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面白いほどわかる北条早雲!簡単にわかりやすく徹底解説【年表付!その生涯をエピソードを交えながら】

この記事は約10分で読めます。

今回は戦国武将の一人、北条早雲ほうじょうそううんについてわかりやすく丁寧に解説していきます。

最初に、教科書風に北条早雲を簡単にまとめておきます↓

北条早雲を簡単に

関東では享徳きょうとくの乱を機に、鎌倉公方かまくらくぼう足利成氏あしかがしげうじ古河公方ふるかわくぼう足利政知あしかがまさとも堀越公方ほりごえくぼうとに分裂し、関東管領上杉氏も山内・扇谷の両上杉家に分かれて争っていた。

この混乱に乗じて15世紀末、京都から下ってきた北条早雲(伊勢宗瑞いせそうずいは堀越公方を滅ぼして伊豆を奪い、ついで相模に進出して小田原を拠点とした。

この記事を読んでわかること
  • 北条早雲が活躍した当時の伊豆はどんな状況だったの?
  • 北条早雲はどんな人だったの?
  • 北条早雲はなぜ伊豆を攻めたの?
  • 北条早雲が伊豆に攻め込んだ経過はどうなっているの?
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北条早雲が活躍した当時の関東がカオスすぎる

室町時代、関東には鎌倉府と呼ばれる幕府が関東を統治するための機関がありました。鎌倉府のトップは鎌倉公方と呼ばれ、初代将軍足利尊氏の次男である足利基氏もとうじの子孫が代々世襲します。

しかし、1438年に鎌倉公方だった足利持氏もちうじが調子に乗っていると、6代目将軍の足利義教の逆鱗に触れて滅亡。(永享の乱

鎌倉公方が不在になると、室町幕府は関東管領だった山内上杉家に関東統治を任せます。

【関東管領】

鎌倉府のNo.2(鎌倉公方の次に偉い)。上杉氏が代々世襲していました。

2つの上杉家 〜山内家と扇谷家〜

上杉氏は関東の有力一族。当時は、大きく山内やまうち扇谷おうぎやの2つの家に別れて、関東管領の座を巡って争いを続けていました。

ところが、1441年に6代目将軍の足利義教が暗殺され(嘉吉の変)、義教がいなくなると、足利持氏の息子だった足利成氏が再び鎌倉公方に就任します。

足利成氏は永享の乱の時に父を山内上杉家に殺されていたので、扇谷上杉氏と協力して、これを滅ぼそうとします。そして1455年、関東管領だった山内上杉家の上杉憲忠のりただが暗殺されてしまいます。

これにブチギレた山内上杉家は、扇谷上杉家に宣戦布告。関東一帯で、人々が山内上杉派と扇谷上杉派に別れた大戦乱へ発展します。(享徳の乱。関東版の応仁の乱)

山内上杉家を支持する室町幕府は、駿河するがの今川氏を援軍として派遣。今川氏は足利成氏を関東の本拠地「鎌倉」から下総の古河へ追放することに成功します。

さらに、室町幕府は勢いの乗じて新しい鎌倉公方として幕府寄りの足利政知を送り込みますが、足利成氏・扇谷上杉派の抵抗によって鎌倉に入ることができず、鎌倉手前の伊豆にある堀越という場所に留まることになります。

古河公方と堀越公方

古河に落ち着いた足利成氏を古河公方

堀越に止まった足利政知を堀越公方と呼びます。

この2人は鎌倉公方の座をめぐってしばらくの間、争い合います

古河公方・扇谷上杉家VS堀越公方・山内上杉家という構図で、関東では1455年〜1483年の28年もの間、戦乱の世が到来することになります。

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北条早雲、登場!

北条早雲は、享徳の乱に参戦していた今川氏の家臣として歴史の表舞台に登場することになります。

北条早雲の若い頃については、実はよくわかっていません。1456年に生まれ、京で暮らしていたと言われています。早雲の姉が今川氏に嫁いでいた関係で、今川氏と深い結びつきを持つようになりました。

1476年、今川家の党首だった今川義忠よしただが亡くなると、その後継(家督)争いが起こりました。

後継候補は龍王丸りゅうおうまる小鹿範満おしかのりみつの2人。今川家の家臣たちは、龍王丸派と小鹿範満派に別れて争い、享徳の乱で争っていた各勢力までもが家督争いに介入して、駿河はカオスと化します。

この2人のうち竜王丸の母は北川殿と言い、北条早雲の姉でした。当時、北条早雲は京にいましたが、SOS要請を受けて、この家督争いを収めるため駿河へ向かうことになります。

北条早雲は、両者に対してこう言います。

北条早雲
北条早雲

龍王丸と小鹿範満が和睦をしなかったら、上杉勢が攻め込んでくるらしいぞー(嘘)

