大森貝塚とモース博士|「縄文」を命名した外国人の真実をわかりやすく解説

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大森貝塚とモース博士
もぐたろう
もぐたろう

今回は大森貝塚とモース博士について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「縄文」っていう言葉、どこから来たか知ってる?実はこの記事を読むとびっくりする事実がわかるよ!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 大森貝塚とは何か・どこにあるか
  • エドワード・モースが日本に来た本当の目的(意外すぎる!)
  • 「縄文」という言葉がモースによって名付けられた驚きの経緯
  • 日本考古学発祥の地としての学術的意義
  • テストに出やすいポイントとモースの人物像

突然ですが、「縄文時代」という言葉はどこから来たか、ご存じでしょうか。

縄文」という言葉は、なんとアメリカ人が名付けた言葉なんです。日本人ではなく、はるばる海を渡ってきた外国人研究者が命名した——そんな意外な事実が、明治時代の東京に眠っていました。

しかも、その人物がもともと日本に来た目的は、大森貝塚でも縄文土器でもありませんでした。まったく別の生き物の研究のために来日したところ、偶然にも列車の車窓からある光景を目にして——日本考古学の歴史が動き始めたのです。

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大森貝塚とは?3行でわかる基本情報

3行でわかるまとめ
  • 大森貝塚は1877年(明治10年)、アメリカ人動物学者エドワード・モースえどわーど・もーすが東京・大森付近で発見した縄文時代の遺跡
  • 日本初の学術的な発掘調査が行われ、「日本考古学発祥の地」と呼ばれる
  • ここで出土した土器の文様から、モースが「縄文(cord marked)」という言葉を作った

大森貝塚は、東京都品川区と大田区の境界付近にある縄文時代の遺跡です。今から約4,000〜2,400年前(縄文時代後期〜晩期)に形成されたもので、当時の人々が食べた貝殻や動物の骨などを積み重ねた場所です。

現在、記念碑は2か所に設置されています。品川区の「大森貝墟碑おおもりかいきょひ」と、大田区の「大森貝塚遺跡庭園おおもりかいづかいせきていえん」です。実は2つの碑の場所が少し離れているのには、歴史的な理由があります(これについては後ほど詳しく解説します)。

ゆうき
ゆうき

大森貝塚って、大森にあるんじゃないの?

もぐたろう
もぐたろう

実は「大森」という地名は当時の呼び方で、今でいう品川区と大田区の境界あたりなんだよ。正確な位置については長年「場所論争」があって、それで2つの碑が別々の場所に建てられちゃったんだ!

モースはなぜ日本に来たのか?意外すぎる来日の目的

エドワード・シルヴェスター・モースEdward Sylvester Morse(1838〜1925年)は、アメリカ・メイン州生まれの動物学者です。ハーバード大学の比較動物学博物館で著名な生物学者ルイ・アガシー教授のもとで動物学の研究に携わり、貝類や腕足類の研究で高い評価を得ていました。

そんなモースが1877年(明治10年)に来日したのは、大森貝塚の調査が目的ではありませんでした。日本近海に生息する腕足類わんそくるいという生き物の研究のために、日本にやってきたのです。

腕足類(わんそくるい)ってなに?

腕足類わんそくるいとは、二枚貝に似た外見を持ちますが、まったく異なる種類の海洋生物です。代表的なものがシャミセンガイしゃみせんがい(三味線貝)で、日本の三陸沖や瀬戸内海などに生息しています。

見た目は貝そっくりですが、内部の構造や進化の系統がまったく異なります。モースはこの腕足類の進化の研究を進めるために、日本列島の海域に特別な関心を持っていました。

モースは来日後、東京大学の招聘しょうへいを受け、動物学の教授として着任します。当時の明治政府は近代化のために多くの外国人専門家(お雇い外国人おやといがいこくじん)を招いており、モースもその一人でした。

