今回は、仏と神の信仰の1つである本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)について紹介したいと思います。
本地垂迹説とは簡単に言ってしまえば、「日本の神々と大陸から伝来した仏教を融合させた日本オリジナルの宗教信仰法」の1つです。
本地垂迹説とは神と仏の融合である・・・、なんだかわかるようなわからないようなって感じですよね。表現が抽象的すぎて、具体的に何がどうなっているのかどうもわかりにくい。
というわけで、「本地垂迹説とはなんぞや?」っていうのを紹介してみようと思います。
本地垂迹説の歴史
まずは日本で仏様と神様が出会った頃の話から始めましょう。
日本人の八百万の神へ信仰は古来から行われていましたので、「仏様と神様はいつ出会うことになったのか。」という問いの答えは、「日本に仏教がいつ伝来したのか?」という答えと同じになります。
そしてその答えは、古墳時代末期、550年ごろと言われています。日本への仏教伝来の歴史については以下の記事でも紹介しています。
仏教伝来当時、仏様は蕃神(ばんしん。異国の神のこと)と呼ばれていました。
日本に仏教が伝わった初期の頃は、仏様はたくさんいる神々の1人だと思われていたわけですね。ところが、仏教の教えを人々が知るようになると、だんだんと仏様は神様とは違うということがわかってきます。
仏様と神様の違いはザックリと以下のような感じ。(細かい点は無視してます!)
本地垂迹説と天皇
仏教が日本に普及し始めると、仏教は政治と密接な関わりを持つようになります。
その代表例とも言えるのが奈良時代に奈良の大仏を造立したことで有名な聖武天皇(しょうむてんのう)。
聖武天皇は、「仏教を信じれば、守護神が国を守ってくれる!!」という仏教の教えを深く信仰し、政治に仏教の教えを多く取り入れました。奈良の大仏も、「こんなでっかい大仏造れば、きっとその信仰心も認められて国は守護神で守られるやろ!!」という聖武天皇の想いで造られたものです。
こうして、神の子孫たる天皇が仏教に深く帰依するようになると、神様と仏様の関係も微妙になっていきます。
一見、神様の方が偉そうに見えるけど、その神様の子孫が仏様にことを信仰しているんです。すると、仏様の方が偉いようにも思えてきます。
こんな感じで神様と仏様の関係が曖昧だったのが奈良時代後期。そして、それを象徴するのが道鏡(どうきょう)という僧侶の存在です。
道鏡は、仏教界の頂点に立つ人物で皇位簒奪を狙いました。当時の天皇は女帝の称徳天皇。仏教を信仰する称徳天皇にとって道鏡は教えを請う人物であり、道鏡の地位は相当に高かったのです。
この皇位簒奪は失敗に終わりますが、日本史上でも最大クラスの天皇家断絶の危機だったと言われています。
当時の日本は天皇主権の時代。神の子孫である天皇が国で一番偉い権力者です。だから、「仏様の方が偉い!」という考え方はあってはならないものだったんです。道鏡の皇位簒奪未遂事件は、そのことを世に広く知らしめました。
また、「仏様の方が神様より下だ!」って考え方もまたダメでした。もし神様より仏様の方が身分が下だとしたら、天皇は仏教など信仰する必要がないのです。
しかし、歴代の多くの天皇は仏教を深く信仰し続けてきました。だから仏様の方が下になってもダメなんです。
誰かが意図したのか、それとも自然発生的なのかわかりませんが、このような神様と仏様の優劣がつけ難い状況が続いているうちに、次第に「実は仏様と神様って根本的には同じなんだ。違うのは、神様は仏様の化身で人々を救うために現世に現れているってところだけなんだ。」って発想が生まれました。
この思想こそが、本地垂迹説そのものになります。
本地垂迹説と神仏習合
本地垂迹説と似た意味の言葉で神仏習合(しんぶつしゅうごう)というのがあります。
神仏習合とは、神と仏を合わせて信仰する日本独自の宗教信仰を意味する言葉。そして本地垂迹説はそんな神仏習合の1つの手法ということになります。
ここでは詳細は省略しますが、神仏習合の歴史は簡単にこんな感じです。
本地垂迹説と密教
奈良時代に様々な遍歴を経た後、本地垂迹説が本格的に広まるのは平安時代になります。
平安時代になると、最澄・空海という偉大な僧侶たちが唐から密教という最新の仏教の教えを日本に伝えましたが、この密教も本地垂迹説に大きな影響を与えます。
密教とは簡単に言ってしまうと、「仏教の教えは難解であり、その教えを言葉で具現化することは不可能である。悟りを開きたいなら、厳しい修行を積み、己の第六感で何かを感じるんだ!!」っていう教え。
この「己の第六感で何かを感じる」ために密教では、山奥などの厳しい環境での修行が度々行われました。この山奥での厳しい修行のことを修験道(しゅげんどう)と言います。
そして、山国の日本では山は神の宿る場所であり山岳信仰というのが昔からありました。
神の宿る山で、仏教の教えに基づいて修行をする。山に限った話でもありませんが、このような神と仏の接近によって本地垂迹説は少しずつ広まっていきました。
本地垂迹説の「本地」と「垂迹」
ところで、本地垂迹説の「本地垂跡」って一体どーゆー意味なんでしょうか。
実はちゃんと意味があって本地垂跡は「本地」と「垂迹」っていう言葉に分けることができます。どちらも仏教用語で難しいのですが、簡単に言ってしまうと
本地は「本物」、垂迹とは「仮の姿」を意味します。そして、これを合わせた本地垂迹説は「本来の仏様が仮の姿をとって現世に現れたのが神様であるという説」という意味になります。
これは、法華経というお経が大きく2つのシーンに分けられていて、それぞれ「本門」と「迹門」ということに由来します。
本門は、久遠実成(くおんじつじょう)という永遠不変の仏に関する話。
迹門は、お釈迦様の説法についてのお話。
本地垂迹説が広まった平安時代は、真言宗と天台宗が人気の宗派でしたから、本地垂迹説は天台宗の影響を大きく受けていると言えます。
本地垂迹説まとめ
以上、本地垂迹説についての紹介でした。
仏と神の融合(神仏習合)と一言に言っても、その在り方は実に多様です。そして、そんな多様な神と仏の関係の1つが、本地垂迹説だったのです。
ちなみに、鎌倉時代に入ると反本地垂迹説という考え方まで登場します。これは「神は仏の化身である」の反対で「仏は神の化身である」という考え方です。
鎌倉時代は、浄土宗を始めとした日本仏教の革命期です。仏教革命の波の中で、本地垂迹説もまた変化していったわけです。
反本地垂迹説は、鎌倉時代中期に日本が蒙古(元寇)の撃退に成功すると、「日本は神国だから負けるはずがない!」「元寇を追い払った嵐は神風だ!」とかそんな神を崇拝する考え方が広まるのに合わせて、ますます盛んになります。
こんなことを言うと怒る人もいるかもしれませんが、本地垂迹説と反本地垂迹説は相反しているけれど、ぶっちゃけどっちが本当かなんてわかりません。これらはあくまで多くある考え方の一説に過ぎないのです。
それに時代が変われば人々の考え方は変わるもの。本地垂迹説というのは古代の日本人にとって一番馴染みやすい考え方の1つだったと考えることもできます。
日本人は異国の文化を日本の文化と融合させるのがとても得意です。ナポリタンかカレーとかラーメンとかね!!(食べ物ばかり)そんな国民性の現れの1つが本地垂迹説であるのだと私は思います。
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