イラン=イラク戦争とは?わかりやすく解説【原因・経過・結果】

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中東戦争 イラン=イラク戦争

もぐたろう
もぐたろう

今回はイラン=イラク戦争について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!原因・経過・化学兵器の使用・アメリカの介入まで、高校世界史の視点でじっくり見ていこう!

📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • イラン=イラク戦争が始まった3つの原因(領土・石油・イラン革命)
  • 戦争の経過(1980〜1988年)を4段階でわかりやすく整理
  • 化学兵器の使用とハラブジャの悲劇(何が起きたか・なぜ黙認されたか)
  • アメリカがイラクを支援した理由(冷戦・反イラン・石油の3つの文脈)
  • 湾岸戦争・イラク戦争との違いと現代中東への影響

イライラIran-Iraq戦争」——そんな不名誉なあだ名がつけられるほど長引いた、どこか遠い中東の戦争。名前がそっくりで、いつも混乱してしまう……そう感じている人も多いのではないでしょうか。

しかし実は、イラン=イラク戦争こそが現代中東問題の「起点」なのです。この戦争なしに、湾岸戦争もイラク戦争も、ISILの台頭も語ることはできません。そして独裁者どくさいしゃサダム・フセインの台頭もまた、この戦争があってこそのものでした。

高校世界史の現代史では必須の事件です。この記事では原因・経過・結果を丁寧に整理し、テスト対策にも役立つ形で解説していきます。

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イラン=イラク戦争とは?

3行でわかるまとめ
  • 1980年にイラクがイランへ奇襲侵攻して始まり、1988年まで約8年間続いた中東の大規模な戦争
  • 原因は「領土紛争(シャットアルアラブ川)」「石油資源」「イラン革命への恐怖」の3つ
  • 死者約100万人・勝者なし・国境線不変という消耗戦で、1988年に国連決議598により停戦

イランIranイラクIraq戦争とは、1980年9月から1988年8月まで、イラクとイランの間で行われた戦争です。約8年間という長期にわたり、推定死者数は双方合わせて50万〜100万人以上とも言われる20世紀後半最大級の地域紛争のひとつです。

最終的に国境線は開戦前と変わらず、「勝者なき戦争」「引き分けの消耗戦」と評されます。莫大な犠牲を払いながら何も変わらなかった——この徒労感が「イライラ戦争」というあだ名に凝縮されています。

あゆみ
あゆみ

イランとイラクって、名前が似てるからいつも混乱しちゃう……。そもそもどう違うの?

もぐたろう
もぐたろう

ざっくり言うとこんな感じだよ!
イラン=ペルシャ系・シーア派イスラーム・イスラーム共和国(革命後)
イラク=アラブ系・スンニ派少数が支配・フセインのバアス党独裁
名前は似てるけど、民族も宗教も政治体制もまったく違う国なんだ!

シーア派とスンニ派ってなに?

イスラームは7世紀に誕生した宗教ですが、預言者ムハンマドMuhammadの死後(632年)に「誰が後継者(カリフCaliph)になるべきか」をめぐって内部対立が起き、大きく2つの宗派に分裂しました。

スンニ派スンニは(世界のムスリムの約85〜90%):「スンナ(慣行)」を重んじる多数派。選出された指導者の権威を認め、サウジアラビア・エジプト・トルコなどが中心。イラクの支配層もスンニ派でした。

シーア派シーアは(約10〜15%):ムハンマドの血を引く一族(アリーの子孫)だけを正統な指導者(イマームImam)と認める少数派。イランの国教であり、イラク南部・レバノンなどにも多く分布します。

イラン=イラク戦争では、シーア派主体のイランがイラク国内のシーア派を扇動しようとしたことが、スンニ派政権(フセイン)の危機感を高める大きな要因になりました。

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イラン革命(1979年)が引き金だった

イラン=イラク戦争を理解するには、まず直前に起きたイラン革命(1979年)を押さえる必要があります。この革命こそが、戦争への「引き金」だったからです。

1979年2月、イランではパフラヴィー朝(モハンマド・レザー・シャーの王政)が打倒され、ルーホッラー・ホメイニー師が率いるイスラーム法学者による神政国家——イスラーム共和国が誕生しました。「コーランにもとづく統治」を掲げた、それまでの中東になかった全く新しい政治体制です。

ホメイニー
ホメイニー

イスラームの革命は、国境を越えて広がるのだ。イラクのシーア派の兄弟たちよ、立ち上がれ!

