今回は、「源氏物語」の著者で有名な紫式部について紹介してみたいと思います。
源氏物語の知名度に比べると、あまり知られていない紫式部の人物像。この記事ではその辺の話に迫ってみたいと思います!!
謎多き女、紫式部
・・・とか、偉そうなことを言っておいてアレなんですが、日本最高の文学作品とも言われる源氏物語の著者の割には実は紫式部って謎が非常に多いんです。
いつ生まれたのか、いつ亡くなったのかもわからないし、さらにはその本名すらわかっていません。
というのも、紫式部はそれほど身分の高い出自ではなかったからです。その仕事は、中宮(ちゅうぐう。天皇の正妻)である藤原彰子の身近の世話をする世話人。女房と呼ばれていました。
紫式部は、数いる女房の中で特に彰子お気に入りの女房だったようですが、それでも出自の低い女房の詳細な記録が残されている可能性は皆無です。
紫式部が有名なのは、日本最高の文学作品とも言われる「源氏物語」の著者であるからに過ぎません。
源氏物語を読んだ多くの人はこう思います。
「このスゲー作品を書いた紫式部って一体どんな人物なんだ!?」
こんな感じで、後から色々と調べられるようになった紫式部ですが、前述のとおり生きている頃の史料が少なすぎて調べるにしても限界があるんです。こんな理由から、源氏物語は超有名なのにその著者である紫式部となると非常に謎の多い女性となってしまうのです。
名前の由来
名前もわかっていない紫式部ですが、なぜわかってもいないのに「紫式部」と呼ぶのでしょう。
実は「紫式部」っていうのはアダ名。
「式部」は式部省というお役所の部署の名前です。式部省は、大学の管理など行う部署で学識の優れた人物が働く部署でした。紫式部の父が勤めていた部署であり、そこから「式部」の名が採用されたのでは?と言われています。(諸説あり)
「紫」については、何もわかっていません。ただ源氏物語の重要人物に「紫の上」がいますので、そこと関係しているのでは?と言われています。(これも諸説あり)
頭の良かったお父さん、藤原為時(ためとき)
紫式部の話に入る前に、その父である藤原為時について紹介しておきます。というのも、紫式部の人生はその父の影響が色濃く反映されているからです。
父の藤原為時、実はかなりエリートでした。藤原為時は、漢文などの学問に秀でており、花山天皇の頃は天皇に漢文を教え、天皇の読書係も勤めています。
家柄も、数ある藤原氏の中でも特に家柄の高いと言われている藤原北家の出身で、中々のエリートだったことがわかります。
「藤原北家って何?」という方は以下の記事をどうぞ

