アロー戦争とは?わかりやすく解説【原因・経過・ひどい理由まで】

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アロー戦争
もぐたろう
もぐたろう

今回はアロー戦争(第二次アヘン戦争)について、原因から結果まで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校世界史
📖 山川出版『詳説世界史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト)に対応

この記事を読んでわかること
  • アロー戦争とは何か(1856〜1860年・第二次アヘン戦争とも呼ばれる理由)
  • アロー号事件の実態(船籍登録期限切れという「でっちあげ」口実の詳細)
  • フランスが参戦した理由(フランス人宣教師殺害事件とその背景)
  • 天津条約・北京条約の内容(清が失った権利・領土)
  • アロー戦争が中国・日本に与えた影響(洋務運動の始まりと日本への波及)

「イギリスは正当な理由でアロー戦争を始めた」——そう思っている人は多いかもしれません。

でも実は、アロー号の船籍登録はすでに期限切れで、イギリスに国旗を守る権利はありませんでした。アロー戦争は、イギリスがでっちあげた口実で始まった、きわめて理不尽な戦争だったのです。

この記事では、その「ひどい口実」の実態から、フランスが乗っかった理由、天津条約・北京条約の内容、そして日本にどう影響したのかまで、まるごと整理していきます。

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アロー戦争とは?

3行でわかるアロー戦争
  • 1856〜1860年、イギリス+フランス対清(中国)の戦争。第二次アヘン戦争とも呼ばれる
  • 発端はアロー号事件という「でっちあげ」の口実。船籍登録はすでに期限切れだった
  • 清は敗北し、天津条約・北京条約で多くの権益を失った
アロー戦争——清VSイギリス・フランス
アロー戦争の戦闘の様子(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

アロー戦争は、1856年から1860年まで続いた、しん(当時の中国)とイギリス・フランスの連合軍との戦争です。

この戦争は、1840年に起きたアヘン戦争に続く「2回目」の対外戦争にあたります。そのため「第二次アヘン戦争」とも呼ばれます。

イギリスは1842年の南京条約で清をいったん開国させましたが、それでも貿易の自由化が不十分だと不満を抱いていました。そこで、もう一度戦争を仕掛けて市場を広げようと考えたのです。

結果として清は完敗し、天津条約(1858年)北京条約(1860年)を結ばされました。中国の半植民地化はここから一気に進んでいきます。

もぐたろう
もぐたろう

「第二次アヘン戦争」って呼ばれてるのは、アヘン戦争(1840〜1842年)の続編だからだよ。
1回目の戦争で開いた中国市場をもっと広げたい!っていうイギリスの欲望が、ぜんぜん収まってなかったってこと。

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アロー号事件——そもそも「アロー」って何?

アロー号事件——広州でのイギリス国旗をめぐる事件
アロー号事件の様子(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

アロー戦争のきっかけになったのが、1856年10月に起きたアロー号事件です。

アロー号は、中国人が所有していた小型の貿易船でした。船籍はイギリス領だった香港に登録されており、形式上は「イギリス船」として扱われていました。

1856年10月8日、清の官憲がこのアロー号に乗り込み、海賊行為や密貿易の疑いで中国人船員12名を拘束し、うち3名を海賊容疑で逮捕しました(残りはイギリス領事の抗議を受けて釈放されました)。

イギリスはこれに対し「清の役人がイギリス国旗を引き下ろし、侮辱した」と主張。これを口実に広州(こうしゅう)の清に対して武力行使を始めたのです。

アロー号事件とは?

1856年10月、広州でイギリス船籍を名乗るアロー号に清の官憲が乗り込み、中国人船員を逮捕した事件。イギリスは「国旗を侮辱された」と主張し、これがアロー戦争の直接の発端となった。

ゆうき
ゆうき

「アロー」って何の意味があるの?普通の名前ってこと?

もぐたろう
もぐたろう

「アロー(Arrow)」は英語で「」って意味だよ。
船の名前として付けられたもので、なんと事件を起こすまで歴史にはほとんど名前が残らない、ただの小さな貿易船だったんだ。

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アロー戦争の原因——なぜ起きたのか?

