1641年オランダ商館を長崎・出島に移転。鎖国体制が完成

以上、島原の乱(島原天草一揆)のまとめでした。下の記事で関連する江戸幕府の禁教令や、3代将軍・徳川家光の政策についてもあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「島原の乱」(2026年7月確認)
Wikipedia日本語版「天草四郎」(2026年7月確認)
Wikipedia日本語版「山田右衛門作」(2026年7月確認)
コトバンク「島原天草一揆」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「松倉勝家」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「島原天草一揆・1637年・天草四郎・原城・松倉勝家斬首・鎖国完成1641年」の6点セットで覚える。論述では「重税+弾圧→一揆→板倉重昌戦死→鎖国完成」という因果の流れを書けると高評価。「なぜ鎖国したか」の理由のひとつとして島原の乱を挙げられるようにしておこう。

テストで一番よく出るのはどこ?ズバリ教えて!

ズバリ、「天草四郎・原城・1637年・鎖国完成への影響」の4点が最頻出だよ!特に「島原の乱の影響として鎖国が完成した」という因果関係を論述で書けるようにしておくと、定期テストでも共通テストでも強いよ。頑張ってね!
📚 江戸時代の記事をもっと読む → 江戸時代の記事一覧を見る
Amazonのアソシエイトとして、まなれきドットコムは適格販売により収入を得ています。