ホメイニーは、イラクを含む周辺のイスラーム諸国にも革命思想を輸出しようと積極的に呼びかけました。これが隣国イラクにとっては深刻な脅威でした。

イラクは、人口の約6割がシーア派でありながら、スンニ派スンニは少数派のバアス党バアスとうが支配する構造を持っていました。ホメイニーの呼びかけに呼応してイラク国内のシーア派が蜂起すれば、フセイン政権は内側から崩壊しかねない——そんな恐怖がフセインを突き動かすことになります。

さらに同年11月には、テヘランのアメリカ大使館占拠事件が発生し、アメリカとイランは断交。革命直後のイランは国際的に孤立し、旧シャー時代の軍の大粛清で軍事力も大幅に低下していました。

📌 イラン革命後のイランの弱点:軍の幹部将校が大量に粛清・追放され、軍事力が著しく低下していた。フセインはこれを「チャンス」と読んだ。

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なぜ始まったのか?3つの原因

フセインがイランへの侵攻を決断した背景には、大きく3つの原因がありました。それぞれ独立した理由というよりも、互いに絡み合いながらフセインを開戦に駆り立てていきます。

① シャットアルアラブ川の領土紛争

シャットアルアラブ川シャットアルアラブかわは、チグリス川チグリスがわユーフラテス川ユーフラテスがわが合流してペルシャ湾に注ぐ河川で、石油の積み出し港として極めて重要な戦略的水路です。この川の国境線がずっと両国の争いの種でした。

1975年、イランとイラクはアルジェ協定アルジェきょうていを結び、シャットアルアラブ川の中央線を国境と定めることで合意していました。ところがフセインは1980年9月、この協定を一方的に破棄。「川の全域はイラクのものだ」として開戦の口実に使いました。

📌 アルジェ協定(1975年)とは:アルジェリアのブーメディエン大統領の仲介により、イランのパフラヴィー国王とイラクのフセインが妥協した協定。川の中央を国境とし、イランはイラク国内のクルド人反乱を支援しない約束をした。フセインはずっとこの屈辱を根に持っていた。

② 石油資源をめぐる野心

イランの南西部、フーゼスターン州フーゼスターンしゅう世界有数の油田地帯です。この地域にはアラブ系住民が多く居住しており、フセインは「アラブ人の土地をイランが不当に支配している」という論理でここの領有権を主張していました。

当時のイラクはすでに産油国でしたが、フーゼスターンを手に入れることができれば石油収入を大幅に増やし、アラブArab世界の盟主としての地位を固められる——フセインにはそんな野心がありました。

③ イラン革命の波及を恐れたイラク

3つの原因のうち、フセインが最も恐れていたのがこれです。前の章で述べたように、イラクはシーア派が多数派でありながらスンニ派のバアス党バアスとう独裁が続く国でした。

ホメイニーが「シーア派よ立ち上がれ」と叫ぶ声がイラク国内に届けば、体制は揺らぐ。革命思想を先手を打って叩きつぶすための予防的侵攻という側面も、この戦争には強くあります。

ゆうき
ゆうき

つまりフセインにとっては、「今こそイランを攻めるチャンス」って思ったわけ?

もぐたろう
もぐたろう

そう!フセインの計算はこうだよ。①革命直後でイランの軍はボロボロ。②アメリカもソ連もイランと仲が悪い。③手を出しても国際社会は文句を言わないはずだ——って読んだわけ。でも実際はとんでもない誤算だったんだ…!

