

今回は、古代中国のいちばん最初の王朝である「殷」と「周」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
名前は聞いたことがあっても、「結局どう違うの?」となりやすい2つの王朝を、流れと違いでスッキリ整理していくね。
📚 この記事のレベル:中学歴史(社会) / 高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 定期テスト・共通テスト・大学受験に対応
実は、殷という国は、戦争をするかどうか、狩りに出るかどうか、いつ雨が降るかまで、国の重大事をほとんど「占い」で決めていました。
その殷を武力で倒し、広い土地を一族や家臣に分け与えて治めたのが次の王朝・周です。この記事では、古代中国のはじまりを「占いの国・殷」と「土地わけの国・周」という2つの個性からわかりやすく解説します。
殷と周とは?古代中国の最初の王朝
・殷…占いで神の意思を問い、それにしたがって国を治めた王朝。青銅器と文字の文明を残した。
・周…殷を倒し、領地を一族・家臣に分け与えて広い範囲を治めた王朝。
・両者の交代は、のちの中国で「王朝がかわる理屈」の原型になった。
中国では、黄河の流れのほとりで早くから農耕文明が生まれました。エジプトやインダス、メソポタミア文明と並ぶ、世界でも古い文明のひとつです。この一帯で栄えた文明を黄河文明と呼びます。

その黄河文明の中から、伝説的な王朝「夏」に続いて実在が確認されているのが殷、そしてそれを受けついだのが周です。中国の王朝は「殷・周・秦・漢…」と続いていきますが、殷と周はその出発点にあたります。

殷と周って、どっちが先だったかいつも迷っちゃう…。

「殷が先、周があと」だよ。殷を周が倒した、と覚えると順番を間違えないよ。まずは先輩である殷から見ていこう!
殷王朝——占いで国を治めた神権政治
殷は、紀元前16世紀ごろに湯王が建てたと伝えられています。はじめは何度も都を移しましたが、やがて盤庚という王が現在の河南省安陽の地に都を定めました。この最後の都の跡が殷墟で、20世紀の発掘によって殷が実在の王朝だと確かめられました。
殷の政治のいちばんの特徴は、神権政治でした。王は神や祖先の霊とつながる特別な存在とされ、政治の重要な判断を占いによって下していたのです。

甲骨文字というのは、占いに使った亀の甲羅や牛の骨(甲骨)に刻まれた文字のことです。殷の人々は、骨に熱を加えてできたひび割れの形で神意を読み取り、その占いの内容や結果を文字で刻みました。この甲骨文字が、いま私たちが使う漢字のいちばん古い姿とされています。
もうひとつ殷を象徴するのが、高度な青銅器です。青銅器は主に神や祖先をまつる祭りの道具としてつくられ、精巧な文様で飾られました。上で紹介した后母戊鼎のような巨大な青銅器は、それをつくらせる王の権威そのものを示すものでもありました。
当時の中国は、まだ全土をひとつに束ねる国ではなく、邑と呼ばれる城壁に囲まれた都市が各地に点在していました。殷はその有力な邑の連合を、占いと祭りの権威でまとめる盟主のような存在だったと考えられています。これを邑制国家と呼びます。

占いで政治を決めるって、なんか不安定じゃない…?

逆なんだ。まだ法律や役所が整っていない時代に、「王は神とつながる特別な人だから従うべき」という理屈は、人々をまとめる強力な武器だったんだよ。神の権威で国を治めるから「神権政治」ってわけ。
この神の権威にたよった殷も、やがて内側からほころびていきます。次の章では、殷がどのように滅び、周に取ってかわられたのかを見ていきましょう。
殷の滅亡と「易姓革命」
殷の最後の王が紂王です。伝承では、紂王は残酷でぜいたくにおぼれた暴君として描かれます。とくに有名なのが「酒池肉林」の逸話です。
📌 史実と伝承:酒を池のようにため、肉を林のようにつるして遊んだという「酒池肉林」は、後の時代に紂王の悪政を強調するために脚色された伝承とも言われています。紂王が実際にどこまで暴君だったかは、史料が少なく諸説あります。
この殷を倒したのが、西方の有力な諸侯だった周でした。周の武王は諸侯を率いて殷に攻め込み、牧野の戦いで殷軍を打ち破ります。敗れた紂王は自ら命を絶ち、こうして殷は滅びました。時期は紀元前1046年ごろとされますが、年代には諸説あります。

易姓革命とは、「天が地上の支配をまかせる相手(天命)は、王が徳を失えば別の姓の一族に移る」という考え方です。周は、殷の紂王が徳を失ったから天命が周に移ったのだ、と自分たちの支配を正当化しました。「姓が易(か)わり、命(天命)が革(あらた)まる」から易姓革命。のちの中国では、王朝が交代するたびにこの理屈が使われ続けました。

どうして紂王を、そこまで悪い王として語る必要があったのかしら?