彼は東京大学に在籍しながら、日本各地を旅して腕足類の標本を集める予定でした。大森貝塚の発見は、その移動途中に起きた偶然の出来事だったのです。

もぐたろう
もぐたろう

腕足類の研究のために来日したのに、気づいたら日本考古学の父になってたっていう、すごい偶然の連鎖だよね!人生って何があるかわからない、まさにドラマチックな話なんだ。

列車の窓から発見!大森貝塚との運命の出会い

1877年(明治10年)6月19日、モースは横浜から新橋へ向かう列車に乗っていました。当時開通したばかりの新橋〜横浜間の鉄道です。

大森貝塚遺跡庭園内の発掘調査現場(東京都品川区)
大森貝塚遺跡庭園内の発掘調査現場 出典:Wikimedia Commons(CC0)

車窓を眺めていたモースは、大森付近を通過したとき、線路の切り通し(斜面)に不思議な光景を目にします。土の断面に、白い貝殻が幾重にも積み重なった層——それが大森貝塚でした。

貝類の専門家であるモースには、それが何を意味するかすぐにわかりました。大昔の人々が生活した痕跡、すなわち貝塚かいづかです。彼は一瞬の発見を逃さず、列車を降りた後にすぐ調査申請に動き出しました。

エドワード・モース
エドワード・モース

汽車の窓から貝の層が見えた!これは絶対に調べなければならない!こんな積み重なり方は、人間が長い年月をかけて捨てたものだ。ここには古代日本の謎が眠っているに違いない!

モースの行動は素早いものでした。発見からわずか数週間後、明治政府に発掘調査の許可を申請します。当時の日本では、こうした遺跡の学術的発掘という概念自体が新しいものでした。それでも政府の許可を得たモースは、同年9月から本格的な発掘調査を開始します。

もぐたろう
もぐたろう

「汽車の窓から一瞬見えただけで発見」っていうのが、もう研究者の勘の鋭さだよね。普通の人はただの土の崖として通り過ぎちゃうところを、専門家の目でちゃんと見抜いた。さすがとしか言いようがない!

日本初の学術的発掘調査!1877年の大発見

1877年(明治10年)9月から12月にかけて、モースは大森貝塚の発掘調査を実施しました。東京大学の学生たちを率いて行ったこの調査は、日本で初めて科学的な手順を踏んで行われた本格的な考古学発掘です。

当時の日本でも遺跡の発掘が行われたことはありましたが、それらは宝探し的な目的のものや、土木工事の副産物として偶然見つかるケースがほとんどでした。モースの発掘は、記録・分類・報告書作成という近代科学の手順を一貫して踏んだ点で画期的でした。

📌 日本初の「学術的」発掘とは?:それ以前にも遺跡の発掘はありましたが、出土品の記録・分類・報告書作成という科学的手順を踏んだのはモースの大森貝塚発掘が最初とされています。発掘した出土品の写真を撮り、詳細なスケッチを描き、1879年に英語の報告書(Shell Mounds of Omori)として世界に発表しました。

あゆみ
あゆみ

貝塚っていうのは、どういう場所なのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

貝塚っていうのは、縄文人のゴミ捨て場のこと。食べ終わった貝殻や動物の骨を捨てた場所なんだよ。今でいうゴミ集積所みたいなイメージ。だからこそ当時の人々の食生活・道具・生活習慣が丸わかりになる「タイムカプセル」なんだ!

大森貝塚から出土したものとその意義

大森貝塚の発掘では、縄文時代の生活を知る上で非常に貴重な出土品が数多く見つかりました。

主な出土品:縄文土器 / 骨角器 / 石器 / 動物骨 / 人骨

出土品のなかでもとくに注目されたのが、縄文土器です。表面に縄を転がしたような文様が施されたこの土器は、モースにとって最大の発見のひとつでした。縄文土器の特徴・模様の付け方については後のセクションで詳しく解説します。

また、骨角器こっかくき(骨や角で作った道具)や石器の出土から、縄文人がどのような道具を使っていたかが明らかになりました。動物の骨からは、縄文人が何を食べていたかも推測できます。

さらに、人骨も発見されました。この人骨は、後に「食人説論争」を生むことになります。

📌 「食人説」論争とは?:出土した人骨の一部に切り傷があったことから、モースは報告書の中で「縄文人が食人をしていた可能性がある」と記しました。これは発表当時に大きな議論を巻き起こしました。現在の研究では食人説は否定的に見られており、「葬儀や儀礼の過程でついた傷」や「二次葬(遺骨の移動)」など別の解釈も提唱されています。

あゆみ
あゆみ

食人説なんて、センセーショナルな話ね。今でも議論されているの?