戦争の経過(1980〜1988年)

約8年間に及ぶ戦争は、大きく4つの段階に分けて整理できます。「フセインの誤算」がどう積み重なり、消耗戦へと転落していったのかを追いましょう。

■ 第1段階:イラクの奇襲(1980年9月)

1980年9月22日、フセインはアルジェ協定の破棄を宣言した直後、イラク軍をイランへ一斉に侵攻させました。電撃戦を想定したフセインの計算では、「数週間で決着がつく」はずでした。

イラク軍は初期こそ優勢で、産油地帯のフーゼスターン州に一部侵入しました。しかしイランの首都や主要都市を落とすことはできず、侵攻は早くも行き詰まりました。

フセインはこのとき「革命で混乱しているイランなど、数週間で片がつく」と豪語し、アラブ世界の覇者になることを夢見ていました。しかし、この計算は完全な誤算でした。

■ 第2段階:形勢逆転(1982〜1984年)

1982年、イランが本格的な反攻を開始します。ホメイニーが「殉教」精神を鼓舞した革命防衛隊かくめいぼうえいたい(パスダラン)や民兵組織が大量動員され、人海戦術でイラク軍を押し返しました。

1982年には、イラクがフーゼスターン州から撤退を余儀なくされ、今度はイランがイラク領内へ逆侵攻する形に転じました。戦争の構図がまるごと逆転したのです。

「数週間で終わる」はずの戦争は、すでに2年を超え、出口の見えない泥沼へと変わっていきました。

■ 第3段階:泥沼の消耗戦(1984〜1988年)

戦線は膠着状態に陥り、双方ともに莫大な損害を被りながら前進も後退もできない「塹壕戦」が続きました。第一次世界大戦を彷彿とさせる消耗戦です。

この時期、イラクはタンカー戦争タンカーせんそうと呼ばれるペルシャ湾での船舶攻撃を展開し、イランの石油輸出を妨害しようとしました。イランも報復として商船を攻撃し、国際的な緊張が高まります。

また、追い詰められたイラクはこの時期から化学兵器の使用を開始(詳細は次の章で)。戦争はますます残虐な局面へと突入していきました。

■ 第4段階:停戦へ(1988年)

1988年になると、双方ともに疲弊が限界に達しました。イランでは経済が崩壊し、市民の厭戦ムードが広がっていました。

1988年8月20日、国連安全保障理事会決議598にもとづき停戦が成立。8年間の戦争は、国境線を1ミリも変えることなく幕を閉じました。

📌 国連安保理決議598(1987年採択):即時停戦・捕虜交換・委員会による原因調査などを要求。イラク側はすぐ受け入れたが、イランは1年以上拒否した末に最終的に受諾した。

あゆみ
あゆみ

8年間も戦って、結局何も変わらなかったの?死者100万人なのに……?

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ。領土も変わらず、賠償も払われず、完全に「消耗しただけ」の戦争だった。フセインにとっては失敗のはずなんだけど——なぜかイラク国内では「勝利」として喧伝されて、むしろフセインの権力が強化されてしまったんだ。それが後の湾岸戦争への伏線になる。

化学兵器の使用——ハラブジャの悲劇

イラン=イラク戦争で特に国際社会に衝撃を与えたのが、イラクによる化学兵器の大規模使用です。これは「戦争犯罪」として後にフセインを断罪する際の重要な証拠となりました。

イラクが化学兵器の使用を始めたのは1983〜1984年ごろで、当初は対イラン軍戦線でした。マスタードガスマスタードガス神経ガスしんけいガス(タブン・サリン等)などが使われ、イランは多大な損害を受けました。

ハラブジャ事件(1988年3月):イラクが自国内のクルド人が住む町・ハラブジャハラブジャに化学兵器を投下。約5,000人が死亡し、約10,000人が負傷した。現代における国家による自国民への化学兵器使用として、最大規模の事件のひとつ。

1988年3月、この化学兵器はイランだけでなく自国のクルド人にまで向けられました。当時フセイン政権に反乱を起こしていたクルド人の町・ハラブジャへの大規模攻撃です。マスタードガスと神経ガスが同時に投下され、数千人もの市民が即死しました。子供や老人を含む一般市民への大量殺戮です。

この事件は後にフセインの人道犯罪裁判で重要な証拠となり、2006年のフセイン処刑に至る大罪のひとつに認定されました。

あゆみ
あゆみ

こんな残虐なことが起きていたのに、当時の国際社会はなぜもっと動かなかったの?

