足利義詮とはどんな人?やらかし・業績・評価をわかりやすく解説【室町2代将軍】

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足利義詮
もぐたろう
もぐたろう

今回は室町幕府の2代将軍・足利義詮あしかがよしあきらについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「地味な将軍」なんてイメージがあるけど、実は歴代将軍でもっとも過酷な状況を引き継いだ人物なんだ。一緒に見ていこう!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 足利義詮の読み方(よしあきら)と基本情報(室町幕府2代将軍・生没年・足利尊氏の子)
  • 義詮が将軍になるまでの経緯(幼少期から2代将軍就任まで)
  • 観応の擾乱と義詮の試練(幕府内部の権力闘争・北朝皇族が南朝に拉致された「やらかし」)
  • 足利義詮の業績と功績(管領制の整備・半済令の継承と推進・南北朝統一への布石)
  • 足利義詮の死因と最期(38歳での病死・宝筐院との縁)

「足利義詮って誰?」「2代将軍でしょ、地味な人」——そんなイメージを持っていませんか?

実は、歴代将軍の中でもっとも過酷な状況を引き継いだのが義詮でした。父・足利尊氏が残したのは、南北朝なんぼくちょうの分裂、幕府内部の観応の擾乱かんのうのじょうらんの後遺症、そして全国に割拠する武将たちの反乱。カオスとも言えるその現場を静かに整えた義詮こそ、息子・足利義満の「全盛期」を生み出した縁の下の力持ちだったのです。

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足利義詮とは?【室町幕府2代将軍の基本情報】

3行でわかる足利義詮
  • 室町幕府の2代将軍(在職:1358〜1367年)、足利尊氏の三男(嫡男)
  • 南北朝なんぼくちょうの内乱・観応の擾乱の後処理を担い、管領制・半済令など幕府体制を整備
  • 1367年に38歳で病死。菩提寺・宝筐院ほうきょういん(京都・嵐山)に眠る
足利義詮の肖像画

足利義詮あしかがよしあきらは、1330年(元徳2年)に生まれました。室町幕府を開いた初代将軍・足利尊氏の三男で、母は正室・赤橋登子あかはしとうこです。

将軍就任は1358年(延文3年)、父・尊氏が死去した後のこと。在職期間は1367年(貞治6年)に38歳で病死するまでの、約9年間でした。後を継いだのは、当時わずか10歳だった息子・足利義満です。

歴史の教科書では、尊氏と義満の間に挟まれてどうしても目立ちにくい義詮ですが、彼がいなければ義満の全盛期はなかったとも言われています。父が巻き起こした内乱の後片付けから、幕府体制の整備まで、「縁の下の力持ち」として時代を支えた将軍でした。

あゆみ
あゆみ

大河で義満をよく見かけるけど、義詮ってほとんど出てこないですよね?それほど地味な人だったんですか?

もぐたろう
もぐたろう

全然地味じゃないんだよ!尊氏と義満のキャラがあまりにも強烈すぎて、その間に挟まれた義詮が霞んで見えるだけ。実は「最も大変な時代を担った将軍」として、近年の研究では再評価が進んでいるんだ。

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足利義詮の読み方・名前の意味

「足利義詮」は「あしかが よしあきら」と読みます。「義詮」という名前の「詮」という字は、訓読みで「あきら」と読む漢字です。「明らかにする・究め尽くす」という意味を持ちます。

「よしのり(義教)」「よしてる(義輝)」など他の足利将軍と混同しやすいので、しっかり確認しておきましょう。

📌 読み方まとめ:足利義詮 =「あしかが よしあきら」。「詮」は訓読みで「あきら」、意味は「明らかにする・極める」。「よしのり」「よしてる」と混同しないよう注意。

足利将軍家の順番は「尊氏(1代)→義詮(2代)→義満(3代)→義持(4代)→義量(5代)……」と続くので、セットで覚えておくと便利です。

ゆうき
ゆうき

「よしあきら」って読み方、漢字の「詮」なんて普段使わないし……!

もぐたろう
もぐたろう

「詮」という字は「詮索(せんさく)」「所詮(しょせん)」という熟語でも使われるよ。「あきらかにする」イメージをつかめば忘れにくくなるね。将軍の読み方は一覧でセット暗記するのが一番ラクだよ!

