

今回は「近代科学の父」ガリレオ・ガリレイについて、地動説・宗教裁判・功績をわかりやすく丁寧に解説していくよ!世界史の科学革命のところでよく出てくるから、テスト前にもぜひ読んでみてね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
ガリレオ・ガリレイと聞くと、「宗教と戦った科学者」「教会に弾圧された悲劇の天才」というイメージを持っている人が多いのではないでしょうか。
でも、実はガリレオは、生涯を通じて敬虔なカトリック教徒でした。彼は神への信仰と科学を「対立するもの」とはまったく考えていなかったのです。
宗教と科学を対立させてしまったのは、ガリレオ自身ではなく、変わりゆく世界に対応できなかった当時の教会の側でした。この「信じる人」と「変われない組織」のすれ違いこそが、ガリレオの悲劇を生んだのです。
この記事では、ガリレオが何をした人なのか、地動説とは何か、なぜ宗教裁判にかけられたのかを、世界史の「科学革命」という大きな流れの中で、中高生にもわかるようにやさしく解説していきます。
ガリレオ・ガリレイとは?
- 1564〜1642年に生きたイタリアの天文学者・物理学者。「近代科学の父」と呼ばれる
- 自作の望遠鏡で木星の衛星や金星の満ち欠けを発見し、地動説の証拠を示した
- 地動説を支持したため宗教裁判で有罪に。約350年後の1992年にバチカンが名誉回復した

ガリレオ・ガリレイは、1564年にイタリア中部の都市ピサで生まれました。父ヴィンチェンツォは音楽家で、音楽理論を数学的に研究するような人でした。その血を受け継いだのか、ガリレオも幼いころから「ものごとを数で考える」才能にあふれていたといいます。
はじめは父のすすめで医学を学びますが、やがて数学と物理学に夢中になっていきます。そして25歳の若さで母校ピサ大学の数学講師(後に教授)に就任。以後、天文学・物理学・数学の分野で、それまでの「常識」をくつがえす数々の発見を成し遂げていきました。

ガリレオって宗教と戦ったイメージがあるけど、実際はどんな人だったの?

実はガリレオは篤い信仰を持ったカトリック教徒だったんだ。宗教と科学を対立させていたのはガリレオじゃなくて、変わりゆく世界についていけなかった教会の側だったんだよ。だから「科学 vs 宗教」って単純な話じゃないんだ。
ガリレオが「近代科学の父」と呼ばれるのは、たんに発見が多かったからではありません。「権威ある人がそう言ったから」ではなく、「自分の目で観察し、実験で確かめる」という、現代にもつながる科学のやり方を確立したからです。古代ギリシアの哲学者アリストテレスの説でさえ、ガリレオは「本当にそうなのか?」と疑い、実際に試して確かめようとしました。
ガリレオが生きた時代——宗教と科学のはざまで
ガリレオがどんな人物かを理解するには、彼が生きた16〜17世紀のヨーロッパがどんな時代だったかを知ることが欠かせません。
この時代は、ヨーロッパが大きく揺れ動いていた変革期でした。少し前の14〜16世紀には、古代ギリシア・ローマの文化を見直すルネサンスが花開き、人々は「人間の理性」や「自分の目で見た現実」を大切にし始めていました。さらに1517年にはマルティン・ルターが宗教改革を始め、それまで絶対だったカトリック教会の権威が大きく揺らいでいました。
権威を脅かされたカトリック教会は、自らを立て直そうと対抗宗教改革に乗り出します。教義をきびしく守らせ、教会の考えに反するものを「異端」として取り締まる空気が強まっていきました。ガリレオは、まさにこの「教会が神経をとがらせていた時代」に生きていたのです。
🗾 このとき日本は? ガリレオが生きた1564〜1642年は、日本の戦国時代の終わり〜江戸時代の初め。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が活躍した時代とぴったり重なります。ガリレオが望遠鏡を夜空に向けた1609〜1610年は、徳川家康が江戸幕府を開いて(1603年)まだ数年後のこと。日本でも世界でも、まさに「新しい時代」が始まっていたんですね。
もうひとつ知っておきたいのが、当時の宇宙についての「常識」です。ガリレオの時代、人々が信じていたのは天動説でした。これは「地球が宇宙の中心にあり、太陽や月、星がその周りを回っている」という考え方です。
天動説は、古代ギリシアの天文学者プトレマイオス(紀元後2世紀)が体系化したもので、1000年以上にわたってヨーロッパの常識でした。しかもこの説は、「神が地球を特別な場所として宇宙の中心に置いた」という聖書の世界観とも相性がよく、教会のお墨付きを得ていたのです。だからこそ、これを否定することは、たんなる科学の問題ではなく「教会への挑戦」とも受け取られかねませんでした。
じつは天動説は、「ふつうに空を見たときの感覚」にとても合っています。私たちが地面に立っていても、地球が猛スピードで動いているとは感じませんよね。むしろ太陽が東から昇って西に沈むのを見れば、「太陽のほうが動いている」と考えるのが自然です。
さらに天動説は、惑星の動きをかなり正確に予測できました。観測技術が未発達だった当時、わざわざ「地球が動いている」と考える必要性は、ふつうの人にはなかったのです。だからこそ、地動説は受け入れられにくかったんですね。