もぐたろう
もぐたろう

冷戦構造がそこに絡んでいるんだ。アメリカもソ連も「反イラン」という点でイラクを支援していたから、化学兵器の使用を強く批判しにくかった。「イランよりイラクがマシ」という計算が、イラクへの国際的な批判を弱めてしまっていたんだよ。

国際社会の動き——アメリカはなぜイラクを支援したのか

イラン=イラク戦争は、単なる二国間の戦争ではありませんでした。冷戦期の国際秩序が複雑に絡み合い、アメリカをはじめとする大国が水面下で大きく関与していました。

■ アメリカがイラクを支援した3つの理由

理由①:1979年イラン革命・大使館人質事件でアメリカとイランが断交

1979年のイラン革命後、テヘランのアメリカ大使館がイラン革命派に占拠され、52名の外交官・海兵隊員が444日間にわたって人質に取られるという前代未聞の事件が発生しました(テヘラン大使館人質事件)。この事件でアメリカとイランは断交し、以後激しく対立することになります。

理由②:「反ソ連」の冷戦論理——イラクはソ連の影響下から離れつつあった

イラクはもともとソ連の影響下にある国でしたが、1970年代後半からフセインは独自路線を歩み始めていました。アメリカにとって、ソ連寄りのイランよりも「独立傾向のあるイラク」を支援することは冷戦戦略上も有利でした。

理由③:中東の石油利権と「勢力均衡」の維持

アメリカにとってペルシャ湾の石油は死活的に重要です。イランが戦争に勝利して中東全体に革命思想が広がることは、石油の安定供給を脅かします。イラクを支援してイランを抑え込む「勢力均衡」こそが、アメリカの国益でした。

📌 アメリカのイラク支援の具体的内容:衛星偵察情報の提供・農業信用保証(実質的な資金援助)・デュアルユース(民軍両用)技術の輸出。1983年にはラムズフェルド大統領特使がバグダッドを訪問し、フセインと握手した写真が残っている。

ソ連もまたイラクへの武器供与を続けました。また、フランス・イギリスなどの西欧諸国も兵器をイラクに売却しました。国際社会の「反イラン」連合がイラクを暗黙に支えた——これがこの戦争の国際的な構造です。

さらにアメリカは1987〜88年、アーネスト・ウィル作戦アーネスト・ウィルさくせんと呼ばれるペルシャ湾のタンカー護衛作戦を実施し、イラク寄りの中立を事実上明確にしました。

ゆうき
ゆうき

アメリカがイラクを支援してたのに、後でイラク戦争(2003年)でイラクを攻めるって……なんか逆じゃない?

もぐたろう
もぐたろう

まさに歴史の皮肉だよね!アメリカが育てたフセインが、湾岸戦争(1991年)でクウェートに侵攻して「手に負えない怪物」になってしまった。さらに2001年の9.11後に「大量破壊兵器保有疑惑」でイラク戦争(2003年)に至る——この連鎖はイラン=イラク戦争時代のアメリカの選択が遠因になっている、とも言われているんだ。

このアメリカの「イラク支援→後にイラクと対立」という逆転劇は、湾岸戦争イラク戦争を理解する上での重要な背景知識です。テストでも「なぜアメリカはイランではなくイラクを支援したのか」という論述問題で問われることがあります。


日本とのかかわり——タンカー攻撃と在留邦人救出

「中東の遠い戦争」と思われがちですが、イラン=イラク戦争は日本とも深く結びついています。当時の日本は中東から輸入する石油への依存度が高く(輸入石油の約70%が中東産)、この戦争は日本のエネルギー安全保障を直撃しました。

■ タンカー戦争と日本への影響

戦争が泥沼化した1984年以降、イラクとイランはペルシャ湾を通過する相手国の石油タンカーを互いに攻撃するタンカー戦争タンカーせんそうを展開しました。日本の石油タンカーも攻撃の対象となり、日本関連の船舶が被弾・損傷する事件が相次ぎました。

日本政府は自衛隊をペルシャ湾に派遣する法的根拠がなく(当時は海外派遣の法律が整備されていなかった)、実質的な対応ができないまま被害を受け続けるという苦境に立たされました。この経験が後のPKO協力法(1992年)や安全保障法制の議論への伏線になっていきます。

あゆみ
あゆみ

日本人がトルコに助けてもらったって話を何かで読んだ気がするけど、詳しく知りたい!

