薬子の変とは。超わかりやすく解説【平城上皇と嵯峨天皇の戦い】

saga

【↑嵯峨天皇】

前回は、802年に坂上田村麻呂とアテルイ無双の話を2記事に渡ってしました。

その4年後の806年、桓武天皇が亡くなり、次期天皇は平城(へいぜい)天皇となり、新しい時代がやってきます。

今回は、平城天皇とその次に天皇となった嵯峨天皇の話をします。

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平城天皇、怨霊にビビって天皇を辞める

平城天皇は、桓武天皇のような大胆不敵な人物でなく、かなり几帳面・神経質で癇癪持ちであったと言われています。

平城天皇の治世は、たった3年。病に伏し、怨霊を恐れた平城天皇は嵯峨天皇へ譲位します。

ここでいう、怨霊とは、早良(さわら)親王伊予(いよ)親王のことを指します。

早良親王は、本来、平城天皇の代わりに天皇になるべき人物(皇太子)でしたが、政変に巻き込まれ命を落とした人物です。

早良親王(怨霊)「天皇は私だ!代わりに天皇となった平城など祟ってやるわ!」

(早良親王について知りたい方は、桓武天皇はなぜ平安京を造った!?あまり知られていないその理由をどうぞ!)

伊予親王も、似た境遇を辿ります。伊予親王は、桓武の息子であり、平城天皇から見ると母違いの兄弟でした。

平城天皇は、伊予親王を皇位簒奪を企てたとして排除します。

そして、自ら排除した伊予親王の怨霊にも苦しむことになるのです。

平城天皇は、即位当初は、官僚制度の改革や経済の再興(当時、平安京遷都や東北遠征で民が疲弊していた!)のため熱心に行動しますが、早良・伊予のダブル親王の怨霊を恐れ次第に、政務から離れ、遂に809年、嵯峨天皇への譲位を決断します。

平城「祟られまくって天皇を続けるのもう無理!譲位するから嵯峨天皇よろしく!

また平城京に遷都するわ!暗躍する藤原薬子(ふじわらのくすこ)

平城天皇は、嵯峨天皇に譲位し上皇となった後、側近たちを連れて平城京へと居場所を移します。

なぜ平城京へ移動したのか?裏には平城上皇の側近の藤原薬子の存在がありました。

藤原薬子は、平城天皇の側近として権勢を振るいたかったため、そもそも嵯峨天皇への譲位には否定的でした。

藤原薬子は、再び権勢を振るうため、平城上皇を再び天皇としようと画策します。(最近では、むしろ平城上皇から持ち掛けたという説が有力になってきていて薬子の変も「平城太上天皇の変」と言ったりするそうな)

最初から譲位なんかしなきゃいいのに・・・と個人的には思いますが、平城天皇が癇癪持ちで気分に流されやすい性格だったとすれば、譲位したのもわからなくはない。

そして、譲位した翌年の810年9月6日、遂に嵯峨天皇を無視して平城京遷都の命令を下します。

薬子の変 -平城上皇VS嵯峨天皇-

嵯峨天皇は、即位してからずーっと、平城上皇の動向が気になっていて、注目していました。そして即位1年後の810年9月の平城上皇による平城京遷都の詔勅(天皇が公に意思を表明する文書。当時は上皇でも出すことができた。)を受け、遂に嵯峨天皇はブチ切れます

嵯峨天皇「平城上皇と藤原薬子の野郎、絶対許さんぞ!!!

怒り心頭だったでしょうが、嵯峨天皇の対応は冷静沈着そのものでした。

「平城京へ造営使を派遣しろ」と平城京からの命令が下ります。嵯峨天皇は、内心怒りながらもこれに従い、坂上田村麻呂などを派遣します。派遣に応じたのは、平城に屈服したからではなく、平城京にいる平城天皇の様子を探るためです。

そして詔勅があってから4日後、嵯峨天皇は態度を一変、平城京遷都の拒否し平城と争うことを決断。平城が逃走しないよう関所などの封鎖を命じ、平城京に送り込んだ坂上田村麻呂に対しても平城上皇を平城京内に抑え込むよう指示を出します。

平城上皇は嵯峨天皇の行動に気付きましたが、時すでに遅し。平城上皇と藤原薬子は、嵯峨天皇に包囲されたことを知り、東国で兵を集め反撃しようと思いますが、嵯峨天皇に関所を封じられ坂上田村麻呂に逃亡を阻止され、降伏し平城京へ戻ることにしました。

天皇復帰の希望を絶たれた平城上皇とその側近の藤原薬子。平城上皇は出家し政界から離れ、藤原薬子は自らその命を絶ちます。

こうして、平城上皇と嵯峨天皇の争いは収まりました。嵯峨天皇の、冷静な判断が輝いていますね。

この薬子の変、出来事自体はそんな面白くないんだけど、天皇制の在り方という視点で見ると歴史的に大きな出来事だったんです。(だから教科書にも載ってるんだと思う。多分・・・)

天皇と上皇はどちらが権力者か?

薬子の変の根本にあるのは、天皇と上皇という日本特有の2重権力構造です。

この時代、天皇は、天照大神の子孫であることをもって神格化され日本のトップに君臨しています。なので、天皇は他の人に譲位したからといって、ただの人に戻るわけではありません。天照大神の子孫には変わりないのですから。

そのため、上皇は譲位後も莫大な権力を有しており、度々天皇と対立をしてきました。

例を挙げると、

・飛鳥時代の皇極上皇と孝徳天皇
(詳しくは、第2次世界大戦に次ぐ日本史上の大敗、白村江の戦いの最初の方)

・奈良時代の孝謙上皇と淳仁天皇
(詳しくは、誰でもわかる面白い藤原仲麻呂の乱【孝謙上皇と淳仁天皇】

などがあります。そして薬子の変も、本来天皇が最高権力者なのに上皇もそれと同等の力を有しているがために起こった出来事だったのです。薬子の変後、嵯峨天皇は、天皇に権力を一本化するために動きます。

嵯峨天皇は、平城上皇が作り上げた平城京の政務機能をすべて廃止。そして、嵯峨天皇は譲位後、嵯峨院へに隠居することで政務から離れ、最高権力者は天皇のみであることを自ら知らしめたのです。

(本当は、法で規定すればよいのですが、天皇や上皇は法を超越した存在のため、法の規定はありませんでした。)

ちなみに、嵯峨院は現在の京都市嵐山にある観光名所大覚寺です。

こうして、薬子の変をきっかけとして天皇と上皇の関係が整理され、数百年の間、国が乱れ続けてしまった要因の1つがやっと解決されたのです。

という感じで、「天皇と上皇の関係」という視点で見れば薬子の変は画期的な転換期と言えると思います。

平安時代は、日本の天皇制度をめぐる激動の時代と言えます。

次回は、少し話を変えて、怨霊の話をしようと思います。なぜそんな話をするかというと、これらの話も天皇の在り方に密接に結びついているからです。

次:怨霊って一体何なの?平安時代の怨霊事情【菅原道真・平将門・崇徳天皇】

前:坂上田村麻呂とアテルイを超わかりやすく説明【アテルイ無双】2/2

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