「アロー号事件」はあくまできっかけにすぎません。アロー戦争の本当の原因は、もっと深いところにありました。

原因①:南京条約(1842年)への不満——イギリスはアヘン戦争で勝ったのに、開港地は広州・上海など5港のみ。もっと中国全土と自由に貿易したかった。

原因②:清の貿易制限が続いていた——清は条約を結んでも、現場ではこれまで通りの規制をゆるめない。広州ではイギリス人の入城すら認めなかった。

原因③:太平天国の乱で清が弱っていた——清は国内の大反乱に手いっぱい。イギリスにとって「攻めるなら今だ!」という絶好のタイミングだった。

つまり、イギリスは「もっと中国を開かせたい」「条約をやり直したい」という気持ちをずっと抱えていました。そこに太平天国の乱たいへいてんごくのらんで清が弱り切ったタイミングがやってきます。あとは戦争を始める「口実」さえあれば良かったのです。

そんなときに起きたのが、先ほどのアロー号事件でした。イギリスにとっては、まさに「待ってました!」の事件だったのです。

📌 太平天国の乱(1851〜1864年)との関係:洪秀全(こうしゅうぜん)らが起こした清朝への大反乱。最盛期には南京を首都として清の半分近くを支配した。清軍はこの内乱を抑え込むのに精いっぱいで、外国との戦争にまわせる兵力がほとんどなかった。

あゆみ
あゆみ

アヘン戦争で負けたばかりなのに、また戦争になったの?清はどんな状況だったの?

もぐたろう
もぐたろう

清は太平天国の乱でボロボロ。国内の反乱を抑えるだけで精一杯なところに、イギリスが「ここを攻めれば絶対に勝てる」と狙ってきたんだ。
言ってしまえば、ケンカで疲れ切ってる相手にさらに殴りかかるような、かなり計算高いタイミングだったんだよ。

アロー戦争がひどい理由——でっちあげの口実

パーマストン——アロー戦争の開戦を強行したイギリス首相
開戦を強行したイギリス首相パーマストン(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

アロー戦争が「ひどい戦争」と言われるのは、その口実があまりにも強引すぎるからです。

イギリスは「アロー号はイギリス船だ。それなのに国旗を引きずり下ろされ、船員を逮捕された。これは国家への侮辱だ!」と主張しました。

でも、よく調べてみると、この主張には2つの大きなウソが隠れていたのです。

口実①:船籍登録は期限切れだった——アロー号がイギリス船として登録されていた期限は、事件の16日前(9月27日)にすでに切れていた。つまり、事件のときアロー号は法律上「イギリス船」ではなかった。

口実②:国旗侮辱の事実も怪しい——「清の役人がイギリス国旗を引き下ろした」とイギリスは主張したが、当のアロー号はそのときそもそも国旗を掲げていなかったと中国側の記録は伝えている。

つまり、法律的に見ても、事実関係の面から見ても、イギリスに国旗を守って怒る権利はまったくなかったのです。

逆に、清の官憲は自国の船に乗り込んで、自国民の船員を逮捕しただけ。法律的には何もおかしくない、ごく普通の捜査でした。

それでもイギリスは「侮辱された!」と大騒ぎして、軍艦を広州に送り込みました。さらに本国の議会では、この強引な開戦をめぐって激しい議論が起こり、いったんは反対派が勝利します。それでも首相パーマストンは議会をいったん解散して総選挙に持ち込み、世論を味方につけて強引に開戦を押し通してしまうのです。

あゆみ
あゆみ

船籍登録が切れてたって、どういうこと?それって清の方が正しかったってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そう!法的にはむしろ清の方が正しかったんだ。それでもイギリスは「侮辱された!」って強引にいちゃもんを付けて開戦した。
今でいうと、車検切れの中古車を運転して捕まった人が「俺の車を勝手に止めたな!」って警察を訴えるくらい、無理のある主張だったんだよ。

フランスはなぜ参戦したのか?

ナポレオン3世——アロー戦争にフランスを参戦させた皇帝
フランス皇帝ナポレオン3世。植民地拡大の野心から参戦を決めた(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

アロー戦争はイギリスだけの戦争ではありません。途中からフランスも参戦して、英仏連合軍として清に襲いかかります。

でも、アロー号事件はあくまでイギリスと清の問題。フランスにはまったく関係がありません。それなのになぜフランスは参戦したのでしょうか。

フランスにも、独自の「口実」があったのです。それがフランス人宣教師シャプドレーヌ殺害事件でした。

■フランス人宣教師殺害事件(シャプドレーヌ事件)とは?

