今回は、第一次世界大戦のきっかけとなった三国同盟と三国協商について、わかりやすく丁寧に解説するよ。
三国同盟・三国協商とは?
三国同盟・三国協商は、第一次世界大戦が起こった当時のヨーロッパ各国の同盟・協力関係のことを言います。
名前のとおり、この同盟・協商は3カ国で構成されており、次のような構成メンバーでした。
三国同盟はなぜ結成されたのか
三国同盟は1882年に結ばれました。三国同盟は、第一次世界大戦の約20年前から存在した歴史ある同盟関係です。
三国同盟のきっかけは、1870年にドイツがお隣のフランスと戦争をしたことでした。(この戦争を「普仏戦争」と言います。)
当時、ドイツは一つの大きな国ではなく、いくつかの諸国の集まりで構成されていました。さらに、諸国の中で特に強い力を持っていたプロセイン王国という国が、諸国をまとめて統一国家を作り上げようと考えました。
その統一国家の樹立に邪魔だったのがフランスです。フランスは、お隣に大国が登場するのをよく思わなかったのです。このフランスとドイツ諸国の対立から起こったのが普仏戦争です。
普仏戦争は、ドイツ(諸国の集まり)が勝利し、1871年についに諸国が統一されてドイツ帝国(以下「ドイツ」と表記します)が誕生します。
普仏戦争以降、ドイツとフランスは犬猿の仲となります。当然、ドイツは軍事・経済などの面でフランスの力を抑えようとしますが、フランスは列強国の一員です。フランスに対抗することは簡単ではありません。
そこでドイツは、他国と協力してフランスを牽制することにしました。この時にドイツが目をつけたのが、フランスに隣接しているイタリアとオーストリアでした。
イタリアはフランスのアフリカ植民地の拡大に嫌悪感を持っていたし、ロシア・ドイツという2大国に挟まれたオーストリアは、当時、ドイツと協力関係をもちながら、ロシアの圧力に対抗しようとしており、利害が一致したのです。
ドイツは1882年、イタリア・オーストリアと軍事同盟を結びました。これが三国同盟です。
ドイツの狙いは、イタリア・オーストリアでフランスを挟み込み、外交的・地理的にフランスを孤立させることでした。
一方のフランスも1894年、これに対抗するためにロシアと同盟関係(露仏同盟)を結びます。フランス・ロシアでドイツを挟み撃ちにして圧力をかける狙いです。
まとめるとこんな感じです。
フランスをいつでもボコボコにできるようにしておきたいけど、俺一人じゃ無理だから、オーストリアとイタリアと同盟を結んで、フランスを包囲するぞ。
ドイツとは、複雑な歴史があるけど、「ロシアが邪魔!」という点でドイツと利害が一致するし、ドイツに協力するのが得策!
アフリカに勢力を拡大するフランスを警戒していたから、三国同盟でフランスの動きを抑えられるなら、イタリアのためになる。
三国協商はなぜ結成されたか
1871年にドイツが統一されて以降、ドイツの国力は増し続け、植民地政策を拡大していきます。
ドイツが特に注力したのは中東方面でした。
アフリカ方面ではイギリス・フランスが植民地支配を強め、
ロシアは極東(中国・朝鮮・日本方面)を影響下に置こうと力を注いでおり、
ドイツはこれら列強国(イギリス・フランス・ロシア)と直接ぶつかるのを避けてる形で中東に狙いを定めした。
とはいえ、完全に列強国を避けることは不可能であり、イギリスがドイツの植民地政策に強い警戒心を持つようになります。なぜなら、イギリスは、インド・エジプト・アフガニスタン・イランなど中東の一部を影響下に置いており、ドイツが中東で植民地を拡大し続ければ、いずれイギリスと衝突することは明らかだったからです。
そこで、イギリスは1904年、ドイツと敵対しているフランスと協力関係(英仏協商)を結ぶことになります。
しかし、これだけではドイツを牽制することができません。当時、イギリスはロシアと敵対関係にあり、ドイツを敵に回すと、ドイツとロシアが手を組んでしまうかもしれないので、ドイツに迂闊にちょっかいを出すことができなかったのです・・・。
ところが、1904年に起こったとある戦争により、このヨーロッパの関係図が大きく変化することになります。その戦争こそが、日本とロシアが戦った日露戦争です。
ロシアは、日露戦争の敗北により極東への進出計画を断念。植民地政策の大きな方針転換に迫られます。
そして、このロシアの方針転換をイギリスが巧みに利用しました。
イギリスは、「戦争や内紛で疲弊している今のロシアなら、強硬な態度は取れないだろうし、交渉に応じてくれるだろう」と考えて、ロシアに次のような提案をします。
ロシアさんって今、極東に代わる新しい支配地を探してるんだよね?
