
今回は春秋戦国時代について、中学・高校の世界史がスッと頭に入るように丁寧に解説していくよ!春秋時代と戦国時代の違い、五覇と七雄の覚え方、諸子百家まで、テストに出るポイントをまるごとまとめたよ。
📚 この記事のレベル:中学社会(世界の歴史)/ 高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験に対応
「春秋戦国時代」というと、諸侯が約550年にもわたって殺し合いを続けた混乱の暗黒時代——そんなイメージがあるかもしれません。
しかし実は、この時代こそが人類史に残る「知の大爆発」が起きた時代でした。儒家・道家・法家・兵家……孔子、老子、韓非子、孫武といった、いまも名前が残る偉大な思想家たちが、まさにこの戦乱のさなかから次々と生まれています。
戦争と思想が同時に走った500年——その矛盾に満ちた時代を、誰でもわかるようにほどいていきましょう。
春秋戦国時代とは?3行でわかる概要
- 紀元前770年、周が東の洛邑へ都を移したことで始まり、紀元前221年に秦が統一するまでの約550年間
- 前半の春秋時代は有力諸侯(覇者)が盟主として諸国をまとめ、後半の戦国時代は強国が弱国を滅ぼし合う「下剋上」の時代
- 孔子・老子・韓非子など「諸子百家」と呼ばれる思想家集団が登場した、知の爆発の時代でもある
春秋戦国時代とは、中国の周王朝が衰えてから、秦が中国を統一するまでの約550年間を指す呼び名です。期間は紀元前770年〜紀元前221年。中国の歴史区分のなかでも、とくに長く、とくにドラマチックな時代として知られています。
もともと中国は、紀元前11世紀ごろに成立した周王朝が治めていました。周王は各地の有力者を「諸侯」として封じ、土地と人民を任せる代わりに忠誠を誓わせる仕組みを作ります。これを封建制といい、周王はその頂点に立つ存在でした。
ところが紀元前770年、周は遊牧民の侵入を受けて都を西の鎬京から東の洛邑へ移します(周の東遷)。この東遷を境に、それまで都を西においていた西周に対して、東に都を移したあとを東周と呼びます。そして東周の時代こそが、春秋戦国時代そのものなのです。
では、なぜこの550年が「春秋」と「戦国」という2つの名前で呼ばれるのでしょうか。実はどちらも、後世に伝わる書物の名前に由来しています。前半は孔子が編さんしたと伝わる歴史書『春秋』から「春秋時代」、後半は外交策略をまとめた書物『戦国策』から「戦国時代」と名づけられました。

「春秋」も「戦国」も、もともとは本のタイトルなんだ。歴史の名前が書物から来てるなんて、ちょっと面白いよね!周→春秋戦国→秦→漢という大きな流れは、中国王朝の覚え方の記事でまとめて確認できるよ。
📌 このとき日本は? 春秋時代が始まった紀元前770年ごろ、日本はまだ縄文時代の終わりごろ。戦国末期の紀元前3世紀には、大陸から稲作や鉄器が伝わり弥生時代へと移っていきます。中国で「鉄」が広まった波が、海をこえて日本にも届いていた時代です。

漫画「キングダム」の舞台って、この時代のことなの?