鋭いね。周からすれば「前の王がひどかったから、天が私たちに交代を命じた」という話にしないと、自分たちの反乱が正当化できないんだ。だから紂王の悪さが強調された面もある、と考えられているんだよ。
こうして天命を受けたと宣言した周は、殷とはまったく違うやり方で、広い土地を治めていくことになります。
周の成立と封建制のしくみ
殷を倒した周は、鎬京(現在の西安付近)に都を置きました。しかし周が支配することになった土地は、当時としてはあまりに広く、王ひとりが直接すみずみまで治めるのは不可能でした。
そこで周王が採ったのが封建制です。王は一族の者や功臣に領地(封土)を分け与えて諸侯とし、その土地の支配をまかせました。諸侯は与えられた土地を世襲で治め、代わりに周王に貢ぎ物を納めたり、戦いのときに軍を率いて従ったりする義務を負ったのです。
諸侯の下にも、卿・大夫・士といった家臣が同じように土地を分け与えられ、上下の主従関係がピラミッドのように積み重なっていました。周王を頂点に、土地の分与でつながる巨大な支配のしくみ——これが周の封建制です。


封建制って言われても、いまいちイメージがわかないなあ。

会社の社長が、全国の支店を信頼できる親戚や部下に「この地域はキミにまかせる」と任せるイメージが近いよ。任された人は自分の判断で地域を回すけど、いざというときは本社(周王)の指示に従う。そんな仕組みなんだ。
周の建国を支えた立役者もいます。軍師として武王を助けた太公望(呂尚)や、武王の弟で、幼い次の王を支えて政治の基礎を固めた周公旦です。とくに周公旦が整えた制度や礼は、のちの中国で理想の手本とされ続けました。
宗法——血縁で国をまとめた周の知恵
土地を分け与えるだけでは、諸侯はいずれ独立してばらばらになりかねません。そこで周は、封建制を血のつながりで補強しました。その骨組みが宗法です。
宗法とは、一族を本家(大宗)と分家(小宗)に整理する血縁のルールです。地位や財産は正妻の長男である嫡長子が受けつぎ、本家がつねに分家より上に立ちます。周王は一族全体の本家として、諸侯となった親族の上に自然に立てたわけです。
こうして周は、「土地の分与(封建制)」と「血縁の秩序(宗法)」を組み合わせ、力ずくではなく親族の結びつきで広い国をまとめました。この一族の序列や祖先をまつる礼のあり方は、のちに孔子が理想とした「周の礼」として受けつがれていきます。

わざわざ血縁でしばると、そんなにいいことがあるの?

「他人よりは身内のほうが裏切りにくい」という発想だね。ただ、世代を重ねると血のつながりはどんどん薄くなる。ここが後で周の弱点になっていくんだ。
殷と周は何が違う?ポイントを整理
ここまでの流れをふまえて、殷と周の違いを整理しましょう。ひとことで言えば、殷は「神の権威」でまとめた国、周は「土地の分与と血縁」でまとめた国です。
| 項目 | 殷 | 周 |
|---|---|---|
| 時期 | 前16世紀ごろ〜前11世紀ごろ | 前1046年ごろ〜前256年 |
| 都 | 殷墟(安陽)ほか | 鎬京(のち洛邑) |
| 政治 | 神権政治(占い中心) | 封建制+宗法 |
| 特徴 | 甲骨文字・青銅器・邑制国家 | 土地を分与して諸侯が統治 |
同じ「封建制」でも、周と日本(鎌倉・江戸時代)では結びつきの土台が違います。周の封建制は血縁が土台で、王と諸侯はもともと親戚同士でした。いっぽう日本の封建制は、将軍と武士が御恩と奉公という主従の契約で結ばれ、血のつながりは前提ではありません。「中国=血縁ベース/日本=主従契約ベース」と押さえると、テストで問われる違いを整理できます。

日本史で習った封建制と、名前が同じだから混ざりそう…!

