今回は東大寺の歴史についてわかりやすく、かつ、丁寧に紹介してみたいと思います。
東大寺と言えば奈良の大仏を見て「すげー!」って言うのが定番ですが、東大寺の歴史を知れば、それ以外にも色々な知見から東大寺観光を楽しむことができますので、ぜひこの記事をご一読いただけたらなと思います。
東大寺建立前の歴史
東大寺が建立されたのは752年。奈良時代です。
今現在東大寺が建立されている場所の東側には、金鐘寺(こんしゅじ)と言うお寺があり、このお寺が東大寺の前身だと言われています。(今は現存してませんが!)
金鐘寺が建てられた背景は謎ですが、728年に聖武天皇と藤原光明子の間に生まれた基王(もといおう)と言う息子が亡くなった際に、その菩提を弔うために建立されたと言われています。
ちなみに基王の死は、長屋王の変という陰湿で血生臭い当時の一大事件のきっかけにもなっていて、地味に影響力の大きい人物です。
金鐘寺には、後に東大寺建立で大活躍し、初代別当にもなる良弁(ろうべん)という僧侶が住んでいました。
良弁は、執金剛神という仏像を崇めながら金鐘寺で勉学や修行に励んでいました。その執金剛神の仏像が、現在東大寺の東にある法華堂に安置されている執金剛神像だと言われています。(執金剛神像は秘仏なので普段は見ることはできません。)
東大寺と国分寺
741年、聖武天皇は日本各地にお寺を建立する命令を全国に出しました。これが国分寺・国分尼寺と言われるお寺です。
聖武天皇は度重なる不吉な事件により、酷く心を痛め、自らの無力を嘆きながら仏教に救いを求めるようになります。ザッとこんな不吉な事件がありました。
・長屋王の変(信頼する部下を自殺に追い込んだ)
・天然痘流行による人々の大量死
・藤原広嗣の九州での反乱
・大地震
こんな感じ。聖武天皇はこれらを全て自分の責任だと考え心を悩ませていたのです。真面目な性格なんですねきっと。
聖武天皇がなぜ政治と仏教を結びつけて考えたのかと言うと、金光明経(こんこうみょうきょう)と言うお経にこんなことが書かれていたから!
「このお経の内容を理解し、さらにお経を供養しその教えの普及に努める国王がいるなら、四天王が常に国王を守り、災害を防ぎ病を治し、願うところは叶え、心を常に歓喜させようぞ」
聖武天皇はこれを信じました。国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」。長い!
国分寺建立の目的は金光明経の教えのとおり、各地に金光明経を安置し教えを流布するためでした。国分寺は金光明経を安置するための入れ物だった・・・と言うわけです。
一方、聖武天皇はプライベートで華厳経(けごんきょう)というお経の教えにも興味津々。国分尼寺には、華厳経を安置します。
各地に建立された金光明経の国分寺・法華経の国分尼寺。これらを束ねる総本山こそが東大寺でした。
743年、聖武天皇は大仏建立の詔を出します。この時、聖武天皇が建てた大仏は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)と言いますが、この毘盧遮那仏は法華経に説かれている万物の心理を司る仏様でした。
聖武天皇は「金光明経の教えに従い四天王に国を守ってもらい、法華経の教えによって人々は万物の心理を悟り、みな救われる日本を作ろう」と考えたのです。
この記事を読んでいる方の多くは、「いやいや、そんなの無理っしょw」と思うかもしれません。しかし、自らの無力さを痛感し、嘆き苦しんでいた聖武天皇にとって心の拠り所はもはや仏教しかなかったのです。
以下の記事で、聖武天皇のことを詳しく紹介しています。東大寺と聖武天皇は切っても切れない関係です。東大寺の歴史を知るのと合わせて聖武天皇についてもぜひ知っていただければなぁと思います。
東大寺と行基
743年に聖武天皇は大仏建立を宣言。しかし、メンタル崩壊した聖武天皇の度重なる遷都騒ぎや各地の国分寺建立などで民は疲弊し、とても奈良の大仏など建てられる状況ではありません。
そこで、聖武天皇が頼ったのが行基(ぎょうき)という僧侶。当時の僧侶は、国に管理されている今でいう公務員みたいな感じでしたが、行基は国に認められていないのに僧侶として活動する異端児。不法僧侶とでも言いましょうか。
行基は、国から弾圧を受けるものの、民衆からの圧倒的な人気により国にも認められ、遂には大仏建立の責任者にまで任命されたのです。
東大寺と良弁
最初に登場した金鐘寺住みの良弁も東大寺建立に大活躍しました。
行基が東大寺建立のハード整備の最高責任者なら、良弁はソフト面での最高責任者!