もぐたろう
もぐたろう

現在の考古学では食人説には否定的な見解が多いよ。骨の傷は葬儀の際の二次葬(一度埋葬した遺骨を後から移動させる慣習)によるものとも言われているんだ。モース自身も「可能性がある」という慎重な表現を使っていたんだけど、当時は過大に取り上げられちゃったんだよね。

「縄文」はモースが命名した!その驚きの経緯

大森貝塚の発掘で数多くの土器が出土しました。そのなかでモースが注目したのが、土器の表面に施された独特の文様です。

よく観察すると、その文様は縄を土器の表面に転がして付けたものでした。縄の繊維が規則的な模様を作り出しているのです。モースはこの特徴的な文様を英語で “cord marked pottery”(コード・マークト・ポタリー)と命名しました。直訳すると「縄の跡が付いた土器」という意味です。

縄文時代の円筒形深鉢土器(縄目文様)
縄文土器(円筒形深鉢):メトロポリタン美術館蔵 出典:Wikimedia Commons(CC0)

エドワード・モース
エドワード・モース

この土器の文様……縄を転がして付けたものだ。英語では “cord marked” と呼ぼう。この文様を持つ土器が出土した時代を、ひとつの文化として分類できる。

モースが1879年に発表した報告書「Shell Mounds of Omori(大森貝塚)」に、この “cord marked pottery” という表現が登場します。この論文をもとに日本の研究者たちが土器を研究するなかで、”cord”(縄・ひも)にちなんだ「縄文」という言葉が定着し、「縄文土器」という名称が生まれました。

さらに、縄文土器が出土する時代を「縄文時代」と呼ぶようになり、この言葉は現代の日本史・考古学の基本用語として定着しました。

もぐたろう
もぐたろう

つまり「cord marked」→「縄文土器」→「縄文時代」っていう命名の連鎖が起きたんだよ!アメリカ人が英語でつけた技術的な呼び方が、日本語に翻訳されて、一つの時代の名前になったっていう。すごいよね、今の教科書に当たり前に載ってる「縄文時代」っていう言葉が、実はこういう経緯で生まれたんだ。

大森貝塚が「日本考古学発祥の地」と呼ばれる理由

大森貝塚はなぜ「日本考古学発祥の地」と呼ばれるのでしょうか。その理由は、モースが行った発掘の「やり方」にあります。

モースは発掘した出土品を一つひとつ丁寧に記録し、種類ごとに分類しました。さらに詳細なスケッチを描き、写真にも収めました。そして1879年に英語の報告書 「Shell Mounds of Omori(大森貝塚)」 として、世界に向けて発表しました。

こうした「記録→分類→報告書作成→世界への発信」という一連の科学的手順を踏んだ考古学発掘は、日本では大森貝塚が最初でした。それ以前の発掘は宝探し的なものや、土木工事の副産物として偶然見つかるものが大半だったのです。

モースの報告書は欧米の考古学者たちに広く読まれ、日本の先史時代への関心を世界規模で高めました。この発表をきっかけに、日本各地で近代的な考古学調査が始まるようになります。

また、大森貝塚の発見は、日本に近代考古学という学問そのものを持ち込む契機になりました。その後に発見された三内丸山遺跡(青森県)や岩宿遺跡(群馬県)なども、大森貝塚が切り拓いた「学術的発掘」という道の延長線上にあるのです。

ゆうき
ゆうき

じゃあ、大森貝塚がなければ「縄文時代」って言葉もなかったってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そう言ってもいいくらいだよ!モースの「cord marked pottery」という命名がなければ、縄文土器も縄文時代も別の名前になっていた可能性が高い。今の教科書に当たり前に載ってる「縄文」って言葉、実はモースの一言から始まったんだね。