そこがねらわれるポイントだよ。「周は血縁、日本は契約」——この一言だけでも覚えておくと、記述問題でしっかり差がつくよ。
西周の衰退と東周(春秋戦国)へ
血縁でまとまっていた周も、世代が下るにつれて王と諸侯の血のつながりは薄れ、周王の力は少しずつ弱まっていきました。そこへ決定的な事件が起こります。
紀元前770年ごろ、周は西方の遊牧民犬戎の侵入を受け、都の鎬京が攻め落とされました(このとき王だった幽王は殺されたと伝えられます)。周は東の洛邑(現在の洛陽付近)に都を移して立て直しをはかりました。
この都の移転を境に、それ以前を西周、以後を東周と呼び分けます。ただし洛邑に移ってからの周王には、もはや諸侯をまとめる力は残っていませんでした。各地の諸侯が実力で覇権を争う春秋戦国時代(東周)が始まり、この戦乱の中からは孫子のような兵法家をはじめ、諸子百家と呼ばれる多彩な思想家たちが現れました。そして長い争乱の果てに、秦の始皇帝が中国を統一することになります。
🔗 現代とのつながり:殷で生まれた甲骨文字は、いまも私たちが使う漢字の直接の祖先です。また「封建(社会)」という言葉自体も、この周の統治のしくみに由来しています。3000年前の中国が、現代の私たちの言葉の中に生きているわけです。

この続きの中国は、どうなっていくのかしら?

約550年におよぶ春秋戦国の戦乱を経て、最後は秦が中国を統一するんだ。その激動のはじまりが、この東周だよ。ここから先の中国がどう動いていくのかも、追いかけるとおもしろいよ!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「殷は神(神権政治)、周は封(封建制)」と頭文字で対比して覚えると混同しません。年代は殷の滅亡(前1046年ごろ)と洛邑遷都(前770年ごろ)の2つを軸に押さえるのがおすすめです。

結局、いちばん問われやすいのはどこ?

「甲骨文字=殷」「封建制・宗法=周」「易姓革命の意味」の3つは頻出だよ。ここを外さなければ、殷周まわりの問題はしっかり得点できる!
よくある質問(FAQ)
殷は、実在が確認されている中国最古級の王朝です。王が占いで神の意思を問う神権政治を行い、その占いの記録として甲骨文字を残しました。高度な青銅器文化と、城壁都市(邑)の連合体である邑制国家も特徴です。
周は、殷を倒して成立した王朝です。広い土地を治めるため、一族や功臣に領地を分け与える封建制をとり、それを血縁の秩序である宗法で支えました。都を洛邑に移す前を西周、移した後を東周と呼びます。
国のまとめ方が違います。殷は「王は神とつながる特別な存在」という神の権威で人々を従わせました。周は、土地を分け与える封建制と、それを親族の序列で支える宗法という、より制度的なしくみで広い国を治めました。
王が徳を失うと、天が支配を任せる相手(天命)が別の姓の一族に移る、という考え方です。周は「殷の紂王が徳を失ったので天命が周に移った」として、殷を倒した自分たちの支配を正当化しました。以後の中国で王朝交代を説明する理屈になりました。
似ていますが土台が違います。周の封建制は王と諸侯が血縁で結ばれているのに対し、日本(鎌倉・江戸)の封建制は将軍と武士が御恩と奉公という主従の契約で結ばれます。「中国=血縁/日本=契約」と押さえると混同しません。
都の位置が東へ移ったからです。犬戎の侵入で都の鎬京が落ち、周は東の洛邑へ遷都しました(前770年ごろ)。その前を都が西にあった西周、後を東にあった東周と呼びます。東周の時代が、いわゆる春秋戦国時代にあたります。
まとめ
殷と周は、古代中国のはじまりを彩る、対照的な2つの王朝でした。占いと神の権威でまとまった殷、土地の分与と血縁でまとまった周——このコントラストをつかめば、中国史の出発点はしっかり理解できます。

以上、殷と周のまとめでした!このあと中国は春秋戦国の大乱世に突入し、やがて秦が統一へと向かっていくよ。下の関連記事もあわせて読んで、古代中国や同時代の文明もつかんでみてね!
📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』
山川出版社『詳説世界史』
Wikipedia日本語版「殷」「周」(2026年7月確認)
コトバンク「殷」「周」「封建制」「易姓革命」(デジタル大辞泉・日本大百科全書ほか)
世界史の窓「殷」「周」(2026年7月確認)
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