マウリヤ朝とは?アショーカ王の仏教政策・インド統一・衰退をわかりやすく解説【世界史】

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マウリヤ朝

もぐたろう
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今回はインドを初めて統一したマウリヤ朝について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!アショーカ王の人間ドラマは、世界史の中でも特にドラマチックで面白いから、ぜひ最後まで読んでみてね!

📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • マウリヤ朝の成立(チャンドラグプタがインドを初統一した背景)
  • チャーナキヤの役割(「インドのマキャヴェリ」と呼ばれた建国の軍師)
  • アショーカ王の即位と仏教帰依(カリンガ戦争後の劇的な転換)
  • 仏教が世界宗教に広まった起点(第三回仏典結集・スリランカ布教)
  • マウリヤ朝の衰退と同時代の世界(シュンガ朝の勃興・弥生前期との対比)

実はアショーカ王は、最初は史上最も残虐な征服者のひとりとして恐れられた人物でした。しかしある一つの戦争をきっかけに、彼は非暴力と慈悲の政治へと完全に転換します。その劇的な変化こそが、マウリヤ朝を「暗記するだけの王朝名」ではなく、世界史最大の人間ドラマとして際立たせているのです。

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マウリヤ朝とは?

3行でわかるまとめ
  • マウリヤ朝は前4世紀末頃にチャンドラグプタが建国した、インド初の統一王朝
  • 第3代アショーカ王のもとで最大版図を実現し、仏教を国際的に広めた
  • 前185年頃に滅亡するまで、約130〜150年間(諸説あり)インド亜大陸を支配した

マウリヤ朝(英: Maurya Empire)とは、古代インドで栄えた最初の大規模統一王朝です。前4世紀末頃にチャンドラグプタ・マウリヤが建国し、それまでバラバラに分立していたインド亜大陸の諸王国を初めて一つの帝国にまとめました。「インド初の統一王朝」として、世界史の教科書で必ず登場する重要な王朝です。

首都はパータリプトラ(現在のインド・ビハール州パトナ)。インダス文明の舞台となったインダス川流域よりも東、ガンジス川中流域に位置する交通と商業の要所です。南アジア最大の河川であるガンジス川は農業用水と交通路を兼ねており、この地の豊かな農業生産力と河川交通がマウリヤ朝の繁栄を底辺から支えました。

最盛期のマウリヤ朝は、現在のアフガニスタン・パキスタンから南インドの大部分にまで及ぶ広大な版図を誇りました。前185年頃(諸説あり)に滅亡するまで、政治・文化・宗教のすべてにおいてインド亜大陸に決定的な影響を与えつづけた王朝です。

もぐたろう
もぐたろう

パータリプトラっていうのは、今でいうインドのパトナって場所だよ。ガンジス川沿いの交通の要所で、「インドの心臓部」みたいな場所に首都を置いたんだ。現代のパトナも人口500万人超えの大都市で、インドの重要な都市の一つだよ!

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マウリヤ朝の建国 — チャンドラグプタの統一

マウリヤ朝建国のきっかけは、意外にも「外からの衝撃」でした。前327年〜前325年頃、アレクサンドロス大王がインドの西北部(現在のパキスタン北部)にまで遠征軍を率いてきたのです。この侵攻はインド亜大陸に大きな衝撃を与えました。当時インド北部を支配していたナンダ朝(マガダ王国)は強大な軍事力を誇っていましたが、アレクサンドロスの侵攻と撤退後の混乱の中でその権威は大きく揺らぎました。

この混乱を好機ととらえて台頭したのがチャンドラグプタ・マウリヤです。出自については諸説ありますが、軍事的才能と政治的野心を持つ若者として知られていました。後述する知恵者チャーナキヤと出会い、師弟関係を結んだ二人はナンダ朝打倒を計画します。前4世紀末頃(317年頃とも321年頃ともされています)、チャンドラグプタはついにナンダ朝を打倒し、マガダ国の首都パータリプトラを手中に収めました。これがマウリヤ朝の建国です。

ゆうき
ゆうき

チャンドラグプタって、アレクサンドロス大王と直接戦ったの?

もぐたろう
もぐたろう

直接戦ったわけじゃないんだよ。アレクサンドロスはインドから撤退した後に亡くなっちゃったし、チャンドラグプタが本格的に台頭したのはその後の混乱期なんだ。でも「アレクサンドロス侵攻がもたらした混乱を利用した」という意味で、間接的な影響はものすごく大きかったんだよ!

