今回は、清水寺の歴史にについて紹介します。
清水寺に観光に行かれる方なんか、お寺の歴史を知っているとより一層寺院観光が楽しめるかと思いますので、この記事を通じてぜひその歴史を知っていただけたら嬉しいなぁと思います。
清水寺の始まり
まずは、今に伝わる清水寺が建てられた由来について紹介しましょう。伝承なので若干フィクションっぽい話も混じってますが気にせずに。
778年、興福寺に賢心(けんしん)という僧がいました。賢心は夢でお告げを受け、お告げに従って音羽山に向かいます。この場所こそが後の清水寺になります。
お告げがあるぐらいなので、やはりそこは特別な場所でした。なんと金色の水が流れており、その水源をたどると行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣を纏った超人オーラプンプンの凄い人物がいたのです!!
行叡居士は、なんと年齢200才!。千手観音を念じ続け、賢心がやってくるのを待っていました。行叡居士は言います。
「ずっとそなたを待っていた。私は東国に向かわなければならない。後をあなたに託したいのだ」
こう言って行叡居士は去っていきます。
賢心は思います。
「あの異様なオーラ・・・!あれはまさしく観音様の化身そのものだ!!」
こうして、賢心は木で千手観音を刻み、行叡居士が住んでいた庵(いおり)に安置したと言います。これが清水寺の始まりと言われています。
※「観音様」って何者なんだ!?って方は以下の記事を参考にどうぞ。

この時点ではまだ立派なお寺とかはありませんが、2年後の780年、清水寺に転機が訪れます。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
780年、音羽山に屈強な男が一人迷い込んできました。
この男は、嫁の病気を治すための鹿の角を手に入れるため、鹿を追っていたところ音羽山に迷い込んできたのです。
※鹿の角は治療薬としてよく利用されていました。モンハンやったことある人はわかるはず。
延鎮(えんちん。賢心が改名した後の名前。賢心と同一人物)は、この男に殺生の罪を説き、男はその教えに深く感心して帰っていったと言います。
この男の名は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)。後に征夷大将軍(軍の総司令官)として、東北地方の蝦夷軍を平定した英雄です。796年、38歳の時ですから相当に優秀な男だったのでしょう。


蝦夷と朝廷の戦いの歴史は長く、774年から811年の38年にも渡ります。これを38年戦争と呼びます。
坂上田村麻呂は801年に蝦夷討伐遠征に向かい、802年、蝦夷軍の総大将だったアテルイを捕らえ、長い長い戦争は朝廷の勝利に終わります。
アテルイは、超有能な総大将でこれまで地の利を活かしたゲリラ戦で徹底的に朝廷軍を蹴散らしてきた強者です。
しかし、坂上田村麻呂には観音様の使者としてやってきた毘沙門天と地蔵菩薩の化身のご加護がありました。この2人の協力もあって坂上田村麻呂はこの大戦を勝利に導くことができたのです。行叡居士は東国に行くと言って音羽山を去りましたが、実はこれを予見してのことだったのかもしれません。
その後も争いは続くものの、アテルイを失った蝦夷軍との戦いは消化試合。朝廷の財政難などもあって811年にひとまずの終止符が打たれます。
長年に渡る戦争の勝利を決定づけた坂上田村麻呂の功績は素晴らしいもので、坂上田村麻呂は名実ともに英雄となり、天皇からも様々な褒美を貰います。
805年、坂上田村麻呂は音羽山を寺地にすることを認められ、さらに810年には、そのお寺を朝廷公認の正式なお寺とすることまで認められます。
こうして、お寺としての清水寺が遂に出来上がったのです。坂上田村麻呂は、延鎮との出会いや戦争中の観音様の支援に感謝の気持ちを込めて、清水寺を建立しました。
炎上の歴史
しかし、残念ながら創建当初の建築物は今ではほとんど残っていません。というのも、これまでに記録に残るだけで9回も火災にあっているからです。
何度も焼失しているのに今のような立派な清水寺が存在するのは、清水寺が多くの人たちから愛されていた証拠でもあります。音羽山の神秘的な環境と観音様信仰の人気が幾たびもの火災から清水寺を救ってくれたとも考えることができますね。
そんな清水寺の歴史も知っておくと、清水寺一つ一つの仏像やお寺が多くの人々に支えられてきた大切な物のように感じられます。
現存する清水寺の多くの建築物は、江戸時代に再建されたものです。
ここまでが、ザックリとした清水寺の歴史。ここから先は、歴史に関連する与太話です。
清水寺と北法相宗
延鎮が興福寺の僧だったことからもわかる通り、清水寺は興福寺と非常に関係の深いお寺です。
興福寺は法相宗という宗派のお寺だったので、清水寺も同じく法相宗に属するお寺です。ところが、今現在の清水寺の宗派は「北」法相宗です。興福寺からは独立しているんです。
興福寺から独立したのは、戦後の1960年代。大西良慶という人物によって清水寺は北法相宗の寺院として独立することになります。
なぜ興福寺と別れたかというと、時代の急激な変化に対応するためだと言われています。戦後の日本では新興宗教が多く登場し、そんな中、大西良慶氏が清水寺の将来に危機感を抱いたのでした。
清水寺の観音様信仰
観音菩薩は、苦しみだらけの世界で生きる私たちを救ってくれる救世主のような存在です。観音菩薩はその人その人に合わせた姿に自分の姿を変化させて人々を救います。
この観音菩薩の関連キーワードとして「水」があります。観音菩薩の仏像を見ると、ほとんどの仏像で手に水瓶を持っています。
そして、清水寺で最も有名なのも音羽の滝。水です。そして延鎮が音羽山で行叡居士に会うキッカケとなったのも金色の水です。
水には魔除け的な意味もあるんですが、観音菩薩の場合、その姿を変化して人々を救う姿を水に例えている・・・という考え方があるようです。
常温だと水、凍らせると氷、蒸発させると水蒸気になります。そして身近には、雨や雪、川、池、海などなど一言に水といっても実に多様な形で存在します。
綺麗な水が流れる場所が観音様信仰の場所として選ばれたのは決して偶然ではありません。現地に足を運び清水寺の観音様信仰を肌で感じてみるのも面白いかもしれません。
清水寺の歴史まとめ
以上、清水寺の歴史についてざっくりと整理してみました!
清水寺にはいろんな見所がありますが、清水寺の歴史を押さえてから観光すると、そこに残る1つ1つの物事や事象の歴史の重みを感じることができるはずです。
偉そうなことを言っておいて私は全然清水寺に行けてないのですが、行ける方はぜひ、その歴史を知って人一倍清水寺を堪能してもらえると嬉しいです!
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