不輸・不入権を簡単にわかりやすく解説【官省符荘と国免荘】

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前回は、荘園公領制と寄進地系荘園という平安時代に形成された日本の土地制度の話をしました。

荘園公領制・寄進地系荘園を簡単にわかりやすく解説【平安時代の複雑な土地の仕組】
今回は、平安時代の「荘園公領制」「寄進地系荘園」という土地制度について紹介します。 正直、土地制度の話はつまらないし難しいし多くの人が敬遠し...

 

今回は、寄進地系荘園で盛んに行われていた不輸(ふゆ)・不入(ふにゅう)の権の行使について話をしようと思います。

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不輸の権とは?

土地の私有を認めた墾田永年私財法では、私有地の保有を認める代わりに私有地に「輸租(ゆそ)」という税を賦課することになっていました。

 

しかし、大寺院に限っては輸租が免除されていました。仏教は朝廷によって管理されており、仏法の力には国を守る力があると朝廷では考えられていました。仏法で国を守るという考え方を「鎮護国家」なんて言ったりします。大寺院に関しては輸租を免除し、その分を寺院の維持管理費用に充て、鎮護国家のための仏教信仰に専念してほしいと朝廷は考えていたのです。

 

しかし、これは平安時代初期までの話。有力貴族たちが広大な荘園を獲得し始めると、自らの荘園も輸租を免除するよう朝廷に圧力をかけ始めます。この筆頭が藤原氏です。藤原氏を筆頭に有力貴族たちは、朝廷内での自らの力を利用し、保有する荘園を公式に免税対象にするよう働きかけます。このような朝廷公式の免税対象荘園のことを「官省符荘(かんしょうふしょう)」と言います。大寺院が保有する税を免除された荘園も朝廷公式なので官省符荘です。

 

ただし、官省符荘の成立は単に有力貴族の圧力だけが理由ではありません。当時は、朝廷の税収減により貴族たちに支払うべき給与が滞る事態も発生しており、その穴埋めとして荘園を税を免除したという側面もあります。税を免除する代わりに、給与は支払わないからうまく生活してくれ!って訳です。

 

官省符荘のように、税を免除することができる権利のことを「不輸の権」と言います。

 

もう1つの不輸の権 ー国免荘(こくめんのしょう)ー

官省符荘は公式の免税荘園でしたが、900年代以降になると次第に国司が勝手に免税を認める荘園が増えていきます。国司が勝手に税の免除を認めた荘園を国免荘(こくめんのしょう)と言います。国免荘が増えると税収は減ります。なぜ徴税責任者だった国司がわざわざ国免荘なんてものを認めたのでしょうか。理由は、国司という役職の仕組みを知るとわかってきます。

 

国司の任務には概ね4年〜6年の任期がありました。その任期を終えると、国司たちは任期中の徴税額について朝廷から審査を受けなければなりませんでした。この審査のことを受領功過定(じゅりょうこうかのさだめ)と言います。無事に審査に合格すると国司は出世したり、次の任地へと赴くことができるようになります。そして、この審査を行うのは朝廷の有力貴族たち。国司らは任期満了が近くなるとこの審査を上手く合格しようと、有力貴族たちと結ぶようになりました。

 

国司は有力貴族と結託し、国司独自の権限で有力貴族のために特定の荘園に対して不輸の権を認めることにしました。これが国免荘です。有力貴族は免税の権利を獲得し、その見返りとして国司は任期満了後の審査を有力貴族に取り計らってもらいます。このように、国免荘の設立は国司にとって必ずしも悪い話ではありませんでした。

 

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不入の権とは?

国司には朝廷から納税ノルマが与えられていましたが、不輸の権を持つ荘園が増えると次第に徴税が難しくなり、国司と荘園保有者は対立するようになります。

 

そんな経過もあり、不輸の権が認められるようになると荘園を持つ有力者たちは次第にこんなことを考えます。「どうせ税を納めなくても良い土地なんだから国司は土地に入ってくるな!!」と。

 

税を免除された荘園であっても、国司は荘園に入り土地調査を行う権利を持っていました。荘園領主はこれをやめろ!と主張した訳です。そもそも不輸の権を持つ荘園領主は、朝廷でも顔の効く有力貴族が多い訳です。そんな有力貴族らが朝廷内で「国司が勝手に荘園に入ってこない権利」を認めさせたのが不入の権です。

 

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まとめ

寄進地系荘園とは、国司の過酷な徴税から逃れたい荘園保有者が、その税を免れるために強大な力を持つ有力貴族へ土地を寄進することによって形成された荘園です。脱税を目指す人々の目的は、この記事で説明した有力貴族の持つ不輸・不入の権という特権にこそあったのです。

 

荘園整理令の始まり

朝廷は寄進地系荘園の増大、そして不輸・不入の権を持つ荘園の増大に対して危機感を覚えるようになります。と言っても、寄進地系荘園や不輸・不入の権によって富を得ているのは朝廷の中枢を担う有力貴族たちなので、藤原氏などの有力貴族はこれらの制度に本質的には強くは反対していません。特に危機感を持ったのは天皇でした。

 

最初に本格的な対策を行ったのは醍醐天皇。902年に「延喜の荘園整理令」と呼ばれる命令を発令しました。醍醐天皇は善政として知られている「延喜・天暦の治」と呼ばれる政治を行った天皇としても有名な天皇です。延喜・天暦の治については以下の記事を参考に。

延喜・天暦の治とは?簡単にわかりやすく解説するよ【醍醐・村上天皇が摂関政治に対抗する!】
もぐたろう 今回は、延喜えんぎ・天暦てんりゃくの治について、わかりやすく丁寧に解説していくよ この記事を読んでわかること 延喜・天暦の治って...

 

荘園整理令は醍醐天皇以後も定期的に発令され、特に1069年に後三条天皇が発令した「延久の荘園整理令」は歴史的にも有名な荘園整理令です。後三条天皇は、藤原氏などの有力貴族の荘園に大きなメスを入れることで有力貴族の経済基盤を衰退させることに成功しました。一方で天皇領を増やし天皇権力の強化を図りますが、これが後に朝廷行われる院政と呼ばれる政治機構の下地となっていきます。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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