
今回は、インドの歴史を大きく変えた王、アショーカ王についてわかりやすく丁寧に解説していくよ!
📚 この記事のレベル:中学社会(世界史パート) / 高校世界史(基礎)
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
「仏教を守った、慈悲深い王様」。アショーカ王と聞いて、多くの人がまずそんな姿を思い浮かべます。
ですが実は、彼は王位をめぐる争いを勝ち抜いて即位したとされ、カリンガという国を攻めて十万人規模の犠牲を出した征服王でもありました。最初から聖人だったわけではないのです。
この記事では、なぜ最強の征服者が「武力によらない統治」へと大転換したのか、そして本人が石に刻ませた言葉から何がわかるのかを、順を追って見ていきます。
アショーカ王とは?
- いつ・どこ:紀元前3世紀のインド。マウリヤ朝の第3代の王で、在位は前268年ごろ〜前232年ごろとされる
- 何をした:カリンガ戦争の惨状を悔い、仏教に帰依して「ダルマ(法)」による統治へ大転換した
- なぜ重要:本人の言葉を刻んだ磨崖碑・石柱碑が各地に現存し、古代インド史の年代を決める基準になっている
アショーカ王は、紀元前3世紀のインドを治めた王です。インド亜大陸のほぼ全域をはじめて支配したマウリヤ朝の、第3代の王にあたります。
在位はおよそ紀元前268年から前232年ごろとされていますが、当時のインドには年代を記した歴史書がほとんど残っていません。そのため細かい年代には諸説あります。
彼の名が世界史に必ず登場するのは、領土を広げたからではありません。むしろ逆で、「もう武力では国を治めない」と宣言し、それを実行に移した点が評価されているのです。

テスト前なんだけど、アショーカ王って結局なにをした人なの?名前は覚えたのに、中身が出てこなくて…

ざっくり言うと「インドをほぼ統一した征服王が、戦争の悲惨さに打ちのめされて路線変更した」話だよ。①インド統一 → ②カリンガ戦争 → ③仏教に帰依してダルマ統治、この3ステップで覚えると一気にラクになるんだ。
では、そもそもアショーカ王はどんな家に生まれ、どうやって王座にたどり着いたのでしょうか。
マウリヤ朝の王子として生まれる
アショーカは、マウリヤ朝の第2代の王ビンドゥサーラの子として生まれました。祖父にあたるのが、王朝を打ち立てたチャンドラグプタです。

チャンドラグプタが王朝を建てたのは、アレクサンドロス大王の東方遠征によってインド北西部が大きく揺れていた時期でした。
その混乱に乗じ、彼はガンジス川流域の強国マガダを支配していたナンダ朝を倒します。こうしてインド初の広域統一国家が生まれた、とされています。
ちなみに、インド亜大陸では紀元前2600年ごろにインダス文明という都市文明がすでに栄えていました。その文明が栄えた時代から統一的な大帝国が現れるまでには、2000年以上の時間がかかったことになります。
この王朝がどう生まれ、どんな仕組みで動いていたのかは、マウリヤ朝の記事で詳しく解説しています。ここでは、アショーカ個人の歩みに絞って追いかけていきましょう。
■王位継承をめぐる争い
父が亡くなったあと、アショーカがすんなり王位を継いだわけではないようです。スリランカに伝わる仏教の年代記には、彼が兄弟を退けて王座についたと記されています。
実際、王になってから正式な即位の儀式を行うまでに数年の空白があったと考えられています。この空白期間こそ継承争いの跡ではないか、と見る研究者もいます。
【史実と伝説】後世の仏典には「アショーカは99人の兄弟を殺して王になった」「即位当初は残虐で“暴悪なアショーカ”と呼ばれた」といった話が伝わります。ただしこれらは、のちの仏教徒が「悪から善への劇的な回心」を強調するために脚色した伝承とみられており、そのまま史実として扱うことはできません。

王子なのに、王位を継ぐのにそんなに揉めたの?