建国後も征服活動は続きます。前305年頃、アレクサンドロスの後継者であるセレウコス朝(セレウコス1世)がインド北西部への侵攻を試みました。しかしチャンドラグプタはこれを撃退し、その後の和平交渉で現在のアフガニスタン地方をマウリヤ朝の版図に加えることに成功したとされています。セレウコス朝との外交は、インドとヘレニズム世界を結ぶ接点ともなりました。

チャンドラグプタ
チャンドラグプタ

インドを一つにまとめる。それが私の使命だ。バラバラに分かれた小王国の時代は終わりにしなければならない。チャーナキヤ、あなたの知恵があってこそ、この夢が実現できた。

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チャーナキヤの戦略 — インドのマキャヴェリ

マウリヤ朝の建国を語るうえで、チャンドラグプタと並んで欠かせない存在がチャーナキヤ(カウティリヤ、またはビシュヌグプタとも呼ばれます)です。チャーナキヤはチャンドラグプタの師匠であり、政治顧問であり、建国の立役者でした。

チャーナキヤはバラモン(聖職者階級)出身の学者・哲学者で、ナンダ朝から屈辱を受けた経験が行動の原動力になったとも言われています(ただし詳細は伝説的な要素が含まれます)。チャンドラグプタと出会い若き才能を見抜いた彼は、二人で綿密なナンダ朝打倒計画を立てました。その政治手腕は実に緻密で、軍事・外交・諜報・財政にわたる包括的な国家戦略を立案したとされています。

チャーナキヤってどんな人物?

チャーナキヤ(別名カウティリヤ・ビシュヌグプタ)はバラモン出身の政治思想家・経済学者・軍略家です。彼が著したとされる「アルタシャーストラ(実利論じつりろん)」は、国家統治・外交・軍事・税制・諜報活動まで網羅した古代インド最大の政治理論書です。

このアルタシャーストラは、イタリアのマキャヴェリが『君主論』を著すよりも約1,800年前に書かれたとされています。「目的のためには手段を選ばない」「敵の敵は味方」といった現実主義的な政治哲学が随所に見られることから、「インドのマキャヴェリ」とも呼ばれています。チャーナキヤの知恵があってこそ、マウリヤ朝の建国と繁栄は可能だったと言えるでしょう。

ゆうき
ゆうき

チャーナキヤって、具体的にどんな役割だったの?政治家?軍師?

もぐたろう
もぐたろう

チャーナキヤっていうのは、今でいう「首相補佐官+軍師+参謀長」を全部合わせたような存在だよ!戦略・外交・財政を全部担当したんだ。チャンドラグプタが表の顔なら、チャーナキヤは舞台裏で全部を仕切った黒幕ってイメージに近いよ!

アショーカ王の即位と最盛期

チャンドラグプタの後を継いだ第2代王ビンドゥサーラ、さらにその子が第3代王アショーカ王阿育王あいくおうとも呼ばれます)です。アショーカ王の即位は前268年頃(前273年頃とする説もあり、諸説あります)とされています。

即位の経緯には謎も多く、複数の兄弟との熾烈な権力闘争の末に王位を得たとも伝えられていますが、この話は後世の文献による伝説的な記述が多く含まれているとされています。即位後のアショーカ王は精力的な征服活動を展開しました。父・祖父の時代からの版図をさらに拡大し、インド亜大陸のほぼ全域を支配下に収め、マウリヤ朝の最大版図を実現します。

あゆみ
あゆみ

アショーカ王って、仏教を大切にしていた優しい人だって聞いたことがあるわ。そんな優しい人が征服者になったのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

実は全然違うんだよ!カリンガ戦争の前のアショーカ王は、ものすごく恐ろしい征服者だったんだ。征服することに何の迷いもなかった。その後の変化がドラマチックすぎて、世界史の教科書でも特に有名なエピソードになってるんだよね!