もぐたろう
もぐたろう

それが「テヘランの奇跡」と呼ばれる逸話だよ!1985年3月の話なんだ。

■「テヘランの奇跡」——トルコが日本人を救出した日

1985年3月、イラクが「48時間後からイランの領空を飛ぶ全航空機を撃墜する」と宣言しました。テヘランには当時、約215名の日本人が在住していましたが、日本政府は自衛隊機を飛ばす法的根拠がなく、日本航空も危険すぎるとして自社便の就航を停止してしまいました。

このとき手を差し伸べたのが、トルコトルコ政府でした。当時のトルコ首相テュルグット・オザルテュルグット・オザルの決断により、トルコ航空(THY)が特別機をテヘランに派遣。日本人215名全員をイスタンブールへ無事に脱出させました。

なぜトルコは日本人を助けたのか——エルトゥールル号の恩返し

トルコが快諾した背景には、95年前の「借り」がありました。1890年、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号エルトゥールルごうが和歌山県の沖合で嵐に遭い座礁。587名が死亡した大惨事の際、地元の日本人漁民が生存者69名を命がけで救助し、手厚く看護しました。この歴史がトルコ国民の間で語り継がれており、「日本には恩を返さなければならない」という意識がオザル首相を動かしたとされています。まさに百年を超えた友情です。

「なぜ日本人を助けてくれたのか」と問われたオザル首相は「エルトゥールル号の恩返しです」と答えたと伝えられています。この逸話は映画『海難1890』(2015年)にもなっており、日本とトルコの友好の象徴として今も語り継がれています。

ゆうき
ゆうき

この話、テストに出る?エルトゥールル号って世界史の教科書に載ってる?

もぐたろう
もぐたろう

エルトゥールル号はセンター・共通テストには直接出ないことが多いけど、日本・トルコ関係として論述に出ることがあるよ。テヘランの邦人救出のエピソードは「日本外交と中東」の文脈で出題されることがあるから、知識として持っておくと差がつく!

戦争の終結と中東への影響

1988年8月20日、国連安全保障理事会決議598に基づく停戦が成立し、8年間の戦争はついに幕を閉じました。しかしその「終わり方」は、新たな混乱の始まりでもありました。

■ 勝者なき終結——何が「変わらなかった」のか

停戦の結果は象徴的なものでした。国境線は開戦前と全く変わらず、領土の取得も石油資源の獲得も、どちら側も達成できませんでした。双方の死者は合計50〜100万人以上、経済的損失は両国合わせて数千億ドルとも言われます。

イラクは莫大な対外債務たいがいさいむを抱え込みました。特にクウェートとサウジアラビアに多額の借金をしており、これが後の湾岸戦争の伏線になります。「借金を帳消しにするためにクウェートに侵攻した」という見方もあるほどです。

フセインは「われわれは神の名において戦い、勝利した」と国民に宣言しました。イラクでは戦争は「勝利」として喧伝されました。フセインは国内向けに英雄的地位を確立し、独裁体制をさらに強固にしました。その自信——というより「傲慢さ」——が2年後の1990年、クウェート侵攻につながります。

■ イランへの影響——ホメイニーの「毒杯」

イランにとっても、戦争の傷跡は深刻でした。ホメイニーは停戦受諾を「毒の杯を飲み干すようなものだ」と表現したと伝えられています。革命の輸出を掲げながら、隣国イラクすら変えられなかった——革命の勢いは確実に衰え、イランは内向きの経済再建を迫られることになります。

また、この戦争で150万人以上のクルド人クルドじんが難民となり、イラク・イラン・トルコ・シリアにまたがるクルド問題が一層複雑化しました。これは今日に至るまで未解決の問題です。