モース博士のその後|日本を愛した外国人の晩年

大森貝塚の発掘調査を終えたモースは、その後もさまざまな形で日本に関わり続けました。

東京大学で動物学の教授として教壇に立ったモースは、多くの日本人学生に近代科学の考え方を伝えました。彼は日本の大学教育の草創期を支えたお雇い外国人のひとりでもあったのです。

また、モースは滞在中に日本の生活・文化・風景を丹念に観察し続けました。その記録をまとめたのが、晩年に出版した「日本その日その日」にほんそのひそのひ(Japan Day by Day)です。明治時代初期の日本の日常生活を外国人の目で克明に記録したこの書物は、当時の日本を知る一級の史料として現在も高く評価されています。

エドワード・モース
エドワード・モース

日本の文化はどこまでも深い。何年いても飽きることがない。陶器の美しさ、建物の繊細さ、人々の礼儀正しさ……。この国を記録し続けることが、私の使命だと感じている。

さらに、モースはボストン美術館への日本美術品の収集にも協力しました。彼が日本で集めた陶磁器のコレクションは「モースコレクション」として現在もボストン美術館に所蔵されており、その質の高さで知られています。

モースは1925年(大正14年)に87歳で亡くなりました。来日当初はわずか数年の滞在予定だったにもかかわらず、日本文化への深い愛情からくり返し訪日し、生涯を通じて日本との縁を保ち続けた人物でした。

📌 モースと日本の関わり(まとめ)
1877年:東京大学教授として着任・大森貝塚を発見・発掘
1879年:報告書「Shell Mounds of Omori」を英語で世界発表
1882年:3度目の来日。陶器コレクションの収集を継続
晩年:「日本その日その日」執筆・ボストン美術館への日本美術品収集協力
1925年:87歳で死去

もぐたろう
もぐたろう

モースは日本に「考古学」という学問を持ち込んだだけじゃなく、明治時代の日本の生活を後世に残す記録者でもあったんだよ。「縄文」という言葉を作り、日本考古学の扉を開いた——このアメリカ人なしに現代の日本史は語れないと言っても過言じゃないよね!

エドワード・モース・大森貝塚についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

モースや大森貝塚についてさらに深く知りたい人には、この3冊がおすすめだよ!

モースの発掘に興味があるなら|発見者自身が書いた一次資料

大森貝塚 付 関連史料(岩波文庫)

E.S.モース 著/近藤義郎・佐原真 編訳 著|岩波書店

明治の日本をもっと知りたいなら|モースが描いた文明開化の日常

日本その日その日(講談社学術文庫)

エドワード・S・モース 著/石川欣一 訳 著|講談社

縄文時代をもっと広く学びたいなら|最新研究に基づく決定版入門書


今でも行ける!大森貝塚遺跡庭園を訪ねてみよう

大森貝塚の位置地図(品川区・大田区)
大森貝塚は品川区(遺跡庭園)と大田区(碑)の2か所にあります

大森貝塚の発掘から150年近くが経った現在、その場所は「遺跡庭園」として一般公開されており、誰でも訪れることができます。

大森貝塚の記念地は2箇所!品川区と大田区にそれぞれある

じつは、「大森貝塚」にゆかりのある記念地は2箇所に分かれています。

① 大森貝墟碑(品川区)
JR大森駅から徒歩約5分。品川区大井6丁目にある大森貝塚遺跡庭園内に石碑が立っています。モースが最初に貝の層を目撃したとされる地点に近く、1929年(昭和4年)に建てられた碑です。

② 大森貝塚遺跡庭園(大田区)
JR大森駅から徒歩約3分。大田区山王1丁目にある小さな公園で、「大森貝塚遺跡庭園」として整備されています。発掘記念碑が設置されており、大森貝塚の歴史を学べます。

📌 なぜ碑が2箇所あるの?:大森貝塚の正確な位置をめぐり、品川区と大田区の間で長く「場所論争」が続いてきました。現在は品川区側(大井付近)が有力とされていますが、両区にそれぞれ記念碑・庭園が存在するという珍しい状況になっています。

あゆみ
あゆみ

大田区と品川区が両方主張してるの?おもしろい争いね。実際に行くならどっちがいいかしら?

