今回は、1936年に日本とドイツの間で結ばれた日独防共協定について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
あわせて、翌年(1937年)に結ばれた三国防共協定についても紹介します。
日独防共協定とは
日独防共協定とは、国際的に孤立していた日本とドイツが連携を深めるために結ばれた協定です。
表向きは、「日本とドイツは、共産主義が自国に広がるのを防ぐ(防共)ために協力する」という内容でしたが、裏では複雑な思惑や駆け引きがありました。
この記事では、教科書だけではわからない裏事情も交えながら日独防共協定について解説していくね!
日独防共協定が結ばれた時代背景
繰り返しになりますが、日独防共協定が結ばれた背景には、日本とドイツが国際社会から孤立していた・・・という大きな時代背景があります。
ここでいう「国際社会から孤立」っていうのが具体的にどんな状況かというと、ヴェルサイユ・ワシントン体制からハブられた状況のことを言います。
日本がハブられた理由
日本は1933年に、ワシントン体制のルールをガン無視して満州国を建国。
1933年3月、リットン調査団による調査を経て国際連盟を脱退しました。
ドイツがハブられた理由
ドイツでは1933年1月に独裁国家樹立による国家改革を目指したヒトラーが首相となります。
ヒトラーは、ヴェルサイユ体制のルールを無視して軍備の増強や領土拡大を計画。1933年10月、ドイツは国際連盟を脱退しました。
日本とドイツが国際連盟を脱退したのは、決して偶然ではありません。
なぜなら、そもそもヴェルサイユ・ワシントン体制は、ドイツと日本にとって不利になるよう作られた体制だったからです。
ヴェルサイユ体制では、第一次世界大戦の敗戦国となったドイツに多額の賠償金を課したり軍備拡大を禁止したりと、ドイツに厳しい制約が課されました。
ワシントン体制では、日本の中国進出を恐れたアメリカが、日本が勢力を拡大できないようルールを作りました。
こうした状況の中で1929年に世界恐慌が起こります。
ハンデを背負っていた日本・ドイツはこれにうまく対処することができず、軍事や領土拡大によって経済を立て直そうと考えましたが、そのためにはヴェルサイユ・ワシントン体制から抜け出す必要があったのです。
国際社会から孤立してしまったドイツと日本が協力関係を構築するために結ばれたのが、今回紹介する日独防共協定になります。
日独防共協定が結ばれるまでの経過
実は日本とドイツ、もともと仲が良くありません。
なぜなら、第一次世界大戦のとき、中国の山東半島をめぐって両国は戦争をした過去があったからです。
そのため、日本・ドイツともに国内に日独防共協定に反対する者が多く、交渉は難航します。
交渉が始まったのは1935年1月ころ。
そして9月には協定の案がまとまりました。
ごめん!ちょっと待ってほしいわ。
協定と言っても、日本とドイツはいったいどんな内容の協定を結ぼうとしたの?
漠然としすぎててよくわからないのだけれど・・・。
当時、日本とドイツは、共通するとても大きな悩みを抱えていました。
・・・それは、ソ連との戦争に備えた対策です。
ソ連は、日本とドイツを仮想敵国とみなしており、日本・ドイツはソ連の侵攻を強く恐れていました。
そこで、日本とドイツは、ソ連に対抗することを目的として協定をまとめあげることにしました。
・・・が、1935年11月、交渉が一時中断となります。
原因は、1935年10月に起きたイタリアによるエチオピア侵攻です。
イタリアとエチオピアの戦いを終わらせようとイギリスとフランスが仲裁に入ると、これにドイツが敏感に反応したのです。
当時、孤立していたドイツの同盟国候補は、日本とイタリアでした。
当時のイタリアは、ムッソリーニによる独裁国家でした。
ドイツは、同じ独裁国家同士、協力関係を結べると考えていたんだよ。
もし、イギリス・フランスの仲裁が成功して、イタリアがイギリス・フランスと組むことになれば、ドイツは数少ない同盟国候補の1つを失うことになります。
やばいぞ・・・。イタリアをなんとか俺の方に繋ぎ止めなければ!!