ガリレオとか地動説って、高校世界史のどの単元で出てくるの?テスト前で範囲が知りたいんだけど……

世界史だと「科学革命(17世紀の科学革命)」っていう単元だよ。コペルニクス・ガリレオ・ケプラー・ニュートンの4人はセットで覚えるのが定番!記事の後半でテストポイントもまとめるから安心してね。
振り子と落下実験——観察で真実をつかんだ青年時代
ガリレオの「自分の目で確かめる」姿勢は、若いころから発揮されていました。その有名なエピソードが、振り子の等時性の発見です。
言い伝えによれば、ガリレオがまだ学生だったころ、ピサの大聖堂でゆれるランプをぼんやり眺めていました。すると、ランプの揺れの幅が大きくても小さくても、1往復にかかる時間は同じであることに気づいたのです。これを振り子の等時性といいます。
当時は正確な時計がなかったので、ガリレオは自分の脈拍を使って時間を測ったと伝えられています。この発見は、のちに振り子時計の原理にもつながっていきました。「あたりまえに見える現象も、よく観察すれば法則が隠れている」——ガリレオの科学者としての姿勢が、すでにここに表れています。
「ガリレオがピサの斜塔から重さの違う2つの球を落とし、同時に着地することを示した」——このエピソードはとても有名です。でも実は、この実験を本当に斜塔でやったという確かな史料は残っていません。弟子のヴィヴィアーニが後年に書いた伝記が元になっており、後世に脚色された伝説の可能性が高いと考えられています。
ただし、ガリレオが「重いものほど速く落ちる」というアリストテレスの考えに疑問を持ち、落下についての研究を実際に行っていたことは事実です。斜塔のドラマチックな逸話は伝説でも、その背後にある「権威を疑い、自分で確かめる」という精神は本物だったのです。

重いものも軽いものも、空気の抵抗がなければ同じ速さで落ちるはずだ。「えらい人がそう言ったから」ではなく、実際に試して確かめてみればいい。
ガリレオは、なめらかな斜面で球を転がす実験などをくり返し、物体の落下や運動についての法則を探りました。古代以来1000年以上も信じられてきたアリストテレスの物理学を、実験と観察によってくつがえそうとしたのです。この「観察と実験で自然の法則を見つける」という方法こそ、のちの近代科学の土台になりました。
望遠鏡が変えた宇宙の常識
ガリレオの名を一気に有名にしたのが、望遠鏡による天体観測でした。
望遠鏡そのものは、1608年ごろにオランダで発明されたといわれています。その噂を聞いたガリレオは、自分で原理を考え、当時としては最高性能の望遠鏡を自作しました。そして1609年、人類で初めて本格的にそれを夜空へと向けたのです。すると、肉眼では決して見えなかった宇宙の姿が、次々と明らかになっていきました。
じつはガリレオは、望遠鏡を夜空に向ける前に、あることで大きな成功を収めていました。1609年8月、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の鐘楼から、元老院議員たちの前で望遠鏡を実演したのです。沖合の船を肉眼より2時間も早く視認できる——その軍事・商業的な価値はひと目で明らかでした。この実演は大成功となり、ガリレオはパドヴァ大学から給料の倍増と終身在職権を勝ち取ります。しかし彼の眼差しは、すでに地上ではなく、夜空へと向けられていました。