アショーカ王
アショーカ王

私の帝国は広大だ。まだ従わぬカリンガがある。あそこも支配下に置かなければならない……

カリンガ戦争後の転換 — 残虐な征服者から仏教の守護者へ

前261年頃、アショーカ王は最後の大征服として、インド東海岸のカリンガ地方(現在のインド・オディシャ州周辺)への侵攻を開始しました。カリンガ戦争です。カリンガは独立を守ろうと激しく抵抗し、戦いは凄惨なものとなりました。

アショーカ王自身が後に石柱碑に刻んだ記録によれば、この戦いでは15万人が捕虜となり、10万人以上が戦死し、さらに多くの人びとが間接的な被害を受けたとされています。ただしこれらの数字は石柱碑の記述に基づくものであり、実際の規模については諸説あります。いずれにせよ、後世に伝わるほどの壮絶な戦いであったことは間違いないでしょう。

アショーカ王
アショーカ王

あの戦いの後…私は変わった。死体の山を前にして、これが私のやったことだと。なぜ私はこんなことをしてしまったのか。征服した先に何があるというのか……

戦場の惨状を目の当たりにしたアショーカ王は、深く後悔したとされています。そして釈迦(ガウタマ・シッダールタ)が説いた仏教に帰依し、人生観と政治を根本から転換させました。非暴力を意味するアヒンサーという仏教・ジャイナ教の概念に深く共鳴し、「武力による征服よりも、ダルマ(法・倫理・真理)による征服こそが真の勝利である」という考えを政治の柱に据えました。

もぐたろう
もぐたろう

この出来事、世界史の中でも特に有名な「心の転換」エピソードだよ。強大な征服者が戦争を完全にやめて、非暴力の守護者に変わるって、歴史上ほとんど例がないことなんだ。だからアショーカ王は今でも世界中で尊敬されてるんだよね!

石柱碑・磨崖碑ってなに?

石柱碑せきちゅうひとは、アショーカ王が帝国各地に建てた石の柱に刻んだ法勅(ダルマ詔勅)のことです。磨崖碑まがいひは岩壁に直接刻んだものを指します。内容はいずれも「慈悲を持って生きること」「動物を傷つけないこと」「両親・聖職者・貧者を敬うこと」など、ダルマ(法)の教えを民衆に広めるためのものでした。

使われた言語はプラークリット語(民衆が日常的に話す言葉)で、文字はブラーフミー文字が使われました。中でも有名なのが、サルナート(鹿野苑ろくやえん)に建てられた石柱の先端に据えられた「ライオン柱頭」です。4頭のライオンが背中合わせに並ぶこの彫刻は、現在のインドの国章(国家紋章)のデザイン元となっており、インド紙幣にも使われています。

サールナートで出土したアショーカ王の獅子柱頭。4頭のライオンが背中合わせに立ち、その下の円板に法輪と牛が彫られている
サールナートの発掘現場で撮影された「ライオン柱頭」。4頭のライオンが背中合わせに立ち、その下の円板に法輪と牛などが彫られています/著作者:Vincent A. Smith・インド考古局/出典:Wikimedia Commons/ライセンス:パブリックドメイン(1911年刊『A History of Fine Art in India and Ceylon』所収)

こうしてアショーカ王はバラモン教中心の社会に仏教的価値観を広めようとしました。仏教は精神的・道徳的な教えとして社会に浸透し、やがてアジア各地への伝播の起点となっていきます。

マウリヤ朝の政治・行政制度

アショーカ王が確立した統治の最大のキーワードは「ダルマ(法)による統治」です。ダルマとは仏教・バラモン教などインド思想に共通する「法・真理・倫理・宇宙の理」を意味する概念で、アショーカ王はこの理念を政治の柱に据えました。武力ではなく道徳と慈悲によって帝国を一つにまとめようとしたのです。

行政面では、マウリヤ朝は高度な中央集権制を採用していました。首都パータリプトラに王が君臨し、帝国各地に総督そうとく(副王)を派遣して統治させる仕組みです。アショーカ王はさらに「ダルマ・マハーマートラ(法の大官)」と呼ばれる巡察官を各地に派遣し、ダルマが民衆の生活に根付いているかを監視・指導させたとされています。

ゆうき
ゆうき

アショーカ王が仏教に帰依したのに、なんでヴァルナ制(身分制度)はなくならなかったの?

もぐたろう
もぐたろう

仏教は「精神的な教え」として広めたけど、何千年も続いてきた社会制度(ヴァルナ制)を一気に変えることはできなかったんだよ。「宗教」と「社会制度」は別物なんだ。これ、共通テストでも問われることがあるよ!

