今回は室町時代に始まった五山・十刹(ござん・じっせつ)と言う寺院格付け制度について解説していきます。
五山・十刹制度は、足利尊氏の頃に作られた制度で、三代目将軍の足利義満の頃に制度が完成します。
五山は、京と鎌倉それぞれトップ5の寺院が定められます。京都五山だけ挙げておくと、
です。一位の上には別格レベルの南禅寺が。下には十刹と呼ばれる10寺院がさらに格付けされていきます。
教科書なんかだと話がこの辺で終わっていますが、「格付けする意味あるの?」とか「格付けはそもそもどうやって決めてるの?」とか素朴な疑問があると思います。
この記事では、京都五山の話を中心にその疑問について解説してみたいと思います。
室町幕府は臨済宗推し
五山・十刹で格付けされている寺院は全て臨済宗(りんざいしゅう)という禅宗のお寺です。
なぜ全て臨済宗なのかというと、幕府が臨済宗推しだったから。なぜ幕府が臨済宗推しなのかというと、関東地方で臨済宗が武士たちに支持されていたからです。
幕府が鎌倉から室町(京)へ移ると、そのまま臨済宗信仰も京へ持ち込まれます。
しかし、京で昔から強い影響力を持つ比叡山や興福寺などの勢力は、臨済宗のことを良く思いません。臨済宗が広まると比叡山や興福寺らはその立場を失いかねないので、これは当然の反応です。
ちなみに、京の仏教勢力と臨済宗の対立は、臨済宗の開祖栄西(えいさい)が活躍していた頃からあったとても難しい問題でした。当時の時代背景については、以下の記事を合わせて読んでいただくとよーくわかると思います。
中国の寺院制度を参考に臨済宗を保護
室町幕府が京に置かれるようになると、案の定、臨済宗と比叡山・興福寺との対立が深刻化し、室町幕府は臨済宗の保護に乗り出します。
そこで使われたのが五山・十刹で、中国(当時は南宋)の寺院制度を参考にした制度でした。
寺院を格付けして室町幕府公認の公式なお寺とすることで、「臨済宗の寺院に手を出したら、室町幕府が黙ってないからな」と敵対勢力を牽制することができるわけです。
実際、1368年には別格レベルの南禅寺と比叡山の僧たちの間で暴動が起こり、南禅寺の門が破壊される事件が起こっています。この時は、幕府は南禅寺を支援しましたが、神の名の下に攻め込む延暦寺の伝家の宝刀「強訴(ごうそ)」に勝つことができませんでした・・・。
京都五山の格付けの意味
五山・十刹制度は臨済宗を保護する目的を持っていましたが、その格付けは一体どのようにして決められたのでしょうか。
結論を簡単に言ってしまうと
室町幕府や足利将軍家と関係の深い順に格付けが行われました。
格付けをもう一度載せて、もう少し詳しく解説します。
まず、別格の南禅寺ですが、「天皇家との結びつきが強い」ということで別格扱いになりました。不動のNO.1です。
一位の天龍寺は、室町幕府創設者の足利尊氏が建立したお寺です。幕府の創設者が建てたお寺なので当然第一位です。
二位の相国寺は、三代目の足利義満が建立したお寺です。足利義満は室町幕府の全盛期を築いた男。義満が生きているうちは相国寺が一位でしたが、義満が亡くなると二位にダウンしました。
三位の建仁寺は、臨済宗の開祖栄西が初めて京都に建立した禅寺で由緒あるお寺なので第三位。
四位・五位は足利尊氏が信頼していた夢窓疎石(むそうそせき)がチョイスしたお寺。
実際の格付けにはもっと複雑な理由があったかと思いますが、大雑把にはこんな感じです。
五山・十刹まとめ
五山・十刹制度は、室町幕府との親密度をベースに格付けしただけであって、決して「禅宗のお寺として第4位の東福寺が第一位の天龍寺より劣っている」とかそんな話ではありません。繰り返しますが、あくまで室町幕府の都合で勝手に決めた格付けに過ぎません。
なので、将軍が変わると五山・十刹のランキングが微妙に変わってしまうこともあったし、さらに言ってしまうと室町幕府が格付けするものなので、室町幕府が滅びるとそれに合わせて五山・十刹の制度も消えることになります。
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