この王朝には「長男が継ぐ」みたいなハッキリした決まりがなかったんだ。王には妃が何人もいて、王子も何人もいる。しかもそれぞれ地方の総督として送り込まれていて、自分の兵と財源を持ってた。だから王が亡くなると、力のある王子どうしのつぶし合いになりやすかったんだよ。
こうして王座を手にしたアショーカ王は、祖父と父が残した巨大な領土を受け継ぐことになります。
即位とインド統一への道
アショーカ王が受け継いだ版図は、西は現在のアフガニスタン東部から、東はベンガル地方まで及んでいたとされます。つまり即位の時点で、マウリヤ朝はすでにインドの大部分を握っていたのです。

残されていたのは、南端のチョーラやパーンディヤといった国々と、東海岸に独立を保っていたカリンガでした。
このうちカリンガは、ベンガル湾に面した交易の要地です。ここを押さえれば、南インドやスリランカへ向かう海と陸のルートをまとめて手に入れられます。
祖父の代から続いてきた全インド統一という事業。それを完成させるうえで、カリンガは最後の、そして最大の障害だったのです。
【このころ世界では】アショーカ王が即位したころ、地中海ではローマとカルタゴが第一次ポエニ戦争(前264〜前241年)を戦っていました。中国はまだ戦国時代の末で、秦の始皇帝が統一を果たすのは前221年のこと。日本では縄文時代から弥生時代へ移りかわるころにあたります(弥生時代の始まりについては前10世紀ごろとする説もあり、諸説あります)。

地図で見ると、もうほとんどインド全部じゃん。残りのカリンガって、そんなに大事だったの?

すごく大事だったんだ。カリンガは港を持っていて、海の交易でうるおっていた。しかも独立心が強くて、かつてナンダ朝に攻められたあとも独立を取り戻していた土地なんだよ。ここが残ったままだと「インドを統一した」とは言えなかったんだ。
そして正式な即位から8年後、アショーカ王はついにカリンガへ軍を向けます。それが、彼の人生を根本から変える戦争になりました。
カリンガ戦争──10万人の死者が王を変えた

ここからがアショーカ王の人生でいちばん重い場面。世界史でもめずらしい、「勝った側が公式文書で反省文を出した戦争」なんだ。
紀元前261年ごろ、マウリヤ朝の軍はカリンガへ攻め込みます。戦いはアショーカ王の勝利に終わり、カリンガは併合されました。
問題は、その代償です。のちに王自身が刻ませた磨崖碑の第13章には、この戦争で15万人が捕らえられて連れ去られ、10万人が殺され、さらにその何倍もの人が命を落とした、と記されています。

ただし、この数字は王が公表した記録であり、実数をそのまま表したものかどうかは慎重に見る必要があります。それでも、被害が桁外れだったこと自体は疑われていません。
そして碑文はこう続きます。カリンガを併合したのち、王は深い悔恨にとらわれた、と。カリンガ戦争が、彼の生き方を180度変えることになりました。
「独立していた国が征服されるとき、そこで起こる殺戮と死、そして人々が連れ去られること。それは、わたしにとってきわめて心を痛めることである」(磨崖碑第13章の要旨)

勝ったはずなのに、戦場に立つと胸が痛んで仕方がなかった。……いちばんこたえたのは、僧や修行者、親を大切に暮らしていただけの人々まで巻き込まれていたことだ。剣で広げた国は、剣でしか守れぬ。わたしはもう、その道を歩きたくないと思ったのだ。
※このセリフは、磨崖碑第13章に記された王自身の言葉の趣旨をもとに、わかりやすく言い換えたものです。
■なぜ勝者が悔いたのか

でも、戦争には勝ったんだよね?なんでそこまで後悔したんだろう…

ポイントは「死者の数」より「誰が死んだか」なんだ。碑文には、僧やバラモン、親を敬って静かに暮らしていた普通の人たちまで巻き込まれた、とわざわざ書いてある。しかも「死んだ人の家族や友人まで苦しむ」ともね。王は、勝利のあとに残るものを初めて直視しちゃったんだよ。
もうひとつ見逃せないのが、王が自分の反省を「国の公式文書」として全土に公開した点です。ふつうの王なら、勝利だけを刻ませて終わりにしたはずでしょう。
あえて弱さを見せることで、王は「これから国のやり方を変える」という宣言を、誰の目にも見える形で残したのだと考えられます。
【史実と伝説】仏典には「戦後、若い修行僧に出会って一瞬で改心した」といった劇的な物語も伝わります。ただ、碑文から読み取れるのは「征服のあとに悔恨があり、そこからダルマへ傾いていった」という流れだけです。仏教への接近はある程度の時間をかけて進んだ、とみる説が有力とされています。
こうしてアショーカ王は、武力で領土を広げることをやめました。では、その代わりに国の柱として据えたものは何だったのでしょうか。次の章で見ていきましょう。
ダルマ(法)による統治──アショーカ王の政治改革
戦争のあと、アショーカ王が統治の中心に据えたのがダルマでした。日本語では「法」と訳されますが、いわゆる法律のことではありません。
碑文が語るダルマは、特定の宗派の教義でもありませんでした。生きものを殺さないこと、父母を大切にすること、年長者や修行者を敬うこと、うそをつかないこと。そして、自分と違う教えを持つ人を認めること。
つまり、誰にでも当てはまる普遍的な道徳です。王はこれを国の運営方針そのものに据えました。

ダルマって、宗教の話なのかしら?それとも政治の話?