1856年2月、中国の広西省(こうせいしょう)で、フランス人カトリック宣教師シャプドレーヌ神父が、清の地方官に逮捕されて処刑されました。

当時の清では、外国人がキリスト教を布教することは原則禁止されていました。シャプドレーヌは禁を破って中国の内陸部で布教していたため、地方役人に捕えられたのです。

フランスはこの事件を知ると、「カトリックの神父が清に殺された!フランスの宗教的権威への侮辱だ!」と猛抗議。これを口実に、イギリスと組んでアロー戦争に参戦することを決めたのです。

📌 フランスの本当の目的:「宣教師の仇討ち」は表向きの理由。本当はインドシナ半島(ベトナムなど)への進出を狙っていて、東アジアでの発言力を高めたかった。当時のフランスはナポレオン3世の時代で、ヨーロッパの大国として植民地を拡大したい野心を強く持っていた。

ゆうき
ゆうき

なんでフランスも参戦したの?関係ない国の戦争じゃないの?

ゆうき
ゆうき

なんでフランスも参戦したの?アロー号事件と関係ないよね?

もぐたろう
もぐたろう

フランスもね、ホントは中国の市場が欲しかったんだよ。
そこにイギリスが「中国に攻め込むから一緒にどう?」って誘ってきた。「渡りに船!宣教師の事件もあるし、行く!」って参戦したワケ。要は、宗教を口実にした便乗参戦だったんだ。

アロー戦争の経過

ここからは、1856年の開戦から1860年の終結までの流れをざっと整理していきましょう。アロー戦争は2段階に分かれているのがポイントです。

1856年に始まった戦闘はいったん1858年の天津条約で休戦になりますが、清が条約の批准を渋ったため、1859年に再開。1860年に北京占領→北京条約で完全決着、という流れです。

■広州占領と清の抵抗(1857〜1858年)

1857年12月、英仏連合軍は広州への総攻撃を開始しました。広州を守っていたのは清の総督葉名琛ようめいちんでしたが、近代兵器で武装した英仏連合軍にはかないません。

1858年1月、広州はあっけなく陥落。葉名琛は捕虜となり、インドのカルカッタへ連行されてしまいました。

📌 「六不総督(りくふそうとく)」と呼ばれた葉名琛:彼は英仏軍が迫っても「戦わず・和さず・守らず・死なず・降らず・逃げず」と何の手も打たず、人々から皮肉まじりに「六不総督」と呼ばれました。連行先のカルカッタでは自らを「海上の蘇武(そぶ)」(漢の時代に異民族に捕らわれても節を曲げなかった忠臣)になぞらえ、最後はイギリスの食事を拒んで絶食し、1859年に客死しています。

勢いに乗った英仏連合軍はさらに北上し、1858年5月には天津に迫ります。首都・北京にあと一歩というところまで来られて、清はついに講和を申し入れ、6月に天津条約が結ばれました。

■戦争再開——清の批准拒否(1859年)

ところが清の朝廷は、天津条約のあまりにひどい内容(外国公使の北京駐在など)に納得できず、批准を引き延ばします。

1859年6月、批准のため天津に向かおうとした英仏使節団に対して、清軍が大沽(だいこ)砲台から砲撃。英仏側に大きな被害が出ました。これがきっかけで、戦争が再開してしまうのです。

■北京占領と円明園の焼き打ち(1860年)

1860年8月、英仏連合軍はふたたび大沽砲台を攻略し、9月には天津を、10月にはついに北京を占領しました。皇帝咸豊帝かんぽうていは熱河(ねっか)の離宮に逃亡してしまいます。

このとき、英仏軍が北京郊外の円明園えんめいえんを徹底的に略奪・焼き払う事件が起こります。これが世界史で最も有名な「文化財破壊事件」のひとつ、円明園焼き打ち事件です。

円明園の焼き打ち——アロー戦争で破壊された清朝の離宮
英仏軍に破壊された円明園の遺構(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