ガリレオが望遠鏡で発見した3つのこと
①月の表面にはデコボコ(クレーターや山)があった。当時、天体は「神が作った完全な球」で、表面はつるつるだと信じられていました。ところがガリレオが見た月は、地球と同じように山や谷のあるゴツゴツした世界だったのです。「天は地上とは別の完全な世界」という常識が、ここで崩れ始めます。
②木星に4つの衛星があった。ガリレオは木星のそばに、木星の周りを回る4つの小さな星を見つけました。これは「地球以外の天体の周りを回る星がある」という決定的な発見でした。「すべての天体は地球の周りを回る」という天動説の大前提に、真っ向から反する事実だったのです。この4つは現在ガリレオ衛星と呼ばれています。

あっ……!木星のそばに小さな星が並んでいる。日をおいて見ると、位置が変わっている……これは、木星の周りを回っているのだ!地球だけが「回られる中心」ではないのだ……!
⭐ 「メディチ家の星」と命名——パトロンへの贈り物:ガリレオは木星の4衛星を「メディチ家の星(Medicea Sidera)」と命名し、パトロンであるコジモ2世・デ・メディチ(トスカナ大公)に献上しました。この「発見の名付け」が功を奏し、ガリレオは1610年にパドヴァ大学を去ってフィレンツェの宮廷に迎えられ、「トスカナ大公付き首席数学者・哲学者」の称号と厚い俸給を得ます。科学者にとってパトロンとの関係がいかに重要だったかを示す逸話として、今も語り継がれています。
③金星が月のように満ち欠けしていた。ガリレオは、金星が三日月のように欠けたり、まんまるになったりと、形を変えることを発見しました。実はこの満ち欠けのパターンは、「金星が太陽の周りを回っている」と考えなければ説明できないものでした。これは天動説では説明がつかず、地動説を強く後押しする観測結果だったのです。

ガリレオはこれらの発見を、1610年に『星界の報告』という本にまとめて発表しました。望遠鏡が映し出した新しい宇宙の姿は、ヨーロッパ中に大きな衝撃を与えました。

とくに「金星の満ち欠け」は重要だよ。これは天動説では説明できなくて、「地球も惑星も太陽の周りを回っている」と考えて初めてつじつまが合うんだ。つまりガリレオは、頭の中の理屈じゃなくて「実際に観測したデータ」で地動説の証拠を見つけた最初の人なんだよ。
地動説 vs 天動説——コペルニクスからガリレオへ
ここで、地動説と天動説のちがいをあらためて整理しておきましょう。
天動説は、「地球が宇宙の中心にあって動かず、太陽や星がその周りを回っている」という説。一方、地動説は、「太陽が中心にあって、地球を含む惑星がその周りを回っている」という説です。今では地動説が正しいことが分かっていますが、ガリレオの時代には天動説が常識でした。
地動説をはっきりと唱えたのは、ガリレオより前の世代であるコペルニクスです。ポーランドの聖職者でもあった彼は、1543年(亡くなる直前)に『天球の回転について』を出版し、「地球が太陽の周りを回っている」という考えを発表しました。ガリレオが生まれたのは、その約20年後のことです。

🔬 科学革命の流れ(知の連鎖):
コペルニクス(地動説を提唱・1543年)→ ガリレオ(望遠鏡で証拠を観測・1609年〜)→ ケプラー(惑星は楕円軌道で回ると発見)→ ニュートン(万有引力でしくみを説明・1687年)
この4人がバトンをつないで、近代科学の宇宙観が完成しました。
ただし、コペルニクスの地動説はあくまで「こう考えたほうが計算が合う」という理論・仮説の段階にとどまっていました。多くの人は「そういう考え方もあるよね」程度に受け止め、本気で信じる人は多くありませんでした。
そこに登場したのがガリレオです。彼は望遠鏡で木星の衛星や金星の満ち欠けという「実際の観測データ」を示し、地動説を裏づけたのです。机上の理屈だった地動説に、初めて「目で見える証拠」を与えた——これがガリレオの決定的な役割でした。だからこそ、地動説は一気に「危険な説」として教会から警戒されることになります。

地動説って科学的には正しいのに、なんで「異端」あつかいされたの?正しいことを言ったのに罰せられるなんて変な感じ……

いい質問だね。実は「科学的に正しいかどうか」より、「聖書の解釈に合うかどうか」「教会の権威を脅かさないか」のほうが重視されたんだ。聖書には地球が動かないと読める箇所もあって、しかも宗教改革で教会が神経質になっていた時期だった。だから地動説は、科学の問題というより政治と宗教の問題になっちゃったんだよ。
地動説を巡る2度の宗教裁判

