大西洋憲章を簡単にわかりやすく解説するよ【目的・内容をバッチリ抑える!】

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大西洋憲章
もぐたろう
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今回は、1941年8月に定められた大西洋憲章たいせいようけんしょうについて、わかりやすく丁寧に解説していくね!

この記事を読んでわかること
  • 大西洋憲章ってなに?
  • 大西洋憲章はなぜ作られたの?
  • 大西洋憲章はどんな内容だったの?
  • 大西洋憲章は世界にどんな影響を与えたの?
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大西洋憲章とは

大西洋憲章とは、イギリスとアメリカ間で『第二次世界大戦が終わった世界はどうあるべきか』を話し合い、まとめたものです。

1941年8月に大西洋の艦上で話し合いが行われたので、「大西洋憲章」と呼ばれています。

話し合いに参加したのは2名。

アメリカのローズヴェルト大統領と、

イギリスのチャーチル首相

です。

フランクリン=ローズヴェルト大統領
ローズヴェルト大統領
チャーチル首相
チャーチル首相

当時は、ドイツがヨーロッパ一帯を手中に収めており、1641年6月からソ連との戦争を始めているところでした。(独ソ戦

もぐたろう
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ヨーロッパでドイツに対抗しうる大国は、もはやイギリスしか残されていませんでした。

他の多くの国は、ドイツに占領されたか、ドイツに味方している、あるいは中立の立場でした。

この状況にイギリス・アメリカは強い危機感を抱きます。

イギリス
イギリス

孤立無縁のままドイツに対抗するのは無理ゲー。アメリカの助けがないと詰むんだが・・・。

アメリカ
アメリカ

イギリスがやられたら、次は俺がターゲットにされる。今のうちになんとかしてイギリスを助けなければ・・・

民主主義とファシズムの対立

第二次世界大戦は、見方を変えれば政治的イデオロギー(政治的思想)の対立による戦争と見ることもできます。

民主主義を採用する国

代表的な国:アメリカ・イギリス

社会主義を採用する国

代表的な国:ソ連

ファシズムを採用する国

代表的な国:ドイツ・イタリア・日本

民主主義VS社会主義VSファシズムの三つ巴の戦いの中、

イギリスとアメリカが連携を深め、ファシズムと戦う大義名分を世界に示すために作られたのが大西洋憲章でした。

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大西洋憲章が作られた時代背景

大西洋憲章が作られた時代背景を理解するため、まずは、アメリカとイギリスの当時の状況をおさらいしておきましょう。

イギリスの状況

第二次世界大戦が始まったのは1939年9月、ドイツのポーランド侵攻がきっかけでした。

ドイツがポーランド侵攻を開始すると、イギリスがすぐにドイツに対して宣戦布告。こうしてイギリスも第二次世界大戦に参戦することになります。

しかし、序盤はイギリスとドイツが直接戦うことはありませんでした。

第二次世界大戦初期のドイツは東ヨーロッパ(東欧とうおう)に侵攻中だったし、

地理的にもドイツとイギリスの間にはフランスがいるので、直接対峙することはなかったのです。

・・・が、1940年に入ると、ドイツは西ヨーロッパへの侵攻を本格化します。

デンマーク・ノルウェー・ベルギー・オランダなどを次々と攻略し、1940年6月にはフランスが降伏。

フランスを制圧したドイツは、次のターゲットをイギリスに定めます。

ドイツの因縁の相手、イギリスとフランス

ドイツにとって、イギリス&フランスは因縁のある相手でもありました。

ドイツは第一次世界大戦で敗北した際、勝者のイギリス・フランスに巨額の賠償金を背負わされ、さらに勝者に有利な世界秩序「ヴェルサイユ体制」に飲み込まれ、特に経済面で苦渋くじゅうをなめさせられていました。

そんな中、1929年に世界恐慌が起きると、経済基盤が脆弱だったドイツは経済を再建することができず、多くの国民が苦しむことになります。

そこで人々の期待を背負って登場したのが、ヒトラーでした。

ヒトラーはその強力なカリスマ性で、ドイツ民族を一致団結させ、ドイツの足枷となっていたヴェルサイユ体制の破壊を試みますが、そのために倒すべき敵だったのがイギリス&フランスだったのです。

1940年7月、ドイツ軍がイギリスへの侵攻を開始。

激しい空中戦が行われましたが、イギリスはドイツ軍の撃退になんとか成功しました。

・・・が、イギリスには単独でドイツを倒せるほどの力はなく、ヨーロッパにはイギリス以外にドイツに対抗できる国は残っていません。

イギリス
イギリス

ドイツが何度も攻めてきたら、いつまで耐え切れるかわからん・・・。早く仲間を見つけなければ!

