今回は、源平合戦の中でも特に有名な一ノ谷(いちのたに)の戦いについて紹介しようと思います!
一ノ谷の戦いは1184年2月、平家軍と源頼朝が派遣した源義経・範頼軍らが戦った源平合戦の花形とも言える戦いです。
まずは、一ノ谷の戦い当時の平家側と源氏側の情勢を確認しておきましょう!
平家と一ノ谷の戦い
時は一ノ谷の戦いの一年前にさかのぼる1183年5月。平家は北陸で勢力を拡大する木曽義仲を抑えるため、北陸地方へ大軍を派遣します。ところが、劣勢だったはずの木曽義仲に大敗。
この時の戦いは、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いと呼ばれています。
倶利伽羅峠の戦いの大敗北によって平家は木曽義仲に追いやられ、遂には平安京からも逃走する羽目になります(平家の都落ち)。そして、都落ちした平家は四国にある屋島(今の高松市)という場所を本拠地とします。
屋島で体制を立て直した平家は、さらに攻め入ってくる木曽義仲を撃退。(水島の戦い)
倶利伽羅峠の戦いで大敗した平家は、水島の戦いの勝利で勢いを復活させ、再び本州へ上陸し、屋島から昔に平清盛が遷都を計画していた福原へと本拠地を変えました。
平安京では勢いを増した平家が京に攻め入ってくる・・・と言う噂も広まり、1184年2月、そんな平家を倒さんとするため、源義経・範頼軍が福原へと攻め入ってくるのでした。
源氏と一ノ谷の戦い
倶利伽羅峠の戦いに勝った木曽義仲は、1183年7月、念願の平安京入りを実現しますが、その後、後白河法皇や源頼朝との対立が激化。
当時の詳しい経過は以下の2記事で紹介しています。
最終的に木曽義仲は源頼朝に敗北し、1184年1月、宇治川の戦いで木曽義仲は命を落とすことになりました。
宇治川の戦いでの源頼朝の勝利により、木曽義仲・後白河法皇・源頼朝の間のイザコザにようやく終止符が打たれ、再び源氏の目は平家追討に向かいました。
平家としては、平安京で源氏と後白河法皇が揉め事に明け暮れている期間は、体制を立て直す絶好の機会となります。平家は倶利伽羅峠の戦いで大半の兵を失いましたが、1184年2月の一ノ谷の戦い当時は数万の兵を率いるほどになっていました。
一ノ谷の戦いは三種の神器奪還戦!
1183年7月の平家都落ちの際、平家一門は平安京から安徳天皇と三種の神器も連れて、西国へ逃げ落ちています。
平家と安徳天皇がいなくなった朝廷では、後白河法皇の意向を無視し平清盛の強硬手段で即位していた安徳天皇の正当性を疑問視する声も多かったことから、平家が都落ちした今、改めて別の天皇を即位させることを決定します。
こうして即位したのが後鳥羽天皇。安徳天皇在位中の出来事であり、日本国に天皇が2人存在するという異例の事態がここに発生します。
異例の事態はそれだけではありません。天皇即位の儀に必要な三種の神器は全て平家に持ち去られ、後鳥羽天皇は正式な即位の儀を行うことができなかったのです。有職故実を重んじる朝廷にとってこれは由々しき事態でした。
このような天皇のあり方からも、当時の日本の情勢が混沌としていたことがわかります。
1184年1月に宇治川の戦いで木曽義仲を滅ぼし、平安京では束の間の平和が訪れます。その後、後白河法皇は頼りにしていた源頼朝に平家追討の命令を下し、それと同時に三種の神器奪還の命じます。
・後鳥羽天皇の即位の儀のために三種の神器の奪還する
・三種の神器奪還を名目に、源氏軍がライバルの平家を叩き潰す。
このような2つの動機によって始まったのが一ノ谷の戦いでした。ここで、一ノ谷の戦いまでの流れを年表で整理しておきます。
- 1183年5月
- 1183年7月木曽義仲、平安京入り。
平家は安徳天皇と三種の神器を持って西へ逃亡。
「安徳天皇は平清盛が即位させたエセ天皇!」と言う声が朝廷内で上がり、後鳥羽天皇が即位。ただし三種の神器がない。
- 1184年1月木曽義仲、宇治川の戦いで散る
平安京に入った後、後白河法皇と木曽義仲の対立が続き、木曽義仲が敗北する。平安京にはつかの間の平和が訪れる。
- 1184年2月一ノ谷の戦い←この記事はココ!