ところが、藤原為時が近侍していた花山天皇は986年、藤原兼家の陰謀により譲位させられてしまいます。

花山天皇の学問係として従事していた藤原為時も、花山天皇の失脚と合わせて仕事を失い、約10年間、職なし状態でした。そして996年、藤原為時は娘の紫式部を連れて越前国の受領(越前守)となります。
当時、一流貴族たちは平安京に住むのが当たり前。受領は中流階級の仕事であり、越前への赴任は藤原為時が凋落してしまったことを意味しています。
紫式部は父の凋落を横目で見るのと同時に、為時から漢文を習得します。当時、女性が漢文に堪能であることは珍しく、むしろ「女性らしくない」と嫌悪されることも多くありました。女性としてはあまり誇らしいことではありませんでしたが、父から教わった漢文スキルは紫式部の人生を大きく変えることになります。
愛する夫、藤原宣孝(のぶたか)
紫式部は998年頃、藤原宣孝と結婚します。父の為時はお堅い硬派な人でしたが藤原宣孝は対照的で、歌をよく詠み、オシャレ好きで軟派な人物でした。
ところが、この結婚生活長くは続きません。1001年、藤原宣孝が他界してしまうのです。
紫式部が源氏物語を書き始めたのは、そんな夫の亡くなった後でした。当時の紫式部は悲しみに耽る日々を過ごしており、将来への不安と虚無感に押し潰されそうになっていました。そんな時に、紫式部を慰めたのが友人が教えてくれた「物語」でした(どんな物語かはわかりません)。
紫式部は、物語を読んでその内容について友人と話している間は辛いことを忘れられたと言っています。紫式部が藤原宣孝のことを深く愛していたことがわかります。
物語の素晴らしさを知った紫式部は、自ら物語の作成に取り掛かります。こうして生まれたのが源氏物語です。源氏物語は、夫の死という悲しい事実を乗り越えようとした、ある種の現実逃避から生まれた作品と言えるかもしれません。
紫式部と藤原道長の怪しい関係
紫式部は、1人部屋にこもって源氏物語を書いていたわけではなく、友達にその内容を見せて、みんなでワイワイお話なんてしていたようです。すると、源氏物語の噂は世間に広まり、時の権力者だった藤原道長の目にも止まることになります。
きっと、源氏物語が思いのほか面白かったのでしょう。藤原道長は、紫式部の源氏物語の執筆を経済面などから支援しました。
少し、藤原道長の話をしましょう。
1006年、藤原道長の娘である彰子が一条天皇の下に入内しました。これは藤原道長の一世一代の大勝負!
彰子が一条天皇との間に男子を産んで、その子が天皇になれば藤原道長は天皇の外祖父。当時の日本は、生活や子育てに関しては母が絶対的権力を持ってい他ので、それに口出しできる母方の祖父も、子に対しては強い影響力を持っていたのです。
つまり、彰子の子が天皇になる=天皇に対する藤原道長の影響力が強まる=藤原道長が政治の実権を支配!ってことになります。
藤原道長は彰子の入内のため、彰子の身近の世話をする女房として優秀で美しい女性を探します。紫式部は、この選ばれし女性にも見事に抜擢され、さらには彰子の家庭教師役にまで選ばれています。
紫式部は藤原道長との出会いにより、その人生が大きく変わります。そして紫式部と藤原道長を結びつけるきっかけとなったのが源氏物語だったのです。
一方で、「藤原道長、紫式部に肩入れしすぎじゃね?どう考えても一線を超えた関係だよね二人って・・・」っていう説もあります。確かに「道長が源氏物語を気に入ったぐらいで彰子の女房に選ばれるほど手厚く支援してくれるもんなの?」って疑問はあるかもしれないですよね。道長が紫式部の能力を高く評価していたのか、それとも紫式部は道長の女だったのか、気になるところです・・・。
藤原道長の生涯については気になる方は以下の記事も合わせてどうぞ!

紫式部日記
紫式部はこの頃の生活を日記に書き綴っており、今でもその内容を知ることができます。いわゆる紫式部日記というやつです。
紫式部日記は、「紫式部のことをもっと詳しく知りたい!」と思うのならぜひオススメしたい本の一冊です。

内容を少しネタバレすると、彰子が念願の男子を産んだ1008年から1010年までの間の宮中生活について書き綴ったものです。
これがほんと面白くて、紫式部が他の女房と馴染めずに悩んでいたり、彰子の妊娠に人生賭けてる藤原道長の騒ぎ方が異常だったり、はたまた同僚の悪口が書いてあったり、当時の生々しい話や女性としての想いなどがぎっしりと詰まっています。
そして、紫式部日記で何よりも熱いのは紫式部が清少納言を「清少納言は自分の博識ぶりを引け散らかしてるけど、実は中身はすっからかんの女なの!!!!!!あんな上っ面なだけの女の最期なんか良いわけがないのよ」(超訳)と痛烈に批判していることです。
「枕草子」の著者で有名な清少納言。そんな清少納言にライバル心むき出しの紫式部。この2人はどんな関係だったのか、気になったの以下の記事で書いてみました。機になる方は合わせて読んでみてください!

