源氏物語を書いた紫式部を簡単にわかりやすく紹介!【清少納言との関係とは?】

今回は、「源氏物語」の著者で有名な紫式部について紹介してみたいと思います。

 

以下の紫式部が書いた日記の話も合わせてどうぞ。

紫式部日記を読もう!オススメ入門書3選【感想やあらすじも紹介!】
最近、平安文学にハマっています。蜻蛉日記に続き、紫式部日記を読んでみたので、紫式部日記のあらすじや感想、オススメの本などを紹介してみようと思います。 ちなみに蜻蛉日記はこちら。 紫式部は平安文学を代表する超大作「源氏物語」の著者。知っている人も多いかと思いますが、一応、紫式部について簡単に紹介しておきます。 紫式

 

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紫式部は謎多き女

紫式部のことを紹介すると言っておいていきなりですが、実は紫式部は謎の多い女性です。

 

いつ生まれたか、いつ亡くなったか、そしてその名前すらわかっていません。

 

「紫式部」っていうのも、実は本名じゃありません。紫式部はアダ名みたいなもので、「式部」は式部省というお役所の部署の名前。式部省は、大学の管理など行う部署で学識の優れた人物が働く部署でした。

 

紫式部の父は藤原為時と言い、学識に優れたちょっぴりお固めな人物だったようで式部省に勤めていました。そこから「式部」の名が採用されたのでは?と言われています。(諸説あり)

 

「紫」の部分は、なぜ「紫」なのかわかっていません。ただ源氏物語の重要人物に「紫の上」がいますので、そこと関係しているのでは?と言われています。(これも諸説あり)

紫式部の父、藤原為時

関係ないかもしれませんが、紫式部の父の経歴も少しだけ。

 

紫式部の父の藤原為時、実はかなりエリートでした。藤原為時は、漢文などの学問に秀でており、花山天皇の頃は天皇に漢文を教え、天皇の読書係も勤めています。さらに、藤原為時のルーツを探ると、藤原北家の属しており、家柄も決して悪くありません。ただし、藤原北家は藤原道長などを輩出した家系でありそれと比べてしまうと為時の身分は決して高くありません。

 

藤原北家とはなんぞや?という方は以下の記事をどうぞ。

藤原冬嗣を簡単にわかりやすく紹介!【空海・最澄や桓武天皇との関係は?】
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ところが、その花山天皇が986年、藤原兼家の陰謀により譲位してしまいます。

寛和の変とは?花山天皇の出家と一条天皇即位【藤原兼家の大勝負】
前回は、藤原兼家と兼通の摂関職を巡る兄弟争いについて見ていきました。 結局、兄の兼通の勝利に終わり、弟の兼家は不遇の時代を迎えることになりますが、ライバルの兼通が亡くなった後、円融天皇に娘を入内させるなど、再び再起に向け動き始めます。 984年、円融天皇が譲位して天皇の位を花山天皇に譲ったとき、兼家に一発大逆転のチャンスが訪れます。

 

花山天皇の学問係として従事していた藤原為時も、花山天皇の失脚と合わせて仕事を失い、約10年間、職なし状態でした。そして996年、藤原為時は娘の紫式部を連れて越前国の受領(越前守)となります。

 

紫式部は父の凋落を横目で見るのと同時に、為時から漢文を習得します。当時、女性が漢文に堪能であることは珍しく、むしろ「女性らしくない」と否定されることもありました。女性としてはあまり誇らしいことではありませんでしたが、父から教わった漢文スキルが紫式部を大きく変えることになります。

紫式部の夫、藤原宣孝(のぶたか)

紫式部は998年頃、藤原宣孝と結婚します。父の為時はお堅い硬派な人でしたが藤原宣孝は対照的で、歌をよく詠み、オシャレ好きな軟派な人物でした。

 

ところが、この結婚生活長くは続きません。1001年、藤原宣孝が他界してしまうのです。

 

紫式部が源氏物語を書き始めたのは、そんな夫の亡くなった後でした。紫式部日記によれば、当時の紫式部は悲しみに耽る日々を過ごしており、将来への不安と虚無感に押し潰されそうになります。そんな時に、紫式部を慰めたのが友人が教えてくれた「物語」でした(どんな物語かはわかりません)。

