最澄「法相宗は雑魚」徳一「天台宗(笑)」【最澄と空海をわかりやすく】3/4

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唐から日本に戻った最澄の天台宗にすべてを捧げた激動の生涯を見ていきます。

 

最澄はまず天台宗の僧が公式な僧侶になれるよう制度改正を目指します。当時の僧侶の出世コースは、得度(とくど)→受戒の流れ

 

得度は、僧になるための試験のようなもの。受戒は、試験後の面接のようなもの。

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最澄「天台宗の得度者を定員を増やしてくれ」

僧になるための最初の試練、得度には宗派ごとに定員が設けられていました。定員は、国が決めます。

 

これは、簡単でした。806年に実現します。最澄は、桓武天皇に近侍していたので、桓武天皇を後ろ盾にできたからです。

 

天台宗の得度定員枠は、年0人→年2人となり、本格的な天台宗僧侶となる道がひとまず開けたのです。

 

問題は、次のステップの受戒でした。

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最澄「比叡山に戒壇を」南都六宗の一同「ダメ!」

戒律を授ける儀式の場を戒壇と言います。最澄は、天台宗専用の戒壇を設け、それを正式に認めれくれるよう要望します。

 

当時、戒壇は東大寺に設けられていました。南都六宗の僧たちは、東大寺で受戒を受けていたのです。

 

しかし、天台宗は南都六宗と違って大乗仏教だったため、大乗仏教流ではない受戒を認めることができなかったことから、大乗仏教流の戒壇を比叡山に設けようとしたのです。

 

桓武天皇から嫌われていた南都六宗の人々にとって、東大寺にのみ戒壇があることは、南都六宗の存在意義を示すとても重要な意味合いを持っていました。そのため、南都六宗の人々は最澄の提案に反対します。

 

さらに、806年に桓武天皇は亡くなってしまったため、最澄は、強い後ろ盾を失っていました。

 

こうして、比叡山に戒壇を設けるという要望はことごとく却下されます。

 

これは天台宗にとってかなり深刻な問題で、比叡山で天台宗を学ぶ最澄の弟子にとって、その後の人生に関わる死活問題でもありました。

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【悲報】最澄の弟子たち、ニートになる

戒壇がないということは、天台宗を学んでも正式な僧になれないということ。

 

戒壇設立が挫折したことにより、最澄の弟子たちは、就職先を失うこととなりました。弟子たちは、天台宗に見切りをつけ、次第にちゃんと戒壇がある南都六宗へと心を移し替えていきます。(もちろん、それでも天台宗を信仰し続けた弟子たちもいました。)

 

ここに天台宗は存続の危機に陥ります。やはり戒壇を持つ南都の力は強かったわけです。

 

「南都憎し!」という想いもあったのでしょう。最澄は次第に、南都六宗に対して敵対心をむき出しにしていきます。

 

最澄は、南都六宗のうち特に法相宗の徳一(とくいち)という人物と激しい論争を繰り広げることになります。

 

争点は、「人はみな悟りを開けるか?」というもの。

最澄の天台宗は、「人はみな悟りを開ける」という立場。

徳一の法相宗は、「限られた人しか悟りを開くことはできない」という立場。

 

論争の内容については、マニアックなので触れませんが、天台宗の立場と法相宗の立場だけ簡単に説明したいと思います。

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最澄「徳一って馬鹿なの?偉大なブッタの教えだよ?みんな悟れるに決まってるじゃん」

最澄は、悟りは誰でも開けるものだけど、悟りを開くには自分一人でひたすら修行するのではなく、一切衆生(いっさいしゅじょう)を救済しようとする人を助ける精神こそが真に必要であると考えていました。

 

なので、「悟りは選ばれしものしか得られない」と考え、己を高めるために独善的な修行を行っている法相宗には我慢ならなかったのです。

 

しかし、法相宗のような南都六宗を全否定したわけじゃありません。

 

南都(平城京)の6つの宗派には様々な教えがありますが、それらは一切衆生を救済するための教えは難しすぎるから、いろんな人がそれをわかりやすく理解できるように作られた仮の教えであると最澄は言います。

 

簡単に言えば、

南都六宗は一切衆生の救済のための仮の教えであり、本家本元の教えはやはり一切衆生であるから、南都六宗の教えは天台宗の教えの中にすべて包含されている。だから、天台宗の方が正しいし優れているのだ!!