円明園には、歴代の清朝皇帝が集めた絵画・陶磁器・書物などが大量に収蔵されていました。これらは英仏軍によって略奪され、その後は3日3晩にわたって火が放たれ、巨大な宮殿群が灰になりました。略奪された美術品の多くは、現在もイギリスやフランスの博物館に収蔵されていると言われ、いまも返還問題の火種になっています。

文豪ユゴーが綴った「二人の盗賊」

この略奪に、フランスの国民的文豪ヴィクトル・ユゴー(『レ・ミゼラブル』の作者)は猛然と抗議しました。彼は手紙のなかで、円明園を破壊した英仏両国をこう痛烈に皮肉っています。

二人の盗賊が宮殿に押し入り、略奪し、火を放った。一人の名はフランス、もう一人の名はイギリスである」——と。自国の行いを「盗賊」と言い切ったユゴーの言葉は、円明園焼き打ちがいかに恥ずべき行為だったかを物語っています。

📌 円明園とは:北京郊外にあった清朝の離宮。「万園の園」と呼ばれるほど壮大で、中国式の庭園に加えてヨーロッパ風の宮殿(西洋楼)まで備えていた。現在も廃墟として残されており、中国における愛国教育の象徴として一般公開されている。

ヴィクトル・ユゴー——円明園の略奪を批判した文豪
『レ・ミゼラブル』の作者ヴィクトル・ユゴー。円明園の略奪を「二人の盗賊」と痛烈に批判した(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

北京を完全に押さえられた清は、もはや抵抗の余地もなく降伏。1860年10月、英仏それぞれと北京条約を結ばされ、アロー戦争は終結します。

もぐたろう
もぐたろう

円明園の焼き打ちは、今でも中国人にとってめちゃくちゃ重い記憶として残ってるんだ。
「アロー戦争」って言葉自体は地味だけど、その中身はでっちあげの口実→不平等条約→文化財破壊と、まさに帝国主義の悪い部分が全部詰まった戦争だったんだよ。

天津条約・北京条約の内容

アロー戦争で結ばれた条約は、ひとつではなく2つあります。1858年の天津条約と、1860年の北京条約です。

まず1858年の天津条約で講和が結ばれましたが、清が批准(正式承認)を渋ったため戦争が再開し、最終的に1860年の北京条約で完全決着します。この2段階の流れを押さえておくと、試験でも混乱しません。

■天津条約(1858年)の内容

1858年6月、清は英仏連合軍に屈し、天津で講和条約を結ばされました。これが天津条約です。中身を見ると、清にとってかなり厳しい内容ばかりが並んでいます。

天津条約(1858年)の主な内容
  • 外国公使の北京駐在を認める(清の宮廷外交への直接介入が可能に)
  • 開港地の拡大:南京・漢口など内陸の10港を新たに開港
  • 外国人のキリスト教布教の自由と内地旅行権を認める
  • アヘン貿易の合法化(事実上の公認)
  • イギリス・フランスへの巨額の賠償金支払い

とくに痛手だったのが、外国公使の北京駐在です。これまで清は外国人を首都・北京に立ち入らせず、広州など限られた港でしか交易を認めていませんでした。これは中華思想(中国が世界の中心だという考え方)に基づくプライドの問題でもありました。

そのプライドの真ん中に外国人を住まわせろと迫られたため、清の朝廷は強く反発します。皇帝咸豊帝かんぽうていもこの条項にとくに不満を持ち、結局この条約の批准を引き延ばすことになりました。

■北京条約(1860年)の内容

清が天津条約の批准を渋ったことから、英仏軍はふたたび北京へ侵攻。1860年10月、北京を占領され円明園を焼き払われた清は、もはや抵抗の余地もなく、北京条約を結ばされます。

北京条約(1860年)の主な内容
  • 天津条約の内容を正式批准(天津条約の全項目を承認)
  • イギリスへ九龍半島きゅうりゅうはんとうの南部を割譲
  • 天津を新たに開港地に追加
  • 賠償金を大幅に増額(英仏それぞれに800万両ずつ。天津条約はイギリス400万両・フランス200万両だったため、英は倍・仏は4倍の増額)
  • 中国人労働者(苦力クーリー)の海外渡航を許可