だから、なんとか話し合いでケリをつけるんだ。

最終的に「今は小鹿範満が家督を継いでいいけど、龍王丸が成人したら龍王丸に家督を渡せよな」という話でまとまりました。

1476年に家督争いを仲介した頃、早雲はちょうど20才です。「その若さでこんな手際の良い仲介なんかできるの?」って意見もあり上のエピソードが本当かどうか疑問の声もあります。

役目を終えた北条早雲は京に戻りますが1487年にまたトラブルが起こり駿河へ舞い戻ってきます。

龍王丸「助けて早雲!僕が成人したら家督を譲るって約束なのに、小鹿範満が家督を譲ってくれないの!」

北条早雲
北条早雲

小鹿範満め・・・。口で言ってダメなら、もはやヤツを消すしかあるまい。

こうして小鹿範満が討たれると、龍王丸が家督を継ぎ、名を今川氏親うじちかと名乗るようになります。

そして北条早雲は京には戻らず、今川氏親の家臣として伊豆近くの興国寺城こうこくじじょうに拠点を構えるようになります。

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北条早雲、戦国大名になる! 〜伊豆討ち入り〜

今川氏親の家臣となった頃から、北条早雲の怒涛の快進撃が始まります。

北条早雲の躍進のきっかけは、1491年に起こった伊豆にいる堀越公方の家督争いでした。

1491年、堀越公方の足利政知が亡くなると、その息子の茶々丸ちゃちゃまる潤童子じゅんどうじが家督争いを始めます。

政知は潤童子を後継者に指名していましたが、茶々丸が潤童子の命を奪い、強引に2代目堀越公方になってしまったのです。

こうして、伊豆は潤童子派と茶々丸派に分かれ争いを起こすようになりました。

1493年、室町幕府の将軍が10代の足利義材から11代の足利義澄よしずみに変わると、地勢的に伊豆に攻めやすい場所にいた北条早雲にこんな命令が下されます。

足利義澄
足利義澄

実は、殺された潤童子は私の弟なのだ。北条早雲よ、弟を殺した茶々丸を滅ぼせ!!!

北条早雲はこの命令を受け入れ、伊豆へ進攻します。(これを「伊豆討ち入り」と言います)

北条早雲は、茶々丸の軍勢が遠征により手薄になっているタイミングを狙って茶々丸を襲撃。

華麗な作戦で伊豆を攻め落とします。

こうして堀越公方は滅亡。伊豆は領主不在となり、代わりに北条早雲が伊豆を治めることになりました。堀越公方という権力者に代わって伊豆を支配したという点で、北条早雲の伊豆討ち入りは下剋上の代表例として取り上げられることもあります。

北条早雲は伊豆討ち入りをきっかけに、今川氏の家臣から伊豆を支配する一国の主人となり、いわゆる戦国大名と呼ばれる存在へのし上がっていったのでした。

北条早雲は居城を伊豆にある韮山城にらやまじょうに移して、残党を制圧しながら伊豆の統治を始めます。

『北条五代記』という史料によると、早雲は領内に高札を立てて、味方になれば本領を安堵すると約束し、そうでなければ作物を荒らして住居を破壊すると伝えたとあり、統治に協力する者には何もしないと宣言しました。また、領内に病気が蔓延しているのをみて、薬を取りよせて病人を治療させたり、年貢の負担を軽減させました。

この単純明快な統治方針は、伊豆領民から歓迎の声で受け入れられ、早雲は伊豆の安定統治に大成することになります。

巧みな政治手腕で伊豆を安定させると、次は相模・小田原へと進出していくことになります。

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小田原攻め・相模平定

伊豆討ち入りの際、早雲は伊豆制圧には成功したものの、茶々丸を取り逃していました。

そこで早雲は、茶々丸討伐を口実に茶々丸支持派の者とたびたび戦闘を繰り返します。その標的の1つに小田原城がありました。

軍記物「北条記」には次のようなエピソードが残されています。(事実かどうかは諸説あり)

小田原城の主は大森藤頼おおもりふじよりという男。

小田原は伊豆すぐ東に位置しています。なので大森藤頼は、「早雲が俺のところにも茶々丸討伐のために攻め込んでくるのではないか?」と北条早雲を強く警戒していました。

・・・が、北条早雲はそんなそぶりを全く見せません。

北条早雲
北条早雲

大森殿!素晴らしい酒器が手に入りましたぞ!

ぜひ使ってみてくれ!

北条早雲
北条早雲

今日は美しい着物が手に入った。1着を大森殿に送ろうかな!

と、大森藤頼に贈り物をしているうちに、大森藤頼も警戒心を解くようになります。

大森藤頼「・・・もしかして、早雲ってめっちゃいいヤツなんじゃね?」

北条早雲
北条早雲

鹿狩りをしていたら鹿が、大森殿の領地である箱根山に逃げ込んでしまった・・・。

ちょっとだけ、領地に入って鹿を探してもいい?