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足利義詮の幼少期・生い立ち

足利尊氏の肖像画
父・足利尊氏。義詮は尊氏の三男として生まれた(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン)

義詮が生まれたのは1330年(元徳2年)のこと。父は後の室町幕府初代将軍・足利尊氏、母は正室・赤橋登子あかはしとうこです。尊氏の三男ですが、正室の子であるため事実上の嫡男(後継ぎ)として扱われました。

義詮が生まれた1330年代は、まさに歴史が大きく動く激動の時代でした。義詮が2〜3歳の頃、後醍醐天皇が倒幕に動き、鎌倉幕府が滅亡(1333年)。その直後から建武の新政けんむのしんせいが始まり、やがて義詮の父・尊氏が朝廷から離れて室町幕府を開くことになります。

📌 異母兄・直冬について:義詮には異母兄・足利直冬あしかがただふゆがいました。直冬は尊氏の庶子(正室以外の子)で、長い間父に認知されずに育ちます。後に尊氏の弟・直義の養子となり、義詮と激しく対立する存在となりました。

幼少期の義詮は、1340年頃から鎌倉に送られ、鎌倉将軍府かまくらしょうぐんふの長官として東国の統治にあたります。当時わずか10歳前後だったにもかかわらず、形式的とはいえ関東の政治的代表者として据えられたのです。これは「尊氏の後継者」として公式に認められた証でもありました。

ところが、義詮の少年時代は穏やかなものではありませんでした。父・尊氏と弟・足利直義あしかがただよしの権力闘争(観応の擾乱)が勃発し、幕府そのものが二分されるほどの内乱が続いたのです。義詮はこの嵐の中で大人になっていきました。

あゆみ
あゆみ

10歳で関東の代表者って……現代だと小学4年生くらいですよね。それは大変すぎる。

もぐたろう
もぐたろう

もちろん実際の政務は補佐の家臣がやるんだけど、それでも「尊氏の後継者として鎌倉に立つ」という政治的なプレッシャーは相当だったと思うよ。そして父が巻き起こした内乱のせいで、鎌倉から急いで京都に呼び戻されることになるんだ……。

足利義詮が室町幕府2代将軍になるまで

義詮が将軍に就任するまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。父・尊氏と叔父・足利直義の間で起きた「観応の擾乱」(1350〜52年)という凄まじい内乱が勃発し、幕府は二つに割れてしまったのです。

この内乱の最中、義詮は鎌倉から京都へと呼び戻され、父・尊氏の傍らで戦い続けます。直義派との争いが続く中、1352年(観応3年)には南朝軍が京都に迫り、義詮自身も一時的に京都を失う事態(後に詳述)を経験します。

1358年(延文3年)4月、父・尊氏が54歳で死去しました。義詮はその後を受けて28歳で室町幕府2代将軍に就任します。しかし引き継いだのは、整然とした幕府などではありませんでした。

📌 将軍就任時の状況:1358年当時の幕府は、観応の擾乱の後遺症を引きずったままでした。守護大名の力が強まり、南北朝の対立も続いており、義詮は「収拾がついていない内乱の後片付け」から将軍生活をスタートしなければなりませんでした。

足利義詮
足利義詮

父上(尊氏)の後を継いで将軍となったが……全国がバラバラな状態だ。南朝との争いも続いているし、守護大名たちも思い思いに動いている。正直、途方に暮れそうだが、やるしかない。

当時の幕府が抱えていた問題は三つありました。①南朝(吉野朝廷)との対立が続き、正統性をめぐる争いが収まらないこと。②各地の守護大名が自立し、幕府の統制が効きにくくなっていること。③観応の擾乱で生まれた直冬(直義の養子)派がなお抵抗を続けていたこと——です。

義詮はこの三つの難題を、9年間という短い在職期間の中で少しずつ解きほぐしていきます。「地味」と言われるのは、派手な征服や外交ではなく、地道な制度整備と内紛の収拾に多くの力を注いだからかもしれません。

ゆうき
ゆうき

将軍になったのに、そんなにグチャグチャな状況だったんですね……義詮はどんな立場だったんですか?