奈良の大仏は、華厳経に説かれている毘盧遮那仏を具現化したものですが、良弁はその華厳経に精通していました。
毘盧遮那仏を造立しても、華厳経の中身を理解しなければ意味がありません。ところが、この華厳経、めちゃくちゃ難解なことで有名な経典でした。独学で内容を理解するのはとても難しく、そこで頼りにされたのが良弁だったんです。
行基が大仏造立担当なら、良弁は大仏のデザイン担当って感じです。
東大寺の完成
行基・良弁の2大僧侶を中心に進められた東大寺建立。
大仏を最優先に建立され、752年に大仏が完成します。
その後、大仏殿などの建築物の建立が進められ758年に竣工することになります。
東大寺建立は、国費を大量に消費し民を労役で苦しめたため、東大寺建立を批判する人物もいたほどです。その代表格が橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)という男。政争に敗れ亡くなりますが、橘奈良麻呂が言っていることも一理あります。
奈良の大仏には、金箔が貼られていましたが接着剤として水銀が用いられていました。この水銀によって平城京で水銀による公害が発生したんじゃないか?なんて話もあります。当時は労災なんてありませんから、労役に駆り出され金箔貼り付け担当にでもなった日には命がけで仕事をしないといけません。それも安月給で!!
東大寺があった場所は、当初は山で、そこを削って平地にしたのが今の東大寺とも言われています。山っていうのはおそらく丘に近いんじゃないかと思います。山を削り、大仏に必要な木を切り倒して運び、大仏に塗る金は東北地方の鉱山掘って砂金を平城京まで運ぶわけですが、その全てに民達が強制労役させられています。
ほんと、カイジの地下強制労働並に鬼畜だったんじゃないですかね・・・。ちなみに労役から逃げ出そうとした者は鞭打ちなどの処罰がされたそうです。
そのスケールの大きさや金色に輝く様子から、奈良の大仏には華やかなイメージがあるかもしれませんが、建立過程を知ってしまうと素直にそう思うことは私にはできません。
平安時代になると、重税に苦しみ土地を捨てて逃げ出す人が増えていくのですが、東大寺建立がその遠因にあるんじゃないかとも思ってしまうほどです。
東大寺の歴史(平安時代)
色々闇が垣間見えましたけど、ひとまず奈良時代に東大寺は完成しました。
平安時代になると東大寺は試練の時を迎えます。
まず、都が平安京に移ってしまいました。それだけではなく、奈良の仏教は弾圧されることになります。
平安京に都を移した桓武天皇は、道鏡のような輩を輩出した奈良の仏教に辟易し、奈良のお寺とは一定の距離を置くことにしたのです。東大寺建立をきっかけに僧侶になれる基準を低くし、僧を増やしたため、僧の質自体も低下していたと言われています。
平安京の歴代天皇の多くは、奈良のお寺に関心を示さなくなり、空海や最澄によって普及が始まった密教という新しい仏教の教えにハマります。するとますます奈良のお寺は軽視され、平安時代の東大寺はかなりボロボロだったようです。
この頃から、東大寺を含む奈良のお寺は自らの力でお寺を運営していくため、田畑の開発に力を入れ、所有する土地を着実に増やしていきます。大和地方の寺社勢力の力が戦国時代でも強かったのは、この辺りの事情も関係がありそうです。
東大寺と源平合戦
平氏と源氏が争った平安末期の源平合戦。この戦いは東大寺において非常に重要な出来事となります。
1180年、源平合戦による戦火によって東大寺が全焼してしまうのです。それまでも台風や火事などで被害を受けることはありましたが、大仏殿が丸々全て全焼してしまうのは源平合戦が初めてです。詳しい話は、以下の記事を。
あの世の聖武天皇もきっと泣いてますね・・・。
それこそ、今まさに奈良の大仏があるあの辺り一帯が焼けてしまったのです。幸い、大仏殿の東に離れた場所にある法華堂は戦火を免れました。
東大寺再建と重源
東大寺は、聖武天皇の護国(国を守る)の願いが込められたお寺です。人々は、そんな東大寺が紅蓮の炎に包まれたことに絶望し、恐怖しました。
「東大寺が亡くなったら国の平和は乱れるに違いない・・・」と。まぁ、源平合戦は長期化するので実際に当たってるんですけどね。