そう!「キングダム」は戦国時代の末期、つまり秦が中国を統一していく紀元前3世紀ごろが舞台だよ。主人公の信や、のちに始皇帝になる嬴政が生きたのが、ちょうど春秋戦国時代の「終わりの章」なんだ。
春秋時代と戦国時代の違いをわかりやすく解説
春秋戦国時代は、大きく前半の「春秋時代」と後半の「戦国時代」に分かれます。同じ「諸侯が争った時代」でも、その戦い方や考え方がガラリと変わるのがポイントです。
春秋時代の特徴は尊王攘夷。諸侯たちはまだ周王を「天下の主」として一応は敬っており、争いはあっても「周王を立てる」という建前は守られていました。そのなかで力をもった有力諸侯が、ほかの諸侯をまとめる盟主(覇者)として認められたのです。
ところが戦国時代になると、その建前すら消えてしまいます。各国の君主は周王に遠慮せず自ら「王」を名乗りはじめ、相手を盟主と認めるどころか、滅ぼして領土を丸ごと奪うようになりました。実力さえあれば家臣が主君を倒して国を乗っ取る——いわゆる下剋上が当たり前の世界へと変わっていったのです。
では、その境目はいつなのでしょうか。ここでカギをにぎるのが、晋という国です。
晋は、いまの中国・山西省のあたりを本拠地とした春秋時代の大国です。のちほど紹介する「春秋の五覇」のひとり文公を出した国、といえば強さがイメージしやすいかもしれません。
ところが春秋時代の後半になると、その晋のなかで有力な家臣たちが力をつけ、やがて君主をしのぐようになっていきます。
一般には紀元前403年、この晋の三家臣(韓・魏・趙)が周王によって正式に諸侯と認められた出来事を、戦国時代の始まりとすることが多いです。実際に晋が韓・魏・趙に分割されたのは紀元前453年ですが、周王による公認(紀元前403年)をもって「戦国時代スタート」とする説が広く採用されています。家臣が主君の国を分け取りし、ついに天子からもお墨付きをもらう——まさに下剋上が完成した象徴的な出来事でした。
| 比較項目 | 春秋時代(前770〜前403年ごろ) | 戦国時代(前403〜前221年) |
|---|---|---|
| 支配の原理 | 覇者が盟主として諸侯をまとめる | 強国が弱国を滅ぼす下剋上 |
| 君主の名乗り | 「公」「侯」など(周王に遠慮) | 自ら「王」を名乗る |
| 周王室への態度 | 尊王攘夷(一応は周王を立てる) | 周王を無視・形骸化 |
| 時代の始まり | 紀元前770年・周の東遷 | 紀元前403年・三晋の諸侯公認 |

春秋時代と戦国時代って、どの年が境目なの?テストで聞かれそうだから知りたい!

実は境目には諸説あって、教科書によって少し違うんだ。でもテスト的には「紀元前403年・晋の三分割」を覚えておけば安心だよ。「晋が韓・魏・趙の3つに割れたら戦国時代スタート」とセットで頭に入れておこう!
春秋の五覇——覇者たちが競った時代(紀元前7〜5世紀)
春秋時代の主役は、なんといっても覇者です。覇者とは、数多くいる諸侯のなかでとくに力をもち、ほかの諸侯をまとめる「盟主」として認められた人物のこと。周王が弱ってしまったぶん、その穴を埋めるリーダー役を、有力な諸侯が代わりに担ったのです。

「覇者」って、今でいうと国際同盟のリーダー国みたいなものだよ。みんなのまとめ役を引き受ける代わりに、いちばん発言力をもつ——そんなポジションをめぐって、有力な諸侯たちが競い合ったんだ。なかでも名を残した5人を「春秋の五覇」と呼ぶよ。
■ 斉の桓公と管仲——最初の覇者
春秋時代で最初に覇者となったとされるのが、東方の大国・斉の桓公です。桓公が覇者になれた最大の理由は、名宰相管仲を登用したことにありました。
管仲はもともと桓公の敵側についていた人物で、かつては桓公を矢で射たことすらある相手でした。それでも桓公は管仲の才能を見抜き、過去のうらみを水に流して宰相に抜てきします。管仲は経済政策と軍備の整備で斉を一気に強国へ押し上げ、桓公は紀元前7世紀前半に諸侯を集めて会盟(同盟の誓い)を開き、覇者の地位を確立しました。
■ 呉越の戦いと臥薪嘗胆
春秋時代の終盤、南方で激しく争ったのが呉と越です。この2国の戦いから生まれたのが、現代でもよく使われる四字熟語臥薪嘗胆でした。
呉王夫差は、越との戦いで父(闔閭)を失った無念を忘れないために、あえて固い薪の上で寝起きし(=臥薪)、復讐心を燃やし続けました。一方、その夫差に敗れた越王勾践は、苦い胆を毎日なめて屈辱を忘れまいとし(=嘗胆)、ついに呉を打ち破ります。臥薪嘗胆とは、この故事から「目的のために苦しい努力を耐え忍ぶこと」を意味する言葉になりました。
📌 五覇は諸説あり:代表的な説は「斉の桓公・晋の文公・秦の穆公・宋の襄公・楚の荘王」。これに呉王夫差・越王勾践を含める別説もあります。教科書によって顔ぶれが変わるので、まずは「斉の桓公・晋の文公」の2人を確実に押さえておきましょう。
戦国七雄と下剋上の時代(紀元前5〜3世紀)
戦国時代に入ると、数多くあった国はしだいに整理され、最終的に7つの強国が中国を分け合う形になります。この7カ国を戦国七雄と呼びます。顔ぶれは韓・魏・趙・燕・楚・斉・秦の7国です。

