今回は、鎌倉時代の武士たちが生活や戦いのために組織として団結した制度「惣領制」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
また、惣領制と密接に関係のある分割相続の習慣についてもお話ししていくよ!
惣領制とは
惣領制とは、鎌倉武士たちが組織として団結して行動するための組織体制のことを言います。
具体的にどんな体制だったのかというと、血縁で繋がれた一族で団結し、一族の中の一番有力な家の長がトップに立って一族をまとめる体制でした。
「一族の中で一番有力な家の長」のことを惣領と呼んだので、この体制のことを惣領制と言います。
※惣領は、家督と呼ばれることもあります。さらに、鎌倉幕府の支配者だった北条一族では、惣領のことを得宗と呼びます。
惣領制の仕組み
下図を使って惣領制について紹介していきます。
図を内容を、上から順番に解説していくよ
鎌倉幕府との関係
惣領は、一族を代表して、将軍と御恩と奉公の関係を結んでいました。
惣領は、一族の力によって鎌倉幕府に貢献すれば、御恩として地頭に任命されて、新たな所領の管理権を手に入れることができました。
しかし、これは言い換えると、一族みんなで頑張っても直接幕府から褒美をもらえるのは、一族を代表する惣領だけ・・・ということです。これでは、一族の人々は納得いきませんよね。
俺たちだって頑張ったんだから、送料だけで褒美を独り占めするなんて絶対に許さないぞ!!
そこで惣領は、御恩として与えられた所領の管理権などを、一族のみんなに分割して与えることにしました。
惣領は、将軍からもらった御恩を、本家への貢献度に応じて一族内に分け与えることで、人々が惣領に従うモチベーションを保たせようと考えたわけです。
※本家:惣領が属する一族内で一番有力な家のこと。宗家とも言う。
本家・分家・庶子
血縁で結ばれた一族のうち、本家以外の人々のことを庶子を言います。
例えば、惣領に5人の子供がいたとすれば、そのうちの1人が次の惣領に選ばれ、残りの4人は庶子の扱いとなります。
そして、庶子に新しい家族ができると、その家のことを分家と呼びました。
分家や庶子は、惣領から褒美をもらうため、基本的に惣領とは主従関係にあると同時に、惣領と分家・庶子の関係は、一族ごとに実に多種多様なものでした。
中には、惣領に不満を持つ分家・庶子も多くいたはずです。そして、不満を持つ分家・庶子の中には謀略や謀反を企てたケースもあったことでしょう。
現代でも、一言に家族といっても、家庭のあり方は人それぞれです。それと同じように本家と分家・庶子の関係も、基本的には主従関係ではありますが、一言では言い表せない多様な関係にありました。
郎党と下人・所従
本家・分家・庶子の下には、郎党や下人・所従と呼ばれる部下たちがいました。
郎党と下人・所従には、分家・庶子と違って惣領との血縁関係は必要ありません。
郎党
本家・分家・庶子に従う、戦闘に特化した人々のこと。
本家・分家・庶子が、郎党たちに生活基盤を与える代わりに、郎党は本家・分家・庶子の軍事力として活躍しました。
下人・所従
各家に従えた奴隷的存在の人々。
田んぼや畑を耕すなど、日々の雑多な仕事をしていました。補助的に戦闘に参加することはありましたが、戦闘に特化した郎党のような強さはありませんでした。
相続分割
惣領が、将軍からもらった御恩を分家・庶子へ分割するのと同様に、惣領が亡くなった後の相続も分割相続が基本でした。
分割相続は、何かのルールに基づいて行われているものではありません。武士たちの間で、自然と分割相続の習慣が現れてきたのです。
多くの武士がひしめいていた鎌倉時代初期の関東は、未開の地が多く、その地を田畑にするのに多くの労働力を必要としていました。
さらには、平安時代末期頃から武士たちによる所領争いが激しくなり、土地を守るための兵力を増強する必要にも迫られていました。
そのような中、武士たちは、各々自分勝手に行動するのではなく、大規模な組織として行動することを求められるようになりました。そこで、武士たちが組織として団結するために利用したのが血縁関係です。
血縁関係というのは、生物が集団行動をするための基本的な原理です。武士たちもそのような生物の本能に従ったのでしょう。
こうして登場したのが、今回紹介している惣領制であり、惣領が一族を団結させる上で行われたのが分割相続でした。
惣領制と分割相続の組み合わせによって、一門は惣領の下でしっかりと団結し、そこに平和と秩序がもたらされました。
さらに言えば、分家・庶子を従える惣領と鎌倉幕府が御恩と奉公による主従関係で結ばれることで、鎌倉幕府を頂点として全国の武士が統率されることになります。