両方だけど、あえて言うなら政治の話だね。王自身は仏教を信じていたけど、碑文で国民に求めたのは「仏教徒になれ」じゃなかった。バラモン教徒もジャイナ教徒もいる巨大な国を、宗教で割らずにまとめる——いわば“最大公約数の道徳”を探した結果なんだ。
■ダルマ統治の具体策
理念を掲げるだけでは政治になりません。アショーカ王は、ダルマを実際の政策に落とし込んでいきました。
政策①:ダルマ・マハーマートラ(法大官)の設置——各地を巡回してダルマを説き、人々の暮らしぶりを王に報告する専門の役人を置いた
政策②:狩猟といけにえの制限——王宮の食卓に出す肉を減らし、宗教儀礼で動物を供犠にすることを制限した
政策③:人と動物のための施設整備——街道に並木や井戸、休憩所をつくり、薬草を植えさせた。人だけでなく動物の手当てにも配慮したと碑文に記されている
さらに王は、それまでの王が楽しんだ狩猟の旅をやめ、仏跡をめぐる巡礼の旅に切り替えたとされています。趣味の変更ではなく、王自身が手本を示すための行動でした。

戦の合図に鳴らしていた太鼓を、これからはダルマを告げる音に変えたい。役人たちには言ってある——裁きは公平に、罰は行きすぎぬように、と。人の心は命令では変わらぬ。だからまず、わたしが手本を示すのだ。
【諸説あり】ダルマ統治がどこまで実際に機能したのかについては、研究者のあいだでも議論があります。碑文はあくまで王の理想を語ったものであり、広大な地方の実態がそのとおりだったとは限らないためです。それでも、統治の理念を石に刻んで公開した試み自体が、古代では例のないものでした。
では、そのダルマを、王はどうやって広大な国じゅうに伝えたのでしょうか。ここで登場するのが、次の章で扱う石に刻まれた文章です。
磨崖碑・石柱碑──「本人の言葉」が現存する古代の王
アショーカ王は、自分の考えを岩肌や石の柱に彫らせました。岩に刻んだものを磨崖碑、独立した石の柱に刻んだものを石柱碑と呼びます。

これらは現在までに30数か所で見つかっており、その分布は今のアフガニスタンからインド南部にまで広がっています。
文字も一種類ではありません。多くはブラーフミー文字ですが、北西部ではカローシュティー文字、アフガニスタンのカンダハルではギリシア語とアラム語が使われました。その土地の人が読める言葉で書かせたのです。
石の柱の上には、動物をかたどった柱頭が据えられました。なかでも有名なのが、鹿野苑とも呼ばれるサールナートの獅子柱頭です。
■なぜ碑文は史料としてすごいのか
古代の王の多くは、後世の人が書いた伝記や年代記を通してしか知ることができません。書き手の立場によって、評価も事実関係も大きく揺れます。
ところがアショーカ王の場合、本人が同時代に発表した「公式文書」がそのまま残っています。しかも内容には、自分の戦争を悔いるという、王にとって不都合な告白まで含まれているのです。
後世の脚色が入っていない王の肉声が読める。これは、古代史の史料としてきわめて異例なことでした。

石に彫ってあるってだけで、そんなにすごいことなの?

日本史でたとえるとわかりやすいよ。聖徳太子の考えって、後の時代に書かれた『日本書紀』を通してしか知れないよね。でもアショーカ王は、本人が発表した文書そのものが残ってる。しかも「わたしは戦争を後悔している」なんて、都合の悪いことまで書いてあるんだ。これって古代史ではめちゃくちゃ貴重なんだよ。
これらの碑文は、長いあいだ「誰が書いたのかわからない謎の文字」でした。ブラーフミー文字はインドで読まれなくなって久しく、碑文の中で王は自分を「デーヴァーナーンピヤ・ピヤダシ(神々に愛でられし者、慈しみのまなざしの王)」と名乗っていて、「アショーカ」という名前がほとんど出てこなかったからです。
転機は1837年。イギリス東インド会社の造幣局に勤めていたジェームズ・プリンセプが、ブラーフミー文字の解読に成功します。これによって碑文が読めるようになりました。
その後、スリランカに伝わる年代記との照合や、「アソーカ」という名を記した碑文の発見によって、「ピヤダシ王=アショーカ王」であることが確かめられていきます。私たちが王の肉声を読めるようになったのは、19世紀以降のことなのです。
石に刻まれたダルマは、やがてインドの外へも運ばれていきます。次の章では、アショーカ王が進めた仏教の保護と国外への布教を見ていきましょう。
仏教の保護と国外布教──スリランカへ広がった教え
ダルマを国の柱に据えたアショーカ王は、同時にひとりの仏教信者としても歩みはじめます。ただ、その入り方はいきなり熱烈だったわけではなかったようです。