 

紫式部は、物語を読んでその内容について友人と話している間は辛いことを忘れられたと言っています。紫式部の様子は、紫式部が藤原宣孝のことを愛していたことを物語っているようにも思えますね。

 

物語の素晴らしさを知った紫式部は、自ら物語の作成に取り掛かります。こうして生まれたのが源氏物語です。源氏物語は、夫の死という悲しい事実を乗り越えようとした、ある種の現実逃避から生まれた作品と言えるかもしれません。

紫式部と藤原道長

紫式部は、1人部屋にこもって源氏物語を書いていたわけではなく、友達にその内容を見せて、みんなでワイワイお話なんてしていたようです。すると、源氏物語の噂は世間に広まり、時の権力者だった藤原道長の目にも止まることになります。

 

きっと、源氏物語が思いのほか面白かったのでしょう。藤原道長は、紫式部の源氏物語の執筆を経済面などから支援しました。

 

さらに、藤原道長は紫式部の博識ぶりを高く評価します。

 

1006年、藤原道長の娘である彰子が一条天皇の下に入内しました。これは藤原道長の一世一代の大勝負。彰子が一条天皇との間に男子を産んで、その子が天皇になれば藤原道長は天皇の外祖父。

 

当時の日本は、生活や子育てに関しては母が絶対的権力を持ってい他ので、それに口出しできる母方の祖父も、子に対しては強い影響力を持っていたのです。

 

つまり、彰子の子が天皇になる=天皇に対する藤原道長の影響力が強まる=藤原道長が政治の実権を支配!ってことになります。

 

藤原道長は彰子の入内のため、彰子の身近の世話をする女房として優秀で美しい女性を探します。紫式部は、この選ばれし女性にも見事に抜擢され、さらには彰子の家庭教師役にまで選ばれています。

 

紫式部は藤原道長との出会いにより、その人生が大きく変わります。そして紫式部と藤原道長を結びつけるきっかけとなったのが源氏物語だったのです。

 

 

一方で、「藤原道長、紫式部に肩入れしすぎじゃね?どう考えても一線を超えた関係だよね二人って・・・」っていう説もあります。確かに「道長が源氏物語を気に入ったぐらいで彰子の女房に選ばれるほど手厚く支援してくれるもんなの?」って疑問はあるかもしれないですよね。道長が紫式部の能力を高く評価していたのか、それとも紫式部は道長の女だったのか、気になるところです・・・。

紫式部日記

藤原彰子の女房として後宮生活を始めた紫式部。実はこの頃の生活を日記に書き綴っており、今でもその内容を知ることができます。いわゆる紫式部日記というやつです。

紫式部日記は、「紫式部のことをもっと詳しく知りたい!」と思うのなら絶対に読むべき必読本です。紫式部日記の詳細は以下の記事で紹介していますので、参考までに。

紫式部日記を読もう!オススメ入門書3選【感想やあらすじも紹介!】
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内容を少しネタバレすると、彰子が念願の男子を産んだ1008年から1010年までの間の宮中生活について書き綴ったものです。

 

これがほんと面白くて、紫式部が他の女房と馴染めずに悩んでいたり、彰子の妊娠に人生賭けてる藤原道長の騒ぎ方が異常だったり、はたまた同僚の悪口が書いてあったり、教科書や歴史解説本だけでは絶対にわからない当時の生々しい話がぎっしりと詰まっています。

 

紫式部日記で何よりも熱いのは紫式部が清少納言を「清少納言は自分の博識ぶりを引け散らかしてるけど、実は中身はすっからかんの女なの!!!!!!」(超訳)と痛烈に批判していることです。「枕草子」の著者で有名な清少納言。そんな清少納言にライバル心むき出しの紫式部。この2人はどんな関係にあったのでしょうか?

紫式部と清少納言

ここで、少しだけ紫式部と清少納言の関係について話をしてみます。

 

一条天皇には、2人の正妻がいました。藤原定子と藤原彰子です。正妻が2人?と思うかもしれません。背景には、天皇に近づこうとする藤原氏の複雑な権力争いがありました。以下の記事を読んでいただくと、当時の紫式部と清少納言を取り巻く時代背景がよくわかると思いますので、話がわからなくなったら読んでみてください!