もぐたろう
もぐたろう

「観応の擾乱の後処理・南北朝の分裂・守護大名の自立という三つの難題を同時に引き継いだ」って書けば完璧だよ!「地味」に見えるのはこれだけの難問を地道に解決したからで、むしろ評価されるべき点だね。

義詮が直面した試練——観応の擾乱と楠木正行との対立

義詮の将軍時代を語る上で、避けては通れないのが「観応の擾乱」の後遺症です。この内乱は義詮が将軍就任前(1350〜52年)に起きたものですが、その混乱は義詮の在職期間にも深く影響を与え続けました。

観応の擾乱とは?

1350〜52年に起きた、室町幕府内部の権力闘争です。将軍・足利尊氏と、その弟で幕府の実務を担っていた足利直義が対立し、幕府が二分されました。直義は南朝側と手を組んで対抗しましたが、1352年に敗れて病死(あるいは毒殺とも)。しかし直義の養子・直冬はその後も抵抗を続け、義詮の時代まで幕府を悩ませることになります。

この擾乱のさなか、義詮が犯したとされる「最大のやらかし」があります。1352年(正平7年・観応3年)のことです。

南朝軍が大挙して京都に攻め込んできました。義詮はこの猛攻に耐え切れず、近江へ撤退を余儀なくされます。問題は、その隙に北朝ほくちょう崇光天皇すこうてんのう光厳上皇こうごんじょうこうらが南朝に拉致され、三種の神器も奪われてしまったことです。

北朝の天皇・上皇を守るべき立場にありながら、南朝に天皇家を奪われてしまった——これが後世にまで語り継がれる義詮の「やらかし」です。太平記にもこのエピソードが記されており、当時の貴族や武将たちからも批判の声が上がりました。

あゆみ
あゆみ

天皇を置いて逃げちゃったの!?それは将軍として致命的な失態じゃないですか……?

もぐたろう
もぐたろう

うん、これが義詮の「最大のやらかし」として記録に残っているよ。ただ、当時は南朝軍の猛攻で本当に守りきれなかった緊急事態でもあった。「戦略的撤退」とも言えるけど、それでも批判された出来事だよ。義詮もその後は挽回しようと必死だったんだ。

さらに義詮の時代には、楠木正行くすのきまさつらとの戦いもありました。楠木正行は、南北朝時代の英雄・楠木正成くすのきまさしげの息子で、南朝の忠臣として北朝・幕府軍と激しく戦いました。

1348年(正平3年)の四條畷の戦いしじょうなわてのたたかいで、楠木正行は幕府軍(高師直こうのもろなお率いる軍勢)と戦い、討ち死にしました。義詮はこの戦いに直接参加したわけではありませんが、後年に楠木正行の遺体を手厚く弔い、その首塚を菩提寺・宝筐院に安置したとされています。

📌 義詮と楠木正行の不思議な縁:義詮の菩提寺・宝筐院(京都・嵐山)には、義詮の墓と楠木正行の首塚が並んで存在します。北朝側と南朝側——敵同士だった二人が同じ境内に眠るという、何とも不思議なドラマがあります。漫画「逃げ上手の若君」でも取り上げられています。

足利義詮
足利義詮

正行殿は潔く散った。敵であっても、その忠義には深く頭が下がる……。同じ京に眠ることで、せめて弔いになれば。

足利義詮の業績・功績

「地味」と言われる義詮ですが、将軍として残した業績は決して少なくありません。混乱した幕府体制を整え、息子・義満の全盛期を準備した功績は非常に大きいのです。

業績①:管領制の整備

管領かんれいとは、将軍を補佐する幕府最高職のことです。今でいう「将軍の右腕・総理大臣」のようなイメージです。

義詮は1362年(貞治元年)頃から、細川・斯波・畠山の三家が交代で管領を務める「三管領さんかんれい」の体制を整備しました。これにより、将軍権力を守護大名に広く支えさせる仕組みが生まれ、室町幕府の統治体制が大きく安定したのです。

業績②:半済令の継承・推進

1352年(観応3年)、半済令はんぜいれいが発布されました。発布したのは父・尊氏ですが、義詮は将軍就任後もこれを継承・推進しました。この法令は荘園・公領から徴収される年貢の半分を、守護が軍事費として取り立てることを認めたものです。

当初は近江・美濃・尾張の三か国に限った一時的な措置でしたが、その後全国に広まっていきます。守護大名の経済的基盤を強化することで、幕府への協力を引き出す狙いがありました。

半済令って何?