7国の位置関係を大づかみにすると、次のようになります。西の辺境に秦、南の広大な土地に楚、東の海沿いに斉、北方に燕。そして中央(中原)に、晋が分裂してできた韓・魏・趙が並びます。この中央の3国は地理的に四方から攻められやすく、つねに激しい争いの舞台となりました。
七雄のなかで、最初に力をつけたのは魏でした。しかしのちに西の秦が急速に台頭し、最終的にはこの秦が残り6国をすべて飲み込んでいくことになります。その秦が強くなった仕組みは、のちの章でくわしく見ていきましょう。

戦国七雄って全部覚えなきゃいけないの?7つもあって混乱しそう……。なんかいい覚え方ある?

コツは「3+4」で分けること!まず韓・魏・趙の3国は「晋が分裂してできた新しい国」グループ。残りの燕・楚・斉・秦は「春秋時代から続く古い国」グループ。この2グループに分けると、ぐっと覚えやすくなるよ。「カンギチョウ(韓・魏・趙)+エンソセイシン(燕・楚・斉・秦)」とリズムで唱えるのもおすすめ!
社会の変革——鉄の普及と実力主義の台頭
春秋戦国時代を語るうえで見逃せないのが、戦争の裏で静かに進んでいた社会の大変化です。じつはこの時代、中国の社会の仕組みそのものが根っこから変わりました。そのきっかけとなったのが鉄器の普及です。
それまで農具は木や石が中心でしたが、この時代に丈夫な鉄製農具が広まります。鉄の鋤や鍬で硬い土も深く耕せるようになり、さらに牛に農具を引かせる牛耕も始まりました。その結果、農業の生産力が飛躍的に高まったのです。
食料が余るようになると、それを売り買いする商業が発達し、青銅貨幣が広く流通しはじめます。経済が回り、人もモノも活発に動く社会へと変わっていきました。
そして経済の変化は、社会の身分のあり方も大きく揺さぶります。それまでは生まれた家柄で立場が決まる世襲の世界でしたが、富や能力を手にした新しい層が力をもつようになり、「家柄より実力」という価値観が広がっていったのです。能力さえあれば低い身分から大臣にのし上がれる——下剋上が当たり前になった戦国時代の土台は、こうした社会の変化のうえに築かれていました。
諸子百家がこの時代に一気に花開いたのは、けっして偶然ではありません。戦乱が続くなか、各国の君主にとって「どうすれば国を強くし、生き残れるか」は何より切実な問いでした。
しかも「家柄より実力」の風潮が広がり、身分が低くても優れた考えをもつ者なら君主に登用されるチャンスがありました。そこで多くの思想家が、自分の「国を治めるアイデア」を引っさげて各国を渡り歩いたのです。言いかえれば、諸子百家とは君主にプランを売り込む”政策コンサルタント集団”でした。需要(君主の悩み)と供給(実力主義の人材)が出会ったからこそ、思想の大爆発が起きたのです。
諸子百家の登場——思想の大爆発(百家争鳴)
諸子百家とは、春秋戦国時代に登場した数多くの思想家・学派をまとめて呼ぶ言葉です。「諸子」はさまざまな先生たち、「百家」は多くの学派という意味。これほど多様な思想が同時に競い合ったようすを、四字熟語で百家争鳴(百の学派が鳴き競うように主張し合う)と表現します。
数ある学派のなかでも、テストや教養で押さえておきたいのは儒家・道家・法家・兵家・墨家の5つ。ここからは、それぞれの代表人物と考え方を順番に見ていきましょう。
■ 儒家——孔子が説いた「礼と仁」
儒家の祖は、いわずと知れた孔子(紀元前551年ごろ〜紀元前479年)です。孔子は、力で人を従わせる政治ではなく、仁(思いやり)と礼(社会の秩序・礼儀)にもとづく政治こそが理想だと説きました。
孔子の教えは弟子たちによって受け継がれ、その言葉をまとめた書物が『論語』です。儒家の思想はのちの漢の時代に国の正式な学問として採用され、その後2000年以上にわたって中国はもちろん、日本や朝鮮半島の社会にも深い影響を与え続けました。

