今回は、平安時代初期にでてくる三代格式・令義解・令集解について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
三代格式・令義解・令集解とは?
三代格式
格式というのは、律令の内容を補足したり、律令に書ききれない細かいルールを設けるために造られた法令のこと。
法令には、「格」と「式」の2種類があって、これをまとめて格式と呼んでいます。
格は、律令を手直しするための法令。
式は、律令には書ききれない細かな取り決めを書いた法令ってことだね!
そして、平安時代に作られた弘仁格式・貞観格式・延喜格式の3つのことを合わせて三代格式と言います。
※「三大」じゃなくて「三代」なので注意!
格式の弘仁・貞観・延喜っていうネーミングは、格式が作られた時代の年号に由来しているよ。
弘仁格式
弘仁格式は、嵯峨天皇の治世だった820年(弘仁11年)に完成して、その後に修正が加えられ、840年(承和7年)から運用がスタートしました。
貞観格式
貞観格式は、格は869年(貞観11年)、式は871年(貞観13年)に完成して、それぞれ同年に運用がスタートしました。
天皇の治世で言うと清和天皇の時代です。
延喜格式
延喜格は、907年(延喜7年)に完成して908年(延喜8年)に運用がスタート。
一方の延喜式は905年(延喜5年)に完成した後、紆余曲折を経て967年に運用がスタートしました。
作業が始まったのは、醍醐天皇の治世です。
延喜格式は、延喜・天暦の治とセットで覚えておくと忘れにくいからオススメだよ!
ちなみに、三代格式の中で現存しているのは延喜式だけです。
令義解
令に書かれている曖昧な内容を、誰が呼んでも同じ解釈ができるよう公式に統一した解説書。
833年に清原夏野たちによって作られました。
令集解
令の内容についてまとめた参考書。
9世紀後半(だいたい870年頃)に、惟宗直本と言う学者が個人的に作り上げました。
三代格式・令義解・令集解が作られた時代背景
三代格式・令義解・令集解がなぜ作られたのか、まずはその時代背景から見ていくことにします。
日本の律令が完成したのは、701年までさかのぼります。
701年に制定された数々の律令は全部まとめて大宝律令と呼ばれ、国家の根幹を成す重要な法律が整備されました。
ただし、整備したと言っても法律を0から作り上げたわけではありません。なぜなら、大宝律令に含まれる律令の数は膨大な量があり、何もない状態から制定できるような代物ではないからです。
・・・では、どうやって制定したのか?
簡単に言うと、お隣の大国「唐」の律令をパクることにしました。
大国である唐を支える律令なら、日本に導入してもしっかりと機能するだろう・・・と、朝廷の偉い人たちが考えたからです。
朝廷の目論見どおり、唐をパクった大宝律令は日本でもある程度は機能しました・・・が、完璧には機能しませんでした。
日本と唐では、価値観や文化も違うし、政治の仕組みだって全く同じわけではありません。
そのため、他国の制度を真似るだけでは、日本の政治にマッチしなかったのです。
そこで、大宝律令は制定後少しずつ修正が加えられ、日本オリジナルの律令へと洗練されていきました。
※その修正の一環として757年には大宝律令の改良版「養老律令」が制定されています。
そして、大宝律令が制定されて100年が経過した800年代に入ると、日本と唐の違いだけではなく、時代の変化にも対応する必要に迫られてきました。
そこで、時代の変化にも対応するために律令を改正したり、補足したりしようとしたのが、今回紹介する三代格式・令義解・令集解の3つなのです。
養老律令のように律令そのものを改正するのは、一大プロジェクトで大変な労力が必要なんだ。
だから朝廷は、律令を変えるのではなく、律令をサポートする法令(格式)を作ることで、律令を時代に合わせていこうとしたんだよ。
三代格式・令義解・令集解の歴史的な意義
ここまで読んで、こんな疑問を思った人もいるのではないでしょうか。
三代格式とか令義解・令集解のことはわかったけど、こんなマニアックなことを覚えて何か意味あるの?
なぜこんなマニアックなことが教科書に載っているのかというと、三代格式などの制定経過を追うことで、律令に沿った日本の政治(律令制)が崩壊していく様子がわかるからです。
法律っていうのは、時代に合わせてメンテナンスをしないと機能しなくなります。これは今も昔も変わりません。(今の日本の国会でも、実は毎年大量の法律が制定されたり修正されたりしていますよ。)
このメンテナンスの役割を果たしたのが、三代格式・令義解・令集解です。
逆に言えば、メンテナンスがされなくなった時こそが、律令が機能しなくなった時だということ。だから、三代格式・令義解・令集解の制定経過を追っていくと、律令制崩壊の動きがわかるのです。
この3つの中で、特に重要な役割を果たしたのが格式です。
格式は、律令を時代に合わせてスムーズに運用するため、800年代〜900年代初期まで弘仁→貞観→延喜と常にメンテナンスされてきました。
・・・しかし、延喜格式の後、格式が本格的に整備されることはありませんでした。
これが何を意味しているかというと、少しずつ崩壊していった律令が、900年代に入ると一気に機能しなくなっていったということです。
実際に、900年代に入ると、朝廷は律令制の崩壊を認めた上で、別な道を模索し始めることになります。
なんかもう、律令制にこだわる必要なくね?
律令制が崩壊してもなんとか朝廷は存続できてるし、みんな税収さえ納めてくれれば律令に従う必要もないし、好きにしたらいいんじゃないの?
905年に制定作業が始まった延喜式が、運用スタートまでに約60年の歳月を経ていることからも、900年代に入ると律令制を維持しようとする朝廷の意欲・能力が衰えていることがうかがえます。
三代格式・令義解・令集解まとめ
三代格式の制定時期を正確に覚えておく必要はありませんが、先ほど話した時代の流れを理解する意味でも、制定された順番は重要です。
弘仁格式→令義解→貞観格式・令集解→延喜格式の順番はしっかり覚えましょう!
- 820年
(弘仁11年)弘仁格式が完成!嵯峨天皇の時代
- 833年令義解が完成!
制定の中心人物は清原夏野!
- 869年
(貞観11年)貞観格が完成!清和天皇の時代
- 870年頃令集解が完成!
制定の中心人物は惟宗直本!
- 871年
(貞観13年)貞観式が完成!清和天皇の時代
- 905年
(延喜5年)延喜式が完成!醍醐天皇の時代
- 907年
(延喜7年)延喜格が完成!醍醐天皇の時代
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