

今回は「エジプト近代化の父」と呼ばれるムハンマド・アリーについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ! 出自・マムルーク虐殺・富国強兵・オスマン帝国との戦争まで、ひととおり追いかけていくね。
📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験対応
19世紀のエジプトを治めたムハンマド・アリーは、肩書だけ見れば「オスマン帝国から任命された一地方の総督」にすぎません。ところが実は、彼が築いた王朝はオスマン帝国から半ば独立した存在となり、彼と子孫は1805年から1952年のエジプト革命まで、147年にわたってエジプトに君臨しつづけました(王朝が正式に廃止されたのは、翌1953年のことです)。
この記事では、そんな「近代エジプトの父」の生涯を、出自から改革の中身、そしてその限界まで、順を追って解説していきます。
ムハンマド・アリーとは?
- 出自はバルカン半島生まれのアルバニア系の軍人。エジプトとは何の縁もない「よそ者」だった
- 1805年にエジプト総督となり、1811年にマムルーク勢力を一掃して実権を握った
- 西洋式の軍隊・工場・学校をつくる富国強兵策で、近代エジプトの土台を築いた
ムハンマド・アリーは、19世紀前半のエジプトを率いた政治家・軍人です。1769年生まれと伝えられていますが、出生の記録がはっきり残っていないため、生年には諸説あります。
当時のエジプトは、オスマン帝国の一属州でした。つまり彼の正式な肩書は、あくまでスルタンから任命された「総督」です。
ところが彼は、1805年に総督となってから1848年に病で実権を退くまで、43年(1805年〜1848年)にわたってエジプトを事実上の独立国のように動かしました。しかも、その地位は子孫へ受け継がれていきます。
ピラミッドや古代エジプト文明のイメージが強いエジプトですが、私たちが知る「国家としての近代エジプト」の骨格は、この人物の時代につくられたと言ってよいのです。

テスト前なんだけど、そこがよくわからないんだ。オスマン帝国に任命された総督なのに、なんで「エジプトの支配者」って書かれてるの?

ポイントは「任命はされたけど、命令はきかない」ってところなんだ。ムハンマド・アリーは自前の軍隊と財源をがっちり握っていたから、オスマン帝国の側は彼をクビにしたくてもできなかった。名目上は部下、実態は独立勢力。本社の言うことをきかない子会社が、本社より稼いじゃったイメージだね。
では、なぜエジプトと縁もゆかりもなかった人物が、そんな立場を手に入れられたのでしょうか。話は、ヨーロッパからやってきた一人の英雄から始まります。
出自とナポレオンのエジプト遠征

ムハンマド・アリーが生まれたのは、現在のギリシャ北部にあたるカヴァラという港町でした。当時はオスマン帝国の領内で、彼の家系はアルバニア系だったと伝えられています。
父は地方の警備隊長だったとされ、ムハンマド・アリー自身も若いころは傭兵として働き、タバコの取引にも関わっていたと言われています。つまり、生まれながらの支配者ではまったくなかったのです。
この無名の男の運命を変えたのが、1798年に始まったナポレオンのエジプト遠征でした。
1798年:フランス軍がエジプトへ上陸
1801年:フランス軍を追い出すためのオスマン軍にムハンマド・アリーが参加
ナポレオンのエジプト遠征は、イギリスとインドを結ぶ道を断つことをねらった作戦でした。フランス軍はエジプトを一時的に占領しますが、海ではイギリス海軍に敗れ、遠征は行きづまっていきます。
この事態にオスマン帝国は、フランス軍を追い出すための部隊をエジプトへ送り込みました。ムハンマド・アリーは、そのなかのアルバニア人部隊の副官として1801年にエジプトへ渡ります。遠征開始の1798年から3年後のことでした。

1769年生まれとすれば、このとき彼は30代前半だったことになります。まだ一部隊の指揮官にすぎず、この男がエジプトを支配することになるとは、誰も想像していませんでした。

でも、外から来た部隊の副官でしょう? そこからエジプトのトップになるって、さすがに飛躍しすぎじゃない?