■ 3つの中東戦争の「違い」を整理する

イランイラク戦争・湾岸戦争・イラク戦争の違い(一覧)
イラン=イラク戦争湾岸戦争イラク戦争
期間1980〜1988年1990〜1991年2003〜2011年
発端イラクがイランを奇襲侵攻イラクがクウェートを占領アメリカがイラクを「大量破壊兵器保有疑惑」で攻撃
フセインの立場攻撃する側(対イラン)攻撃する側(対クウェート)攻撃される側(アメリカから)
アメリカの立場イラクを(水面下で)支援多国籍軍を率いてイラクと対決イラクを軍事攻撃・占領
結果停戦・国境線不変・勝者なしクウェート解放・フセイン存続フセイン政権崩壊・処刑

※ 3つの戦争に共通するのは「フセインのイラク」が中心にいること。フセインの行動が連鎖して3つの戦争を生んだ、という視点で理解すると整理しやすい。

こうして見ると、イラン=イラク戦争→湾岸戦争→イラク戦争という中東の混乱は、まるでドミノのように連鎖していることがわかります。起点はすべて、1979年のイラン革命とフセインの「誤算の侵攻」にあります。

もぐたろう
もぐたろう

今日の中東ニュースを読むとき——「なぜイランとアメリカはこれほど対立するのか」「なぜイラクはこんなに不安定なのか」——その答えはすべて1980年代のこの戦争に行き着くんだよ。現代中東を理解するための「必須教養」なんだ。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。直前の見直しにもぜひ使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 開戦年・停戦年:1980年9月22日開戦 → 1988年8月20日停戦(8年間)
  • イラン=イラク戦争の3つの原因:① シャットアルアラブ川の領土紛争 ② 石油資源 ③ イラン革命の波及を恐れたフセイン
  • ハラブジャ事件(1988年3月):イラクがクルド人の町に化学兵器(マスタードガス)を使用。約5,000人死亡。「国家による自国民への化学兵器使用」として重要
  • 国連安保理決議598:停戦を求めた決議。1987年採択・1988年に両国が受諾して停戦成立
  • アメリカのイラク支援:反イランの立場から情報・資金・技術を提供。後の湾岸戦争でアメリカがイラクと対決する皮肉な伏線
  • 湾岸戦争との違い:イラン=イラク戦争は二国間戦争(イラクvsイラン)。湾岸戦争はイラクのクウェート侵攻→多国籍軍との戦争。フセインの「敵と味方」が逆転する

📌 暗記コツ:「3つの戦争」を「フセイン年表」でセット覚え
①1980年:フセインがイランに侵攻(イラン=イラク戦争)→ ②1990年:フセインがクウェートに侵攻(湾岸戦争)→ ③2003年:アメリカがフセインを攻撃(イラク戦争)。フセインが「攻撃する側→攻撃される側」に逆転するストーリーとして覚えると混同しない。

ゆうき
ゆうき

テストで一番出やすいのはどこ?

もぐたろう
もぐたろう

共通テストなら「開戦年(1980)・停戦年(1988)・ハラブジャ・化学兵器・国連決議598」の5点セットが最頻出!論述なら「アメリカがイラクを支援した理由」「湾岸戦争との違い」が定番問題だよ。並び替え問題では「イラン革命(1979)→イラン=イラク戦争(1980)→湾岸戦争(1991)」の順番が問われやすいね!

よくある質問(FAQ)

1980年9月22日、イラクがイランへ奇襲侵攻して開戦しました。停戦は1988年8月20日、国連安全保障理事会決議598に基づいて成立しました。約8年間続いた戦争です。日本の高校教科書では「1980〜88年」として覚えておけば十分です。

主な原因は3つあります。①シャットアルアラブ川(チグリス川・ユーフラテス川の合流点)の領土紛争——イラクは1975年のアルジェ協定を一方的に破棄して川全域の支配を主張しました。②石油資源——イランのフーゼスターン州にある巨大油田を奪いたいというフセインの野心。③イラン革命の波及への恐怖——イラク国内のシーア派多数派が革命思想に呼応して蜂起することを、スンニ派少数支配のフセインが恐れた、という「先制攻撃の論理」です。

