今回は、平安時代に登場する滝口の武士について、わかりやすく丁寧に紹介していくよ。
日本史の教科書なんかだと似たような言葉で
とかが登場して非常にややこしいですが、その違いなんかもお話できればと思います。
滝口の武士は天皇の住処(内裏)を守る護衛隊のこと
滝口の武士とは天皇の住む内裏(だいり)という場所を守る警護部隊のことを言います。
天皇の間近で警護をするので、誰でもなれるわけではなく選ばれた者のみがなることができる役職でした。
滝口の武士が置かれたは9世紀末の宇多天皇の頃。当時の平安京は、重税による治安の悪化のせいで盗賊たちが暴れており、大きな問題となっていました。盗賊らが狙っているのは、地方から京に集められた稲などの官物。時には、内裏にまで侵入することもあり、この対策として滝口の武士が設けられたと言われています。
ちなみに、治安悪化が深刻になった宇多天皇時代からおおよそ半世紀後、特に地方の人々の不満が爆発し、平将門の乱・藤原純友の乱が起こります。当時の治安悪化と滝口の武士の設置は、大反乱の前兆だったとも言えそうです。
滝口の武士の「滝口」って何?
ところで、滝口の武士の「滝口」って一体何なんでしょうか。
その秘密は、滝口の武士が守っている内裏の中心的建物である清涼殿(せいりょうでん)にあります。
清涼殿は、今でも京都市内にある京都御所で見ることができます。
【清涼殿の説明板】
【清涼殿】
その清涼殿の横に「滝口」という場所があります。
小さいですが、白い看板に「滝口」と書いてますね。滝口の武士はこの場所を拠点として警護の任に当たっていました。
注目して欲しいのは、周りを流れている小さな水路。この場所には、水路の水が流れるスタート地点(落ち口)があって、小さな滝のように水が流れ込むことで水路に水が流れます。この落ち口のことを滝口と言い、その滝口を拠点とした護衛隊のことを滝口の武士と呼んだわけです。
ちなみに、今も京都御所に残る清涼殿。もちろん平安時代以降に再建されたものですが、清涼殿と滝口の位置関係なんかは今も平安時代もほとんど変わっていません。
なので、当時の雰囲気を味わいたいなら京都御所へ行くのも良きかなと思います。
ちなみに、滝口の武士で有名なのは先ほど少しだけ名前の出た平将門(たいらのまさかど)。平将門は滝口の武士の仕事を辞めて関東に戻った後、反乱を起こしています。
滝口の武士・北面の武士・西面の武士の違いについて
滝口の武士の紹介をしたので、次は北面の武士と西面の武士の違いを少しだけ。
この3者の一番大きな違いは、「誰を警護するか?」という点。滝口の武士は天皇を、北面・西面の武士は上皇を護衛する組織です。
平安時代末期(約1100年〜)になると、日本では上皇を中心とした院政が頻繁に行われるようになります。つまり、上皇の権限が強くなったわけです。そして、上皇の権限が強くなるのに合わせて設けられたのが北面の武士でした。
北面の武士が設置されたのは、院政が本格化した白河上皇の時代。当時は、比叡山や興福寺の僧兵らの圧力が凄まじく、荒くれる僧兵への対抗手段として北面の武士は活躍していました。
北面の武士の「北面」は上皇の住む場所の北側を拠点にしたことが由来です。
最後に西面の武士について。上皇警備部隊として北面の武士が存在していたわけですが、上皇の軍事力UPを目的として設立されたのが西面の武士です。「西面」は西側を拠点としていたことに由来します。
西面の武士が設置された時代は鎌倉時代、後鳥羽上皇の時代でした。後鳥羽上皇が軍事力の強化を図った理由は、「朝廷の権限をことごとく奪っていった鎌倉幕府ぶっ倒す!」という強い後鳥羽上皇の野望にあります。
「鎌倉幕府を倒すため」という理由だとあまりにも過激すぎるため、表面上は「警備の強化」という形で西面の武士が設けられました。
西面の武士については、以下の記事でも紹介していますので、合わせてどうぞ。
ちなみに、西面の武士を利用して兵力増強を図った後鳥羽上皇は1221年、承久の乱で鎌倉幕府と戦いますが敗北。この敗北により西面の武士は廃止され、昔からあった北面の武士も次第に形骸化していきます。
滝口の武士まとめ
最後に滝口の武士・北面の武士・西面の武士についてまとめておきます。
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