つまり、惣領制と御恩と奉公の仕組みのおかげで、武士社会全体に平和秩序をもたらされましたとも言うことができます。(こうした制度を新しく創り上げたのが、あの有名な源頼朝です)
※逆に言えば、惣領制が崩れると、鎌倉幕府もメチャクチャになると言うことでもあります。
武士たちの生活【流鏑馬・笠懸・犬追物・巻狩】
武士たちは、惣領に功績を認めてもらい、褒美(所領など)をたくさんもらうことで、一家の繁栄を目指すことを生き甲斐にしていました。
そして、ここでいう「功績」というのは、各地で起こる戦闘や、京や鎌倉の警護など、軍事力を必要とするものばかりでした。
そこで武士たちは、常に自らの武勇に磨きをかけるため、様々な訓練を行っていました。
訓練の中でも、教科書に掲載されている有名なものが流鏑馬・笠懸・犬追物・巻狩です。
それぞれ、簡単に紹介しておきます。
流鏑馬
疾走する馬の上に乗って木製の的を弓矢で射る、騎射の訓練。訓練というよりも、武士たちの儀式的な意味合いが強く、今も日本の伝統文化の1つとして各地で行われています。
笠懸
流鏑馬と同じく、疾走する馬上から、的を射抜く訓練。当初は、笠を的にしたことから笠懸と呼ばれるようになったと言われています。
儀式的だった流鏑馬に比べて、的の位置や馬の走らせ方の自由度が高く、より実践的な訓練でした。
犬追物
走っている犬を、馬上から射抜く訓練。儀礼的な意味合いもあったようですが、動くものを射抜くという点で、これも実践的な訓練でした。
巻狩
広い野原などで、集団で獣(猪や鹿など)を追い詰めて狩る訓練。集団による連携プレイを鍛えるのに役立ちました。
こうして見ると、当時の戦いでは馬上からの弓攻撃がとても重要だったことがわかります。
武士たちは、流鏑馬などを通じて鍛錬を怠らず、とてもストイックな生活をしていました。
武士たちの生活は、質素であることでも有名です。執権として権力を握った北条時頼には、「味噌をつまみにしてお酒を飲んだ」という逸話まで残されています。
分割相続の部分でお話ししたように、惣領は分家や庶子たちの団結があって初めて平和な生活をすることができました。
こうした平和秩序を保つには、権力者だからといって分家・庶子を差し置いて豪華絢爛な生活をすることは許されず、北条一門であっても質素な生活を求められていたのです。
武家のならい・兵の道・弓馬の道
こうしたストイックand質素な生活のなかで、武勇を重んじ主人に身を尽くし、一門の誇りを汚す恥を嫌う、武士特有の道徳感が武士たちの心の中に芽生えてきます。
この道徳感は、「武家のならい」「兵の道」「弓馬の道」と呼ばれるようになり、今でいう武士道の起源となりました。
惣領制の崩壊=鎌倉幕府の滅亡
鎌倉幕府の平和に大きな貢献をしてくれた惣領制ですが、鎌倉時代末期になると、惣領制崩壊の兆しか見えてきます。
理由は、大きく2つ。それぞれ、簡単に紹介して、惣領制の解説の最後にしようと思います。
分割相続の崩壊
数世代にわたって相続分割を続けると、一人当たりがもらえる相続分が、どんどん少なくなっていきます。
Aさんが持つ100の所領を、子供2人(Bさん・Cさん)に平等に分けたとしたら、1人あたりの相続は50。
そして、Bさんがその50を子供の(Dさん・Eさん)に分けたら、D・Eがもらえるのは25の所領。
さらにDさんの子供が・・・、と繰り返していくと、一人当たりがもらえる所領が少なくなって、生活できなくなっていきます。
こうして、惣領制を支えていた分割相続が機能しなくなっていた(分家・庶子が、相続のために惣領に従う必要が薄れてきた)のが理由の1つ目。
御恩と奉公の仕組みが崩壊
時代が進むにつれ、関東の未開の地は開発され尽くし、承久の乱以降、所領を奪う敵もいなくなったため、御恩として惣領に与えらえる所領が減っていきました。
※実際に、元寇(文永の役・弘安の役)の際には、褒美をもらえない御家人が多くいたと言われています。
御恩がもらえなくなると、惣領は分家・庶子をまとめることができなくなります。
惣領は鎌倉幕府の言うことを聞く必要がなくなり、分家・庶子は惣領の言うことを聞く必要がなくなりました。こうして、人々の統率が失われていきました。
さらに、鎌倉時代末期になると、鎌倉幕府の要職や御恩としてもらえる所領を北条一門が独占するようになり(得宗専制政治)、御恩と奉公の関係は完全に崩壊してしてしまいます。これが理由の2つ目。
惣領制が崩壊して統率のなくなった鎌倉幕府では、次第に権力を独占する北条氏への不満が溜まり、後醍醐天皇の一声をきっかけに不満が爆発し、鎌倉幕府は滅亡していくことになります。
惣領制は鎌倉幕府を支える重要な仕組みだったため、惣領制の崩壊は、そのまま鎌倉幕府滅亡へと繋がっていきました。
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