1つ提案なんだけど、俺(イギリス)の影響下にあるアフガニスタン・イラン・チベットは、候補地から外して欲して欲しいんだよね。
もちろんこれらの国はロシアと地理的に近い国だし、無条件にとは言わない。話し合いで支配領域を決めよう。日露戦争が終わったばかりだし、ロシアだって俺と戦争したくないだろ?
そのかわりに、バルカン半島(ギリシャ・ブルガリア方面)のことは口出ししないから好きにしていいよ!
(バルカン半島はドイツも狙ってるから、これでロシアとドイツが対立してくれれば一石二鳥だわww)
ロシアはこの提案に乗り、1907年、ロシアとイギリスの間で英露協商が結ばれました。
こうして、ロシアの次のターゲットがバルカン半島に決まると、次はロシアとドイツが対立するようになります。
ドイツは、バルカン半島経由で中東を植民地にしようと考えていたので、ロシアにバルカン半島を奪われるわけにはいかないからです。
これによって、ロシア・イギリス・フランスはドイツという共通の敵を持つことになります。おまけにロシア・イギリス・フランスはそれぞれ次のような協力関係を結んでいました。
協力関係 | 協力国1 | 協力国2 | 内容 |
---|---|---|---|
露仏同盟(1894年) | ロシア | フランス | ドイツに対抗するため |
英仏協商(1904年) | イギリス | フランス | ドイツに対抗するため |
英露協商(1907年) | イギリス | ロシア | 植民地争いを交渉で解決するため (ロシアとドイツを対立させるため) |
ドイツという共通の敵を持ち、強固な関係で結ばれたロシア・イギリス・フランスの関係のことを三国協商と言います。
まとめるとこんな感じです。
ドイツが強くなりすぎて邪魔だから、利害の一致するロシア・フランスと協力関係を結んで、ドイツの動きを封じるぞ!
日露戦争でアジア侵略は失敗したから、次はイギリスと交渉してバルカン半島を狙うことにした。
ドイツもバルカン半島を狙っていて邪魔だから、イギリス・フランスと協力してドイツに圧力をかけるぞ。
普仏戦争で敗れて以来、「ドイツまじでぶっ○す」と思い続けてきた。
イギリス・ロシアもドイツを良く思っていないし、三国協商を結んで今度こそドイツをフルボッコにしてやるぞ。
「同盟」と「協商」の違い
三国同盟と三国協商ですが、1つ気になるのは「同盟」と「協商」の違いです。私自身も気になったので、少し調べてみました。
同盟よりも協商の方がゆるいイメージだね。
第一次世界大戦へ・・・
三国同盟に対抗する形で三国協商が結ばれると、次第にロシアがターゲットにしたバルカン半島の情勢が不安定になってきます。
1914年、オーストリア領のサラエボという場所(現ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)で、オーストリアの帝位継承予定者(皇太子)が、セルビア王国のテロリストに暗殺される事件が起こります。(サラエボ事件)
サラエボ周辺の地理は、以下の地図を参考にしてみてください。
この事件を受けて、オーストリアはセルビア王国に宣戦布告。戦争が起こります。
すると、ロシアがセルビア王国の支援を決定します。この戦争をきっかけにバルカン半島からオーストリアの影響を一掃しようと考えたのです。
こうなると、ドイツが黙っていません。オーストリアは、ロシアに対抗する大事な同盟国ですし、バルカン半島をロシアに奪われれば、ドイツの中東支配計画が頓挫してしまいます。
ロシアに対抗するためにドイツがオーストリア側で参戦すると、ロシアと協力関係にありドイツを敵対視していたフランス・ドイツも参戦。
また、オーストリア・ドイツが参戦したことで、三国同盟のもう1国であるイタリアも参戦。(ただし、イタリアはあまり戦いには参加しませんでした。)
こうして、オーストリアVSサラエボだったのが、三国同盟VS三国協商へと発展し、ヨーロッパ全体を巻き込んだ第一次世界大戦が起こるのです。
コメント
参考にさせていただきました。
以下ご確認ください。
普仏戦争は、ドイツ(諸国の集まり)が勝利し、1971年についに諸国が統一されてドイツ帝国(以下「ドイツ」と表記します)が誕生します。
→1871年では?
誤字のご指摘ありがとうございます。修正いたしました。