今回は、鎌倉幕府の3代目執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)について紹介します。
北条泰時は鎌倉幕府の内政に全力を注ぎ、北条氏の執権政治を軌道に乗せた内政のプロフェッショナル。
後世に残る北条泰時の大きな功績が日本初の武家法典である御成敗式目(ごせいばいしきもく)の制定であることも北条泰時が内政に力を注いだ象徴であるように思います。
内政の充実というのは国の統治において非常に重要なんですが、その割にどうしても地味になってしまいます。なので、北条泰時って有名なんだけど何をやったのか知らない人も多いはず。
今回は、「北条泰時って確かに地味だけど、結構凄いやつだったんだぞ!」ってのがわかるような感じで紹介してみたいと思います。
青年期
北条泰時は1183年に生まれます。源平合戦の真っ最中です。
父は、2代目執権で腹黒さに定評のある北条義時。
北条泰時は、とても真面目な性格だったのか北条政子のような破天荒なエピソードはありません。鎌倉幕府初代将軍である源頼朝から非常に寵愛されていたようで、t次に紹介するような聖人エピソードが残されています。
北条泰時の聖人エピソード
北条泰時が10歳の頃、とある御家人が北条泰時とすれ違った時、その御家人が下馬しなかったことに源頼朝は腹を立てました。
源頼朝「ちょっと待て!礼儀は年功序列で決まるものではなく、身分の高低で決まるものだ。たとえ若者であっても私との血縁関係も深い北条泰時の前でそのような失礼な態度をとるとは何事だ!」
御家人A「私にはそのようなことはわかりませぬ。どうか泰時殿の意見も聞いてください」
北条泰時「ん?いやー、別になんとも思ってませんよ^^」
すると、なぜか源頼朝は怒り続けます。
源頼朝「北条泰時に嘘をつかせて罪を隠すとは性根の腐ったトンデモないやつだ!それに加えて北条泰時は、相手を助けようと思うその心はとても素晴らしい。褒めてつかわそう」
こんな理不尽なエピソードが「吾妻鏡」という史料に残っています。吾妻鏡は虚構の話もたくさんあるのでこのエピソードがどこまで真実かはわかりませんが、少なくとも次の2つのことはわかるような気がします。
承久(じょうきゅう)の乱
その後は、父の北条義時の背中を見てスクスクと育っていきます。
1203年、2代目将軍の源頼家を追放するキッカケとなった比企氏滅亡や、1213年の和田義盛と父の義時が争った和田合戦なんかにも参戦して、着実に実績を重ねていきます。
そして1221年、39歳になった北条泰時は承久の乱の総大将に抜擢。宣旨(せんじ。天皇の命令)を無視した前代未聞の戦いを見事にこなし、承久の乱は幕府方の大勝利に終わります。
さらに承久の乱が終わると、新たに京都に設置された六波羅探題の初代代表に選ばれます。
まさにエリート街道まっしぐらな生涯です。
伊賀氏の変
1224年、2代目執権であり父でもあった北条義時が急死します。62歳でした。その死因は脚気とも何者かの毒殺とも言われています。
ちなみに毒殺説の場合、その有力な犯人候補には北条義時の妻の名前が挙がっています。妻が夫を亡き者にするとはただ事ではありません。
実は本当にただ事じゃなくて、北条義時死後ちょっとした事件が起こっているんです。
その北条義時の妻というのが伊賀の方(いがのかた)という女性。伊賀の方と北条義時の間には北条政村(ほうじょうまさむら)という息子もいました。
以下に北条氏の簡単な系図を載せておきます。北条政村と北条泰時は異母兄弟になります。北条泰時は義時の前妻(阿波局)から生まれた子。
当時、北条義時亡き後の次期執権は人望もありエリート街道まっしぐらな北条泰時だと考えられていました。
ところが、伊賀の方はこれに納得しません。自分の息子である北条政村を時期執権にしようと企んだのです。
幕府内には、北条氏に対抗しうる巨大勢力として三浦一族がいました。伊賀の方はその三浦氏と組んで、北条泰時派を排除しようと考えます。
ところが、北条政子がその不穏な動きに気付きました。伊賀氏が頻繁に三浦氏とコンタクトをとっており、これを怪しいと感じたのです。
北条政子は突如として深夜に三浦義村の元へ訪れ、これに驚いた三浦義村に続けて話します。
北条政子「義時が亡くなり、泰時が六波羅探題から鎌倉に戻ってからの間、ずーっと鎌倉が騒がしい。というのも、三浦の家に伊賀氏が頻繁に出入りをしており、良からぬ企みをしているという噂が流れているからだ。悪いが、次期執権を担えるのは北条泰時以外にはいない。これ以上良からぬ企みはしないことだ」
三浦義村「そんな話、俺は知りませんよ」
北条政子は、さらに三浦義村に問い詰めます。
北条政子「伊賀氏と協力して北条政村の擁立に協力するか、それともそのような考え方を捨てて平和のために尽くすのか。今すぐにどちらか決断しよ!!」
三浦義村「・・・俺には、北条泰時に逆らう気持ちなど微塵もない。しかし、伊賀氏の方は色々と考えがあるようです」
この北条政子の気迫溢れるナイスプレーによって、未然に伊賀氏と三浦氏の連携を阻止することに成功します。有力一族の三浦氏を頼れなくなった伊賀氏に謀反を起こす力はもはやなく、伊賀氏は流罪となりました。
※この伊賀氏の事件は闇の深い事件で、「実は伊賀氏は何もしていなくて北条政子が邪魔な伊賀氏を追放するためにでっち上げた陰謀だった」なんて話もあります。
ちなみに、伊賀の方が擁立した北条政村は担ぎ出されただけで本人に謀反の意図はなく、特に処罰はありませんでした。北条政村は後に7代目執権になる人物でもあります。きっと危険なオーラを感じさせない優しい人物だったのでしょう。
こんな感じで一悶着ありながら、北条泰時は三代目執権として鎌倉幕府の実質的トップに立つことになります。それにしても、危機を未然に防いだ北条政子は功績は大きいです。さすが尼将軍!