一度、日本との関係も含めて外交政策を見直し、新しい策を考えねば・・・。
こうして、交渉は一時ストップ。
両国では、協定に反対する声も強まり、協定締結の雲行きが怪しくなっていきます。
日本では、陸軍がドイツ推しだったのに対して、外務省がこれに反対。
ドイツでも、国防軍が日本推しだったのに対して、外務省はこれに反対していました。
日独防共協定、締結へ
暗礁に乗り上げてしまった日独防共協定ですが、1936年7月に交渉が再開します。
ドイツでは、外務省と国防軍の駆け引きの末、日本との交渉を継続することが決定。
一方の日本では、1936年2月に起きた二・二六事件をきっかけに政治への介入を強めた陸軍が、ドイツとの交渉を進めることを決断。
その後は、順調に交渉が進み、1936年11月、日独防共協定が結ばれました。
日独防共協定の内容
公表された日独防共協定の内容は、だいたい次のようなものでした↓↓
ここまでの内容は、あくまで公表した内容。
日独防共協定には、非公開とされた秘密協定もあり、それはおおむね次のような内容でした。
秘密協定では、隠す必要がないので「コミンテルン」ではなく「ソ連」を対象とした協定内容になっているよ。
日独防共協定の大事なポイントの1つは、上記「公表された日独防共協定の内容」の2番で紹介したように、将来的に日本・ドイツ以外の国も参加できる協定だったという点です。
日独防共協定は、内容こそソ連に関するものですが、もともとのスタートは「国際的な孤立を避けたい」という日本・ドイツの思惑から始まっています。
ドイツと日本(特にドイツ!)は、他にヴェルサイユ・ワシントン体制からハブられた国があったら、そのような国も仲間に引き入れたいと思っていました。
つまり、ヴェルサイユ・ワシントン体制からハブられた国の受け皿として日独防共協定を利用できるよう協定内容を作り込んだのです。
まとめると、
ソ連を敵とみなす国が多かったから、共通の敵をテーマにした協定を作り上げることで、ヴェルサイユ・ワシントン体制からハブられた国同士で新しい仲間を作ろうとしたのが日独防共協定が結ばれた裏の理由の1つだったというわけです。
実際、ドイツはソ連のことを警戒していたものの、イギリス・フランスにも敵対心を持っており、イギリス・フランスとの関係が変化すれば、ソ連に対する外交方針を変える可能性も残されていました。(例えば、ソ連と協力してイギリスに抵抗する・・・とかね?)
一方の日本は、「満州国をソ連に奪われるのではないか?」との危機感から、日独防共協定を純粋にソ連対策として考えていました。
この両者の認識の違いは、後で紹介する1939年のある出来事へと繋がっていくことになります。
日独防共協定から三国防共協定へ
日独防共協定が結ばれた翌年(1937年)、さっそくヴェルサイユ・ワシントン体制からハブられた国が現れました。
その国の名は・・・、イタリア。
イタリアはエチオピア侵攻に成功したものの、国際連盟から経済制裁などを受けることとなり、国際連盟から脱退し、ドイツ・日本の仲間入りをする事を決意。
1937年、イタリアが日独防共協定に加入し、協定は(日独伊)三国防共協定へと進化することになりました。
日独防共協定(三国防共協定)の終わり【独ソ不可侵条約】
・・・ところが!三国防共協定は、突如として終わりを告げることになります。
1939年8月、ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだのです。
ドイツは、ポーランドへの侵略戦争を開始するため、ソ連との関係を修復させてイギリスらに対抗しようと考えていたんだよ。
ドイツは独ソ不可侵条約を結んだ翌月(9月)に、実際にポーランド侵攻を開始。このポーランド侵攻がきっかけとなり、世界は第二次世界大戦へと突入していきます。
独ソ不可侵条約は、ドイツとソ連が互いに侵略行為をしないことを約束。これは日独防共協定の秘密協定にあった「日本・ドイツは、相互の同意なくしてソ連と日独防共協定に反した内容の条約を結ばない」という約束に反するとして、日本はドイツを非難。
三国防共協定は廃止にこそならなかったものの、ドイツとソ連がタッグを組んだことで、効力を持たない形だけの協定になってしまいました。
第二次世界大戦に突入すると情勢が再び変化し、日本・ドイツ・イタリアの3国が、形骸化した三国防共協定を発展させて軍事協力を強化した日独伊三国同盟を結成。
日本・ドイツ・イタリアは、イギリス・アメリカ・ソ連らと戦いますが、1943年にイタリアが戦線から離脱。
1945年にはドイツと日本の敗北が決定し、日独伊の協力関係は完全に崩壊することとなりました。
コメント