ポツダム宣言・会談を簡単にわかりやすく解説【内容と黙殺→受諾までの流れをバッチリ抑える】

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ポツダム会談の様子
もぐたろう
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今回は、太平洋戦争が終わるきっかけとなったポツダム宣言について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

この記事を読んでわかること
  • ポツダム宣言ってなに?
  • ポツダム宣言はなぜ発表されたの?
  • ポツダム宣言ってどんな内容だったの?
  • ポツダム宣言は、太平洋戦争にどんな影響を与えたの?
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ポツダム宣言とは

ポツダム宣言とは、1945年7月にイギリス・アメリカ・中国が発表した、日本に対して降伏を求めた宣言のことを言います。

当初、日本はポツダム宣言を無視していました。

しかし、8月になって広島・長崎へ原爆が投下され、さらにソ連が宣戦布告して日本への侵攻を開始すると8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れ、日本の降伏により太平洋戦争は終戦することになりました。

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ポツダム宣言が出された時代背景

太平洋戦争は、序盤こそ日本が優勢だったものの、ミッドウェー海戦ガダルカナル島の戦いの敗北により、1943年以降、日本は劣勢に立たされるようになりました。

逆に、勝利を確認しつつあったアメリカら連合国は、勝利を前提として、

・どのように敵に勝つか?

・勝った後、敵国をどう扱うか?

などの話し合いを始めるようになります。

カイロ会談

話し合いは何回か行われ、1943年11月、カイロで行われた会談(カイロ会談)で、日本に対する具体的な方針(カイロ宣言)が定まりました。

カイロ宣言の内容
  • 日本に対しては無条件降伏を求める。
  • 日本に、満州・台湾などを中国に返還させる。
  • 日本が第一次世界大戦でゲットしていた南洋諸島の委任統治権を放棄させる。
  • 日本の植民地である朝鮮は、適切な時期に独立させる。
もぐたろう
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カイロ会談で決められた方針は、その後の日本対応のベースとなり、ポツダム宣言の土台となる方針でもありました。

ヤルタ会談

1945年に入ると、話し合いは次第に『日本をどのようにして降伏にさせるか?』という議論に移っていきます。

そして1945年2月、ヤルタで再び会談が行われました。(ヤルタ会談

当時アメリカは、日本を降伏に追い込むため、日本本土への侵攻作戦を計画していました。

もぐたろう
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ヤルタ会談が開かれた2月、アメリカは硫黄島の戦いの真っ最中だったし、さらに沖縄への侵攻に向けて準備を進めているところでした。

アメリカは日本にさらなる圧力をかけるため、ヤルタ会談でソ連と交渉して、ソ連の対日参戦が決まりました。

ソ連の参戦予定時期は、ドイツ降伏の3ヶ月後。

2月時点でドイツの敗北はほぼ確定して、1945年5月にドイツが降伏しました。

・・・よって、ソ連が日本に攻め込む時期は8月と決まりました。

カイロ会談→ヤルタ会談と続き、日本を降伏に追い込むため最後に開かれた会談が、1945年7月に開かれたポツダム会談でした。

もぐたろう
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ポツダム会談の中で、日本に降伏を要求するために発表されたのが、この記事で紹介するポツダム宣言なんだ!

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日本を降伏に追い込む3つの方法

1945年7月当時、アメリカは、日本を降伏に追い込むための3つのカードを持っていました。

・日本本土への侵攻

・ソ連の対日参戦

・・・そして、もう1つのカードが日本への原爆投下です。

この3つのカードにはいずれも致命的なデメリットがあり、当時大統領だったトルーマンもこの3つのカードをどう駆使するか、究極の選択に迫られていました。

「日本本土侵攻」のデメリット

「日本本土侵攻」のカードは、沖縄戦の大激戦を通じて、アメリカも甚大じんだいな被害をこうむることが想定されたため、基本的には使用しない方向となりました。

アメリカ
アメリカ

沖縄を占領するだけで、おびただしい数のアメリカ兵が犠牲となった。

これがもし、九州・本州へ侵攻となれば、想像を絶する被害が出るだろう。アメリカ国民の犠牲を減らすためにも、日本本土への侵攻は極力避けたい・・・。

「ソ連対日参戦」のデメリット

「ソ連参戦」のカードは、ソ連が日本領土の一部を占領して今よりも強くなってしまうリスクがあったので、積極的には使いたくないカードでした。

もぐたろう
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アメリカとソ連は、資本主義社会主義の思想の違いから、もともと仲はよくありませんでした。

