平安初期|空海・最澄・薬子の変・承和の変・検非違使まとめ

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第1章 / 794〜858年

平安初期

桓武天皇の平安京遷都から、空海・最澄の仏教大改革、摂関政治前夜の政変まで。平安400年の骨格が作られた約60年。

794
平安京遷都
804
空海・最澄渡唐
858
良房摂政就任
794
平安京遷都
804
遣唐使出発
810
薬子の変
842
承和の変
858
良房摂政
Phase I — 平安京遷都と行政改革
794〜810年頃
794
都市改革
平安京遷都 ─ 桓武天皇が都を京都へ移す

奈良の仏教勢力の政治介入を避けるため、桓武天皇は784年に長岡京、794年に平安京へ遷都。平安京は碁盤の目状の都市設計を持ち、以後1000年以上にわたって日本の首都となりました。

桓武天皇準備中 平安京遷都準備中
792〜
軍制改革
健児制 ─ 郡司の子弟による新しい軍制

桓武天皇は全国の軍団・兵士制を廃止し、郡司の子弟から優秀な者を選んで「健児」とする新軍制を設けました。地方豪族との連携を活かした経費削減策で、後の武士発生の遠因ともなります。

▶ 深く読む
健児とは?桓武天皇が設けた軍制改革の要
全国の兵士制を廃止し郡司の子弟を活用。武士発生の遠因ともなった制度改革を解説。
810頃
官制整備
蔵人所・検非違使 ─ 天皇直属の新機関

令外の官として蔵人所(天皇の秘書機関)と検非違使(警察・司法機関)が設置されました。既存の律令制にとらわれない柔軟な行政機構で、平安朝廷の実効支配を支えました。

810頃
人物
藤原冬嗣 ─ 摂関政治の礎を築いた始祖

薬子の変で嵯峨天皇を支持して蔵人頭に任じられた藤原冬嗣。天皇との信頼関係を深め、以後の藤原北家による摂関政治繁栄の基礎を固めた重要人物です。

Phase II — 空海・最澄と仏教改革
804〜822年
804〜06
宗教改革
空海と最澄の渡唐 ─ 同じ遣唐使船で中国へ

804年、空海(真言宗)と最澄(天台宗)は同じ遣唐使船で唐へ渡りました。空海は密教の奥義を極めて806年に帰国し高野山を開創。最澄は天台宗を伝え比叡山延暦寺を本拠地としました。

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空海と最澄の違いを簡単に|真言宗・天台宗の開祖
真言宗と天台宗の違いは?高野山と比叡山は何が違う?2人のライバル僧の生涯と教えを比較解説。
805〜
天台宗
最澄 ─ 比叡山に天台宗を開く

805年に帰国した最澄は比叡山延暦寺を天台宗の根本道場とし、「一乗思想」(すべての人が救われる)を説きました。後の浄土宗・禅宗・日蓮宗など鎌倉仏教の祖師たちの多くが比叡山で学んでいます。

最澄 天台宗準備中 真言宗準備中
Phase III — 摂関前夜の政変
810〜858年
810
政変
薬子の変 ─ 藤原北家が権力を確立したターニングポイント

平城上皇の復位を企てた藤原薬子・仲成が嵯峨天皇側に敗北した政変。この騒乱で嵯峨天皇を支持した藤原冬嗣が蔵人頭に任じられ、以後の藤原北家台頭の決定的な契機となりました。

▶ 深く読む
薬子の変とは?藤原氏が権力を握ったターニングポイント
平城太上天皇vs嵯峨天皇の権力争い。敗者薬子の名で呼ばれるこの政変が摂関政治の原点となった理由。
842
政変
承和の変 ─ 良房が人臣摂政への道を開く

藤原良房が橘逸勢・伴健岑らを排斥した宮廷政変。皇太子の廃立にも関与し、良房は858年に外戚として人臣初の摂政に就任。摂関政治の実質的な幕開けとなりました。

858
摂政誕生
藤原良房の摂政就任 ─ 人臣摂政の始まり

清和天皇が9歳で即位すると、外祖父の藤原良房が摂政に就任。天皇に代わって政務を執る人臣摂政はこれが初めて。摂関政治の原型が完成し、次の藤原基経・道長の時代へと繋がります。

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