地動説を支持したガリレオは、生涯のうちに2度、教会から裁判(異端審問)を受けることになります。
第1回(1616年):コペルニクス説の禁止と「警告」
1616年、教会は地動説(コペルニクス説)を「聖書に反する」として正式に禁じ、コペルニクスの著書を閲覧禁止リストに入れました。このときガリレオ自身は処罰こそされませんでしたが、「今後は地動説を正しいものとして主張してはならない」という警告を受けたとされています。
第2回(1633年):有罪判決と自説の撤回
その後ガリレオは、1632年に『天文対話』という本を出版します。これは、天動説を信じる人物と地動説を信じる人物が議論する形式の本で、読めば「地動説のほうが正しい」とわかる内容になっていました。1616年の警告を事実上やぶった形です。
これが問題視され、1633年、ガリレオはローマで2度目の宗教裁判にかけられます。すでに70歳近い高齢だったガリレオは、きびしい審問の末に有罪判決を受け、自分の説を撤回させられました。判決は終身刑でしたが、のちに自宅での軟禁(外出を制限される生活)に減じられ、ガリレオはフィレンツェ郊外のアルチェトリの別荘に軟禁され、亡くなるまでの約9年間を監視のもとで過ごすことになります。
裁判のイメージから「ガリレオ=反宗教の人」と思われがちですが、これは大きな誤解です。ガリレオは生涯にわたって神を信じるカトリック教徒であり、2人の娘は修道女になっています。彼は教会を否定したかったのではなく、「信仰と科学は両立できる」と本気で信じていたのです。
ガリレオは「聖書は人の魂の救いについて教えるものであって、天体の動きを説明するための書物ではない」と考えていました。つまり彼にとって、地動説を唱えることと神を信じることは、まったく矛盾しなかったのです。彼を苦しめたのは、その考えを受け入れられなかった当時の教会のほうでした。

聖書は正しい。だが自然もまた、神がお書きになったもう一つの書物のはずだ。どちらも真実であるなら、対立するはずがない……。なぜ、それが分かってもらえないのだ。
なお、ガリレオの名誉が回復されるのは、ずっと後のことになります。1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、ガリレオへの裁判は誤りであったと正式に認めました。有罪判決からおよそ359年、ガリレオの死から数えても350年もの歳月が流れていました。

350年後にやっと名誉回復だなんて……もっと早くできなかったのかしら?

組織が一度くだした判断を「間違っていた」と認めるのは、いつの時代もすごく難しいんだよね。だからこそ1992年の名誉回復は、科学と宗教の和解の象徴として歴史的に大きな意味を持つできごとなんだ。
ガリレオの3大功績——天文学・物理学・科学的方法論
ここまで生涯を追ってきましたが、あらためてガリレオの功績を3つに整理しておきましょう。ガリレオがすごいのは、天文学・物理学という2つの分野で大きな発見をしただけでなく、その後ろにある「科学の考え方そのもの」を作り変えたことにあります。
功績①:望遠鏡による天文学の確立
自作の望遠鏡で月のクレーター・木星の4つの衛星(ガリレオ衛星)・金星の満ち欠けを観測しました。これらは「天は完全な世界」「すべては地球の周りを回る」という古い宇宙観をくつがえし、地動説を観測データで裏づける決定的な成果になりました。望遠鏡を本格的に天文学に使った最初の人物として、現代の天文学の出発点に立っています。
功績②:運動の法則(近代物理学の基礎)
若いころに発見した振り子の等時性(振れ幅が変わっても1往復にかかる時間は変わらない)や、落体の法則(重さがちがっても物体は同じ速さで落ちる)など、物体の運動についての法則を実験から導き出しました。これは、のちのニュートン力学の土台になります。「自然の動きは数学で書き表せる」という発想も、ガリレオの大きな貢献です。
功績③:「観察と実験で確かめる」科学的方法論の確立
そして最大の功績が、これです。それまでの学問は「アリストテレスがこう言った」「聖書にこう書いてある」という権威を根拠にしていました。ガリレオはそれを「本当にそうなのか、自分で確かめよう」と実験と観察に置きかえたのです。この姿勢こそが近代科学を生み出しました。ガリレオが「近代科学の父」と呼ばれるのは、まさにこの3つ目の功績ゆえなのです。