半済令はんぜいれいとは、荘園や公領の年貢収入の「半分(半)」を守護大名が徴収(済)することを認めた法令です。観応の擾乱で財政が逼迫した守護大名の支持を得るための措置でしたが、長期的には荘園の解体を促し、守護大名の力がさらに拡大する結果をもたらしました。このことが後の「守護大名の台頭」「荘園制の崩壊」へとつながっていきます。

業績③:南北朝統一への布石

義詮は在職中、南朝との交渉も続けていました。南北朝の統一は義詮の死後、息子・足利義満の時代(1392年・明徳の和約めいとくのわやく)に実現しますが、その土台を作ったのは義詮の外交努力があってこそでした。

また義詮は、各地に割拠する守護大名との関係を粘り強く調整し、幕府の権威を少しずつ回復させていきました。派手な戦功はないものの、「対話と制度整備」によって幕府を安定させたのが義詮の統治スタイルでした。

あゆみ
あゆみ

管領制・半済令・南北朝交渉……業績を並べると、全然地味じゃないですね!むしろよくこれだけのことを9年間でやれたな、という感じ。

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ!近年の歴史研究でも「義詮がいなければ義満の全盛期はなかった」という再評価が進んでいるんだ。地味に見えるのは、父・尊氏が「幕府を開いた英雄」、息子・義満が「南北朝を統一した最強将軍」というキャラが強すぎるせいで、その間の義詮が霞んで見えるだけ。実は非常に重要な将軍だよ!

足利義詮の死因と最期

義詮の最期は、1367年(貞治6年)12月のことでした。享年38歳——父・尊氏が54歳(数え年)、息子・義満が51歳まで生きたことを考えると、いかに早い死であったかがわかります。

死因は病死とされています。史料によれば、義詮は晩年から体調を崩しがちで、将軍職を全うするのが難しい状況にあったとされています。詳しい病名は明らかにされていませんが、慢性的な疾患が悪化したものと考えられています。

義詮が病床に伏した際、まず行ったのが将軍職の譲位でした。死の直前、義詮はわずか10歳の幼い息子・足利義満あしかがよしみつに将軍職を引き継ぎます。この時点で義満はまだ子どもでしたが、義詮は「幕府の基盤は整えた。あとは頼む」という思いで後を託したのでしょう。

📌 死亡の経緯:1367年(貞治6年)12月、足利義詮は38歳で病死。死の直前に義満(当時10歳)に将軍職を譲り、実務は管領・細川頼之ほそかわよりゆきが補佐する体制を整えた。義満の安定した門出を作ることが、義詮最後の仕事でした。

足利義詮
足利義詮

義満よ……まだ幼いのに、すまない。父上(尊氏)がわしに残したカオスを、わしはようやく少し整えられた。あとは頼之に補佐を頼んである。お前はきっと、父上(尊氏)を超える将軍になるだろう……。

義詮の死後、幕府の実務は管領・細川頼之ほそかわよりゆきが支えます。幼い義満を守りながら幕府を安定させた頼之の活躍も、義詮が管領制を整備していたからこそでした。

生前の義詮は、太平記の中で必ずしも高く評価されているわけではありません。北朝天皇を置いて逃げた「やらかし」のエピソードも記録されており、当時から批判的な評価があったことがわかります。しかし近年の歴史研究では、義詮が整えた管領制・半済令・南北朝統一への外交努力が再評価され、「足利義満の全盛期を準備した将軍」として見直されています。

あゆみ
あゆみ

38歳って若いですよね……。義満に将軍職を引き継いでから亡くなったということは、最後まで幕府のことを考えていたんですね。

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ。死の床でも将軍の後継ぎと補佐体制を整えてから逝くあたり、義詮の「縁の下の力持ち」ぶりが最後まで出ているよね。菩提寺・宝筐院に手厚く葬られて、今も京都・嵐山に眠っているんだ。