たまたま共通の敵がいたから協力関係を結んでいるだけで、戦争が終われば、アメリカとソ連が対立することも想定されました。(実際に、戦後はアメリカVSソ連の冷戦れいせんの時代が続きました。)

だから、カイロ会談で決められたソ連の参戦も、アメリカにとっては苦渋の決断でもあったんだ。

「原爆投下」のデメリット

原爆は、まだ実験段階で実戦投入には未知数なところがあり、おまけにその破壊力があまりにも非人道的すぎるため、アメリカ国内には原爆投下に反対の声が多くありました。

そのため、トルーマンも、簡単に原爆投下を決めることはできませんでした。

トルーマン
トルーマン

日本本土への侵攻は、アメリカへの被害が大きすぎるし、

ソ連の参戦は、あまり頼りすぎるとソ連が強くなりすぎる。

そして、原爆はまだ実験段階で、破壊力も未知数すぎて使うのはあまりにリスキーすぎる・・・。

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ポツダム会談、始まる

7月15日、トルーマンは決断を保留にしたまま、日本への対応を議論すべくポツダム会談に臨みました。

もぐたろう
もぐたろう

ちなみに、ポツダムはドイツの首都ベルリンの横に位置しているよ。

1945年5月にドイツはすでに降伏していたから、ドイツ国内でも連合国のトップたちが集まることができました。

7月17日、ポツダム会談に参加中のトルーマンの下に、歴史を大きく変えた重要な報告が入ってきます。

原爆の投下実験、成功!!

トルーマン
トルーマン

・・・!これで原爆が実戦投入できる!!

上手く使えば、ソ連に頼らなくとも日本を降伏に追い込めるかもしれん!!

ポツダム会談に参加したのは、アメリカ・イギリス・ソ連の3国。

議論のメインになったのは、ドイツや東欧の戦後処理の話で、イギリスとソ連が激しく対立しました。

トルーマンは、強硬な交渉姿勢を崩さないソ連を見て、次第に原爆投下のカードを切ることを検討し始めます。

トルーマン
トルーマン

ソ連が対日本戦に参戦すれば、その見返りとしてソ連が東アジアで勢力を拡大することは必須だろう。

おまけに日本は、6月からソ連と交渉し、ソ連の仲介によって連合国との和平に向けて動いているとの報告が入っている。

もし、ソ連仲介による和平が成立してしまえば、ソ連はその代償として、東アジアに大きな影響力を持つようになる。

つまり、このまま事態を放っておけば、いずれにしてもソ連に利することになる。

ならば、一刻も早く原爆を投下して、ソ連が関与する前に日本を降伏に追い込むべきではないか・・・!?

最終的に、トルーマンは原爆投下を決断し、アメリカでは原爆投下に向けた準備が開始されます。

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ポツダム宣言

原爆は、たった一発落とすだけ都市を壊滅させるほどの破壊力を持っていて、普通の空爆のようにポンポンと落とせる爆弾ではありません。

そこでトルーマンは、原爆を投下するには『アメリカだって原爆は使いたくないけど、戦争を終わらせるために仕方なく使った!』という大義名分が必要だと考えました。

トルーマン
トルーマン

大義名分がないまま原爆を使えば、アメリカ国内はもちろん、国際社会からも批判を受けかねないからな。

さらにトルーマンは、ポツダム会談はその大義名分を得る絶好のチャンスとも捉えていました。

ポツダム会談の中で、日本に対して降伏を求める声明を発表して、日本が降伏を拒否すれば、それが原爆投下の大義名分になる・・・と考えたのです。

もぐたろう
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日本が降伏を拒否すれば『本当は原爆を使いたくないんだけど、日本が降伏を拒否したから、仕方なく原爆を投下した!』と原爆投下を正当化することができたわけです。