イギリスは、勝利の活路を見出すため大国アメリカに助けを求め、アメリカの参戦を期待するようになります。

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アメリカとイギリスは、政治体制が一緒(民主主義)だし、良くも悪くも歴史的に深い結びつきを持っていたから、イギリスがアメリカに接近しようとしたのは自然な成り行きでもありました。

アメリカの状況

一方のアメリカでは、イギリスを助けるべきかどうか意見が2つに分かれていました。

アメリカは、1823年にモンロー大統領がモンロー教書で掲げたアメリカは他国に干渉することも、干渉されることもない孤独を貫く!という方針(モンロー主義)を第二次世界大戦当時も採用していました。

さらに、国民からは「他国のために戦場で若い青年の命奪われるなんて絶対ダメ!!」という参戦に反対する声も根強くありました。

しかし、この時大統領だったローズヴェルトはそうは考えませんでした。

ローズヴェルト
ローズヴェルト

イギリスがやられれば、ドイツはアメリカを次のターゲットにするはずだし、アメリカが戦争を免れることはできないだろう。それだったら、今のうちにイギリスを助けて最悪の事態になることを防ぐべき。今こそモンロー主義を転換しなければ・・・!

・・・とはいえ、ローズヴェルト大統領も世論を無視することはできません。

ローズヴェルトはひとまず、1940年3月に武器貸与法ぶきたいよほうという法律を作って、イギリスへ武器を貸し出すことにして、間接的にイギリスを支援することにしました。

・・・が、ローズヴェルトができたのはここまで。イギリスを直接支援するには、国民を納得させるような大義名分と、参戦するためのきっかけが必要でした。

そして、大義名分を掲げるための一環として作られたのが大西洋憲章だったのです。

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大西洋憲章の内容

1941年8月9日、ローズヴェルトとチャーチルは、ドイツから攻撃を受けないよう、秘密裏に大西洋上で会談を開きました。

話し合われたテーマは「戦後に目指すべき世界平和のあり方」

アメリカ&イギリスは、俺たちが第二次世界大戦に勝てば、世界は平和になるよ!ってことを世界に発表して、『第二次世界大戦は世界平和のための戦争』という大義名分を掲げようとしました。

話し合いはすぐにまとまり、8月14日にはローズヴェルトとチャーチルの共同声明として、大西洋憲章が発表されました。

内容はザックリとこんな感じの内容でした↓↓

大西洋憲章の内容
  • 1.アメリカ&イギリスは、戦争での領土拡大は求めない。
  • 2.アメリカ&イギリスは、全ての人たちが民族自決することを希望する。
  • 3.アメリカ&イギリスは、国の大小・勝敗にかかわらず、世界で自由で開かれた貿易が実現するよう努力する。
  • 4.アメリカ&イギリスは、世界中の人々が恐怖と欠乏から解放された平和の確立を希望する。
  • 5.武力によらない新しい平和の仕組み(安全保障システム)を確立する。
もぐたろう
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受験勉強では、大西洋憲章の内容まで覚える必要はないけど、『大西洋憲章は、戦後に目指すべき世界平和の理念をまとめたもの!』という点は重要なので覚えておきましょう。

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大西洋憲章が世界に与えた影響

ドイツを嫌う国々は大西洋憲章にすぐさま賛同し、社会主義国のソ連までもが大西洋憲章を支持しました。

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ソ連は、アメリカ&イギリスと協力するために、1943年5月に両国が嫌っていた共産主義を目指した世界組織「コミンテルン」の解散にまで踏み切りました。

1942年1月には、ソ連を含む26カ国が、大西洋憲章をベースにした連合国共同宣言を発表して、連合国の一致団結を図りました。

戦争の大義名分を作り出すことに成功したローズヴェルトは、アメリカ参戦のタイミングを虎視眈々と狙いました。

国民を戦地に送り込むためには、大義名分だけでなく、些細なことでも構わないので「流れ弾で船が沈められた!」とか「戦地に住んでいたアメリカ人が誤爆で殺された!」とか、もっとアメリカにとって直接的なきっかけも必要だったのです。

1941年12月、アメリカが参戦する絶好のチャンスがやってきます。

ドイツと同盟関係にある日本が、アメリカの真珠湾(パールハーバー)に奇襲攻撃を仕掛けたのです。(真珠湾攻撃

ルーズベルト
ルーズベルト

時はきた!このタイミングなら国民が戦争に反対することはない。

第二次世界大戦に参戦するタイミングはここだ!

アメリカは、日本・ドイツにも宣戦布告し、ついにイギリスが望んでいたアメリカの参戦が実現したのです。

真珠湾攻撃の報告を受けたチャーチル首相は、「われわれは勝った」と叫んだとも言われています。

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現代にも残っている大西洋憲章の理念

連合国サイドが第二次世界大戦に勝利すると、大西洋憲章の理念の一部は実現することになります。

武力行使によらない新しい平和の仕組みとして国際連合

自由な世界貿易のためにGATT(関税及び貿易に関する一般協定)が組織され、

イギリスはアフリカ・東南アジアに持っていた広大な植民地を解放しました。

チャーチルの苦渋の決断

チャーチルは、もともと大西洋憲章で掲げられた民族自決の理念には反対でした。

なぜなら、民族自決を認めてしまうことは、イギリスが植民地を支配することを否定することに繋がってしまうからです。

しかし、ローズヴェルトは民族自決の理念を譲らず、チャーチルは戦争に勝つためにしぶしぶ民族自決の理念を認めました。

イギリスは、第2次世界大戦が終わった後、植民地支配を再開しようと試みますが、ドイツや日本にフルボッコにされたイギリスにもはや植民地を支配する力は残されていません。

イギリスは、アフリカや東南アジアの独立運動に対抗できず、長年築き上げてきた大英帝国の植民地を手放すことになるのです。

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もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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