紫式部と清少納言
ここで、少しだけ紫式部と清少納言の関係について話をしてみます。
一条天皇には藤原定子と藤原彰子という2人の正妻がいました。
正妻が2人?と思うかもしれませんが、当時の熾烈な権力争いの結果、半ば強引に正妻が2人という訳の分からない状況が生まれました。詳しい経緯が気になる方は以下の記事をご覧ください。

そして、清少納言は藤原定子の女房、紫式部は藤原彰子の女房となっています。
権力争いという視点で見れば、定子と彰子はライバルです。(男子を産んで次期天皇に即位させた方が勝ち!)
そのため、女房である紫式部と清少納言もライバルというイメージがありますが、その認識は正確には正しくありません。
藤原定子は1000年に亡くなり、清少納言もそのタイミングで宮中を離れます。そして、紫式部が彰子の女房として働き始めるのが1006年なので両者が活躍した時代には若干の差があるのです。
しかし、紫式部日記を読む限り紫式部が清少納言を強烈に意識していることは間違いないです。紫式部と清少納言の関係は、ライバル同士というよりも、紫式部が一方的に清少納言をライバル視していた・・・というのが正しいのかもしれません。
では、なぜ紫式部は清少納言をそこまで強く意識したのでしょうか?私の個人的な意見も交じえながら、解説してみたいと思います。
定子と彰子の性格の違い
1つは、定子と彰子の人柄の違いにありそうです。
単刀直入に言うと、定子は華やか、彰子は地味でした。
紫式部は日記の中で次のような意見を言っています。
「彰子様の性格は、消極的すぎるようですわ。それに女房たちも確かに上品で気風のある人達なんですけれど、やっぱり引っ込み思案なところがありますの。そんなせいもあって、今の後宮は男性からは『前は普通の会話でも気の利くことを言う女房がいたんだけど、最近は少ないよなぁ』と評判になっていますわ。」
どうやら、彰子を取り巻く後宮は男性方にはあまり良く思われていなかったようです。しかし、後宮は男性に媚びる場所ではありません。男たちが喜んだ定子時代を引き合いに出して、主人である彰子のことを悪く言われることはプライドの高い紫式部には我慢ならなかったのだと思います。紫式部日記でも「女房はこうあるべき!」とか「今の女房はもっと頑張りましょ!」みたいな話もあって、定子時代を強く意識していることがわかります。
そして、そんな定子の後宮の代表格だったのが清少納言でした。紫式部が清少納言を強く意識するのはそれほど不自然なことではなかったのです。
枕草子と源氏物語
さらに、清少納言は漢文に堪能で「枕草子」を書き上げた女性。一方の紫式部も漢文に堪能で「源氏物語」を書き上げた女性。
漢文に堪能な女性も、文学作品を書き上げる女性も当時は珍しく、この2人の境遇は非常に似ています。
特に枕草子は、清少納言がいなくなった後も宮中では読まれ続け、ほぼ確実に紫式部も読んでいるはず。同じ女流作家として、同じ境遇だった清少納言を意識することは当然だったと言えるかもしれません。
- 定子時代の女房と比べられてしまうことに強い対抗心があったこと
- 清少納言が女流作家として意識すべき存在であったこと
- 清少納言も紫式部も学識豊かな人物だったこと
- 紫式部はプライドの高い女性で、清少納言への意識がライバル心に変わったこと
などが、紫式部が日記の中で清少納言を痛烈に批判した理由なんじゃないかな?と思います。
まとめ
以上、紫式部について紹介してみました。紫式部日記を読んでみると、紫式部はとても人間味のある人間だと言うことがわかります。今も昔も、人の悩みとは変わらぬものなんだぁ・・・と、紫式部日記を読んでつくづくそう思いました。
紫式部は謎多き女性なんですが、紫式部日記を読むことで紫式部の人柄とか性格なんかはかなり詳しくわかると思います。この記事で色々と紹介しましたが、紫式部に興味があるのなら、紫式部日記を読んでみるのが一番早いです。(この記事の多くの内容も紫式部日記を基に作成しています。)
ぜひ、興味のある方は読んでみてください。
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