前回の記事では、藤原頼通の後宮政策の話をしたので、この記事では、藤原頼通の人柄について迫ってみようと思います。
【前回の記事】
実は長期政権だった藤原頼通
前回の記事では、どちらかというと藤原頼通についてはネガティブな話ばかりでしたが、頼通は1017年に摂政となり、それから1067年までの50年間、摂政・関白として君臨しました。道長が下地を作ってくれたせいもありますが、少なくとも50年という長期政権を維持できたということは権力者として評価できるのでは?なんて思います。
しかし、頼通の権力者としての資質については疑問を呈さざるを得ません・・・。
最年少摂政、藤原頼通
1017年、道長の引退により藤原頼通は摂政として本格的に政界デビューをすることになります。しかし、父の藤原道長が亡くなる1028年までの間は、実質的に道長が権力者であり、頼通は道長の意見を聞きながら政治を行なっていました。
1017年当時、頼通は27歳であり、実は最年少で摂政になりました。そんな若き頼通ですから、道長が頼通を支えていたことはある意味当然かもしれません。しかし、頼通は悪く言えば優柔不断、よく言えば慎重で人になんでも相談してしまう性格だったようで、摂政・関白として成熟した後も、自ら率先して人々をリードするような人物ではありませんでした。
そんな頼通ですが、道長の時代にはなかった実に多くの問題に直面することになります。
頼通の時代になると、それまで表面化しなかった財政問題が表面化し、地方では大規模な反乱も起きました(平忠常の乱と前九年の役)、それに加え広大な土地と人を持った寺社の勢力が無視できない存在となり、朝廷に強く圧力をかけるようになっていきました。
その対応の様子は、貴族たちの日記などによって現代の我々でも知ることができます。少しだけ紹介しようと思います。様子を知ると、平安貴族たちの政治の限界が見えてきます。
天台宗の内部分裂
例として、天台宗の内部対立に朝廷が巻き込まれた事件について紹介します。
山門派と寺門派
天台宗というは、雑密とも呼ばれ、顕教と密教をミックスした複雑な教理を持つ宗派でした。
天台宗については、以下の記事も参考になると思います。てください。
難解な教理であるが故に天台宗内でも様々な発想が生まれ、派閥が作られていきました。そして、その派閥対立により、延暦寺から抜け出した一派を寺門派と呼び園城寺という寺を拠点にしていました。(延暦寺サイドの派閥は山門派と呼ばれています。)
園城寺「朝廷よ、俺んとこに戒壇を作ってくれ!」
しかし、天台宗の戒壇(天台宗の正式な僧となる儀式をする場所)は延暦寺にしか存在しないため、このままでは寺門派が衰退することが明らかでした。園城寺には戒壇ないということは、園城寺では正式な天台宗徒になれないということを意味するので、園城寺に馳せ参じる人など現れるはずがありません。
そこで、園城寺も独自の戒壇を設け、山門派に対抗しようとしますが、戒壇の設置には朝廷の許可が必要です。そこで朝廷に直訴するに至ったのです。
頼通「お、俺には(怖くて)決められないよ」
寺社からの直訴というのは、朝廷にとっては相当な脅威でした。なぜなら、寺社の人々は仏や神を盾にして直訴してくるからです。当時の人々は、怨霊だの祟りだのをかなり本気で信じていたので、仏や神を持ち出されると恐れ多くて何もできなかったのです。
朝廷は、板挟み状態で山門派を支持すれば寺門派が、寺門派を支持すれば山門派が朝廷に抗議してくることは明らかでした。さらに朝廷の判断が頼通の一存だということがわかれば、抗議は頼通個人にも及ぶかもしれません。
これを恐れた頼通は、判断を天皇に丸投げします。
後朱雀天皇「そ、それは無理だよぉ。公卿たちでちゃんと決めて!」
一方の後朱雀天皇も、頼通と同じ理由で自ら判断を下すことを拒否します。
こんな関白頼通と後朱雀天皇の判断のなすりつけ合いが何度か行われたという記録が残っています。
平安貴族たちの限界
有職故実に則り、儀式を円滑に遂行することが政治だと思っている貴族たちには、財政難や上で紹介したような寺社強訴というような難問を解決する能力が明らかに欠落していました。(優秀な人物自体はいたと思いますが・・・)
そして、天皇自身も摂政・関白に頼りっきりで自ら統治を行う能力が低下していたようです。(一条天皇や三条天皇のように自ら率先して治世を行うことを望んだ天皇もいますが・・・)
優雅な朝廷貴族の時代が築かれたのは、たまたま問題が表面化しなかったからであって、諸問題が表面化した頼通以降の時代になると、天皇や高官たちには現実的な問題解決能力がより一層求められるようになります。(その結果が、この後の院政に繋がると考えられています。)
意外!?平等院鳳凰堂の建立
最後に、藤原頼通は平等院鳳凰堂を建立した人物としてとても有名です。これまで説明してきた不甲斐ないエピソードが全く想像できないほど、平等院鳳凰堂は立派な建物です。
このギャップは、藤原頼通が仏教を深く信仰していたことを意味しています。(実は父の道長も仏教をかなり深く信仰していました。)
平等院鳳凰堂の話は別の記事で紹介済みですので、ここではしません。気になる方は以下の記事を合わせてご覧ください。
【次回】
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