ふつうならね。でも、フランス軍がひっかき回したせいで、エジプトの権力構造がぐちゃぐちゃになってたんだ。誰が上か決まってない状態って、実力者にとっては大チャンス。今でいうと、社長も役員も総入れ替えでゴタゴタしてる会社に、外部から来た現場のリーダーがいつのまにか実権を握っちゃう感じだね。
その「ぐちゃぐちゃ」の中身を、次の章で見ていきましょう。
マムルーク勢力との権力闘争
1801年にフランス軍が撤退したあと、エジプトには「誰が支配者なのか」がはっきりしない空白が生まれました。そこへ名乗りを上げたのが、三つの勢力です。
①オスマン帝国から派遣された総督:本国の権威を背負うが、現地に基盤がない
②マムルークの有力者たち:長年エジプトの土地と税を握ってきた古参勢力
③アルバニア人部隊:ムハンマド・アリーが率いる、実戦経験の豊富な軍事集団
ここで言うマムルークとは、もともと「買われてきた奴隷の身分から軍人として育てられた者たち」のことです。エジプトでは彼らが数百年にわたって支配層でありつづけていました。
マムルークとは、イスラム世界で使われた「奴隷出身の軍人」を指す言葉です。少年のうちに買われてイスラム教徒として教育され、騎馬戦のプロとして育てられました。
身分としては奴隷でも、実力しだいで将軍にも君主にもなれるのが特徴で、1250年にはついに彼ら自身の王朝が誕生します。それがマムルーク朝です。
1517年にオスマン帝国がエジプトを征服したあとも、マムルークたちは地方の徴税や軍事を任され、実質的な支配層として生き残りつづけました。
三つ巴の争いのなかで、ムハンマド・アリーは巧みに立ち回ります。あるときはマムルークと手を組んで総督を追い落とし、あるときはマムルークどうしを対立させ、自分だけが消耗しないように動いたのです。
決め手になったのは、カイロの民衆とウラマー(イスラム法学者)の支持を取りつけたことでした。重税と略奪に苦しんでいた市民は、秩序を回復してくれる指導者を求めていたのです。
民衆の後押しを受け、1805年、オスマン帝国のスルタンはついにムハンマド・アリーをエジプト総督(ワーリー)に任命します。渡航からわずか4年(1801年〜1805年)での大出世でした。
さらに1807年には、エジプトへ上陸したイギリス軍を撃退することにも成功します。「この男は本当に強い」という評判が、彼の立場をいっそう固めていきました。

ここまでは「うまく立ち回った人」なんだよね。でも彼は、この状態をずっと不安に思っていた。総督になっても、マムルークが力を持ったままだと、いつ足をすくわれるかわからないからね。そこで彼は、とんでもない手に出るんだ…。
マムルーク虐殺と実権掌握

1811年3月、ムハンマド・アリーはカイロの城塞で盛大な祝宴を開くと告げ、マムルークの有力者たちを招きました。表向きは、息子の遠征出発を祝う式典です。
ところが、着飾った一行が城塞の狭い通路にさしかかったとき、突然、前後の門が閉ざされました。そして四方の壁の上から、いっせいに銃撃が浴びせられたのです。
これがカイロ城塞の虐殺と呼ばれる事件です。犠牲者の数は史料によって幅があり、数百人規模だったとされています。
さらにその後、エジプト各地に残っていたマムルーク勢力への掃討が続けられました。1250年のマムルーク朝成立から1811年まで、およそ560年にわたってエジプトの支配層でありつづけた彼らは、こうして政治の表舞台から消えていったのです。

この国では、力を残した相手は必ず戻ってくる。オレが甘い顔を見せれば、次に城塞で殺されるのはオレの番だ…。

祝いの席に招いておいて皆殺しって、いくらなんでもひどすぎない? 批判はされなかったの?

もちろん、後世の評価では残虐な行為だと批判されているよ。ただ当時のエジプトの人たちにとって、マムルークは「勝手に税を取り立てて争いばかり起こす連中」でもあったんだ。だから彼らが消えたことを歓迎する声もあった。功績と残虐さがワンセットになっているのが、この人物のややこしいところなんだよね。
こうして邪魔者のいなくなったムハンマド・アリーは、いよいよ本命の事業に取りかかります。それが、エジプトを一気に近代国家へつくりかえる大改革でした。
富国強兵と近代化改革