巧みな政治術と評定衆の設置
北条泰時の治世は当初は、父の義時のやり方を踏襲する形で行われました。
ところが父と同じやり方を長くは続けることができませんでした。というのも、1225年になるとこれまで幕府を支えてくれた重鎮の大江広元と北条政子が次々と亡くなってしまったのです。
これまで多くの御家人の不満を抑えながらも北条氏が実施的な幕府のトップとして君臨できたのは、大江広元や北条政子などのベテランが裏で色々と暗躍してくれたおかげです。
このことを十分に理解していた北条泰時は考えます。
北条泰時「もはや、父義時のような専制的な政治のやり方はできない。昔のように御家人たちの不満を抑え込んでくれた重鎮たちはもういないのだから。
だとすれば、私は御家人たちが不満を持たないような政治をしなければならない。その方法とは何か?私は話し合いこそが重要と考える。
よって、幕府に13人の御家人を集めた合議制の体制を作るぞ!!」
こうして北条泰時によって作られたのが評定衆(ひょうじょうしゅう)という組織でした。大江広元、北条政子が亡くなったのと同じ1225年に設置されました。
ところで、「13人の合議制機関」って実は、2代目将軍の源頼家の時代にも同じものがありました。
北条泰時は、この頼家時代の13人の合議制機関を参考に評定衆を設置したとも言われています。13人の人数が一致するあたり、その可能性が大です。
北条泰時と「連署」の登場
北条泰時は、評定衆の設置以外にも徹底してこれまでの専制的な政治を見直していきます。その象徴的な政策の1つが、執権を2人置いてダブルトップで政治を行うというものでした。
当初は、北条泰時と叔父にあたる北条時房がダブル執権に就任します。しかし、幕府のトップが2人いて、しかも同じ権限を持ってしまっては幕府をうまく統治できないだろうことは容易に想像できます。
つまり、しっかりと幕府を統治しようと思うと2人の間に自然と差が生じることになるんです。当時は、北条泰時の方が強い権限を持っており、北条時房はその補助的や役割を担うことが多くなっていました。
そこで、強い権限を持つ執権とそれをフォローする執権を分けて考えるようになり、フォローする側の執権のことは「連署(れんしょ)」と呼ばれるようになります。
上の例だと、
です。
ちなみに、先ほど紹介した評定衆には執権+連署+他御家人11人=13人が参加したと言われています。
北条泰時の政治理念は「徹底した集団指導制の実現」でした。これは泰時が望んだものではなく、重鎮たちがいなくなった幕府で御家人たちを上手く統率するには、もはや「話し合い」しかないと北条泰時は考えたのです。いわば消去法的発想です。
これに加え北条泰時は、北条氏内でも叔父の北条時房を立てたり、父義時の遺産相続の際に執権であるにも関わらず、自分の相続分を他の者よりも少なくするなど、一族内の調和を保とうという努力も忘れていません。
連署は歴代全て北条氏から選ばれており、連署の設置も北条泰時の一族の調和を保つための政策の1つだとも言えます。
こう考えると北条泰時の政策は首尾貫徹、徹底していることがわかります。そして逆に考えれば、これほどまでに平身低頭の姿勢を貫かなければ幕府を安定に保てないほどに北条泰時の政治基盤が脆かったとも言えます。
さらに言えば、北条泰時の政策からは大江広元・北条政子の偉大さを読み取ることもできます。
北条泰時と御成敗式目
さて、評定衆でみんなで話し合うとなると、みんながデタラメに話をしても話をまとめることはできません。かと言って、皆が納得できないまま話を強引にまとめるのも得策ではありません。
そこで、話し合いを円滑に行うため、話し合いの際の共通認識・ルールみたいなものが必要になってきました。それに、承久の乱によって西国を支配領域に加えた幕府では、訴訟や各種トラブルの相談が山積するようになります。
そこで制定されたのが、日本初の武家専用の法律「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」です。1232年に制定されました。
北条泰時自身、京から法律家を呼ぶなどしてかなり勉強したらしいです。
ここでは御成敗式目の詳細は書ききれませんが、御成敗式目は以下の2点を踏まえて作られた武士たちの基本法です。