 

ということを主張したわけです。

 

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徳一「みんな悟りを開ける?じゃあなんで世の中で悟りを開いた人はこんな少ないの?ねえ説明できるの最澄?」

次は法相宗の徳一の主張を見ていきます。

 

法相宗では、「五性各別(ごしょうかくべつ)」と言って、人は皆悟りを開けるわけではなく、生まれながらに次の5つ運命のいずれかが定められていると説きます。

 

  1. 声聞定性(しょうもんじょうしょう)
    声聞(仏の教えで悟りを開ける人)になることが決まっている人
  2. 縁覚定性(えんがくじょうしょう)
    縁覚(仏の教えによらず自らの力で悟りを開ける人)になることが決まっている人
  3. 菩薩定性(ぼさつじょうしょう)
    菩薩になることが決まっている人
  4. 不定性(ふじょうしょう)
    何も決まってない人
  5. 無種性(むしゅしょう)
    何にもなれないことが決まっている人

 

法相宗の思想は、真っ向から天台宗と対立するものだったのです。

 

なんとなく、天台宗の教えの方が救いのある教えで法相宗はかなりドライな印象です。だって無種姓だったら、どんなに頑張っても悟りを開けないわけで仏教を全否定している感も否めません。

 

実は法相宗、かなりのリアリストな思考です。

 

悟りを開くため同じだけ辛い修行を積み重ねた二人がいたとして、二人とも悟りを開ける保証がどこにあるのでしょうか?もしかすると片方の人しか悟りを開けないかもしれません。

 

そもそも、修行をしないと悟りを開けないという発想自体、「悟りは開ける人と開けない人がいる」と言っているようなものじゃないですか?

 

天台宗と法相宗の論争は、考え方が真っ向から対立し、しかもどちらが正しいのかすらわからないという微妙な形で幕を閉じました。

 

私は、法相宗の思想の方が、実態を踏まえると正しいように感じますが、しかし、法相宗の思想には救いがありません。

 

宗教とは、人々が苦しんだり困ったりしたときに救いを求めるための拠り所だと思います。そう考えると宗教としては、現実的すぎる法相宗よりも、「みんな悟りを開けるよ!」と理想を語る天台宗の方が優れているのかもしれません。

 

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戒壇設立。しかし最澄、無念の死

徳一との論争はだいたい816年~821年の5年に及びました。

 

822年に最澄は亡くなるので、亡くなる直前まで徳一と戦っていたことになります。

 

戒壇の設立も叶わず、徳一との決着もつかないまま無念の死を迎えた最澄ですが、なんと!最澄が亡くなってから7日後、遂に天台宗の総本山である比叡山に戒壇が設立されたのです。

 

背景には、最澄を支援する藤原冬嗣と言う人物の協力がありました。

 

亡くなるのがあと7日遅ければ、居合わせることができたのに・・・と思うとなんだか歯がゆい気持ちになります。

 

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最澄が残したものとは

最澄は、道半ばで命を落としますが、最澄の弟子たちの活躍は目覚ましいものがありました。

 

天台宗の「誰でも悟りを開ける」という思想は、その後、貴族から農民まで幅広い人々の信仰を集めることとなり、平安時代の後期になって広がる浄土信仰の礎となります。

 

また、天台宗は円、戒、禅、密を合体させた総合的な仏教という話をしました。矛盾なく色々なものを合体させていく作業は困難を極めましたが、逆に仏教に対する様々な考え方が生まれてきます。

 

それが、鎌倉時代の仏教思想につながっていくのです。鎌倉仏教は、浄土宗、浄土真宗、時宗、曹洞宗などを言います。

 

と、最澄が後世に与えた影響はかなり大きいです(だから有名なんです)。

 

ところで、空海はどうしていたのでしょうか?

 

空海の思想も天台宗と同じ密教なので、根本的には南都六宗とは対立する立場にありますが、空海はどのような立場だったのでしょうか?

 

次回は、空海の生涯を見ていきます。

 

次:空海「俺、天才で協調性もあって運も良すぎワロタww」【最澄と空海】4/4

前:天台宗?真言宗?密教?超丁寧に教えます!【空海と最澄をわかりやすく】2/4

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この記事を書いた人
もぐたろう

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