望遠鏡の発見ばかり有名だけど、「自分の目で確かめる」っていう考え方そのものが一番すごい発明だったのね。

まさにその通り!個々の発見は後から修正されることもあるけど、「観察と実験で確かめる」っていうやり方は今でも科学の基本ルールだよ。だからガリレオは、ひとつの分野の天才じゃなくて「科学そのものの作り方を変えた人」なんだ。
📌 暗記のコツ:地動説の主役は「コ・ガ・ケ・ニュー」(コペルニクス → ガリレオ → ケプラー → ニュートン)の順で覚えよう。生まれた順番と「科学革命の連鎖」の順番がほぼ一致しているので、流れで覚えると混同しにくいよ。

ガリレオの功績って、テストでは結局どこが一番出やすいの?

「ガリレオ=地動説を支持して宗教裁判にかけられた人」というセットが鉄板だよ。あわせて「望遠鏡で木星の衛星を発見」「科学革命の一員(コペルニクス〜ニュートンの流れ)」をおさえておけば完璧。年号は1633年(第2回宗教裁判・有罪)を覚えておこう!
名言「それでも地球は回っている」の真相
ガリレオといえば、誰もが一度は聞いたことのある、あの有名な言葉があります。
「それでも地球は動いている」
(イタリア語:E pur si muove/エ・プール・シ・ムオーヴェ)
宗教裁判で自説を撤回させられたガリレオが、法廷を出るときにそっとつぶやいた——そう語り継がれている言葉です。「権力には屈したけれど、真実は変わらない」というガリレオの不屈の精神を象徴する名言として、世界中で愛されてきました。
ところが、です。この言葉、実はガリレオが本当に言ったという確かな証拠がありません。
この名言が文章として登場するのは、ガリレオの死から100年以上もたった1757年、ジュゼッペ・バレッティという作家の本が最初だとされています。裁判の記録や、同時代の人が残した資料には、この発言は出てきません。
そもそも、自説を撤回させられた直後の張りつめた場で、こんな危険な言葉を口にすれば、ただではすまなかったはずです。そのため現在では、「後世の人が作り上げた逸話である可能性が高い」と考えられています。少し残念に思うかもしれませんが、こうした「実は史実ではないかもしれない話」を正直にお伝えするのも、歴史を学ぶうえで大切なことだと考えています。
とはいえ、たとえこの言葉が後の創作だったとしても、不思議とガリレオという人物にぴったりと当てはまります。「えらい人がどう言おうと、自分の目で見た真実は曲げない」——この一文が、ガリレオの生き方そのものを見事に言い当てているからこそ、何百年も語り継がれてきたのでしょう。

有名な名言なのに、後世の創作かもしれないなんて……。でも、それをちゃんと正直に書いてくれるところ、信頼できるわ。

ちなみにガリレオには、もうひとつ有名な言葉があるよ。「自然という書物は、数学の言葉で書かれている」っていう一文なんだ。「世界のしくみは数式で表せる」というこの考え方が、のちの物理学の出発点になったんだよ。
ガリレオ後の世界——科学革命から現代へ
ガリレオがまいた種は、彼の死後に大きく花開きます。バトンを受け取ったのが、イギリスのニュートンでした。ニュートンは1687年に万有引力の法則を発表し、「なぜ惑星は太陽の周りを回り続けるのか」を数学できれいに説明してみせました。コペルニクスが提唱し、ガリレオが観測で支え、ケプラーが軌道の形を明らかにした地動説は、ニュートンによってついに完成したのです。
💡 不思議な偶然:ニュートンが生まれたのは1642年——なんとガリレオが亡くなった年と同じです(暦のちがいで諸説あり)。そのため「科学の精神はガリレオからニュートンへ、ちょうど入れかわるようにバトンが渡された」と語られることがあります。