小さな岩に刻まれた法勅には、こんな趣旨の告白が残されています。「在家の信者になって2年半あまりたつが、はじめのころはあまり熱心ではなかった。僧の集まりに近づいてから、ようやく本気で努めるようになった」と。
王は各地に仏塔を建てさせたとも伝えられています。中部インドに残るサーンチーの大塔も、その始まりはアショーカ王の時代にさかのぼるとされ、現在の姿は後の王朝が拡張したものと考えられています。
また王は、それまでの狩猟の旅にかえて、釈迦ゆかりの地をめぐる巡礼に出かけました。生誕地とされるルンビニーには石柱が建てられ、「ここは尊い方が生まれた地である」としてこの村の税を軽くした、と刻まれています。

仏教に帰依したっていうけれど、王様が出家してしまったわけじゃないのよね?

うん、出家はしていないよ。碑文でも自分のことを「在家の信者」と呼んでいるんだ。しかも国民に「仏教徒になれ」とは言っていない。むしろ「よその教えをけなすな」と書いている。個人としては仏教を厚く支え、国の方針としてはダルマで通す——この二階建てがアショーカ王のうまいところなんだよ。
■僧団の分裂を止め、教えを整える
仏教の教団(サンガ)が大きくなると、教えの解釈をめぐる対立も生まれます。王はこれを放置しませんでした。
サーンチーやサールナートなどで見つかった法勅には、教団を分裂させようとする者は還俗させて白い衣を着せ、僧院の外へ出す、という強い措置が記されています。
さらにスリランカに伝わる年代記によれば、都パータリプトラで第三回仏典結集が開かれ、王がこれを支えたと伝えられています。結集とは、僧たちが集まって教えを確認し、まとめ直す会議のことです。
【諸説あり】第三回仏典結集について詳しく語るのは、スリランカに伝わった南方系の記録だけです。アショーカ王自身の碑文には出てきませんし、北へ伝わった仏典では結集の数え方そのものが違っています。そのため、実際にどのような規模で行われたのかは、慎重に見る必要があるとされています。
■スリランカへ渡ったマヒンダ
教えが整えられたあと、各地へ布教の使者が送り出されたと伝えられています。なかでもよく知られているのが、スリランカへの派遣です。
王の子(弟とする説もあります)とされるマヒンダが海を渡り、当時の王デーヴァーナンピヤ・ティッサを仏教に導いた、と年代記は語ります。さらに王女サンガミッターが、釈迦が悟りを開いた地の菩提樹の枝を携えて渡ったとも伝えられています。
この伝承は、スリランカが上座部仏教の国になっていく出発点として語り継がれてきました。そして今日、東南アジアに広がる上座部仏教の源流にもつながっていきます。
目を向けた先は南だけではありません。磨崖碑の第13章には、南インドのチョーラやパーンディヤに加え、はるか西方のギリシア系の王たちのもとへも「ダルマによる勝利」を届けた、と刻まれています。
そこに名が挙がるのは、シリアやエジプト、マケドニアなどを治めた王たちです。紀元前3世紀のインドの王が、地中海世界まで視野に入れていたことになります。