礼と仁こそが国を治める基本だ。力で押さえつけるだけでは、人の心は決してついてこないものだよ。
■ 法家——韓非子が説いた「法と罰」
儒家とは正反対の立場をとったのが法家です。その思想を大成したのが韓非子(生年不詳〜紀元前233年ごろ)でした。
法家の考え方はシンプルです。「人は基本的に自分の利益で動くものだ。だから道徳に期待するのではなく、厳格な法律と賞罰で国を治めるべきだ」というもの。手柄を立てた者には必ず褒美を、罪を犯した者には必ず罰を——この明確なルールこそが国を強くすると主張しました。
この実利的な法家思想を国づくりに全面採用したのが、西の秦でした。のちに秦が中国を統一できた背景には、この法家のシステムが大きく関わっています(くわしくは秦の台頭の章で解説します)。
■ 道家——老子・荘子が説いた「無為自然」
道家の代表は老子と荘子です。儒家が「礼を整えよう」、法家が「法で縛ろう」と人為的なルールを重んじたのに対し、道家はまったく逆。「人が作ったルールにとらわれず、無為自然——自然のあるがままに身をゆだねて生きるのがよい」と説きました。
あくせくと争う戦乱の世にあって、肩の力を抜いた道家の思想は、独特の安らぎを人びとに与えました。のちに民間信仰と結びついて道教へと発展し、儒教とならんで中国文化の柱のひとつとなっていきます。
■ 兵家——孫武(孫子)の兵法
戦乱の時代だからこそ重んじられたのが、戦争の理論を説く兵家です。その代表が孫武(孫子)。彼が著したと伝わる『孫子』は、2500年たった今もビジネス書や自己啓発書で引用される、世界的なロングセラー兵法書です。
孫子の兵法のすごさは、「いかに勝つか」ではなく「いかに戦わずに目的を達するか」を最上としたところにあります。戦いはコストとリスクが大きい。だからこそ、戦う前に勝敗を見極め、できれば戦わずに勝つのが最善だ——という発想は、現代の経営戦略にもそのまま通じます。

百戦百勝が最善ではない。戦わずして敵を屈服させること——それこそが最善なのだ。
■ 墨家——墨子が説いた「兼愛・非攻」
最後に紹介するのが墨家。その祖墨子は、身分の上下にかかわらずすべての人を平等に愛そうという兼愛と、戦争に反対する非攻を説きました。身分秩序を重んじる儒家を真っ向から批判した点が特徴です。
墨家は戦国時代に大きな勢力をもち、一時は儒家と人気を二分するほどでした。しかし、厳しい規律の集団であったことや、その平等・反戦の思想が秦の統一後の中央集権的な国づくりと相いれなかったことなどから、やがて急速に衰えていきます。

こうやって並べると、諸子百家って今の会社経営やコンサルにも通じるものがあるわね!

まさにそう!諸子百家を「君主の悩みに答えるコンサルタント軍団」と考えるとイメージしやすいよ。「思いやりで治めよう(儒家)」「ルールで縛ろう(法家)」「自然体でいこう(道家)」——同じ”国を強くしたい”という相談に、まったく違う提案をぶつけ合っていたんだ。だからこそ思想が一気に磨かれたんだよ。
秦の台頭——商鞅の変法と合従連衡
戦国七雄のなかで、最初から強かったわけではないのが秦です。秦はもともと中国の西のはずれに位置する辺境の国で、中原の国々からは「文化の遅れた田舎者」と少し見下されていました。そんな後進国だった秦を、一気に最強国へと押し上げたのが商鞅による大改革——商鞅の変法です。
■ 商鞅の変法——秦を最強にした大改革
紀元前4世紀のなかば、秦の孝公は、よその国から来た改革者・商鞅を思いきって登用しました。商鞅は前章で見た法家の考え方にもとづき、秦のしくみを根本から作り変えていきます。その内容は、おおまかに次のようなものでした。
これらの改革の柱は、ひとことで言えば「耕戦(こうせん)」——農業(耕)で国を富ませ、戦争(戦)で手柄を立てた者を引き上げる、という考え方です。国じゅうの人びとが「働けば豊かになり、戦えば出世できる」と思える仕組みを作ったことで、秦は急速に富国強兵を実現しました。