義詮ゆかりの地——宝筐院と嵐山

足利義詮の菩提寺として知られるのが、京都・嵐山にある宝筐院ほうきょういんです。山号は「善入山」、もとは「善入寺」と呼ばれた臨済宗りんざいしゅう系単立の寺院で、現在の「宝筐院」という名は義詮の法名に由来します。

宝筐院は、もとは平安時代に建てられた古寺でしたが、長い年月の中で荒廃していました。義詮はこの寺を再興・拡充し、自らの菩提寺として整備したとされています。義詮の死後、ここに義詮の墓が造られました。

📌 宝筐院の基本情報:京都市右京区嵯峨小倉山にある臨済宗の寺院。足利義詮が再興した菩提寺で、義詮の墓と楠木正行の首塚が同じ境内に存在する。秋の紅葉の名所としても知られる(※詳しい拝観情報は公式サイトを参照してください)。

宝筐院が歴史ファンの間で特に注目される理由が、境内に眠る「二人の墓」の存在です。義詮の墓のすぐ近くに、南朝の忠臣・楠木正行くすのきまさつらの首塚があるのです。

楠木正行は、南朝側の武将として北朝・足利軍と激しく戦い、1348年の四條畷の戦いしじょうなわてのたたかいで壮絶な最期を遂げました。義詮は南朝側の武将ながら正行の忠義を深く敬い、その首を手厚く弔ったとされています。敵同士だった二人が同じ寺の境内に眠る——これが宝筐院の最も有名なエピソードです。

ゆうき
ゆうき

宝筐院って「逃げ上手の若君」で出てきますよね!漫画だと義詮どんなキャラなんですか?

もぐたろう
もぐたろう

「逃げ若」こと「逃げ上手の若君」(松井優征作・週刊少年ジャンプ)では、主人公・北条時行と対立する足利陣営の人物として義詮が登場するよ。史実とは異なる部分もあるけど、南北朝の緊迫した雰囲気は漫画ですごくよく描かれているんだ。歴史に興味を持った人は要チェック!

宝筐院は、嵐山の竹林や天龍寺にほど近い場所にあります。秋には境内が真っ赤なもみじで染まる紅葉の名所としても知られており、歴史ファンだけでなく観光客にも人気のスポットです。義詮と正行の墓が静かに並ぶその境内は、南北朝の激動の時代を今に伝えています。

足利義詮・南北朝時代をもっと深く知るための本

義詮の時代——南北朝の動乱と室町幕府の草創期——に興味を持った方のために、おすすめの書籍を紹介します。

💡 速習向け|地図・図版でサクッとわかる南北朝入門

南北朝時代の全体像を地図や図版でつかみたい方に最適な一冊です。鎌倉幕府の滅亡から観応の擾乱まで、義詮が生きた時代の複雑な流れを平易な言葉でていねいに解説しています。「そもそも南北朝って何?」という疑問から読み始められる入門書です。

おすすめの人
  • 南北朝時代を初めて学ぶ中高生・大人
  • 図版・地図で視覚的に理解したい人
  • 義詮が生きた時代背景をまず掴みたい人
向かない人
  • 足利義詮だけを深く掘り下げたい人(時代全体を扱う概説書のため)
  • 史料・学術的考証を重視する研究者志向の人

📘 本格派|最新研究で読む南北朝通史

南北朝研究の第一人者・森茂暁による最新の通史です。後醍醐天皇による建武政権の崩壊から南北朝合一(1392年)まで、足利義詮が果たした役割を含めて体系的に解説しています。高校日本史で南北朝時代を深く学びたい受験生・大人にも対応できる決定版。

南北朝時代

森茂暁 著|講談社現代新書

おすすめの人
  • 南北朝時代を体系的・本格的に学びたい人
  • 義詮の政治的役割を歴史的文脈で理解したい人
向かない人
  • 南北朝を初めて学ぶ人(まず上の入門書がおすすめ)
  • 足利義満・室町幕府の全盛期をメインに知りたい人

🏯 次の時代へ|義満の全盛期を知れば義詮の仕事がわかる

義詮が礎を作り、息子・義満が完成させた室町幕府の全盛期を描いた一冊。桃崎有一郎が朝廷と幕府の二元支配構造を鮮やかに解き明かします。義詮時代の管領制・南北朝交渉が義満のどんな業績につながったのか——「前の時代」との連続性を理解するのに最適です。