最大の違いは「相手国」と「フセインの立場」です。イラン=イラク戦争(1980〜88)は、イラクがイランを攻撃した二国間戦争。アメリカはイラクを(水面下で)支援していました。湾岸戦争(1990〜91)は、イラクがクウェートに侵攻し、アメリカ主導の多国籍軍がイラクを攻撃した国際戦争。つまりフセインは「支援される側」から「攻撃される側」へ立場が逆転します。この皮肉な構造がテストでよく問われます。

イラク側(フセイン政権)が使用しました。1983〜84年ごろから対イラン軍戦線でマスタードガス・神経ガスを使い始め、1988年3月にはクルド人の居住都市ハラブジャにも化学兵器を投下。約5,000人が死亡しました(ハラブジャ事件)。この事件は後にフセインが国際法廷で人道犯罪に問われる際の重要証拠となり、2006年のフセイン処刑に至る大罪のひとつに認定されました。

大きく3つの理由があります。①1979年のテヘラン大使館人質事件でアメリカとイランが断交し、「反イラン」という利害が一致した。②冷戦構造の中でソ連と協調関係にあったイランを封じ込めるため、イラクを「対抗馬」として使う地政学的計算があった。③ペルシャ湾の石油安定供給のため、革命思想を広めるイランを弱体化させたかった。ただしこの「支援」が結果的にフセインを増長させ、湾岸戦争(1991)でアメリカがイラクを攻撃するという皮肉な展開を招きました。

まとめ

イラン=イラク戦争は、「イライラ戦争」と揶揄されながらも、現代中東の秩序を根本から塗り替えた歴史的事件でした。8年間・推定100万人の死者・勝者なし——その徒労感の裏に、現代世界が今も背負い続ける禍根が深く刻まれています。

イラン=イラク戦争のポイントまとめ
  • 開戦:1980年9月22日、イラクがイランへ奇襲侵攻
  • 3つの原因:シャットアルアラブ川の領土紛争・石油資源・イラン革命の波及への恐怖
  • 化学兵器:イラクが使用。1988年のハラブジャ事件では約5,000人のクルド人が犠牲に
  • 国際構造:アメリカ・ソ連・西欧がイラクを(水面下で)支援。「反イラン連合」が戦争を長期化
  • 停戦:1988年8月20日・国連安保理決議598・国境線変わらず・勝者なし
  • 影響:フセインの増長→湾岸戦争(1990)→イラク戦争(2003)へとつながる現代中東混乱の起点

イラン=イラク戦争の年表
  • 1979年2月
    イラン革命。ホメイニーがイスラーム共和国を樹立
  • 1979年11月
    テヘランのアメリカ大使館占拠事件。米イラン断交へ
  • 1980年9月22日
    イラク軍がイランへ奇襲侵攻。イラン=イラク戦争開戦
  • 1982年〜
    イランの反攻開始。形勢逆転し、イラン軍がイラク領内へ
  • 1983〜84年
    イラクが化学兵器を使用開始(対イラン軍)
  • 1985年3月
    テヘランの在留邦人215名、トルコ航空機で脱出(「テヘランの奇跡」)
  • 1988年3月
    ハラブジャ事件。イラクがクルド人の町に化学兵器使用。約5,000人死亡
  • 1988年8月20日
    国連安保理決議598に基づく停戦。8年間の戦争が終結(国境線変わらず)
  • 1990年8月
    イラクがクウェートに侵攻。湾岸戦争の始まり

もぐたろう
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以上、イラン=イラク戦争のまとめでした!この戦争を理解しておくと、湾岸戦争やイラク戦争、さらには今日の中東ニュースがグッとわかりやすくなるよ。下の記事もあわせて読んでみてね!

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』(2023年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「イラン・イラク戦争」(2026年5月確認)
コトバンク「イランイラク戦争」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説世界史』(2023年版)
外務省「外交青書1988年版」

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

イラン=イラク戦争の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
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教育系歴史ブロガー。
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