平安京が落ち着くを取り戻したので、平家を倒して三種の神器を奪還しに行く。
一ノ谷の戦いの経過
(出典:wikipedia「一ノ谷の戦い」)
平安京から平家追討に向かったのは源義経・源範頼軍。主力軍は源範頼。源義経は少ない兵力で福原を背後から攻めました。
平家側は総大将の平宗盛と安徳天皇は船上に控え、陸地の防衛線上に兵を構えて源氏を迎え撃ちます。
初戦!三草山の戦い
1184年2月5日、最初の戦いが三草山という場所で起こります。福原を背後から攻め入ろうとする源義経と平家軍が衝突しました。戦いは源義経の圧勝。夜襲を仕掛けた源義経に、平家軍は手も足も出ず、あっけなく敗北してしまいます。
当時の貴族たちには、どうやら「奇襲や夜襲は卑怯だ!!」という風潮があったようです。平家は武家なのでそんなことはなかったはずですが、当時の平家は本格的に朝廷進出をしていたこともあり、考え方や行動が貴族化していました。そのため、平家軍の多くの者が「後白河法皇の命を受けた源氏軍がそんな卑怯なことをするはずがない」と油断していたのです。
三草山の戦いだけでなく、その後も続く平家の敗北の根底には、貴族化した平家一門の弱体化があったものと思います。(平家物語でもその辺の事情を暗喩的に表現しています)
源義経は三草山の勝利の後、部隊を3手に分け、福原に向けてさらに進軍します。敗走する平家軍を追撃する土肥実平。北から直接福原を攻める安田義定。そして源義経自身は奇襲を仕掛けるため、鵯越(ひよどりごえ)と言う場所からさらに南下し一ノ谷を目指します。
戦局を俯瞰してみると、
と、平家の本拠地を挟み撃ちする展開になっています。
一ノ谷の戦いと後白河法皇の策略
一ノ谷の戦いは平家VS源氏のイメージが強いですが、実は影でメチャクチャ暗躍していたのが後白河法皇でした。
三草山の戦いの翌日の2月6日、この日は、平家一門にとってとても重要な日でした。なぜなら、平清盛が亡くなった三年目の法要を行なっていたからです。そんな中、平家軍の本陣営に後白河法皇からの使者が文書を携えてやってきます。
その文書の内容は、以下のようなものでした。
「平家と和平交渉をしたい。交渉の代理人をそちらに送るから、それまでの間は戦闘をしないで欲しい。同じ旨の話を源氏にも伝えてある」
和平交渉に際して、平家側は安徳天皇と三種の神器というとっておきの交渉カードがありました。当然、戦わずして平安京に戻れるならこれほど美味しい話もないので、平家側はこれを受け入れることにします。
ところが!これは後白河法皇が仕掛けた全くのデタラメ。その翌日2月7日の早朝、和平交渉などまるでなかったかのように源氏主力軍の源範頼が東から攻め込んできます。源義経も鵯越へ進軍し、背後から福原に攻めいらんと進軍します。
後白河法皇の和平交渉を信じ込んでいた平家軍はこの突然の奇襲に大慌て。こうして平家軍はまたもやフルボッコに・・・と思いきや、今回は平家側もかなりの兵力を動員し、互いの主力がぶつかり合った生田川付近では両者一進一退の攻防が続きます。
それにしても木曽義仲の話の時もそうでしたが、後白河法皇はトンデモナイ食わせ物です。権謀術数にかかれば後白河法皇ほど人々の心を弄ぶことのできる人間は当時、1人としていなかったことでしょう。
一ノ谷の戦いは、一般的に源義経の奇襲により大勝利を収めたと言われています。しかしながら、一ノ谷の戦いを大局的に見れば、この戦い全体がそもそも後白河法皇によって作り上げられた奇襲だったとも言えるわけです。
後白河法皇は、後に源頼朝から「日本国一の大天狗」と揶揄されますが、全くもってその通りだと思います。
ただし、平家側が後白河法皇の和平交渉をどこまで信じたかははっきりとわかっていません。100%油断していたかもしれないし、案外、嘘を見抜いて防衛に備えていたかもしれません。
一ノ谷の戦いの名場面!鵯越の逆落とし
主力の源範頼が攻めあぐねている中、活路を切り開いたのは源義経でした。
源義経は、普通の人ならば「こんな場所から攻めてくるわけがない」と考えるような断崖絶壁を駈け下り、平家軍に奇襲を仕掛けたのです。
源義経は行軍中、地元の人に「この断崖絶壁は下ることができるか?」と尋ねると「この道は鹿なら渡れるけど、馬は無理じゃないかなー」と答えますが、ここで源義経はトンデモ理論をぶちかまします。
いやいや、四つ足の鹿が渡れるなら馬でも渡れるでしょ?