とくに大きな影響を残したのが、イギリスへの九龍半島の割譲です。これは現在の香港ホンコンの一部にあたります。アヘン戦争で得た香港島とあわせて、イギリスは香港全域を支配下に置く足がかりを手に入れました。これがのちに「イギリス領香港」として150年以上続き、1997年にようやく中国へ返還されるきっかけになります。

さらに見逃せないのが、戦争に直接参加していなかったロシアの動きです。ロシアは英仏と清の和平を「仲介」する見返りとして、清から沿海州えんかいしゅうを獲得しました。ここに建設されたのが、現在のロシア極東の都市ウラジオストクです。一発の弾も撃たずに広大な領土を手に入れたのですから、ロシアの立ち回りの巧みさがよくわかります。

📌 条約比較のコツ:天津条約は「内容を決めた条約」、北京条約は「天津条約をさらに重くした最終条約」と覚えるとシンプル。試験では「九龍半島の割譲=北京条約」「公使の北京駐在=天津条約で決定」のセットがよく出る。

あゆみ
あゆみ

戦ってないロシアまで領土を取っちゃうの?それってずるくない?

もぐたろう
もぐたろう

ずるい!って思うよね(笑)。
ロシアは「英仏との交渉、ボクが間に入ってあげるよ」って清にうまく取り入って、ちゃっかり領土をもらったんだ。アロー戦争でいちばんトクをしたのは、戦ってないロシアだったとも言われてるよ。

アロー戦争が中国に与えた影響

アロー戦争の敗北は、清にとってアヘン戦争以上に大きな衝撃をもたらしました。すでに弱っていた清が、外国に首都・北京まで占領され、皇帝の離宮まで焼き払われたのです。「中華の大国」というプライドはこなごなになりました。

この敗北を受けて、清の社会には3つの大きな変化が起こります。

■洋務運動の始まり——「西洋の技術を取り入れよ」

李鴻章——洋務運動を主導した清の漢人官僚
洋務運動を主導した李鴻章(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

アロー戦争での惨敗を受けて、清の支配層のなかに「このままでは国がもたない。西洋の進んだ技術を取り入れて、軍隊や産業を近代化しよう」という考えが広まります。これが洋務運動(ようむうんどう)です。

洋務運動を引っぱったのは、太平天国の乱を鎮圧して名声を得た漢人官僚たち。代表的なのが曾国藩そうこくはん李鴻章りこうしょうです。彼らは1860年代から、西洋式の兵器工場・造船所・紡績工場を次々と建設していきました。

📌 「中体西用」とは:洋務運動のスローガン。「中国の伝統的な価値観(中体)は守りながら、西洋の技術(西用)だけを取り入れよう」という考え方。儒教の体制はそのままで、表面だけ近代化しようとした点が後に弱点となる。

ただし、この洋務運動には大きな限界がありました。あくまで「儒教の価値観や皇帝中心の政治制度はそのまま」で、技術だけを輸入しようとしたからです。政治・社会の根本的な改革には踏み込まなかったため、約30年後の日清戦争(1894〜1895年)で日本に敗れ、その限界が誰の目にも明らかになります。

■半植民地化のさらなる進展

アロー戦争後の不平等条約によって、清はますます半植民地化が進みました。外国公使が北京に常駐するようになり、清の外交は完全に列強の監視下に置かれます。開港地も増え、内陸部にまで外国商人が入り込めるようになりました。

とくにキリスト教布教の自由が認められたことで、宣教師が中国の奥地まで入り、現地の住民との対立(教案・キョウアン)も多発します。これがのちに義和団事件(1899〜1901年)など、清を揺るがす大事件の遠因にもなっていきます。

■日本への影響——幕府への開国圧力が一気に強まる

清の敗北は、海をへだてた日本にも大きな衝撃を与えました。とくに、当時の幕府にとっては「これは他人ごとではない」と思わせるニュースでした。

1858年、アメリカ総領事ハリスは、日米修好通商条約の交渉のなかで、幕府にこんな脅しをかけました。「いま条約を結ばないと、清のように軍艦で攻めてくるぞ」——と。

アロー戦争でイギリス・フランスがどれほど清を痛めつけたかを目の当たりにしていた幕府は、この脅しを真に受けます。結局、勅許(天皇の許可)を得ないまま日米修好通商条約に調印し、安政五カ国条約へとつながっていきました。