もぐたろう
もぐたろう

大田区の「遺跡庭園」は駅から3分と近くておすすめだよ!品川区の「大森貝墟碑」はよりシンプルな石碑だけど、こちらも歴史を感じられる雰囲気がある。両方立ち寄って比べてみるのも面白いね!

大森貝塚・モース博士 よくある質問

1877年(明治10年)にアメリカ人動物学者エドワード・S・モースが、横浜から新橋へ向かう列車の車窓から発見しました。その後同年9〜12月に、日本初の学術的発掘調査を実施しました。

モースが大森貝塚の土器の文様を英語で「cord marked pottery(縄の跡が付いた土器)」と命名したことが起源です。これが日本語に訳されて「縄文土器」→「縄文時代」という言葉が生まれました。

東京都品川区と大田区の境界付近にあります。記念地は2箇所あり、品川区には「大森貝墟碑」(JR大森駅徒歩約5分)、大田区には「大森貝塚遺跡庭園」(JR大森駅徒歩約3分)が設置されています。

縄文時代の人々が食べた貝や動物の骨などを捨てた「ゴミ捨て場」のことです。当時の食生活・道具・生活習慣が良好な状態で保存されており、縄文時代を知るための非常に重要な遺跡です。

大森貝塚や縄文時代の調査が目的ではありませんでした。貝の仲間である「腕足類(シャミセンガイなど)」の研究のために来日しており、大森貝塚の発見は列車移動中の偶然の出来事でした。

大森貝塚の発掘が、記録・分類・報告書作成という科学的手順を踏んだ日本初の学術的発掘調査だったからです。モースが1879年に英語の報告書を世界発表したことで、日本の考古学が国際的に認知されるようにもなりました。

まとめ|大森貝塚とモース博士が残したもの

大森貝塚・モース博士のポイントまとめ
  • 1877年(明治10年)、アメリカ人動物学者モースが大森貝塚を列車の窓から発見
  • モースの来日目的は「腕足類の研究」—— 貝塚の発見は偶然の産物だった
  • 同年9〜12月に日本初の学術的発掘調査を実施。記録・分類・報告書作成まで行った
  • 出土した土器の文様を「cord marked pottery」と命名 → 日本語訳されて「縄文」になった
  • 縄文時代」という言葉の起源はモースの命名にある
  • 大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれ、その後の考古学発展の出発点となった

もぐたろう
もぐたろう

以上、大森貝塚とモース博士のまとめでした!「縄文時代」って言葉がアメリカ人の命名から来てるって、初めて知ったときはびっくりしたよね。下の記事では縄文時代の暮らしや縄文土器についてさらに詳しく解説してるから、あわせて読んでみてください!

大森貝塚・モース博士 略年表
  • 1838年
    エドワード・モース、アメリカ・メイン州に生まれる
  • 1877年6月
    腕足類研究のために来日。東京大学教授に就任
  • 1877年6月19日
    横浜〜東京間の列車車窓から大森貝塚を発見
  • 1877年9〜12月
    大森貝塚の学術的発掘調査を実施(日本初)
  • 1879年
    英語報告書「Shell Mounds of Omori」を世界発表。cord marked potteryと命名
  • 晩年
    「日本その日その日」を執筆。ボストン美術館への日本美術品収集に協力
  • 1925年
    87歳で死去。生涯を通じて日本文化への愛着を持ち続けた

📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「大森貝塚」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「エドワード・S・モース」(2026年4月確認)
コトバンク「大森貝塚」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「エドワード・シルベスター・モース」(デジタル大辞泉)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)(要確認)
品川区公式サイト「大森貝墟碑」https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/kaizuka/kaizuka.html(2026年4月確認)

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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