ムハンマド・アリーがめざしたのは、ひとことで言えば富国強兵です。ヨーロッパに対抗できるだけの軍隊を持ち、その軍隊を養える経済をつくる。これがすべての政策の軸になりました。
彼の改革は、大きく4つの柱に整理できます。
①西洋式の常備軍づくり
フランス人の軍事顧問を招き、ヨーロッパ式の訓練を導入しました。さらに、これまで兵士にしてこなかったエジプトの農民を徴兵し、大規模な常備軍を編成します。「傭兵に頼らない、国が直接持つ軍隊」への転換でした。
②土地制度の改革と専売制
従来の徴税請負制を廃止し、土地を国家の管理下に置きました。さらに主要な農産物を政府が買い上げて輸出する専売制をしいて、利益を軍事費と工業化の元手にあてます。
③綿花の栽培と国営工場
繊維が長く高値で売れる品種の綿花が導入され、エジプトの輸出品の主役になりました。あわせて紡績工場・造船所・兵器工場などが国の手でつくられ、運河の整備も進められます。
④教育と技術の輸入
軍事学校・医学校・技術学校がつくられ、ヨーロッパへ留学生が送られました。カイロ近郊のブーラークには官営の印刷所が設けられ、翻訳された西洋の書物が広められていきます。

工場も、船も、学校も、ぜんぶオレが金を出して、オレのものにした。今でいう国営企業みたいなもんを、片っぱしから作っていったってわけだ。
この時期のヨーロッパは、イギリスで始まった産業革命が各国へ広がっていた時代です。ムハンマド・アリーの改革は、その最新技術を国家主導で一気に導入しようとする試みだったと言えます。

すごい勢いだけど、これって農民からしたらどうだったんだろう。改革はうまくいったの?

いいところに気づいたね。国は強くなったけど、そのぶん農民は徴兵と重い負担を背負わされたんだ。作った作物は決められた値段で政府に買い上げられるから、豊作でも手取りは増えない。「国は豊かになったが、民は豊かにならなかった」という評価がついて回るのは、このためだよ。
それでも、この改革で手に入れた強力な軍隊は、やがて主君であるはずのオスマン帝国に牙をむくことになります。
オスマン帝国との対決

ムハンマド・アリーは、オスマン帝国の求めに応じて何度も兵を出していました。アラビア半島のワッハーブ王国の討伐と、ギリシャ独立戦争への出兵です。さらに、みずからの判断でスーダンへも遠征し、支配地を広げていました。
とくにギリシャ独立戦争では、1827年のナヴァリノの海戦でエジプト艦隊がイギリス・フランス・ロシアの連合艦隊に壊滅させられ、大きな犠牲を払っていました。
問題は、その見返りでした。彼が求めたシリアの統治権を、スルタンが与えなかったのです。ならば力ずくで取る——そうしてぶつかったのが、2度にわたるエジプト・トルコ戦争でした。
第一次エジプト・トルコ戦争(1831年〜1833年)
息子イブラーヒーム・パシャの率いるエジプト軍がシリアへ攻め込み、オスマン軍を次々と打ち破ります。1832年のコンヤの戦いで大勝すると、その進撃は帝国の首都イスタンブルを脅かすところまで達しました。
あわてたスルタンは、なんと長年の宿敵だったロシアに助けを求めます。1833年の和議(キュタヒヤの和約)によって、ムハンマド・アリーはシリアの統治を認めさせることに成功しました。なお、オスマン帝国は助けを借りた見返りとして、同じ1833年にロシアとウンキャル=スケレッシ条約を結び、大きな譲歩をすることになります。
第二次エジプト・トルコ戦争(1839年〜1840年)
雪辱を期したオスマン帝国が仕掛けた第二次の戦いでも、結果は同じでした。1839年のニジプの戦いでエジプト軍が圧勝し、さらにオスマン海軍までがエジプト側へ寝返ってしまいます。なお、最終的な決着がシリア撤退までもつれ込んだことから、この戦争を1839年〜1841年と数える資料もあります。
この敗北の衝撃は、オスマン帝国の内部を大きく揺さぶりました。同じ1839年、帝国はギュルハネ勅令を出して大規模な西欧化改革へ踏み切ります。これがタンジマートと呼ばれる改革です。

なお、イブラーヒーム・パシャが統治したシリアには、現在のレバノン・イスラエル・パレスチナにあたる地域も含まれていました。この地域が19世紀を通じて列強の関心の的でありつづけたことは、のちのパレスチナ問題へとつながっていきます。

2回とも勝ってるじゃない。じゃあ結局、オスマン帝国との戦いはエジプトの勝ちってこと?