大森藤頼「鹿狩り!それは楽しそうだな!それなら領地に入っても良いぞ。」

北条早雲
北条早雲

フフ、作戦通りだ。

大森め、油断したな。箱根山に兵を送り込み、そこから小田原城へ奇襲してやる。

その夜、北条早雲は箱根山から小田原へ奇襲攻撃を開始。早雲は自軍の軍勢を多く見せるため、ツノに松明をつけた牛を大量に解き放ちます。

この作戦は「火牛の計」と呼ばれ、源平合戦を描いた「平家物語」では木曽義仲が同じ戦法で鮮やかな勝利を飾っています。

小田原城の兵たちは箱根山から進攻する軍勢を目の当たりにしますが、その火の多さに大軍勢だと錯覚し、大混乱に陥ります。

ビビって逃亡する兵もいる中、北条早雲は混乱に乗じて少ない兵力で華麗に小田原城を奪取してしまいました。1495年の出来事でした。

その後、早雲は約20年の間、相模一帯を転戦し、1516年に三浦半島に住む三浦一族を滅ぼして相模を平定。

伊豆・小田原・相模一帯を手に入れた北条早雲は関東の雄として名を轟かせ、偉業を成し遂げた後の1518年、66歳でこの世を去ることになります。

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伊勢宗瑞と北条早雲

ここまでずーっと北条早雲って名前を使っていましたが、実は本名ではありません。本名は伊勢宗瑞いせそうずい。さらに言うと伊勢宗瑞は出家後の名で、出家前は伊勢盛時と呼ばれていました。

ちょうど1467年に応仁の乱が始まった頃、室町幕府の重要なポジションに伊勢貞親いせさだちかという人物がいました。(ちなみに、伊勢貞親は応仁の乱のきっかけを作った重要人物です。)

伊勢宗瑞は、その親戚だったと言われています。伊勢宗瑞が京にいたのはそのためですし、伊勢宗瑞の姉(北川殿)が今川氏に嫁いでいるのも、伊勢氏の地位がそれなりに高かったことを意味しています。

「北条」と言う名が使われるようになったのは、伊勢宗瑞の家督を継いだ氏綱うじつなでした。関東の雄として先代の早雲が独立したのをきっかけに、心機一転「北条」に名を改名し、北条氏綱と名乗ったのが北条氏の始まりです。

なぜ北条という名を選んだかはわかりませんが、鎌倉時代に活躍した北条氏を意識していることは間違いなさそうです。

ただ、北条早雲や北条氏綱を「北条氏」と呼ぶと鎌倉時代の北条氏と見分けがつかなくなるため、後に登場した北条氏と言うことで北条早雲らのことを「後北条氏」と呼ぶようになりました。

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北条早雲まとめ(年表付き)

北条早雲の生涯については不明な点も多いですが、北条早雲は知略に長けた人徳者と言うイメージが強いような気がします。

というのも、

・竜王丸と小鹿範満の和睦交渉

・伊豆討ち入り

・小田原攻めの計略

と、多くのエピソードが早雲の計略・知略にまつわるエピソードだからです。

これらのエピソードの中には、後で作られた逸話もあるかもしれません。しかし、これらのエピソードが逸話だったとしても、逸話が作られるだけの人柄があったという点でやはり、北条早雲のイメージは変わらない気がします。

最後に、本当に簡単なものですが北条早雲を年表方式でまとめておきます。

北条早雲の年表まとめ
  • 1456年
    北条早雲、生まれる

    1432年説もある。

    伊勢氏の人間として京で過ごす。低い身分ではなく、それなりに良い生活をしていたと思われる。

  • 1476年
    姉(北川殿)のSOSを受けて駿河へ下向

    今川氏の家督争いを仲介し、平和に収めることに成功。仕事を終えると早雲は京に戻る。

  • 1483年
    1455年から28年間続いた享徳の乱、終わる

    享徳の乱で争った結果、鎌倉公方は堀越公方と古河公方に分裂。

  • 1487年
    早雲、再び駿河へ

    今川氏の家督争いが再燃したため、駿河へ下向。

    約束を破った小鹿範満の討ち取り、今川氏親が家督を継ぐ。今川氏親は早雲の姉(北川殿)の子であったこともあり、北条早雲は今川氏の家臣として駿河に身を置くことに。

  • 1491年
    堀越公方、家督争いでもめる

    堀越公方の足利政知が亡くなったことで家督争いが起こる。

    茶々丸が家督を受け継ぐ予定だった潤童子を殺して、無理やり家督を奪う。

  • 1493年
    北条早雲、茶々丸を伊豆から追放。

    13第将軍、足利義澄の命を受けて潤童子の命を奪った茶々丸を襲う。

    茶々丸を取り逃したが、伊豆を支配する一国の主人になる。

  • 1495年
    小田原城を手に入れる

    計略により小田原城を手に入れる

  • 1504年〜1516年
    相模地方を平定

    伊豆〜相模一帯を支配下に置き、関東有数の戦国大名に成長!

  • 1518年
    北条早雲、亡くなる

    家督を息子の北条氏綱に託す。



戦国時代
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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