📌 ヴァルナ制とは:バラモン(聖職者)・クシャトリヤ(武士・王族)・ヴァイシャ(農民・商人)・シュードラ(隷属民)の4階層からなる身分制度。後のカースト制度の原型とされています。アショーカ王の仏教政策後もこの社会制度は存続し、インド社会に長く根付きました。

また経済面では、農業・灌漑の奨励、公平な課税制度の整備、街道整備などが進められました。首都パータリプトラから帝国各地を結ぶ「王の道」が整備され、商人や使節が安全に移動できるようになりました。さらにこの街道は仏教の伝播ルートとも重なり、マウリヤ朝を古代世界の文化・宗教交流の拠点とする役割を担いました。

次の章では、アショーカ王が仏教をどのように世界宗教へと育て、スリランカや中央アジアへの布教を実現したか、その具体的な歩みを見ていきましょう。

仏教の保護と世界宗教への広まり

アショーカ王が仏教に帰依した後、マウリヤ朝は仏教を積極的に保護・振興する国家政策をとりました。アショーカ王は帝国各地に仏塔ぶっとう(ストゥーパ)を建立し、仏陀にゆかりの聖地を巡礼したとされています。また「ダルマ・マハーマートラ」と呼ばれる法の監察官を各州に派遣し、民衆へのダルマの教えの普及と社会倫理の向上を促しました。

そしてカリンガ戦争の後、アショーカ王はパータリプトラに多くの僧侶を集め、仏典の内容を精選・確認する大規模な会議「第三回仏典結集(だいさんかいぶってんけっしゅう)」を開催したとされています。前250年頃(諸説あり)のことです。この会議によって上座部じょうざぶ仏教の正典が整備され、後にスリランカや東南アジアへ伝わる「南伝仏教」の基礎が固まりました。

さらにアショーカ王は、息子のマヒンダをスリランカへ派遣し、のちにその妹にあたる娘のサンガミッタも尼僧として渡海し、島全体に仏教を広めたとされています。スリランカでは以後、仏教が国家宗教として深く根付き、現在も上座部仏教が盛んです。アショーカ王の石柱碑には、ギリシア・シリア・エジプトなど西方世界への布教使節の派遣も記されており、マウリヤ朝こそが仏教を「インドの一地方の宗教」から「世界宗教」へと飛躍させた起点であったと言えるのです。

あゆみ
あゆみ

仏教ってここからアジア全体に広まったの?現在もスリランカやタイで仏教が盛んなのって、アショーカ王のおかげ?

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ!スリランカに伝わった仏教は東南アジア(ミャンマー・タイ・カンボジアなど)に広がり、中央アジア経由の仏教は後に中国・朝鮮半島・日本へも伝わっていくんだ。マウリヤ朝こそが仏教「国際化」の起点。アショーカ王は布教使節を各地に送り続けた、まさに仏教最初の国際プロデューサーだよ!

マウリヤ朝の衰退

前232年頃にアショーカ王が崩御すると、マウリヤ朝はたちまち後継者争いに揺れました。アショーカ王には複数の息子がいたとされていますが、広大な帝国を一つにまとめる力のある後継者は現れず、版図はしだいに東西に分裂していったとされています。かつて全インドを統一した帝国の威光が失われると、各地の総督や有力諸侯が次々と独立の動きを見せました。

帝国内の地方総督や有力諸侯も次々と独立を宣言し、かつてひとつの帝国が支配した亜大陸は再び群雄割拠の様相を呈していきました。軍事力の低下と財政の悪化も重なり、建国から約100年を経たマウリヤ朝の求心力は急速に失われていったとされています。インド南端やデカン高原の地域を最初に失い、やがて帝国中核のガンジス川流域でも統制は形骸化していきました。

そして前185年頃(諸説あり)、マウリヤ朝最後の王ブリハドラタが軍の指揮官プシュヤミトラ・シュンガによって暗殺され、インド初の統一王朝は終焉を迎えたとされています。プシュヤミトラ・シュンガが建てたシュンガ朝は、仏教よりもバラモン教(ヒンドゥー教の前身)を重視する方向へ転換したとも言われており、インド社会の宗教的潮流はゆっくりと仏教からバラモン教へ揺り戻していくことになります。

もぐたろう
もぐたろう

これだけ広い帝国は、強いリーダーがいないとすぐに崩れてしまうんだよね…。でも仏教はすでにスリランカや中央アジアへ広まっていたから、マウリヤ朝が滅びても仏教の歴史は続いていくんだ。「王朝は滅びても、思想は生き続ける」ってまさにアショーカ王のことだね!