また、東大寺や興福寺が焼けてすぐに平清盛や高倉天皇が亡くなっており、それらも「東大寺や興福寺を灰燼に帰した罰に違いない!」と多くの人が恐怖しました。
そのため、戦乱中にも関わらず、東大寺が焼けるとすぐに再興の動きが始まります。東大寺の再興は民衆の意思のみならず、後白河法皇や源頼朝など権力者も率先して参加しており、まさに一致団結で東大寺再建プロジェクトが開始されます。
天皇が国を守るために建立したお寺・・・という事情もあり、東大寺は宗教面のみならず政治的にも人々にとって精神的支柱のような存在だったのです。
そこで活躍したのが重源(ちょうげん)という僧侶。
戦乱中の東大寺復興には問題が山積していました。まず、金がない。人々は疲弊しているし、そんな状態で超ド級の公共事業なんてできるの?って問題もある。
それでも重源はなんとか東大寺の再建を進めます。これ、文章にすると簡単そうですけどとても大変なことです。
そこで、重源が採用したのが簡単で丈夫な建物が作れる「大仏様」と呼ばれる宋から学んだ最新の建築技術。
大仏様は芸術美というよりも、「簡素で丈夫」という実務面でのメリットに重きを置いた建築様式で、今の東大寺南大門にその様式を見ることができます。実際に見てみると、その大仏様のシンプルさがわかります。(他の寺院と比べるとなおさら!)
運慶と快慶と東大寺南大門
この東大寺復興の際に、東大寺南大門も再建されるわけですが、東大寺南大門の両脇に立つ金剛力士像も再建されます。
この時に大活躍したのが運慶・快慶です。運慶・快慶が凄かったのは、当時の仏像様式に新しいブームの風を吹き込んだことと、仏像製作の圧倒的な速さです。
平安時代は、貴族の力が強かったので仏師たちは貴族受けする仏像を作りました。貴族たちに受ける仏像は柔和な顔をした仏像で、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来なんかがわかりやすい例です。
一方、運慶らが作るのは力強い仏像でそれまではあまり人気がなかったのですが、鎌倉時代となり武士が登場する時代になると運慶らの仏像が大受け。一気に人気者となり仏像様式を大きく変えた先駆者として歴史に名を残したのです。
東大寺の歴史(戦国時代)
戦国時代になると、再び東大寺は戦乱により大仏殿を失います。この時の復興は、源平合戦のようにすぐには行われなかったようで、江戸時代になってようやく東大寺は蘇ることになります。
東大寺と明治時代の廃仏毀釈
明治時代になると、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動による弾圧を受けることになります。
廃仏毀釈はそもそも、「神様と仏様は別物だから、一緒に信仰しないでちゃんと分けてくれよな」というもの。仏教が弾圧される理由はないのですが、明治時代が王政復古により天皇の権威を再び高めようとしていたこともあってか、仏教は軽視され、それが弾圧に繋がってしまったようです。
この時の東大寺は、物理的な被害はありませんでしたが、とにかく財政的に追い詰められました。所領を奪われた東大寺は、財政難に陥り、お寺の修繕もままならなくなり再びお寺はボロボロに。
明治が終わり、昭和になると再び東大寺の修理が始まり、現代にまで至ります。
東大寺の歴史まとめ
なんど挫けてもちゃんと蘇るその様子はまさに不死鳥。日本人の深い仏教信仰を証明しているように思います。
東大寺の歴史を見ていると、破壊とは創造の始まりなんだなって言うのがとても強く実感できます。大仏様という新しい建築技法や運慶・快慶の台頭なんかは、まさにその典型です。
また、東大寺の建立当時の時代背景も色々考えさせられます。凄く悪い言い方をすれば「貧しい民を強制労働で働かせて建てたお寺と大仏」ですからね。私自身、東大寺は素晴らしいお寺だと思いますし、その後の復興運動からも多くの人にとって愛されたお寺であることも事実ですけれど。
以上、東大寺の歴史を紹介してみました。ぜひ、東大寺の歴史を知っていただいて、観光を有意義なものにしてもらえればなと思います!
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