条約改正と日清戦争
不平等条約改正の難航と朝鮮問題をめぐる外交——江華島事件・甲申事変を経て、1894年の日清戦争・下関条約・三国干渉へ
1871年、明治政府は清国と日清修好条規を締結。幕末以来の欧米との不平等条約とは異なり、相互に対等な関係を定めた条約でした。しかし琉球帰属問題(台湾出兵・琉球処分)など日清間の緊張の種も内包していました。
1874年、宮古島漂流民が台湾先住民に殺害された事件(牡丹社事件)を口実に、日本は台湾へ出兵。清国との交渉の末、日本が撤兵と引き換えに清国から賠償金50万両を受け取りました。これは日本が琉球の宗主権を実質的に認めさせた最初の事例でした。
1875年9月、日本軍艦・雲揚号が朝鮮の江華島沖で挑発的な測量を行い、朝鮮側の砲撃を口実に上陸・攻撃。翌1876年、日朝修好条規(江華条約)を締結させ、朝鮮を開国させました。欧米が日本に行ったのと同様の砲艦外交を、今度は日本が朝鮮に対して行った歴史的転換点。
1882年の壬午軍乱(朝鮮旧式軍の反乱)では、清国軍が介入して日本の影響力を後退させました。1884年の甲申事変(親日派・独立党クーデター)は清国軍によって3日で鎮圧。1885年の天津条約で日清両国は朝鮮への「事前通告・同時撤兵」を約定しましたが、緊張は続きました。
1894年、朝鮮で東学党の農民反乱(甲午農民戦争)が起き、日清両国が出兵。農民軍の鎮圧後も撤兵を拒んだ日本は、朝鮮王宮を占領して親日政府を樹立し、8月に宣戦布告。黄海海戦・平壌の戦いで日本軍が優勢を確立しました。
1895年4月の下関条約で日本は台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲と賠償金2億両を得ました。しかしロシア・フランス・ドイツが「遼東半島の清への還付」を勧告する三国干渉。日本は「臥薪嘗胆」を合言葉に対露対決姿勢を強め、日英同盟・日露戦争へと歩みを進めます。