さらに直接、清の様子を見に行った日本人もいました。長州藩の高杉晋作です。1862年、彼は幕府の使節団(千歳丸)に加わって上海を訪れます。そこで高杉が目にしたのは、中国人がイギリス人やフランス人にまるで召使いのようにこき使われ、街の主役が外国人になってしまった上海の姿でした。

「ここは清の土地のはずなのに、清の人々が外国人の言いなりになっている」——その光景に高杉は強い衝撃を受けます。「日本がこのままなら、いずれ清と同じ運命をたどる」と痛感した彼は、帰国後に倒幕・近代化への決意を一気に固めていきました。アロー戦争で痛めつけられた清の姿は、こうして一人の若き志士の人生をも大きく動かしたのです。

あゆみ
あゆみ

アロー戦争が日本の幕末にもつながってたんだ!知らなかった。

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ!アロー戦争は遠い中国の出来事に見えて、実は日本の明治維新の引き金のひとつでもあるんだ。
清の悲惨な姿を見て「日本もこうなるのは絶対イヤだ」と思った若い武士たちが、倒幕や近代化に走っていったわけ。世界史と日本史って、こうやってつながってるんだよ。

アロー戦争についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

アロー戦争や中国近代史についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①テスト前に速攻で中国近代史を整理したいなら

近代中国史

岡本隆司 著|ちくま新書


②アロー戦争の背景・アヘン戦争を物語風に深掘りしたいなら

実録アヘン戦争

陳舜臣 著|中公新書


③イギリスの帝国主義と清朝の近代化を世界史から理解したいなら

清朝と近代世界 19世紀

吉澤誠一郎 著|岩波新書

テストに出るポイント&覚え方

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • アロー戦争(1856〜1860年):イギリス・フランスが清と戦った戦争。第二次アヘン戦争とも呼ばれる
  • アロー号事件(1856年):イギリスの口実。船籍登録は期限切れだったことが論点
  • フランス参戦の口実:フランス人宣教師シャプドレーヌ殺害事件
  • 天津条約(1858年):外国公使の北京駐在、開港地拡大、キリスト教布教の自由、アヘン貿易合法化
  • 北京条約(1860年)九龍半島の割譲、天津の開港、賠償金倍増。ロシアは沿海州(ウラジオストク)獲得
  • 円明園焼き打ち(1860年):英仏軍による清朝離宮の略奪・破壊事件
  • 戦後の中国洋務運動(曾国藩・李鴻章)が始まる。「中体西用」がスローガン

📌 暗記のコツ「ア=アロー号・テン=天津条約・ペキ=北京条約」とアタマ文字で順番を覚える。条約は「天津で決めて→批准拒否→北京で完全決着」と2段階の流れで覚えると混同しない。アヘン戦争(1840〜42)→アロー戦争(1856〜60)の年号セットも頻出。

論述・正誤問題でとくに狙われやすいのが、アヘン戦争とアロー戦争の比較です。2つの戦争を表で整理しておきましょう。

項目アヘン戦争アロー戦争(第二次アヘン戦争)
期間1840〜1842年1856〜1860年
対戦国イギリス対清イギリス+フランス対清
きっかけアヘン密輸の取り締まり(林則徐の摘発)アロー号事件(イギリスの口実)/フランス人宣教師殺害事件
講和条約南京条約(1842年)天津条約(1858年)→北京条約(1860年)
主な結果香港島割譲・5港開港・賠償金九龍半島割譲・北京駐在公使・布教自由・アヘン貿易合法化

ゆうき
ゆうき

テストでいちばん出るのはどこ?絞って教えて!