マウリヤ朝と同時代の世界・日本

マウリヤ朝が繁栄した前3〜前2世紀は、ユーラシア全体で大規模な帝国形成が進んだ激動の時代でした。西アジアではヘレニズム諸王国(セレウコス朝・プトレマイオス朝・マケドニアなど)が東西に覇を競い、地中海世界ではローマが第一次・第二次ポエニ戦争(前264〜前201年頃)を経て西地中海の覇権を確立しつつありました。そして中国大陸では、前221年に秦の始皇帝しこうていが中国史上初の統一帝国を樹立しています。

前3世紀は「インド=マウリヤ朝・中国=秦帝国・地中海=ヘレニズム・ローマ」と、ユーラシアの各地で同時代に統一国家が成立した、まさに「大帝国の時代」でした。アショーカ王と秦の始皇帝は同時代の人物であり、双方ともに広大な版図を支配し、独自の統治哲学を持っていました。世界史のタテとヨコをつなげる視点として、この「同時代性」は大学受験でも頻繁に問われます。

ゆうき
ゆうき

インドがマウリヤ朝のとき、日本ってどんな時代だったの?

もぐたろう
もぐたろう

前3世紀の日本は弥生前期!ちょうど大陸から稲作が伝わって農耕が始まった時代だよ。インドが統一帝国を作り、仏教が世界に広まっていたころ、日本はまだ小さな集落が点在する弥生の村落社会だったんだ。「アショーカ王が石に法を刻んでいたとき、日本では稲穂が初めて実った」――世界の広さと同時代のギャップを感じるよね!

🌏 同時代の比較:インド=マウリヤ朝(前317年頃〜前185年頃)/中国=秦帝国(前221〜前206年)/地中海=ヘレニズム諸王国・ローマ台頭(ポエニ戦争)/日本=弥生前期(稲作の始まり)

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • チャンドラグプタ・マウリヤ:マウリヤ朝の建国者。ナンダ朝を打倒し前317年頃(諸説あり)にインドを初統一。師・チャーナキヤの補佐が大きかった
  • アショーカ王:第3代王。カリンガ戦争(前261年頃)後に仏教に帰依し、ダルマ(法)による非暴力統治を実施。マウリヤ朝最大版図を実現
  • 石柱碑・磨崖碑:アショーカ王が各地に建てた法勅碑。プラークリット語・ブラーフミー文字で刻まれ、現インドの国章(ライオン柱頭)のデザイン元
  • パータリプトラ:マウリヤ朝の首都(現インド・パトナ)。ガンジス川沿いの政治・交通・商業の中心地
  • 前185年頃:プシュヤミトラ・シュンガによるシュンガ朝建国でマウリヤ朝滅亡(諸説あり)。インド初統一王朝の終焉

📌 暗記のコツ:「チャンドラグプタ(建国)→ビンドゥサーラ(第2代)→アショーカ王(最盛期・仏教)」の3代セットで覚えよう。年号の最頻出は「前261年頃=カリンガ戦争・前185年頃=滅亡」の2点。「マウリヤ→クシャーナ→グプタ」の順番も要チェック。「秦の始皇帝(前221年)と同時代」と結びつけると世界史のタテ・ヨコのつながりがつかみやすいよ!

ゆうき
ゆうき

マウリヤ朝でテストに一番出やすいのってどこ?

もぐたろう
もぐたろう

アショーカ王・カリンガ戦争・石柱碑のセットが断トツ最頻出!「アショーカ王=仏教帰依=ダルマ統治=石柱碑」をひとかたまりで覚えよう。年号は前261年頃(カリンガ戦争)と前185年頃(滅亡)の2つは必須。「マウリヤ→クシャーナ→グプタ」の順番を問う問題も出るよ!

マウリヤ朝の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

マウリヤ朝をもっと詳しく知りたいなら、インドの5000年の歴史を「物語」スタイルで読める入門書がおすすめだよ!マウリヤ朝やアショーカ王の時代の前後関係もつかめるから、世界史全体の流れがぐっとわかりやすくなるよ!

