藤原道長が生きていた平安時代中期の貴族の時代。この時代は、「貴族たちの日記」という超貴重な史料がたくさん残っているため、現代の我々でも当時の人々の生活を鮮明に知ることができます。
そんな事情もあってか、当時朝廷内で活躍していた興味深い人たちのこともたくさん知ることができます。今回は、そんな興味深い人物の1人として藤原行成(ふじわらのゆきなり)という人物について紹介してみたいと思います。
藤原行成は三蹟の一人!
藤原行成は、世間一般には三蹟(さんせき)の一人として有名です。三蹟とは平安時代中期に活躍した3人の書道家を言います。藤原道長の時代は、「国風文化が発展した時代」として有名であり、書道家もこの例外にもれず、これまでは中国風がメインだった書道は進化を遂げ、いわゆる「和様」と呼ばれる日本独自の書道スタイルへと変化していきました。そんな和風の書道スタイルを作り上げたのが、小野道風・藤原 佐理・藤原行成の3人であり、この3人のことを三蹟と言います。
ですが、この記事では書道の話はしません。藤原行成の官僚としての一面に焦点を当ててみることにします
藤原行成は没落したとある藤原一族の末裔
藤原行成は藤原伊尹(これただ)という人物の孫に当たります。上図を参考にしてみてください(昔の記事の使い回しですが・・・)
藤原伊尹は以下の記事で登場しているので、知らない方は参考までにどうぞ(すぐに亡くなってしまうので、登場機会は少ないですが・・・)
藤原伊尹は円融天皇の時代、摂政にまで登りつめた権力者でしたが、その後すぐに亡くなってしまい、権力は伊尹の弟たちへと移り変わっていきました。
この権力の移動により、藤原伊尹の一族は没落していくこととなります。結果的に、藤原兼家という人物の一族が栄えるようになります(兼家は藤原道長の父に当たります。)
つまり、藤原行成は没落した一族の末裔だったということになります。(没落と言っても最高権力者になれなかったというだけなので、それなりの地位にはありました)
そんなパッとしない藤原行成ですが、偶然にも破格の待遇を受けることとなり、蔵人頭というエリート役職に登りつめることができました。そして、蔵人頭として一条天皇と藤原道長の間で超重要な任務を担うことになります。
なぜ没落したはずの藤原行成は、エリートにしかなれない蔵人頭という役職になることができたのでしょうか?
藤原行成と蔵人頭
まずは、「蔵人頭」という役職について説明します。
蔵人頭とは?
蔵人頭とは、蔵人所と言う部署のトップになります。そして蔵人所とは、天皇の秘書業務を行う部署です。藤原行成は、秘書部門のトップだったということになります。
蔵人頭は、高い官位へと進むための登竜門的な役職と考えられており、将来を期待されている人物が就く役職でした。没落した家系だった藤原行成にその役職を与えられたというのは通常では考えられないことでした。
藤原行成の恩人、源 俊賢(としかた)
通常考えられなかった藤原行成の蔵人頭就任の背景には、源 俊賢という行成の友人の存在がありました。
蔵人頭は高い官位へ進むための登竜門だったという説明をしましたが、時代は995年、源 俊賢はまさに蔵人頭の役職を勤め上げ、出世コースへと進むところでした。
一方の藤原行成はと言えば、995年はまさにどん底のピークに達した年でした。
藤原行成の不遇の時代
藤原行成の生い立ちを超簡単に見てみます。生まれは972年であり、生まれてすぐに当時の権力者であった藤原伊尹の養子となりました。しかし、藤原伊尹は同年(972年)に間も無く死亡、その2年後には実父が亡くなっています。
当時は、藤原氏が強大な権力を持つようになり、藤原氏同士の争いが激化した時代でもありました。それが理由かはわかりませんが、行成を引き取ってくれる人は藤原氏内では見つからず、源保光という母方の祖父の下で生活をしていたようです。
藤原伊尹は権力者でしたが、結果的には藤原氏同士の争いの負け組です。血筋的には悪くない藤原行成でしたが、そこまでの出世は見込めず、20歳まで普通に下っ端の仕事をこなしていました。
そして、995年、藤原行成が20代前半の頃、これまで面倒を見てくれた源保光と行成の母が亡くなります。これに絶望した行成は官僚という仕事を捨て、出家することを考えるようになります。
藤原行成にとって995年は官僚を続けるか?それとも出世も見込めないし諦めて出家するか?の大きな分岐点に立たされていました。そんな大事な時期に救いの手を差し伸べたのが親友だった源 俊賢だったのです。
優秀だった?藤原行成の蔵人頭就任
995年、源俊賢は蔵人頭の任期を終え、次の蔵人頭を決めることになりました。蔵人頭は天皇の秘書なので、優秀かつ信用のおける人物が担う必要があります。一条天皇は、源俊賢に「次の蔵人頭は誰にしたら良いだろうか?」と相談しました。