さらに、ソ連の対日参戦が8月に迫っていたので、ソ連が動く前にケリをつけるには時間的な余裕もなく、ポツダム会談の場で、日本に対して降伏要求をしておく必要があったのです。

このアメリカの思惑はすぐに実行に移され、7月26日、日本に対して無条件降伏を求める宣言(ポツダム宣言)が発表されました。

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ポツダム宣言の内容

ポツダム宣言の内容はザックリと次のようなものでした。

日本は次の条件を受け入れて降伏せよ。

  • 軍国主義の除去
  • 日本国領土の占領
  • カイロ宣言の実行(満州・台湾・南洋諸島・朝鮮の支配権の喪失)
  • 軍隊の完全な武装解除
  • 戦争犯罪人の厳重処罰、民主主義の確立
  • 賠償の実施と平和産業の確保

もし、日本がこの降伏を受け入れないのならば、日本には迅速かつ完全なる破滅が待っているのみである。

・・・実はこのポツダム宣言の内容、日本が拒否するよう意図的に作られたものでした。

すでに紹介したように、当時、日本ではソ連を仲介とした連合国への降伏が議論されていました。

当時、日本はソ連と日ソ中立条約を結んでいたので、ソ連なら仲介に応じてくれるはず・・・と考えていたのです。

・・・ただ、実際には、ヤルタ会談の話で紹介したように、ソ連はアメリカとドイツ降伏から3ヶ月後に日本へ侵攻することを約束していました。

その議論中で、日本が絶対に譲れない条件が『天皇制の維持』だったのです。

なので「天皇制の存続に触れていないポツダム宣言を日本が受け入れることはあり得ないだろう・・・」とトルーマンは考えており、アメリカでは、日本の反応を待たずに原爆投下の準備が進められました。

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日本の対応

7月28日、当時日本の首相だった鈴木貫太郎は、ポツダム宣言について次のように発表しました。

ポツダム宣言を黙殺し、戦争の完遂に邁進する

日本政府は、ソ連との交渉を最期まで続けるため、ポツダム宣言に応じるとも拒否するともはっきり答えずに、「黙殺(無視する)」と答えることで時間を稼ぐ作戦でした。

・・・が、アメリカは日本の黙殺発言は、ポツダム宣言を拒否するものとみなしました。

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原爆投下・ソ連対日参戦

日本政府の黙殺発言によって、アメリカは原爆投下作戦を実行に移します。

8月6日に広島へ、その3日後の8月9日には長崎へ原爆が投下。たった二発の攻撃で約20万人以上の命が奪われました。

さらに、原爆が長崎に投下されたのと同じ8月9日、ソ連が日本への侵攻を開始します。(ソ連対日参戦)

日本
日本

・・・謀ったなソ連め!

日本と和平交渉をしている裏で、アメリカと繋がっていたのか!

これではソ連を仲介にして連合国と和平を結ぶ・・・など夢のまた夢の話ではないか!!

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ポツダム宣言受諾→玉音放送

原爆の投下、そしてソ連を通じた和平交渉の可能性がなくなったことで、政府内では「ポツダム宣言を受諾すべきではないか」との議論が一気に強まります。

そして8月14日、議論が煮詰まると昭和天皇が、ポツダム宣言受諾を決断(聖断せいだん)。

もぐたろう
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日本は、最後まで「天皇制の存続」にこだわり続け、ポツダム宣言受諾の際も、アメリカに対して天皇制を廃止しないことを要求しました。

翌日の8月15日、戦争が終わったことを全国民に知らせるため、昭和天皇の肉声によるラジオ放送が行われました。(玉音放送ぎょくおんほうそう

玉音放送を聞いた各地の日本兵たちは、戦闘を停止。

そして9月2日、日本は降伏文書の正式にサインをして、太平洋戦争は終戦することになります。

※日本では、玉音放送が流された8月15日を事実上の終戦とみなして、8月15日のことを終戦の日(終戦記念日)と呼んでいます。

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確認問題

答:③鈴木貫太郎

答 ④→③→②→①

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この記事を書いた人
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