①インド史全体を俯瞰したいなら|物語で読めるインド通史の決定版

インダス文明から現代まで5000年のインド史を「物語」形式でわかりやすく解説した入門書です。マウリヤ朝・アショーカ王のセクションでは、仏教がアジア全域に広まった背景まで丁寧に取り上げられています。世界史の教科書の内容を前後の文脈も含めて深く理解したい方に最適な一冊です。

よくある質問(FAQ)

マウリヤ朝は前317年頃(諸説あり)にチャンドラグプタ・マウリヤが建国した、インド亜大陸最初の大規模統一王朝です。首都はパータリプトラ(現インド・パトナ)。第3代アショーカ王のもとで最大版図を実現し、仏教の保護・国際布教を通じて世界史に大きな影響を与えました。前185年頃に滅亡するまで約130〜150年間(諸説あり)続いた王朝です。

カリンガ戦争(前261年頃)で多くの死傷者・捕虜が出たことに深く心を痛めたためとされています。戦場に広がる惨状を目の当たりにしたアショーカ王は、仏教の非暴力(アヒンサー)と慈悲の教えに深く感銘を受け、「武力による征服」から「ダルマ(法)による統治」へと政治の方針を根本的に転換しました。

アショーカ王の死後(前232年頃)、強力な後継者が現れず帝国の分裂が進んだことが主因とされています。地方総督の独立・軍事力の低下・財政悪化が重なり、前185年頃に軍の指揮官プシュヤミトラ・シュンガが最後の王ブリハドラタを暗殺してシュンガ朝を建国したとされています。広大な帝国の維持には強力なリーダーシップが不可欠だったことがよくわかります。

チャーナキヤ(カウティリヤとも呼ばれる)は、チャンドラグプタ・マウリヤの師であり政治顧問とされる人物です。ナンダ朝打倒とマウリヤ朝建国を陰で支えた戦略家で、政治論書「アルタシャーストラ(実利論)」の著者とされています。権謀術数を説く内容がマキャヴェリの『君主論』に似ていることから「インドのマキャヴェリ」とも呼ばれています。

インド史の3大王朝はこの順番で覚えましょう。①マウリヤ朝(前3世紀〜前2世紀頃・仏教保護・アショーカ王)→②クシャーナ朝(後1〜3世紀頃・大乗仏教・ガンダーラ美術)→③グプタ朝(後4〜6世紀頃・ヒンドゥー教復興・インド古典文化の黄金期)。マウリヤ→クシャーナ→グプタの順番と各王朝の宗教的特徴をセットで押さえておきましょう。

「マウリヤ=前3世紀・チャンドラグプタ建国・第3代アショーカ王・仏教・石柱碑」の5点セットで覚えましょう。年号は「前261年頃=カリンガ戦争(仏教改宗)・前185年頃=滅亡」の2点が最頻出です。また「秦の始皇帝(前221年)と同時代のインド」と結びつけると、世界史のヨコのつながりとして記憶に残りやすくなります。

まとめ

マウリヤ朝の年表
  • 前317年頃
    チャンドラグプタがマウリヤ朝を建国(諸説あり)
  • 前305年頃
    セレウコス朝との戦いに勝利・和平(諸説あり)
  • 前297年頃
    チャンドラグプタ退位・第2代ビンドゥサーラ即位(諸説あり)
  • 前268年頃
    アショーカ王が第3代王として即位(諸説あり)
  • 前261年頃
    カリンガ戦争・アショーカ王が仏教に帰依(諸説あり)
  • 前250年頃
    第三回仏典結集・スリランカへ仏教布教(諸説あり)
  • 前232年頃
    アショーカ王崩御・帝国の分裂が進む
  • 前185年頃
    マウリヤ朝滅亡・シュンガ朝建国(諸説あり)

もぐたろう
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以上、マウリヤ朝のまとめでした!チャンドラグプタの建国からアショーカ王の劇的な「心の転換」、そして世界に広まった仏教の話、面白かったよね。下の記事で仏教やインド史もあわせて読んでみてください!

📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』(2023年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「マウリヤ朝」(2026年7月確認)
Wikipedia日本語版「アショーカ王」(2026年7月確認)
コトバンク「マウリヤ朝」「アショーカ王」「カウティリヤ」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・改訂新版世界大百科事典)(2026年7月確認)
山川出版社『詳説世界史』

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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