もぐたろう
もぐたろう

狙うべきは3つ!①アロー号事件→アロー戦争の因果関係、②天津条約と北京条約の違い、③戦後の洋務運動(曾国藩・李鴻章)
とくに「九龍半島=北京条約」「公使北京駐在=天津条約」のセットは正誤問題で超頻出!ここだけは絶対押さえようね。

よくある質問(FAQ)

1856〜1860年に、イギリス・フランス連合軍が清(中国)と戦った戦争です。「第二次アヘン戦争」とも呼ばれます。発端はアロー号事件というイギリス側のでっちあげの口実で、清は敗れて天津条約・北京条約を結ばされました。

アヘン戦争後の南京条約に不満を持っていたイギリスが、清にさらに有利な貿易条件を求めて戦争の口実を探していたことが根本原因です。1856年に起きたアロー号事件と、フランス人宣教師シャプドレーヌの殺害事件を、英仏がそれぞれ口実として使い開戦しました。清が太平天国の乱で弱体化していたタイミングを狙ったとも言われます。

イギリスが開戦の口実にしたアロー号の船籍登録は、事件のときすでに期限切れでした。つまり、法律的にアロー号は「イギリス船」ではなく、イギリスに国旗侮辱を主張する権利はなかったのです。さらに北京占領後には英仏軍が清朝の離宮・円明園を略奪・焼き払いました。口実のでたらめさと文化財破壊の悲惨さから、後世「ひどい戦争」と評されています。

フランス人宣教師シャプドレーヌが1856年に清の地方官に処刑された事件を口実に参戦しました。ただし本当の目的は中国市場での通商拡大と、東アジアでの発言力強化です。当時のフランスはナポレオン3世の時代で、インドシナ半島への進出も視野に入れていたため、イギリスの誘いに「渡りに船」で乗ったかたちでした。

アロー(Arrow)は英語で「矢」を意味します。アロー戦争の名前は、戦争の発端となった船「アロー号」に由来します。アロー号は中国人が所有しイギリスに船籍登録した小型の貿易船で、戦争を引き起こした象徴としてそのまま戦争の名前になりました。

アヘン戦争(1840〜1842年)はイギリス対清の戦争で、南京条約・香港島割譲などが結果です。アロー戦争(1856〜1860年)はイギリス+フランス対清の戦争で、天津条約・北京条約・九龍半島割譲が結果です。アロー戦争は「第二次アヘン戦争」とも呼ばれ、アヘン戦争で得られなかった権益(公使の北京駐在やアヘン貿易合法化など)をイギリスがさらに追求した戦争という位置づけです。

1860年10月の北京条約締結によって終結しました。1856年に開戦してから足かけ5年の戦争です。途中で1858年の天津条約により一度休戦しましたが、清が批准を渋ったため戦闘が再開し、北京占領→円明園焼き打ち→北京条約という流れで完全決着しました。

まとめ

アロー戦争のポイントを年表で振り返ってみましょう。アヘン戦争から日清戦争までを通して見ると、清がだんだん追い詰められていく流れがよくわかります。

アロー戦争の年表
  • 1842年
    南京条約——アヘン戦争の敗北
  • 1851年
    太平天国の乱が始まる
  • 1856年2月
    フランス人宣教師シャプドレーヌが処刑される
  • 1856年10月
    アロー号事件——アロー戦争の勃発
  • 1857年12月
    英仏連合軍、広州への総攻撃を開始
  • 1858年1月
    広州陥落・葉名琛が捕虜となる
  • 1858年6月
    天津条約締結(のち清が批准を拒否)
  • 1860年10月
    北京占領・円明園焼き打ち→北京条約締結
  • 1861年〜
    洋務運動の始まり(曾国藩・李鴻章)
  • 1864年
    太平天国の乱が終結

もぐたろう
もぐたろう

以上、アロー戦争のまとめでした!
「でっちあげの口実→不平等条約→文化財破壊」という帝国主義の悪い部分が凝縮された戦争だよね。アヘン戦争・南京条約・日清戦争もあわせて読むと、19世紀の中国が列強に翻弄されていく流れがよりはっきり見えてくるよ。

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📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説世界史』

参考文献

Wikipedia日本語版「アロー戦争」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「天津条約(1858年)」「北京条約」「オーギュスト・シャプドレーヌ」(2026年6月確認)
コトバンク「アロー戦争」「アロー号事件」(ブリタニカ国際大百科事典・世界大百科事典)(2026年6月確認)
山川出版社『詳説世界史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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2024年2月、YouTubeチャンネル「まなれきドットコムちゃんねる」を開設しました。

まだ動画は少ないですが、学生や大人の学び直しに役立つ動画をたくさん増やしていくので、ぜひ下のアイコンからチャンネル登録、よろしくお願いいたします。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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中国近代史(〜1945)