何言ってんだ・・・って感じですが、義経は本気です。試しに人の乗っていない数頭の馬を崖に突き落としてみます。すると、無事に崖を降りることができる馬「も」いたのです!!
ほらね?渡れた馬もいたでしょ!ここから奇襲すれば、平家軍に大打撃を与えられること間違いなし!
源義経は、成功率などガン無視で断崖絶壁を下り奇襲を仕掛けることを決断。義経軍数十騎の少数精鋭を率いて平家軍に特攻します。
義経自らが先陣を切ったこの大奇襲に平家側は大混乱。これが俗にいう「源義経の逆落とし」というやつです。兵力的には平家有利の状況でしたが、もはや平家軍には勝ち目はありませんでした。
数十騎で奇襲を仕掛けた義経の目的は、敵の殲滅ではなく、主力軍が合流するまでの間に敵の陣営をかき乱しておくことです。義経の大奇襲で陣営を乱された平家軍の元へ別行動をしていた土肥実平らが合流。混乱に陥った平家軍は次々と討たれ、一ノ谷方面の防衛線は完全の突破されてしまいます。
こう着状態が続く生田川方面でも戦況に変化が見られます。一ノ谷の方から煙が上がっているのを見て義経の奇襲成功を確認した源範頼が平家軍に総攻撃を仕掛けたのです。
源義経の奇襲により背後を抑えられた平家軍は大パニックに陥り、源範頼も遂に防衛線を突破します。さらには北から攻める安田義定も平家防衛線を突破。事ここに到り、挟み撃ちにされた平家の大敗北が確定しました。
平家軍の兵たちは逃走用の船へと逃げ込みますが、船には定員があるので全ての兵が船に乗れるわけではありません。平家軍の逃げっぷりはそれはそれは惨めなものであり、定員超過で船が沈没し多くの兵が溺死。さらには我先に船に乗らんと互いを蹴落としあっての逃走劇でした。海岸は血の赤に染まっていたと言われています。
一ノ谷の戦いによる敗北で平家軍は壊滅的な被害を被りました。一兵卒のみならず、幹部級の人々も次々と討ち取られ、もはや平家復興は夢のまた夢。平家滅亡は、この一ノ谷の戦いにより確定的になったと言っても良いかもしれません。
源義経の逆落としは本当にあったのか?