戦場ではね。でも、勝負を決めたのは戦場じゃなかったんだ。オスマン帝国が崩れると困るヨーロッパの列強が横から割って入って、テーブルの上で結論をひっくり返してしまう。せっかくの連勝が、かえって彼の足かせになるんだよ。
軍事的な勝利が、なぜ政治的な後退につながってしまったのでしょうか。その答えを見る前に、まずは彼が最終的に手にした地位を確認しておきましょう。
総督から国王へ―称号の変遷とムハンマド・アリー朝

カイロ城塞にそびえるこのモスクは、ムハンマド・アリーが自分の名を冠して建てさせたもので、彼自身の墓所にもなっています。
一介の傭兵から出発した男は、どこまで登りつめたのでしょうか。それは、彼と子孫が名のった称号の変化を追うとよくわかります。
1805年に彼が手にしたのは、スルタンから任命される「ワーリー(総督)」という地位でした。任期の保証も世襲の権利もない、あくまで一代限りの役職です。
それが決定的に変わったのが1840年〜1841年でした。シリアを手放すのと引きかえに、エジプトとスーダンの総督職を子孫へ引き継ぐ権利が1840年のロンドン条約で示され、1841年にスルタンの勅令によって正式に認められたのです。ここにムハンマド・アリー朝が事実上成立しました(王朝の起点は、彼が総督となった1805年から数えるのが一般的です)。
■なぜ、彼は「世襲」にこだわったのか
軍隊も工場も学校も、すべては彼個人の権力の上に乗っていました。彼が死ねば、次の総督がやってきて、まとめて白紙に戻すこともできてしまいます。
一代限りの役職のままでは、半生をかけた事業が丸ごと消えかねない。だからこそ彼は、領土よりも「家が続くこと」を選んだのだと考えられています。

シリアは惜しい。だが、土地を守っても家が続かなければ、オレのやってきたことは全部消える。息子に残すのは領地じゃない、この国そのものだ。
ムハンマド・アリー自身は1848年に病で実権を退き、翌1849年に世を去りました。しかし、彼が残した「家」はその後も名前を変えながら続いていきます。
①ワーリー(総督)/1805年〜
スルタンから任命される地方長官という位置づけです。1841年に世襲が認められ、事実上の君主へ変わりました。
②ヘディーヴ(副王)/1867年〜
孫にあたるイスマーイールが、綿花輸出でふくらんだ財力を使ってスルタンに働きかけ、総督より一段上の称号を認めさせました。日本語では「副王」と訳されます。
③スルタン/1914年〜
第一次世界大戦が始まると、イギリスがエジプトを保護国としました。これによってオスマン帝国の宗主権から切り離され、君主は「スルタン」を名のります。
④国王/1922年〜
保護国の状態が解かれてエジプト王国が成立し、君主は「国王」と呼ばれるようになりました。総督から数えて、ようやく王の名にたどりついたことになります。
そして1952年、軍人たちが起こしたエジプト革命によって王政は倒れ、翌1953年に共和政が宣言されて王朝は幕を閉じました。ムハンマド・アリーが総督となった1805年から、王政が倒れた1952年まで、147年におよぶ支配だったことになります(王朝の正式な廃止は、その翌年の1953年です)。

ってことは、20世紀のエジプト国王も、あのアルバニア人傭兵の子孫だったってこと?