商鞅の変法は、今でいう「人事・評価制度の大改革」みたいなものだよ。生まれた家じゃなくて、出した成果でちゃんと評価される——そう決めたことで、国じゅうのやる気が一気に上がったんだ。ただし法をきびしく徹底したぶん恨みも買って、商鞅自身は孝公の死後、悲しい最期をとげてしまうんだ……。
■ 合従連衡——蘇秦と張儀の外交バトル
商鞅の変法で秦が抜きん出て強くなると、残りの6国は強い危機感をいだきます。「このままでは1国ずつ秦に飲み込まれてしまう」——そこで生まれたのが、有名な外交戦略合従連衡です。これは、秦と6国がくり広げた外交カードの切り合いでした。
まず蘇秦という人物が唱えたのが合従策。これは「南北に連なる6国が縦に手を結び、力を合わせて西の秦に対抗しよう」という同盟戦略です。弱い者どうしが団結して、強い秦を封じ込めようという作戦でした。
これに対し、秦の側について合従を打ち破ろうとしたのが張儀です。張儀が唱えた連衡策は、「秦が6国と1国ずつ横につながって個別に同盟を結び、6国の団結をバラバラに崩す」という戦略でした。たくみな弁舌で各国を切りくずした連衡策によって合従は破られ、最終的にこの外交戦は秦に軍配が上がります。
📌 合従連衡の覚え方:「合従」は縦(6国が南北に縦につながって秦に対抗)=蘇秦。「連衡」は横(秦が各国と横に1対1で同盟)=張儀。「ソシン=合従=縦」「チョウギ=連衡=横」とセットで覚えると混同しません。

武力だけじゃなくて、こんな外交の駆け引きで天下が動いていたなんて面白いわね。

そうなんだ!合従連衡は、今でいうと国どうしの「同盟外交」そのものだよ。みんなで手を組んで強国に対抗するか(合従)、強国とつながって生き残るか(連衡)——この駆け引きは、現代の国際政治にもそっくりそのまま当てはまるんだよね。
秦による中国統一(紀元前221年)——春秋戦国時代の終わり
商鞅の変法で国力を蓄え、合従連衡の外交戦も制した秦は、いよいよ天下統一へと動き出します。その総仕上げをやってのけたのが、のちの始皇帝、すなわち秦王政(嬴政)でした。漫画「キングダム」で主人公・信とともに天下を目指す、あの嬴政です。
嬴政は紀元前230年から、残る6国を次々と攻め滅ぼしていきます。その順番は韓→趙→魏→楚→燕→斉。一国また一国と倒し、ついに紀元前221年、最後に残った斉を滅ぼして中国統一を成しとげました。約550年にわたって諸侯が争い続けた春秋戦国時代は、ここに終わりを告げたのです。

そもそも「始皇帝」ってどういう意味なの?王とは違うの?

いい質問だね!嬴政は「自分はただの王よりすごい、中国で初めての存在だ」と考えて、神話の三皇五帝から「皇」と「帝」をとり、皇帝という新しい称号を作ったんだ。そして自分はその「最初(始)の皇帝」だから始皇帝。「これからは二世皇帝、三世皇帝と続いていくぞ」という意味も込められていたんだよ。
統一後の始皇帝は、バラバラだった中国を一つにまとめるため、さまざまな統一政策を打ち出します。地方を君主直属の役人が治める郡県制を全国に敷き、国ごとに違っていた度量衡(長さ・容積・重さの基準)や貨幣、さらには文字までも統一しました。北方の遊牧民の侵入に備えて万里の長城を整備したのも、この始皇帝の時代です。

こうして550年つづいた春秋戦国時代は幕を閉じたんだ。でも、あれほど強かった秦は、始皇帝の死後わずか15年ほどであっけなく崩壊してしまう。そのあとは項羽と劉邦が天下を争い、勝った劉邦が漢を建てて新しい時代へ——という流れにつながっていくよ。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:まず「春秋=五覇・覇者がまとめるリーダー政治」「戦国=七雄・下剋上の実力主義」で大きく2つに分けましょう。諸子百家は「儒(孔子)・法(韓非子)・道(老子)・兵(孫子)・墨(墨子)」の5点セットで整理。合従連衡は「蘇秦=合従=縦/張儀=連衡=横」と対で覚えると、比較問題でも迷いません。
| 区分 | 春秋時代 | 戦国時代 |
|---|---|---|
| 始まりの年 | 紀元前770年(周の東遷) | 紀元前403年(晋の三分割) |
| 主役 | 春秋の五覇(覇者) | 戦国七雄 |
| 政治の原理 | 尊王攘夷・覇者が盟主 | 下剋上・王号自称 |
| 代表的な出典 | 歴史書『春秋』 | 外交策の書『戦国策』 |

年号がいっぱいあって不安……。最低限ここだけは押さえとけ、っていう年号はどれ?