おすすめの人
  • 義詮→義満という「父から息子」の連続性を理解したい人
  • 室町幕府と朝廷の関係に興味がある大人・歴史好き
  • ちくま新書の読みやすさで本格的な学術知見を得たい人
向かない人
  • 足利義詮の生涯だけをコンパクトに知りたい人(義満が主役)
  • 南北朝動乱の前半(建武の新政など)を学びたい人

よくある質問(FAQ)

A. 「あしかが よしあきら」と読みます。「詮」は訓読みで「あきら」と読む漢字です。「よしのり(義教)」「よしてる(義輝)」などの他の足利将軍と混同しやすいので注意しましょう。検索時は「足利よしあきら」でもヒットします。

A. 足利義詮は室町幕府の2代将軍です。初代将軍・足利尊氏の三男(嫡男)で、1358年(延文3年)に父の死後に将軍職を継ぎました。在職期間は1358〜1367年の約9年間です。

A. 1367年(貞治6年)12月に病死しました。享年38歳でした。史料には詳しい病名は記されていませんが、晩年から体調不良が続いていたとされています。死の直前に幼い息子・義満(10歳)に将軍職を譲り、管領・細川頼之に補佐を託して逝去しました。

A. 主な業績は①管領制の整備(細川・斯波・畠山の三管領が将軍を補佐する体制の確立)、②半済令の継承・推進(1352年に父・尊氏が発布した法令を将軍として引き継ぎ推進)、③南北朝統一に向けた外交努力の3点です。「地味」と評されることもありますが、息子・義満の全盛期を準備した非常に重要な将軍です。

A. 観応の擾乱かんのうのじょうらん(1350〜52年)は義詮の将軍就任前に起きた、父・尊氏と叔父・直義の幕府内部の権力闘争です。義詮はこの内乱の後処理(直冬派の制圧・南朝との関係処理)を将軍として担い、混乱した幕府を立て直す重責を負いました。この後処理こそが義詮在職期間の最大の課題でした。

A. 足利尊氏(初代)は室町幕府を開いた創業者。足利義詮(2代)は内乱後の混乱期を整えた「守成者」で、管領制・半済令などの制度を整備しました。足利義満(3代)は南北朝統一・日明貿易など幕府の最盛期を実現しました。義詮は「尊氏と義満をつなぐ橋渡し役」と言えます。

A. 宝筐院ほうきょういんは京都市右京区嵯峨小倉山にある臨済宗の寺院で、足利義詮が再興した菩提寺です。境内には義詮の墓と、南朝の忠臣・楠木正行の首塚が並んで存在します。北朝(義詮)と南朝(楠木)の敵同士が同じ境内に眠るという歴史的なエピソードで知られています。秋は紅葉の名所としても人気のスポットです。

まとめ——足利義詮は「縁の下の力持ち」将軍だった

足利義詮の年表
  • 1330年
    誕生(足利尊氏の三男・嫡男)
  • 1338年
    父・尊氏が征夷大将軍に就任・室町幕府成立
  • 1348年
    四條畷の戦い・楠木正行討死
  • 1350〜52年
    観応の擾乱(尊氏 vs 直義の権力闘争)
  • 1352年
    尊氏が半済令を発布(荘園年貢の半分を守護に付与・3か国限定)
  • 1352年
    南朝軍の京都侵攻・崇光天皇ら北朝皇族が南朝に拉致(やらかし)
  • 1358年
    父・尊氏が死去・義詮が2代将軍に就任(28歳)
  • 1362年頃
    管領制を整備(細川頼之を管領に任命・三管領体制の確立)
  • 1367年
    38歳で病死・義満(10歳)に将軍職を譲る・宝筐院に葬られる

もぐたろう
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以上、足利義詮についてのまとめでした!「地味な2代将軍」どころか、父・尊氏が残したカオスな状況を静かに整え、義満の黄金期を準備した縁の下の力持ちだったことがわかってもらえたかな。下の記事で足利将軍家の他のメンバーや観応の擾乱についても、ぜひあわせて読んでみてね!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「足利義詮」(2026年6月確認)
コトバンク「足利義詮」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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