源俊賢は一条天皇に藤原行成を推しました。ですが、一条天皇の反応はイマイチ。
一条天皇「源俊賢の言ってることはわかるけど、藤原行成って官位低いし無理なんじゃないかな・・・」
この反応を見た源俊賢はさらにこんな発言をします。
源俊賢「行成は大変優秀な人物です。身分だけで決めつけてしまうのはよくありません。行成は将来、朝廷内のどんな仕事でも耐えうるであろう資質の持ち主です。そのような優秀な人物を放っておいては、世のためになりません。帝(一条天皇)が、善悪をわきまえていればこそ、臣下も帝のために仕事に励むのでございます。この機会に行成が蔵人頭にならないことは大変残念でなりません。」
この猛烈な行成アピールを聞いて、一条天皇も行成を蔵人頭に任命することにしました。この人選は大正解で、蔵人頭は通常2〜3年で任期を終えることが多いのですが、行成は6年もの間蔵人頭を勤め上げるほど、天皇から信頼される存在になっていきます。(一条天皇の周りはなぜか優秀な人物ばかり集まってきます・・・)
源俊賢のアピールも、ただ行成が親友だからという理由だけではなく、本当に行成の優秀さを認めていたからこそ執拗に一条天皇にアピールできたものと私は考えています。
出家まで考えていた行成ですが、突如として破格の出世を遂げることになりました。
大物に頼られる藤原行成
藤原行成の仕事ぶりは、まさに源俊賢が言っていた通りのものでした。一条天皇・藤原道長という2人の大物から行成は絶大な信頼を置かれていました。
具体例は長くなってしまうので述べませんが、いついかなる時も一条天皇と藤原道長の間の伝言・調整役として活躍し、一条天皇も藤原道長も「行成なら私の意図を的確に相手に伝えてくれるだろう」と信頼し、本音を話していた節があります。
藤原道長の三后を実現させた功労者!
以下の記事で、一条天皇と藤原道長の間で将来の天皇を巡る意見の対立があったことを紹介しました。
後継者問題は常に政治における最高クラスの難問となりますが、実はこの問題、藤原行成の活躍で大事に至らずに解決することになりました。行成が持つ絶大な信頼感と話術?が功を奏したのでしょう。
名前が似ていてわかりにくいですが、当時、定子の子の敦康(あつやす)親王と彰子の子の敦成(あつひら)親王のどちらを将来の天皇にすべきか?が問題となっていました。一条天皇は敦康親王を、藤原道長は敦成親王を将来の天皇にしたいと考えており、お互いに意見が対立していました。
行成の活躍もあって、結果的に敦成親王が天皇となることになり、後に後一条天皇として即位することになります。
この行成の活躍がなければ、道長が三后を全て自分の娘にすることで絶大な権力を手に入れることはありませんでしたし、もしかすると朝廷内で大きな争いが起こっていたかもしれません。つまり、藤原道長にとって行成は恩人と言っても良いほどの関係なんです。(現に敦成親王が将来の天皇候補に決まった時、道長は行成に大変な感謝をしたそうです)
※三后って何?という方は以下の記事を読んでみてください!
藤原行成の複雑な生涯
行成自身どう思っていたかわかりませんが、行成の生涯は客観的に見るとなんとも複雑な生涯でした。
まず、道長と行成は親の立場だけで考えれば本来、ライバル関係にあります。(行成の家系は道長の家系に権力の座を奪われているからです。)行成はそんな道長を最高権力者へ押し上げる功労者になってしまいました。
道長と行成の対照的な死に様
行成は1028年に亡くなりますが、偶然にも道長が亡くなったのと同じ日でした。
当時の朝廷内では、最高権力者の藤原道長が亡くなったことばかりが話題となり行成の死は忘れ去られ、ひっそりと亡くなっていきました。勝ち組の道長と負け組の行成の対照的な状況がこの死に様を通じてより鮮明なものとなりました。
一条天皇と道長の関係を影から支えた行成ですが、最後の死に様もまた、影の立場に徹したものでした。これを悲しいと思うか、立派と思うかは難しいところです。
藤原行成の書いた日記「権記」
なぜ一官僚にすぎない藤原行成の行動がこんな事細かにわかるのかと言えば、行成が「権記」という日記を残していたからです。行成の日記は当時の様子がわかる貴重な史料となっています。
まとめ
一条天皇と藤原道長の話をする際は、影から2人を支え続けた行成の存在を忘れてはいけません!
さて、一条天皇が亡くなったのち三条天皇という天皇が即位することになります。そして三条天皇即位と同時に先ほど紹介した敦成親王が皇太子となっていきます。次回は、これに関連する話として一条天皇が崩御した時に残した辞世の句について少し考察をしてみたいと思います。
【次回】
【前回】
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