そうなんだ。1952年の革命で退位したファールーク1世も、そのあとを継いで最後の国王となったフアード2世も、ずっとムハンマド・アリーの血筋だよ。1811年に城塞であれだけのことをやったのも、この「家を残す」という執念があったから、とも言えるんだよね。
ただし、彼が本当にめざしていたのは「王家」ではなく「ヨーロッパに負けない国」でした。その夢のほうは、王朝が成立するのと同じタイミングでつぶされています。
近代化の限界―なぜイギリスに阻まれたのか
2度の戦争に勝ちながら、なぜムハンマド・アリーはシリアを手放したのでしょうか。答えは単純です。途中から、彼の相手はオスマン帝国ではなくなっていました。
19世紀のヨーロッパにとって、衰えていくオスマン帝国をどう扱うかは最大の外交テーマでした。これを東方問題と呼びます。
弱っていくオスマン帝国の領土を、ヨーロッパの列強がどう分け合うか、あるいはどう支えるか。この一連の国際問題をまとめて「東方問題」と呼びます。
南に出たいロシアと、それを止めたいイギリス・フランスの綱引きが軸でした。ムハンマド・アリーの台頭はその引き金の一つになり、のちにクリミア戦争(1853年〜1856年)という大戦争にまで発展していきます。
この構図のなかで、ムハンマド・アリーの前に立ちはだかったのがイギリスでした。理由は大きく3つあります。
①オスマン帝国が崩れると困る
オスマン帝国が倒れれば、その空白にロシアが入り込みます。イギリスにとっては、弱っていても帝国が残っていたほうが都合がよかったのです。エジプト軍がイスタンブルに迫るのは、まさに悪夢でした。
②専売制が自由貿易とぶつかった
ムハンマド・アリーの財源は、政府が農産物を独占して売る専売制でした。ところが1838年、イギリスはオスマン帝国と通商条約を結び、帝国内での専売の廃止と自由な貿易を取りつけます。エジプトもその対象とされ、改革の土台そのものが揺さぶられました。
③1840年のロンドン条約でシリアを失った
1840年、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの4か国はロンドンで条約を結び、シリアからの撤退をムハンマド・アリーに突きつけました。エジプト側を支持していたフランスは孤立し、手を引きます。
イギリス艦隊がシリア沿岸を砲撃すると、勝ち目はなくなりました。1841年、彼はシリアを放棄し、平時の兵力も大きく削減されたとされています。得たものは、総督職の世襲権だけでした。

戦争には勝ったのに、条約で全部持っていかれるって、なんだか理不尽だなあ…。

19世紀の国際政治って、そういうものなんだよ。強くなりすぎた地域勢力は、列強が寄ってたかって元のサイズに戻しちゃう。テストでは「エジプトの近代化は列強の介入で挫折した」という因果をおさえておけば大丈夫だよ。
打撃は、その後にじわじわ効いてきます。関税で守ることを禁じられた国営工場は、安いヨーロッパ製品に太刀打ちできず、次々に姿を消していきました。
あとに残ったのは、綿花を輸出してヨーロッパの工業製品を買う経済です。工業国をめざした国が、原料の供給地に落ち着いてしまったのです。
この経済構造は、やがてエジプトを深刻な財政難へ追い込みます。1875年にはスエズ運河会社の持ち株がイギリスへ売却され、1882年にはイギリス軍がエジプトを占領しました。ムハンマド・アリーがめざした「ヨーロッパに頼らない国」とは、正反対の結末です。

そこまで聞くと、結局この人の近代化って成功だったの? それとも失敗だったの?

どっちも正解、っていうのが正直なところかな。工業化と独立は達成できなかったし、農民には重い負担を残した。でも、軍・学校・行政・印刷といった「近代国家の部品」をエジプトに持ち込んだのは間違いなく彼なんだ。だから今も「近代エジプトの父」と呼ばれているんだよ。
ムハンマド・アリーをもっと深く知るためのおすすめ本

ムハンマド・アリーについてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
加藤博『ムハンマド・アリー――近代エジプトを築いた開明的君主』(山川出版社「世界史リブレット人」シリーズ)は、この記事の主人公その人に焦点を当てた一冊です。出自から権力掌握、近代化政策、対外戦争、そして歴史的評価までを、専門家の視点でコンパクトにまとめています。
ムハンマド・アリー個人の生涯と統治を、コンパクトにまとめて理解したい人
オスマン帝国全体やエジプト以外の地域まで詳しく知りたい人
小笠原弘幸『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』(中公新書)は、ムハンマド・アリーが半独立を果たすまでの宗主国・オスマン帝国そのものの通史です。新書サイズで読みやすく、1300年ごろの建国から1922年の滅亡までを一冊で押さえられます。
オスマン帝国600年の全体像を新書サイズで手軽に押さえたい人
ムハンマド・アリーその人にしぼった詳しい記述を求める人(本書は帝国全体史の一部としての扱い)
林佳世子『興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫)は、「興亡の世界史」シリーズの一冊で、オスマン帝国が多民族・多宗教を束ねて500年続いた統治のしくみを本格的に掘り下げます。ムハンマド・アリーの時代を含む帝国史の背景を、より深く理解したい人向けです。
オスマン帝国の統治のしくみや社会の実態まで本格的に読み込みたい人
手早く要点だけをつかみたい人(文庫でも読み応えのあるボリューム)
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「1805 総督就任 → 1811 マムルーク虐殺 → 1831 第一次 → 1839 第二次 → 1840 ロンドン条約」と一本の流れで覚えると、記述問題でも順序を間違えません。混同注意はタンジマート(1839年〜)。こちらはオスマン帝国側の改革で、ムハンマド・アリーの改革とは別物です。

覚えることが多いなあ…。この中で一番テストに出るのはどこ?