彰子と定子の関係をわかりやすく【一条天皇と藤原道長】
前回の記事 前回の記事では、藤原道長の話をしました。そして、最後に藤原道長が圧倒的な権力を手に入れることができた理由に一家立三皇后(いっかりつさんごう)を成し遂げたことを挙げました。 一家立三后とは 一家立三后とは、藤原道長が生きている間に自分の娘・孫を3人も皇后にしたことを言います。 具体的に言うと、 第6

 

そして、清少納言は藤原定子の女房、紫式部は藤原彰子の女房となっています。

 

権力争いという視点で見れば、定子と彰子はライバルです。(男子を産んで次期天皇に即位させた方が勝ち!)そのため、2人の女房である紫式部と清少納言もライバルというイメージがありますが、その認識は正確には正しくありません。

 

藤原定子は1000年に亡くなり、清少納言もそのタイミングで宮中を離れます。そして、紫式部が彰子の女房として働き始めるのが1006年なので両者が活躍した時代には若干の差があるのです。

 

しかし、紫式部日記を読む限り紫式部は清少納言を強烈に意識していることは間違いなさそうです。紫式部と清少納言の関係は、ライバル同士というよりも、紫式部が一方的に清少納言をライバル視していた・・・という関係の方が自然そうです。

 

では、なぜ紫式部は清少納言をそこまで強く意識したのでしょうか?私の個人的な意見も交じえながら、解説してみたいと思います。

定子と彰子の人柄

1つは、定子と彰子の人柄の違いにありそうです。

 

単刀直入に言うと、定子は華やか、彰子は地味でした。

 

紫式部は日記の中で次のような意見を言っています。

 

「彰子様の性格は、消極的すぎるようですわ。それに女房たちも確かに上品で気風のある人達なんですけれど、やっぱり引っ込み思案なところがありますの。そんなせいもあって、今の後宮は男性からは『前は普通の会話でも気の利くことを言う女房がいたんだけど、最近は少ないよなぁ』と評判になっていますわ。」

 

どうやら、彰子を取り巻く後宮は男性方にはあまり良く思われていなかったようです。しかし、後宮は男性に媚びる場所ではありません。男たちが喜んだ定子時代を引き合いに出して、主人である彰子のことを悪く言われることはプライドの高い紫式部には我慢ならなかったのだと思います。紫式部日記でも「女房はこうあるべき!」とか「今の女房はもっと頑張りましょ!」みたいな話もあって、定子時代を強く意識していることがわかります。

 

そして、そんな定子の後宮の中で、特に有名な女房だったのが清少納言でした。紫式部が清少納言を強く意識するのはそれほど不自然なことではなかったのです。

枕草子と源氏物語

さらに、清少納言は漢文に堪能で「枕草子」を書き上げた女性。一方の紫式部も漢文に堪能で「源氏物語」を書き上げた女性。

 

漢文に堪能な女性も、文学作品を書き上げる女性も当時は珍しく、この2人の境遇は非常に似ています。

 

特に枕草子は、清少納言がいなくなった後も宮中では読まれ続け、おそらく紫式部も目を通りしているはずです。同じ女流作家として、清少納言を意識することは当然だったと言えます。

 

  1. 定子時代の女房と比べられてしまうことに強い対抗心があったこと
  2. 清少納言が女流作家として意識すべき存在であったこと
  3. 清少納言も紫式部も学識豊かな人物だったこと
  4. 紫式部はプライドの高い女性で、清少納言への意識がライバル心に変わったこと

 

などが、紫式部が日記の中で清少納言を痛烈に批判した理由なんじゃないかな?と思います。

まとめ

以上、紫式部について紹介してみました。紫式部のことを知ると、当時の生々しい宮内の様子や細かな人間関係がわかりとても面白い。科学技術などが発展しても、今も昔も人間って変わらないんだなぁと染み染みと思いました。

 

源氏物語に興味のある方は、その著者である紫式部のことを知ってみると源氏物語をより一層楽しめるかもしれません。

 

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