こうしてコペルニクスからニュートンへと続いた一連の流れを、世界史では科学革命と呼びます。人々が「世界は神話や権威ではなく、観察と数学で理解できる」と気づいた、人類史の大きな転換点です。そしてその中心にいたのが、ガリレオでした。
この科学革命が育んだ「理性で世界を解明できる」という確信は、やがて18世紀の啓蒙思想へとつながっていきます。「人間の理性こそが社会をよりよくできる」という考えが広がり、フランス革命など近代民主主義の礎を築いていきました。
ガリレオが残したいちばん大切な遺産は、望遠鏡でも木星の衛星でもありません。「常識を疑い、自分の目で確かめ、証拠で判断する」という考え方そのものです。この姿勢は、現代の科学はもちろん、宇宙開発・医療・AIの研究、さらには日常の問題解決にいたるまで、今を生きるわたしたちの中にしっかりと受け継がれています。

「みんなが言ってるから」「えらい人が言ってるから」じゃなくて、「本当にそうなの?証拠は?」と考える——これってテスト勉強でも、仕事でも、ニュースを読むときでも使える最強の武器だよ。ガリレオの一番すごいところは、その考え方をわたしたちに残してくれたことなんだ。
ガリレオ・ガリレイについてもっと詳しく知りたい人へ

ガリレオについてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を3冊紹介するよ!ガリレオ自身が書いた書物から、宗教裁判の真相を掘り下げた研究書まで、レベル別にセレクトしたよ。
よくある質問(ガリレオ・ガリレイ)
イタリア出身の天文学者・物理学者・数学者です(1564〜1642年)。自作の望遠鏡で木星の衛星や金星の満ち欠けを観測し、地動説を観測データで裏づけました。観察と実験を重んじる姿勢から「近代科学の父」と呼ばれています。
太陽が中心にあり、地球を含む惑星がその周りを回っているとする説です。地球が宇宙の中心とする天動説が常識だった当時、コペルニクスが提唱したこの地動説を、ガリレオは望遠鏡による観測で初めて証拠とともに支持しました。
地動説が当時の聖書解釈や教会の権威に反すると見なされたためです。ガリレオは1616年に地動説を主張しないよう警告を受けていましたが、1632年に地動説を支持する『天文対話』を出版したため、翌1633年に有罪となり自説の撤回を命じられました。
大きく3つあります。①望遠鏡による天体観測(木星の衛星・月のクレーター・金星の満ち欠けの発見)、②振り子の等時性や落体の法則など運動の法則の解明、③権威ではなく観察と実験で真実を確かめる科学的方法論の確立です。これらにより「近代科学の父」と呼ばれます。
確かな証拠はなく、後世の創作である可能性が高いとされています。この言葉が文章に登場するのはガリレオの死から100年以上たった1757年の本が最初で、裁判記録や同時代の資料には見当たりません。ただし、彼の不屈の精神を象徴する言葉として今も語り継がれています。
1564年、イタリアの都市ピサで生まれました。父は音楽家で、ガリレオは当初ピサ大学で医学を学びましたが、やがて数学・物理学・天文学へと進みます。1642年にフィレンツェ近郊で亡くなりました。ちなみに1564年は、画家ミケランジェロが亡くなり、劇作家シェイクスピアが生まれた年でもあります。
まとめ——ガリレオ・ガリレイの生涯と功績

以上、ガリレオ・ガリレイのまとめでした!「近代科学の父」と呼ばれる彼の生き方は、今を生きるわたしたちにもたくさんのヒントをくれるよね。下の記事では、ガリレオが生きた時代の背景(ルネサンスや宗教改革)も解説しているから、あわせて読んでみてください!
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1564年イタリア・ピサで生まれる
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1583年頃振り子の等時性を発見したとされる(ピサ大聖堂のランプの逸話)
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1589年ピサ大学の数学講師に就任(3年契約)
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1609年望遠鏡を改良し、天体観測を開始
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1610年木星の4衛星(ガリレオ衛星)を発見。『星界の報告』を発表
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1616年第1回宗教裁判。コペルニクスの地動説が禁じられる
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1632年『天文対話』を刊行。地動説を支持する内容で教会と対立
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1633年第2回宗教裁判。有罪・自説撤回。終身刑(のち自宅軟禁)
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1642年フィレンツェ近郊で死去(享年77)
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1992年バチカン(ヨハネ・パウロ2世)がガリレオの名誉を回復
ガリレオが生きた時代やその前後の流れは、こちらの記事もあわせて読むと理解が深まります。
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「ガリレオ・ガリレイ」(2026年6月確認)
コトバンク「ガリレオ・ガリレイ」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説世界史』(2022年版)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。