ダントツで1811年のマムルーク虐殺とエジプト・トルコ戦争だね。とくに「戦争には勝ったのに、東方問題で列強が介入して結果をひっくり返された」という因果は、論述でそのまま使えるよ。
よくある質問(FAQ)
オスマン帝国から任命されたエジプト総督でありながら、事実上の独立国のようにエジプトを統治した人物です。マムルーク勢力を一掃して実権を握り、西洋式の軍隊・国営工場・学校をつくる富国強兵政策を進めました。その子孫が20世紀まで統治を続けたため、「近代エジプトの父」と呼ばれます。
1811年、ムハンマド・アリーがカイロ城塞で祝宴を口実にマムルークの有力者を招き、閉じ込めて殺害した事件です。犠牲者の数は史料によって幅がありますが、数百人規模だったとされています。これによってエジプトのマムルーク支配は終わり、彼の権力が確立しました。
徴兵制による常備軍、土地制度の改革、国営工場、軍事学校や医学校、印刷所、ヨーロッパへの留学生派遣など、近代国家の骨組みをまとめてエジプトに持ち込んだのが彼だからです。工業化そのものは行きづまりましたが、その後のエジプトの制度の出発点になりました。
ムハンマド・アリーが総督となった1805年から、1952年のエジプト革命で王政が倒れるまでです。翌1953年に共和政が宣言され、王朝は正式に廃止されました。君主の称号は総督(ワーリー)→副王(ヘディーヴ)→スルタン→国王と変化しています。
戦場ではエジプト軍が優勢で、2度のエジプト・トルコ戦争ともオスマン軍を破っています。しかし1840年のロンドン条約で列強が介入し、シリアの放棄を迫られました。最終的に残ったのは、エジプト・スーダン総督職の世襲権だけです。
最大の要因はイギリスを中心とする列強の介入です。専売制を柱にした国家主導の産業育成は自由貿易の要求と衝突し、1838年の通商条約と1840年のロンドン条約で土台を崩されました。関税で守れなくなった国営工場は衰え、エジプトは綿花を輸出する原料供給地になっていきます。
まとめ
-
1769年カヴァラに生まれる(生年には諸説あり)
-
1798年ナポレオンのエジプト遠征が始まる
-
1801年オスマン軍の一員としてエジプトへ渡る
-
1805年エジプト総督(ワーリー)に就任する
-
1811年カイロ城塞の虐殺でマムルーク勢力を一掃する
-
1820年代富国強兵・殖産興業の改革が本格化する
-
1831年第一次エジプト・トルコ戦争が始まる
-
1839年ニジプの戦いでオスマン軍に大勝する(第二次エジプト・トルコ戦争)
-
1840年ロンドン条約で列強が介入し、シリアの放棄を迫られる
-
1841年エジプト・スーダン総督職の世襲権を認められる
-
1848年病により実権を息子イブラーヒームへ譲る
-
1849年死去。ムハンマド・アリー朝は1952年のエジプト革命まで続く

以上、ムハンマド・アリーのまとめでした。名もない傭兵から始まって、最後は列強を相手に踏ん張った一代記、なかなかドラマチックだったよね。下の記事で、彼が倒したマムルーク朝や、仕えていたオスマン帝国のほうもあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年8月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』
山川出版社『詳説世界史』
山川出版社『世界史用語集』
Historist(山川出版社)「エジプト‐トルコ戦争」(2026年8月確認)
コトバンク「エジプト・トルコ戦争」「ムハンマド・アリー」(日本大百科全書・世界大百科事典/2026年8月確認)
Wikipedia日本語版「ムハンマド・アリー」「ムハンマド・アリー朝」(2026年8月確認)
Wikipedia英語版「Muhammad Ali of Egypt」「Battle of Nezib」(2026年8月確認)
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