わたしが望むのは、剣による勝利ではない。ダルマによる勝利だ。南の国々にも、はるか西の王たちのもとにも使いを送った。……子や孫の代の者たちよ。新たな征服を思うな。この道を、そのまま歩んでほしい。
※このセリフも、磨崖碑第13章に記された王自身の言葉の趣旨をもとに、わかりやすく言い換えたものです。
こうして、ひとつの地方宗教にすぎなかった仏教は、王の後押しを受けてインドの外へと運ばれていきました。では、王が世を去ったあと、その事業はどうなったのでしょうか。
死後の伝説と現代への影響──インド国旗のチャクラまで
アショーカ王が世を去ったのは、紀元前232年ごろとされています。その後のマウリヤ朝は坂道を転がるように力を失っていきました。
そして紀元前2世紀の初め、家臣であった将軍に最後の王が倒され、王朝そのものが幕を閉じます(滅亡の年は前185年ごろとも前180年ごろとも言われます)。広大な領土は、ふたたび地域ごとの国々に分かれていくことになりました。
一方、仏教徒のあいだでは、アショーカ王は理想の王として語り継がれていきます。『阿育王伝』などの説話集には、王が8万4千もの仏塔を一斉に建てたといった、伝説色の濃い物語が並びます。
ところが皮肉なことに、インド本国では王の記憶そのものが薄れていきました。前の章で見たとおり、碑文の文字さえ読めなくなっていたのです。
■独立インドが選んだ「アショーカの車輪」
時代は一気に下って1947年。イギリスからの独立を目前にしたインドで、新しい国旗のデザインが議論されていました。
当初、旗の中央に置く予定だったのは糸車(チャルカ)でした。ガンディーが独立運動の象徴としてきた、あの手仕事の道具です。
ところが「国旗の印は、特定の運動や集団のものであってはならない」という考えから、別の図案が探されます。そこで選ばれたのが、アショーカ王の石柱に刻まれていた法輪——アショーカ・チャクラでした。

1947年7月22日、制憲議会はこの新しい国旗を全会一致で採択しました。24本のスポークを持つ紺色の車輪が、独立インドの真ん中に据えられたのです。
さらに1950年1月26日、共和国となったインドはサールナートの獅子柱頭をかたどった図案を国章として採用します。標語として添えられたのは「サティヤメーヴァ・ジャヤテー(真理のみが勝つ)」という一句でした。

え、今のインドの国旗の真ん中のマークって、アショーカ王の石柱から来てるの!?

そうなんだ。2200年以上前の王が建てた石柱の飾りが、そのまま今の国の顔になってる。紙幣にもパスポートにも入ってるよ。……名前を忘れられていた王が、19世紀に碑文を読まれて“再発見”されて、独立のときに国のシンボルに選ばれた。すごい復活劇だと思わない?
なお、糸車が国旗から外れたことに、ガンディー本人は当初納得していなかったと伝えられます。それでも最終的には受け入れました。
暴力によらずに国をつくるという理想。それは、古代の王が石に刻んだ願いとも、近代インドが選んだ道とも、どこかで重なっているのかもしれません。
【現代とのつながり】アショーカ王が残したものは、国旗と国章だけではありません。インドで平時における最高位の勇敢賞(勲章)は「アショーカ・チャクラ」と名づけられています。また、ネパールのルンビニーに立つ石柱は、釈迦の生誕地を特定する決め手のひとつとなり、現在は世界遺産の構成要素として保存されています。2200年以上前の王の事業が、いまも国の象徴として、また遺跡として生き続けているのです。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:流れは「カリンガ戦争 → 回心 → ダルマ統治」の3ステップで固めると崩れません。混同注意は2つ。①マウリヤ朝の建国者はチャンドラグプタで、アショーカ王は第3代。②クシャーナ朝のカニシカ王との取り違え。「アショーカ=上座部仏教・スリランカ」「カニシカ=大乗仏教・中央アジア」とセットで覚えると区別できます。

覚えることが多いなあ…。結局、一番出るのはどこ?

本丸は「カリンガ戦争をきっかけに仏教へ帰依し、ダルマによる統治を行った」ここ! 石柱碑・磨崖碑とセットで問われることも多いよ。記述問題なら「武力による征服から、ダルマによる統治への転換」と書ければ大きくは外さないんだ。
アショーカ王についてもっと詳しく知りたい人へ