この3つだけは絶対!前770年(春秋スタート=周の東遷)・前403年(戦国スタート=晋の三分割)・前221年(秦の統一)。「ナナナ・ナレイ・ニニイチ」みたいにリズムで唱えると、3点セットでスッと出てくるよ。あとは「五覇=春秋」「七雄=戦国」をセットにしておけば、たいていの問題はカバーできるよ!
春秋戦国時代の理解を深めるおすすめ本

春秋戦国時代をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を2冊紹介するよ!授業やテストの先を行きたい人は、ぜひ手に取ってみてね。
春秋戦国時代 よくある質問
紀元前770年(周の東遷で東周が成立)から紀元前221年(秦の始皇帝による中国統一)まで、約550年間にわたる中国の動乱の時代です。周王朝が衰え、各地の諸侯が争い合うなかで、孔子・老子・韓非子など「諸子百家」と呼ばれる多くの思想家が生まれた時代でもあります。
春秋時代は、覇者(盟主)が周王を立てつつ諸侯をまとめる「尊王攘夷」の時代でした。一方、戦国時代になると各国の君主が自ら「王」を名乗り、強国が弱国を滅ぼし合う「下剋上」の時代へと変わります。両者の境目は、有力国の晋が韓・魏・趙に分裂した紀元前403年とされることが多いです。
諸子百家とは、春秋戦国時代に活躍した多様な思想家・学派の総称です。代表的な5学派は、儒家(孔子・思いやりの「仁」と秩序の「礼」)・道家(老子・荘子の「無為自然」)・法家(韓非子の「法と賞罰」)・兵家(孫武=孫子の兵法)・墨家(墨子の「兼愛・非攻」)。各国の君主に統治のアイデアを売り込む、いわば政策コンサルタント集団でした。
戦国七雄は韓・魏・趙・燕・楚・斉・秦の7カ国です。「3+4」で分けると覚えやすくなります。まず韓・魏・趙の3国は「晋が分裂してできた新しい国」グループ、残る燕・楚・斉・秦は「春秋時代から続く古い国」グループ。最終的にこの中の秦がすべてを滅ぼして統一しました。
最大の理由は、商鞅の変法による富国強兵です。秦は法家思想にもとづき、家柄ではなく軍功(戦争の手柄)で出世できる仕組みを整え、農業を奨励して国力を高めました。さらに張儀の連衡策で他国の同盟(合従)を切りくずす外交にも成功。これらの蓄積をもとに、紀元前230〜221年に6国を次々と滅ぼして統一を実現しました。
合従(がっしょう)は蘇秦が唱えた「6カ国が縦(南北方向)に同盟して秦に対抗する」戦略、連衡(れんこう)は張儀が唱えた「秦が各国と横断的に個別同盟を結んで合従を崩す」戦略です。「合従=縦・蘇秦」「連衡=横・張儀」と対にして覚えると混同しません。結果的には秦の連衡策が勝りました。
まとめ

以上、春秋戦国時代のまとめでした!「キングダム」が好きな人は、この時代の背景を知ると物語がもっと面白くなるはずだよ。下の記事では、秦の統一後に天下を争った項羽と劉邦、そして漢の時代もくわしく解説しているので、あわせて読んでみてください!
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前770年周の東遷・東周成立(春秋時代の始まり)
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前7世紀前半斉の桓公が覇者となる(管仲を宰相に登用)
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前551年ごろ孔子誕生(儒家の祖)
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前403年晋が韓・魏・趙に三分割→戦国時代の始まり
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前4世紀なかば秦の孝公が商鞅を登用・商鞅の変法を実施
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前4世紀後半蘇秦の合従策・張儀の連衡策(外交バトル)
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前260年長平の戦い(秦が趙を大破)
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前230〜前221年秦が韓→趙→魏→楚→燕→斉を順に滅ぼす
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前221年秦王政が「始皇帝」を称し中国統一(春秋戦国時代の終わり)
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』
Wikipedia日本語版「春秋時代」「戦国時代(中国)」「諸子百家」(2026年6月確認)
コトバンク「春秋戦国時代」「諸子百家」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説世界史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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