実は、源義経の逆落としが本当にあったかは、疑問視する声が多くあります。もっとも大きい理由の1つは、その場所です。平家物語では、鵯越で奇襲を仕掛けたくせに戦っている場所が一ノ谷なんです。せっかく断崖絶壁を駆け下りたのにその後、そこから一ノ谷まで移動したら奇襲の意味なくね?というわけです。
そもそも逆落としの兵力なども史料で違うので、逆落としがそもそもあったのか?どの程度の規模だったのか?は実は謎に包まれたままなんですね。(この記事では吾妻鏡という史料に基づいて、逆落とし奇襲部隊は数十騎という表現にしています。)
一ノ谷の戦いの名場面その2:平敦盛の最期
さて、悲惨な平家軍の敗走シーンですが、その中でも平敦盛(あつもり)という人物の最期はとても有名で、その場面は能や歌舞伎などでしばしば取り上げられるほど。
そんな平敦盛の有名なワンシーンを平家物語の内容を交えながら紹介します。
平敦盛は当時17歳。美形の超イケメンでした。そんな平敦盛も他の兵と同じく船に乗るため、海へ向かって敗走しているところでした。ちょうど敦盛の馬が海に入った時、源氏の追討兵が敦盛に追いつきます。兵の名は熊谷直実(くまがいなおざね)。
熊谷直実は、その身なりから目の前の人間がただの一兵卒ではないと知り、「その首をはね、武功を立てん!」と意気込みます。
あなたは大将とお見受けした!背を見せて逃走するとは卑怯なり。戻られよ!
平敦盛はこの言葉を受け、馬を返し熊谷直実に近づきますが、平敦盛では強者の熊谷直実に敵いません。熊谷直実は平敦盛を押さえ込み、首をはねようとしていました。
ところが熊谷直実は、平敦盛の顔を見た瞬間その美しさに見惚れ、さらに敦盛が息子と同じぐらいの年齢だったこともあり、どうしても首をはねることができません。
そなた、名は?
そちらこそ、名はなんという?
名乗るほどの者でもないが・・・熊谷直実と申す。
それならば、私は貴方にとって極上の相手ぞ。私の首をとり、誰かにこの首は誰か聞いてみよ。きっと知っている者がいるはずだ。
この方を討ち取ったとて、もはや源氏の勝利が揺れ動くわけでもない。自分の息子が傷ついただけで私は心を痛めてしまったのに、この方の首を切ってしまったらその父方はどれほど心が痛むだろうか・・・。あぁ、できるものなら殺したくはない
そんなことを言っていると、源氏の援軍部隊がやってきました。もはや平敦盛を見逃すことなど不可能です。熊谷直実は、「首を切るのならばせめて私の手で!」と泣く泣く平敦盛の首をはねました。
嗚呼、武士という身分ほど情けない者はいない。武家に生まれなければこのような辛い目にあうこともなかっただろうに。遂に首をはねてしまった・・・
源平合戦後、熊谷直実は武家の道に失望し、出家したと言われています。この平敦盛を筆頭に、一ノ谷の戦いでは多くの平家軍が凄惨な死を遂げていきました・・・。
一ノ谷の戦いまとめ
一ノ谷の戦いは、平家滅亡を決定づけた源平合戦の中でも特に重要な戦いであり、平家物語の中でも特に有名なエピソードの多い戦いです。
源義経の鵯越の逆落とし武勇伝。(ただし、あまりに非現実的なので虚構説が濃厚)
平家の美少年、平敦盛の儚き最期と心を痛める熊谷直実。
この記事では紹介してませんが、源氏軍の梶原景時・景季親子の勇猛果敢な様子や、和歌を愛した平忠度(ただのり)のエピソードなど、話題には事欠きません。このエピソードの多さは、一ノ谷の戦いが源平合戦の勝敗を決する重要な戦いだったことを示しています。
なお、両者の兵力ですが史料によってその数が異なっているため、この記事ではあえて兵数などは載せていません。平家軍は源氏軍の主力の源範頼と互角にやりあっており、両者の兵力は概ね拮抗していたものと思われます。
難攻不落!屋島の戦い
一ノ谷の戦いで大敗北を喫した平家ですが、その後一年ほどは膠着状況が続きます。
平家の本拠地は四国にある屋島。源氏軍がここを攻めるには船と航海術が必要となりますが、源氏にはその両方がありませんでした。
この膠着した戦局を一変させたのはまたもや源義経でした。一ノ谷の戦いでは断崖絶壁を馬で下るというトンデモ作戦を実行した義経ですが、次は平家軍の予想もしない背後から少数の兵で屋島を攻め落します。こうして、源平合戦は有名な屋島の戦いへと続いていきます。
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