アショーカ王や古代インド史についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を3冊紹介するよ!
仏教学の泰斗である中村元による、インダス文明からグプタ朝までを一冊で見渡せる通史です。第6章「統一的官僚国家の成立――マガダ国からマウリヤ王朝へ」でマウリヤ朝とアショーカ王の時代が位置づけられており、この記事で扱った出来事が古代インド全体の流れのどこにあるのかを確認できます。
アショーカ王一代記だけでなく、マウリヤ朝の前後まで含めて古代インド史の流れを体系的に押さえたい人。
とにかく手早くアショーカ王のポイントだけ知りたい人には、扱う範囲がやや広め。
サンスクリット原典「アショーカ・アヴァダーナ」を定方晟が訳した一冊です。「太子選定」「残忍アショーカ」「七万四千の塔」など全10章にわたり、アショーカ王が仏教に帰依していく過程が伝説的なエピソードとして語られています。史実の年表というより、後世に語り継がれた「王の物語」を味わう読み物です。
碑文や年表だけでは物足りない、アショーカ王をめぐる伝説そのものを読んでみたい人。
史実と伝承をはっきり区別しながら受験知識として整理したい人には、まずこの記事や教科書で骨子をつかんでから読むのがおすすめ。
インダス文明から現代まで、5000年に及ぶインドの歴史を一冊でたどる中公新書です。マウリヤ朝・アショーカ王の時代のあと、インドがイスラーム勢力の流入やムガル帝国、イギリス統治を経て独立国家へと歩んでいく流れを見渡せます。「アショーカ王のあとインドはどうなったのか」を知りたい人に向いています。
アショーカ王の時代だけでなく、その後インドがどんな歴史をたどって現代に至ったのかまで知りたい人。
古代インドやアショーカ王個人についてもっと深く掘り下げたい人には、扱う時代が広すぎて物足りない可能性がある。
よくある質問(FAQ)
紀元前3世紀のインドを治めたマウリヤ朝第3代の王です。在位は前268年ごろから前232年ごろとされ、インド亜大陸のほぼ全域を支配しました。カリンガ戦争の惨状を悔いて仏教に帰依し、武力ではなくダルマ(法)による統治へと大きく方針を変えたことで知られています。
アショーカ王が紀元前261年ごろ、東海岸で独立を保っていたカリンガ国を征服した戦争です。王自身が刻ませた磨崖碑には、15万人が連れ去られ、10万人が殺されたと記されています。勝利したにもかかわらず王は深い悔恨にとらわれ、これが仏教への傾斜とダルマ統治への転機になったとされています。
直接のきっかけはカリンガ戦争への悔恨だったと碑文から読み取れます。不殺生を説く仏教は、武力によらない統治へ転じた王の方針と重なるものでした。ただし王は国民に改宗を求めておらず、バラモン教やジャイナ教の修行者も等しく敬うよう説いています。多様な信仰を抱える大帝国をまとめる狙いもあったと考えられています。
法律でも特定の宗派の教義でもなく、誰にでも当てはまる普遍的な道徳を指します。碑文では、生きものを殺さないこと、父母を敬うこと、うそをつかないこと、他人の信仰をけなさないことなどが挙げられています。王はこれを国の運営方針に据え、ダルマ・マハーマートラ(法大官)を各地に置いて広めさせました。
ダルマの内容と、それを守るよう呼びかける王の言葉が中心です。カリンガ戦争への悔恨、狩猟やいけにえの制限、街道の並木や井戸の整備、他宗派への寛容、教団の分裂を戒める布告などが刻まれています。王本人が同時代に発表した文書がそのまま残っている点で、古代史の史料としてきわめて貴重です。
インド国旗の中央にある紺色の車輪はアショーカ・チャクラと呼ばれ、アショーカ王の石柱に刻まれた法輪に由来します。1947年7月22日に制憲議会で採択されました。さらに1950年1月26日には、サールナートの獅子柱頭をかたどった図案がインドの国章として採用されています。
まとめ
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前304年ごろ誕生(生年には諸説がある)
-
前268年ごろマウリヤ朝第3代の王として即位
-
前261年ごろカリンガ戦争。勝利するも深い悔恨にとらわれる
-
前257年ごろダルマによる統治を掲げ、岩や石柱に法勅を刻ませる
-
前250年ごろ第三回仏典結集を支え、スリランカなどへ布教の使者を送ったと伝えられる
-
前232年ごろ死去。以後マウリヤ朝は急速に衰退していく

以上、アショーカ王のまとめでした。「勝った側が反省文を石に刻んだ」——世界史でもかなりの変わり種だけど、その石が2200年後に国の顔になるなんて、王本人も想像しなかったはずだよね。下の記事で王朝そのものの歴史や、古代インドの世界もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』
山川出版社『詳説世界史』
コトバンク「アショーカ王」「シュンガ朝」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)(2026年7月確認)
ヒストリスト(山川出版社)「マウリヤ朝」(2026年7月確認)
Wikipedia日本語版「アショーカ王」「アショーカ王碑文」「マウリヤ朝」「カリンガ国」「インドの国旗」(2026年7月確認)
Wikipedia英語版「Edicts of Ashoka」「Major Rock Edicts」「Ashoka Chakra (military decoration)」(2026年7月確認)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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