御成敗式目は、北条泰時が「徹底した集団指導政治の実現」という政治理念を追求したがゆえに生まれた泰時の最高傑作です。
ここで北条泰時の主要な政策をまとめておきます。
これら一連の政策は、「集団指導政治」のための政策であり、裏を返せば「良くも悪くも特定人物(源頼朝や北条義時、北条政子など)の権力やカリスマに依存しない安定した政治」を目指したとも言うことができます。
もっとわかりやすく言うと「幕府統治の仕組みとマニュアルを完成させて、誰でもある程度安定した幕府運営を行えるようにした」ということです。
内ゲバが絶えず不安定だった鎌倉幕府に安定をもたらした北条泰時の功績はとても大きく、北条泰時はいわば内政のプロだったと言えます。
北条泰時と後嵯峨天皇
北条泰時は幕府内での調和を図る一方、朝廷に対しては実に強硬な姿勢で臨みました。
その象徴的なお話が1242年の後嵯峨天皇即位のお話です。以下の系図を見ながら説明します。複雑な系図ですが、話はそれほど難しくないのでご安心を。
1221年の承久の乱の後、乱に関与した後鳥羽上皇と順徳上皇は島流しに。そして、乱に関与はしてない土御門上皇も「2人の上皇が島に流されているのに、私だけ何もお咎めがないのは忍びない」と自ら土佐へ流されます。土御門上皇は聖人のように優しい人物でした。
その後仲恭天皇は廃帝。幕府の強い意向により後鳥羽上皇の血統は全て皇位から遠ざけられ、後鳥羽上皇と血の繋がっていない堀河天皇が即位します。
この後、後堀河天皇の血統を直系として皇位継承が行われる予定でしたが、後堀河天皇の息子である四条天皇が1242年に若くして崩御。こうして頼みの綱だった後堀河天皇の血統が断絶してしまい、皇位継承を巡って朝廷も幕府もにわかに騒がしくなります。
この時、朝廷では親幕府派だった九条道家(くじょうみちいえ)・西園寺公経(さいおんじきんつね)が強い影響力を持っていました。というのも、承久の乱で反幕府派が一掃されてしまったからです。
九条道家と西園寺公経は自分たちにとって外戚に当たる順徳天皇の息子の忠成王(ただなりおう)を次期天皇候補に選びますが、北条泰時はこれに大反対。
北条泰時「承久の乱の張本人である順徳上皇の息子など天皇にさせてたまるか!!順徳上皇は、まだ佐渡で生きているんだ。忠成王が順徳上皇を京に呼び戻すような自体があれば、承久の乱の再来の可能性すらある。断固として許さんぞ!」
北条泰時は六波羅探題と連携し、朝廷の意向を無視して強引に土御門天皇の息子である後嵯峨天皇を即位させます。承久の乱の際、無実の罪で流された土御門天皇の息子ならば良いだろう・・・というわけです。
皇位継承問題は本来、朝廷が決定すべき問題であり、朝廷が持つ皇位継承の決定権こそが朝廷の権威そのものでした。その決定権を北条泰時が行使したという点で、後嵯峨天皇即位はとても画期的な出来事でした。
後嵯峨天皇の即位は、承久の乱のような戦時以外でも「天皇即位には幕府の意向を伺う必要がある」という前例を作りました。その後も皇位継承問題に幕府が深く関与していくこととなり、朝廷の権威はますます失われていくのです。さらに、このような事態は北朝と南朝に皇室が分かれる南北朝の動乱へと繋がっていきます。
北条泰時は1242年2月に後嵯峨天皇を即位させると、同年の7月に60才で亡くなります。死因は不明ですが、上述の皇位継承問題という国を揺るがすシビアな問題に介入したことが想像以上に心労になったのでは?なんて言われています。
北条泰時の人物像
以上、北条泰時の政治政策や生涯についてザッと見てみました。最後に北条泰時の人物像について考えてみたいと思います。
北条泰時は相当人格に優れていたのか、武士からも貴族からもあまり悪い評価はありません。北条泰時は幕府の実質トップとは思えないほど質素で慎ましい生活を送っており、質素剛健で公正公平、人望も厚く、まさに武士の理想とする政治家として評価されています。父の義時がボロクソに言われているのとはえらい違いです。
政治的な功績と周囲からの評判、人柄の良さの三拍子揃った完璧な生涯から歴代の執権北条氏の中でもずば抜けて高い評価を得ているのが北条泰時なのでした。
というわけで「北条泰時は内政ばかりで地味だけど、実は凄いやつなんだぜ!」という形で北条泰時について紹介してみました!
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